枝葉末節ではなく、幹を見よ。
そういうことではないんだよ。いや、もちろんそういうこともそうだけど、それに関わる、それの背後にあるもの、なぜ今、それなのか、何でそうならざるを得ないのか、何でそういう流れになっているのかを、誘導されることなく、一人の人間としてしっかりと見極めようとする姿勢が大事なのではないかと私は言いたいのだ。えっ、何を言っているのかわからないって。抽象的で感覚的な言葉ではなく、もっと具体的にわかりやすく言えって。いや、だからそういうことなのだよ。嫌味で言っている訳ではないが、「それ」とは、小泉進次郎氏のことであり、また彼の総理大臣としての能力値のことでもある。
私が言わんとしていることが、お分かりになるであろうか。分かる人には何を言わなくとも、百も千も分かっているであろうが、そうでない人には、もっと俯瞰して物事を見る習慣を持たないと、物事の全体像は見えないんだよと、枝葉末節に囚われていても大した意味はないのだということを私は言いたいのだ。小泉進次郎氏の存在などはっきり言って、日本にとっては枝葉末節であって、幹ではないということだ。人間が、一人の人間としてこの世で正しく生きてゆくためには、中心の幹を見よと言いたい。それでは何で多くの人間が、大衆は物事の幹や根を見ないで、枝葉末節ばかり見ているのかというと、それは政治やマスコミがそのように仕向けているからである。そして正にそれが、その仕組みの象徴というか究極が、次期総理のザ・小泉進次郎ということなのである。政治やマスコミなどの支配者層は、幹や根の養分(富)を独占したいのであって、朽ち果てていくだけの枝葉を大衆に割り当ててそれで満足するように社会全体をコントロールしていることが、ここまで言ってもわからないですか。進次郎氏並みに理解能力の低い人々向けには、もっと噛んで含めるように説明しなければならないのかも知れない。手間が掛かるなあとぼやきたくもなる。正直に言って、こんなことを言ったところで、目を付けられるだけで、私個人には何のメリットもないのだが。
愚痴はともかくも3Sという言葉を聞いたことはあるだろうか。スポーツ、スクリーン、セックスの頭文字の3Sであり、敗戦後の日本に対してGHQが行った愚民政策であると言われている。従来の意味では、大衆の関心を政治に向けさせないために、スポーツ、スクリーン、セックスが利用されてきたということであるが、今や日本の愚民政策はもっと進んでいて3Sではなくて、4Sである。移動通信システムが4Gから5Gへと進化するように、愚民政策も3Sから4Sへと進化するのである。それでは新しく付け加えられているSとは何でしょうか。さあ、年がら、年中頭の中がお花畑の大衆の皆様方、お分かりになりますか。何も私は上から目線で偉そうに言いたい訳ではありませんが、答えを言いますと、それは「政治(SEIZI)」のSです。政治はポリティックスだからSではなくてPだろ、何でそれだけ日本語になるねん、という声が聞こえてきそうですが、そんな細かなことに注意を向けるべきではありません。それが私の言うところの、枝葉末節であります。要するに私が言いたい重要なことは、今の日本では、政治そのものが、スポーツ、スクリーン、セックスと同列の愚民政策になっているという恐ろしい事態なのであって、まさにそれが次期総理として祭り上げられている小泉進次郎という存在であるということです。お分かりになりますか。分かっている人は、恐らくは私などより、はるかに深く詳しく分かっているでしょうから、何も言うことはありませんが、下らないTV番組やバラエティーばかり見て、そういう低俗な情報で精神が埋め尽くされているような圧倒的大多数のお花畑の皆様方に敢えて聞きますが、生きていて、生活していて何かがおかしいとは思わないですか。違和感を感じないですか。物事の枝葉末節に囚われずに、幹を見極める上で最も必要な感覚は、違和感というものを大切にして決して無視しないことだと思われます。あなた方が違和感というものを便器の排せつ物のように見ようともせずにジャーと流してしまうのは、政治や報道がそのように誘導しているからだということが理解すべきです。
