龍のひげのブログ -11ページ目

水槽の中の飼育情報

人間の生活における情報は、ある意味で、水槽の中を泳ぐ金魚にとっての水のようなものであろう。水は金魚にとって生存上、絶対的に必要不可欠なものであり、金魚の生命そのものが直接的にその環境の質によって重大な影響を被る。水がなければ金魚は生きていくことができないが、腐敗していたり、多少の毒素が混ざった水であっても、個体差はあるが、大半は自然と耐性が生じて、何とか生き長らえることが可能である。よって金魚の生命は、自分たちが生存している水槽の水に深く依存していると言えるが、問題は、金魚そのものが自らの生存と、生命の質を決定している水の存在を意識できていないところにある。なぜ意識できないかと言えば、水は金魚と完全に一体化しているので、分離して思考の対象とすることが不可能だからである。金魚は水槽と水を自ら選び取ることができないのだから当然のことだとも言える。選べないものを意識したり、思い煩って何になるのかということである。清浄であろうと穢れていようと、不即不離に金魚の生命とはすなわち水槽の水であり、水が金魚の生命なのである。金魚とは斯くも哀れで、馬鹿な生き物なのだ。哀れで、馬鹿で、健気な小動物だからこそ、飼育され愛玩の対象となるとも言える。

しかしである。そういう人間も実は、程度の差こそあれ、金魚と同じである。人間も実に哀れで、馬鹿な生き物なのだ。何でこんなことを言うのかというと、近年、人間の生存環境としての情報が酷く汚染され、非常に生き難くなってきているように感じられるからである。生き難いなどというような生易しいものではなくて、ほとんど狂った世界の中で屍として飼育されているように思えてならない。私の目には、現代の人々は濁り切って、腐敗した水のなかで口をぱくぱくさせて新鮮な酸素を求めつつ弱っていく金魚に見える。衰弱して死につつあるのに情報と一体化している人間はその現象を病理として理解できていない。

具体的に述べることにする。この1年ほどを振り返って見て、日本ではどのような情報が、金魚にとっての水のように日本人の意識を盲目化させてきたのであろうか。先ず旧統一教会に対する解散請求への政治的な動きがあった。次にジャニーズ事務所の性加害問題である。どちらも今に始まった問題ではない。何十年もタブーとして、それらの重大な被害事実があることがわかっていながらも、放置されてきたことである。それがどうして今、この時期になって世間の耳目を集めるように糾弾されることとなったのか。最近では政治資金、裏金の問題で俄かに東京地検特捜部が事情聴取を開始して、それに関する情報に覆われている。政治資金の不祥事はこれまでにも何度も繰り返されてきていることだが、今回の問題に対する報道の特徴は、自民党の最大派閥である「清和政策研究会」の政治資金パーティーをめぐるものであるということから、「安倍派」という言葉が重要なキーワードのように、執拗といえるほど何度も使用されているということである。このような情報の推移と社会現象は一体、何を意味しているのであろうか。何を見えないように国民の目を誘導しているのかということである。おわかりであろうか。正直に言って、わたしは大半の国民がこの程度のことがわからないことが不思議でならない。本当に日本の大衆は金魚と同じ程度の情報認識しかできないレベルになってしまっているのであろうかと愕然とする思いであるが、そうであるのならばもはや何を言っても仕方のないことである。全体の1%か0.1%か知らないが、金魚ではない人間としての認識能力を保持している人々にのみ提言せざるを得ない。もう金魚などどうでもよい。金魚は死なない程度に与えられた餌を食べて生き長らえることを考えていればよいのであろう。ということで、今見えなくさせられている対象とは、安倍元首相を殺害したとされている山上徹也被告の公判についてである。山上被告についての情報がある時期から全く途絶えてしまったことについて違和感なり不自然さが感じられないであろうか。現時点で山上被告がどのような状況下にあるのかと言えば、来年1月まで鑑定留置が延長されているとのことであるが、具体的な公判の日程はまだ未定のようである。情報がないので何とも言えないが、恐らくは刑事責任能力の有無を調べる精神鑑定をより慎重に行うために留置を延長しているのではないであろう。そうではなくて検察は山上被告の殺人容疑が無実であることがわかっているから、起訴すべきか、不起訴にするかを未だに迷っている、或いはどのように決着すべきかが分からなくなっているのではなかろうか。今の政治資金問題で安倍派という文言がリフレインされるのは、安倍氏に対するダーティーなイメージ付でガス抜きさせることで、銃撃事件を、そしてその加害者とされる山上被告の裁判への関心を国民の意識に上らせないようにするための操作である。旧統一教会の献金問題もジャニーズの性加害も同じである。元々日本のマスコミの報道内容はそういう類のことばかりであるが、最近はあまりにも情報操作が露骨化しているというか、闇が底なしに深まっているようで、批判する言葉も出てこない。ということで私は今、本気で心配していることがある。ある日、突然に山上被告が留置所で自殺したという報道が出てくるのではないかと。まさかとは思われるかも知れないが、万が一にもそういうことが起きないことを願うのみである。