具体的に言いますと、自民党総裁選に過去最多数の10人以上もの候補者が出馬していて、明らかに能力の劣る進次郎氏が本命視されていて、もうほとんど確定しているかのような印象操作の情報がなされていることについて不思議だなとは思わないですか。お花畑層に対して影響力を持っていそうな著名人がネットやTVで、進次郎が次期総裁になれば、自民党はものすごく強くなるとか、頼りなさそうではあるが、周りのブレーンやスタッフが優秀だから進次郎総理でも不安はないというような発言を聞いて、違和感を感じないですか。普通に考えればそういう発言は、もちろんご当人がどのように考えようがその人の勝手であることは言うまでもないことですが、彼ら自身が枝葉末節ではない幹の養分との結び付きを強固にするためのものだと考えられます。そこにおいては国益や国民全体の幸福というものが枝葉末節に貶められていて、利己的な本末転倒の主張が社会全体のマジョリティーになっていく恐ろしさがあります。はっきりと言えば、自らの事業に国から多額の補助金が支給されていたりであるとか、TVに出演し続けるための利権と密約はなくとも、暗黙の取り決めがあるだろうと考えることは自然な見方であるということです。国策に寄り添うコロナのワクチンに対する発言も同じであることは言うまでもありません。今後は体内でmRNAが自己増殖する、より危険なレプリコンワクチンが、強制される流れになっていきそうな気配が感じられて危惧されますが、それも小泉進次郎総理の誕生と同質の危うさが感じられないでしょうか。日本でしか承認されていないような国民の命に関わる危険なワクチンに対する情報公開や正しい議論が、どうでもいいと言えば語弊があるかも知れませんが、夫婦別姓法制化に向けての賛否の声に綺麗さっぱりとかき消されてしまうであろうことは、明らかであるとは思えないですか。はっきりと言えば、今やTVやネットも含めての著名人の言論が全てとは言いませんが、その大多数が、国家的な工作活動になっているのです。そういう人々は支配者層の幹に繋がるためにそうしているのであって、国民全体の命や利益とは何の関係もないどころか正反対であることが多いことを知る必要があります。
陰謀論とか都市伝説ですら、支配者層にとって空想好きの程度の低い人々が信じるとんでも論の社会悪として批判され排除されるだけではなくて、一方では恐怖や不安によって大衆を管理するための道具として有効活用されていることが、一定の思考能力を有している人々にはわかるはずです。今、ネット界隈でちょっとした話題になっているようですが、何でイルミナティーカードに小泉進次郎らしき人物が登場しているのでしょうか。
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進次郎氏は深刻そうな顔で日本刀を前にして座っています。切腹する寸前のようにも見えます。これは一体どういうことなのでしょうか。私が考えるにこれは予言でも、警告でもなく、一部の勢力が世界は彼らのシナリオ通りに動かせるのだということを誇示しているのだと思われます。そうすることによって、人々は一部の支配者によって作られたシナリオや歴史を結局は受け入れざるを得ないという諦めというか無力感に囚われてしまうという心理的効果を狙ったものであろうということです。そしてそれが、前回にも述べた通り、今の日本においては、本来優秀な資質を持った日本人への無力化工作として集中的に行われているのでしょう。はっきりと言いますが、自民党総裁選の結果は、現時点で100%断言できるものではありませんが、小泉進次郎内閣を指名しているのはアメリカだと思われます。さらに言えばアメリカの背後にいるDSが指示しているのでしょう。そして或いは進次郎氏の在任中に、彼が自決したくなるような悲劇が日本に予定されているのかも知れません。しかしその予定は、確定したものではなくて我々日本人の意識次第で変えることは可能だと思われます。なぜなら彼ら支配者は常に我々国民の意識の在り方を注意深く監視しながら、シナリオを執行したり、延期したり、書き換えたりを繰り返しているからです。唯識とか量子論は、ある意味でそういうレベルにおいても真実だと思われます。洗脳されようが、されまいが、結局我々の意識が目の前の現実を選択し、決定していているということです。わかりますか。我々が見ていて、体感しているものは、本当はホログラムという実体のない現実なのです。苦しみから逃れるためには、その苦しみがどのような意識と現実の仕組みで作られていて、その苦しみが本当に自分という個別の存在に従属したものであるのかどうかを深く知ることだと思われます。それが仏教の知恵であり、また日本人の優れた精神性なのだと私は考えています。
(吉川 玲)
悪魔に魂を売り渡した日本の政治と日本人の精神性
何と言うのか、何とも言いようのないことだけれど、もはや何を言っても無駄で虚しいだけだし、それにも増して、こんなにまで何かを言いにくいような、核心の真実とまでいかなくとも、真実らしきことを掠めるような内容のことまで検閲されて、圧力を掛けられる世界においては、何を言うのかではなくて、より良い世の中のために、人類のために何かを言いたいと思う内面の衝動そのものを消し去らなければならないのであるということで、それでは一体、人間とは何なのかという根源的で哲学的な問い掛けに向き合わざるを得なくなり、資本主義や共産主義などの世界体制とは無関係に人間が人間らしさを喪失していく底なしの恐ろしさというものを、何かを言わねばと、全体の幸福のためにと考えるたびに、パゾロフの犬の如く条件反射的に味わって怯えなければならないのであり、不条理であるとか、不正義であるという以前に結局のところは、人間とは、人間社会とはそういうものなのではないかという諦観に落ち着かなければならないということで、そういう風にわたしの沈黙は単なる無でもゼロでもなく言葉にならない苦しみと悲しみを蔵していて、意図せずに私の性向は仏教的であることがわかるのだが、ともかくも私は何者でもないし、偉くも賢くもないけれど、それでも何か大切なことはわかっているつもりであるので言うが、いや本当は全ての人々がこの世に生まれついた時点ではわかっているはずなのだが、仏教的な世界観に照らして見れば、人間が人間であるためには、真の人間らしさを獲得するためには、自分や自分の身近な人間のことだけを考えて生きていくのではなくて、人間全体のことを考えて苦しまなければならないのである。それが、そこが出発点なのだ。若き日の仏陀がそうであったように。人間でありながら、人間存在そのものを客観視して俯瞰し、苦悩するということは、その本性、本体は人間ではない。仏陀は宇宙人であった。そもそも仏教とは、人間が人間であることの苦しみを救済するための宇宙的な教えなのであろう。恐らくは、私も宇宙人である。宇宙人が偉いと言いたい訳ではない。元々全ての人間が宇宙人的なのであるが、人間が宇宙人であることを忘却して、人間であり過ぎるというか、人間であることが悪なのではないが、自分と家族や仲間のことだけを考えて争うことが人間の本来の姿であると錯覚してその考えが歴史的に定着していくようになると、次第に人間は堕落して動物的になっていくのだと思う。だからこそ人間が宇宙人の子孫であることを想起させるために、より鮮明に宇宙人的な魂が地球に送り込まれて来る。或いは自分の意思でやって来る。しかし地球上の生活においては、絶えず恐怖と不安に支配されていて、人間が宇宙人として覚醒することが妨げられるような力が働いている。その作用が悪魔というものの本性である。悪魔もまた人間を支配する宇宙的な存在なのである。悪魔の目的は人間を堕落させることではない。ほとんどの人間は自分のことだけを考えて争ったり、戦ったりしているゆえに放っておいても勝手に堕落していくものである。自分の利害や損得だけで世界を認識していて、その枠の中で頭を働かせて生きている人間、いわゆる俗人の元には悪魔はやってこないし、悪魔的な力は及ばない。悪魔も忙しいのである。そのような無限に存在するありきたりの人間の生活や人生、精神に一々関与している暇はない。そうではなくて悪魔の役割というか、目的は人間を堕落させることではなくて、覚醒を妨げることである。だから修行中の仏陀やキリストは、仏教とキリスト教、西洋と東洋の違いに関わらず同様に悪魔体験をしているのである。人類全体とか世界の在り方の向上のために、ある特定の人間(宇宙人)が地上生活の中で覚醒しようとすると、呼んでもいないのに悪魔は現れて、その覚醒を色々な方法で妨害しようとする。それは私自身、24~5歳の時期に神秘体験をしているからわかるのである。とは言っても誤解のないように言っておくと、何も俗人が悪いとか劣っているというのではなくて、私もまた充分過ぎるほど俗人である。俗人であっても、というよりはこの世の中は程度にもよるが、人間として地球上に生まれた以上は、俗人としてしか現実的には生きられない。特に日本は、字義的にも世間は世の間と書くし、人間は人の間と書く。間ということは、超越することではなくて、埋没することであって、それはある意味では俗に徹するということである。新興宗教の教祖にでもなるというのであれば、話しは別かも知れないが。何が言いたいかと言えば、私のような俗人であっても、無宗教であっても、ドラッグの力に頼らなくとも、自分という人間存在の経験を通じて、自分を離れた人間世界の在り方というものを苦悩しながら純粋に思考していくと神秘体験をすることもあるが、それは人間としての優劣による結果ではなくて、潜在的に宇宙人的なある種の役割というか気質のようなものをもってこの地球に生まれてきていることの属性のようなものであって、この世的な地上生活のビジネスや投資などの金儲けで数十億円の大金持ちになったり、一部の芸能人やユーチューバーのように多大なる影響力を持って、羨望の的となったり尊敬されるという栄華とは次元を異にするものである。それのどちらがどうという問題ではない。しかしこれから述べることが非常に重要なことなのであるが、日本人は元々、潜在的にそういう宇宙人的な特性を強く有している精神性の民族なのであろうということである。だからある意味では日本人は世界の民族な中で最も精神的な覚醒と進化に近い可能性を持っていると言える。それゆえに天才も多い。それはノーベル賞の授賞者数が多いことから見てもわかることである。そのような日本人の潜在的な特質というものは、現状の世界を支配、管理している人々にとっては、はっきりと言えば、悪魔と濃密に結びついている支配層の人々にとっては、脅威であるということであって、これまたはっきりと言えば、日本が世界で唯一、原爆が投下されたのは、日本人のそのような宇宙人的な特性を決して顕在的に開花させずに、根絶やしにさせようとすることが目的であったと言える。よって私がこのような世間的に見て、一般的には理解されがたいような内容のことを述べているということは、私が何か特別な人間とかそういうことではなくて、元々は日本人そのものが特別な精神性をもった民族であるということが意図的に消し去られ、忘却させられたことの例外的な回帰の一事例であるとも言えようが、私のような人間は、表には出てこないで隠れているだけで、今の日本にもたくさん存在するのだと思われる。何千年、何万年と引き継がれてきた宇宙に拓かれた精神というものは、そう簡単に根絶できないものなのであろう。しかし反対に見れば、それゆえにこそ延々として日本という国家に対する苛烈な圧力や完膚なきまでの無力化工作は継続されているのであって、明らかに日本の政治の堕落や退廃、奴隷化はそういうことと深く関連しているのであると見れる。わかりやすく言えば、日本人の精神性を根絶させるよりも、日本の政治やマスコミを奴隷化させる方が簡単であるということである。そして日本の政治や報道が悪魔の支配下に深く陥ってしまえば、本来の日本人的な精神性というものは完全に抑え込まれてしまって、悪性のウイルスのように見做され顕在化することはあり得ないということだ。GHQによる敗戦直後の焚書とか検閲に近いようなことは今も形を変えて継続されている。特に日本の政治の無力、無能、堕落は今更、言うまでもないが見るも悲惨である。それは今の政治を見てもわかるであろう。
日本の政治のトップである内閣総理大臣は、下手に見識や信念などを持っていれば、それ自体が対外的に危険であり、リスク要因であるということぐらいは一般の国民にも理解できることであろうと思う。それは戦後の日本の政治を通して一貫している不変の真実と言えようが、それでもまだ日本の国益や政治リーダーとしての発言を一歩間違って、世界に向けてしてしまいそうな気概の雰囲気を持った政治家は存在した。たとえば橋本龍太郎氏のような。それがどうであろうか。時代を経るごとにどんどんと劣化していって、今の岸田総理などは完全無欠の言いなり以外の何物でもない。今まではあまりにも馬鹿々々しくてまともに考えてみることもなかったが、言われてみれば確かに“本物”であるのかどうかもよくはわからない。ゴムマスクなどということはあり得るのであろうか。この前も報道番組で岸田総理の顔がアップされたのを注意深く見ていて思ったのだが、確かに首の中ほどに、うっすらとではあるが継ぎ目のような横線が入っているのである。ネット上に挙げられたフェイクの可能性が高い画像ではなくて、れっきとしたTVの報道番組での映像である。他の人の顔映像と比べればわかるが、自然に首に横線が入るということは考え難いことのように思われるのだが。ともかくもゴムでも本物でも何でもいいのだが、これまでの総理大臣はまだ政治家としての信念や考えを、本当は皆目喪失していても、あたかも持っているかのように大衆に錯覚させる演技力や話し方をする努力はしてきたようにも感じられるが、それだけでは欧米諸国に納得してもらえないのか、ついには日本の政治も最終段階に入ってきたようで正直なところ心底、恐ろしい。自民党の次期総裁選に出馬表明している小泉進次郎氏などは、可哀そうなのであまり悪口は言いたくはないが、それすらもないではないか。嘘であれ虚飾であれ、彼には自らの考えや主張らしきことを、何らかのきちんとした政治の言葉に置き換えて発言する能力が根本的に欠落しているように感じられる。政治家としての信念とか、国益の観念などとは全くほど遠い精神性の人物であるとしか思えない。そういう人間が次期の日本の総理大臣になる可能性があるというのか。それは今までとは明らかにレベルが異なる究極の言いなりである。ポチの最終進化形ではないのか。タイプは異なるが河野太郎氏なども似たようなものである。彼の言葉は、結局のところは欧米諸国の支配者層の代弁をしているに過ぎない。その威勢を笠に着て、一時的に強気に発言をして注目を集めはするが、都合が悪くなるとというか、嘘やごまかしが露見しそうになると対話をシャットダウンしてしまって、丁寧な説明や対話というものを放棄する。これまた国民に対してはとことん高圧的な姿勢の、その実、究極の言いなりであり、小泉氏とは性質は異なるが、よく吠えるだけのポチの最終進化形であると言えよう。別に小泉氏や河野氏以外がまだましだと言うことではない。五十歩百歩どころか皆、ほとんど似たり寄ったりであって、政治には何一つ期待できないことは今更、言うまでもないことだが、そのような人間が日本のトップになるということは、もう本当にこの国は終末段階に突入しているのではないのかということだ。そういう日本には何が起こってもおかしくはないし、何が起こっても、何も出来ないような、何一つとして中身のあることは言えないような、そういう終末の状況に相応しい日本の総理が悪魔の企みによって予定されているような気がして本当に恐ろしいとしか言えない。悪魔に魂を売り渡した権力者は、本物の悪魔以上に悪魔的となることを我々日本人はよく理解すべきである。繰り返すが悪魔の家来となった日本の権力者はもうどうしようもないが、日本人は元々そういうことを見抜いて、切り抜けていく優れた精神性を持っているはずなのだから。
(吉川 玲)
意識が世界を選択する
ということで、自分の言葉で世界に対して、何事か物を言うというある意味で途轍もなく恐ろしい時空のラインに舞い戻る覚悟をしたのかどうか、正直な所自分でもよくわからないが、ただ何となくわかることは、今、世界は確かに微妙なる変化を遂げていて、その変化とは一本の時間軸の直線上で生じているのではなくて、複数というよりは無限にある世界線の物語というか脚本というか整合性の一つを、何かを書いたり、或いはその行為を中止して沈黙を保つというような極めて個人的な選択によっても決定されているという唯識論的な解釈が正しいのではないかと思慮しつつ、その精妙なる因果関係性や仕組みがよくわからないだけに恐れおののきながら今、この文章を書いているという有り様である。わかりやすく映画的に言えば、何かを言うか、沈黙を保つかによって世界が分岐するということは、『マトリックス』でキアヌ・リーブス演じるネオが赤と青のどちらのカプセルを飲むかということである。我々の日常は映画の中の世界のように刺激的で興奮に満ちたものではないであろうが、それでも平凡な、たとえば朝起きて靴下を右足から履くか、左足から履くかによっても、違う世界を恐らくは選択しているのである。ただしその二つの世界の違いはあまりにも些少であって、同質のものでもあるのでわからないし、また生きていく上でわかる必要もないということであろう。たとえばこれまたわかりやすい例えで言えば、新聞によく出てくる間違い探しの二つの絵のようなものである。AとBの二つの絵は一見すると全く同じ絵であるが、よく見ると何点か違うところが発見される。同じようにAとBの二つの世界、それを生きる二つの人生は異なると言えば異なるのであろうが、ほとんど同じものであるし、また我々人間は結局一つの世界しか生きられないし、認識できないし、その二つを比較することはできないのである。比較できないが、唯識史観的な意識でもって世界に対峙すれば、おそらくはそうであろうということがわかるというか、想像し得るということである。人は誰もが悲惨な状況や不幸な境遇に巻き込まれたくないと心から望んでいる。戦争や貧困や災害、疫病などによって苦しめられたり、死にたくはないと思っている。しかし現実には我々が生きている世界が何度も何度も繰り返しそのような悲惨な歴史を繰り返しているということの究極の原因は、人間が朝起きて、靴下を右足から履くか、左足から履くかによっても、微妙に異なる世界が展開されているということを、つまりは全ての人間の意識と宇宙は等価であり、世界は無限に存在するということを決して理解させ得ないような政治システムや情報の在り方にあるのではないかと私は考えている。一つでしかあり得ない世界には必ず対立と分断が必要なのであり、勝者と敗者が、富裕と貧困が、支配する者と虐げられた人々の区分が不可欠なのであり、その必要性の元で戦争などの災厄が生み出されているとも言える。そういう選びようのない唯一の間違いだらけの地獄絵図と世界観に我々の意識は固く結びつけられてしまっているのである。またそこに人間の進化上の限界があるとも見れる。
しかし今、人々の意識は少しづつではあるが進化に向かって歩み始めているようにも見受けられる。ある一つの社会システムに従属した意識の下では、何十万人が集まってデモ行進や集会を行ったところで、世界は何一つとして変わらないであろう。なぜならその絵図そのものが分断と対立の規制の社会システムに組み込まれてしまって、無化されてしまうからだ。そうではなくて人間の意識が自分の宇宙を映し出していて、現実を作り出しているということを理解できる人間が増えるほどに、政治の束縛する力は自然と弱まってゆき、一人一人の現実を生み出す選択肢の数と自由度は大きくなっていくのであろうと考えられる。平和はその意識の先にしかあり得ない。今回のトランプ元大統領に対する暗殺未遂のように、そういう悪が発生したとしても、銃弾の軌道が数センチずれて命が助かるということは、多くの人々の意識によって選択された唯一ではない一つの現実なのであろうと思われる。
(吉川 玲)