(吉川 玲)

朝倉未来はなぜ負けたのか

傷心の敗者を執拗に批評し続けて、溜飲を下げるような趣味はないのだけれど、朝倉未来の敗北からは誰もが共通に学ぶべき教訓が多く含まれていると思われるので、さらに踏み込んで述べることにする。

ABEMATVで当日の試合会場の様子を見ていたが、YA-MANは試合開始の1時間ほど前には、シャドーで身体を動かしてウォーミングアップに努めていたのだが、一方の朝倉は弟の海の前でゆったりと椅子に座ってくつろいでいるだけであった。目をギラギラさせて張り詰めた雰囲気のYA-MANとは対照的に、朝倉の表情はリラックスしていて余裕が感じられた。しかし朝倉のその余裕は、目の前に控えた格闘技の試合に勝てるという確信から来ているのではなくて、恐らくは「人生の勝者」としての風格のようなものなのである。若くして、31歳程度の年齢で、巨万の富と影響力、名声を得ている絶対的な自信が醸し出している落ち着きであって、それはそれで立派なものであるが、嫌な言い方かも知れないが、それと格闘技の純粋な強さは別物である。朝倉は自分のことをMMAの世界における日本のトップファイターであると自称しているが、厳密には日本のトップですらないし、世界には他にいくらでも強い選手が存在する。朝倉はとても頭の良い人間だとは思うが、それでも自らのインフルエンサー、興行者としての成功と格闘家としての純粋な強さ、位置づけと言ったものを切り分けて考えることが出来なくなっていたように私には見受けられた。そういう意味では金の力というものはやはり麻薬のようなものなのであろう。有り余る金とその金を生み出す圧倒的な注目度の高さ、人気に埋もれるようにして、自らの格闘技の強さや今後の成長の伸びしろなどを正確に自己評価できなくなっていたようにも思える。そういう朝倉の慢心はいたるところで目についた。たとえば今回の試合前に行われたYA-MAN軍団との会見でも、ケルベロスに対して、馬鹿にするようにお前は一体誰だと、お前のように誰も知らない人間はファイトクラブという新しい興行で客を呼ぶことすらできない、朝倉未来というブランドの力で注目されて、その恩恵にあずかっているのだから、感謝しろよという意味合いのことを言っていた。確かに朝倉は間違ったことは言っていない。朝倉の言う通りなのであるが、それと格闘技の実力は別物であるということが、朝倉未来と言う一人の人格の中でわからなくなってきていると言うか、混在してしまっているように私には見えた。さらに言えば、朝倉は少し裁判のし過ぎである。金があるからいくらでも民事裁判が出来るのであろうし、それはそれで朝倉の権利であり、自由であるが、今や日本で一番、有名とも言えるような人物が安易に裁判に訴えることはどうなのかと思う。1000万円企画で世間の批判を浴びた時に、どこかのマスコミの記者が朝倉の母親の元に許可なく取材に行ったことに激怒して訴えていたが、個人的にはどうなのかと思う。ユーチューブでもその結果について報告されていないが、和解でなければ恐らくは負けたのであろうと想像される。朝倉は、いや朝倉だけではないが世間のほとんどの人々は、裁判の判決というものが、どういう基準で決定されるのかということをよくわかっていない。裁判官は自分が出す一つの判決が、その後の社会にどういう影響を与えるか、どういうように方向づけるのかということを第一に考慮するというか、恐れるのである。直接の関係のない母親の元に取材に行ってはいけないという判決を出してしまえば、その後のマスコミは、あらゆるケースにおいて犯罪者や容疑者の家族に取材ができなくなってしまうではないか。普通に考えてそのような判決を一裁判官が出すはずが、いや出せるはずがないのである。実際に裁判になったのかどうかは知らないが、平本蓮選手を訴えるとか言っていたことも私には余計なことであったと思う。粘着的に色々なことを言われれば腹が立つ気持ちもわからないではないが、格闘家は裁判に訴えることよりも、試合で勝つことを優先しなければならない。プロは結果が全てなのだから試合に負ければ、裁判ばかりしているから、負けるのだと言われても仕方がないのである。最近もユーチューブのどっきり企画で、男性の浮気を肯定するかどうかの話題について悪意のある切り抜きをされて大炎上したことから、金はあるから相手を特定して裁判しようかなどと朝倉は発言していたが、下らないとしか言えない。言いたくはないがそういうところに思考が行っているから、肝心の試合で負けてしまうのである。はっきり言って朝倉は金を持ち過ぎたがゆえに、本来の自分自身というものを見失っているように私には見えた。恐らくは客観的な自己評価ができなくなっていたのである。今回のYA-MANとの試合も朝倉の取り巻き連中は、不利なキックボクシングルールで戦ったことを漢気があるなどと称賛するが、それは正確に見れば、一格闘家としての漢気という性質のものではない。先ず朝倉は興業の成功のことを第一に考えるのである。自分がYA-MANと戦うことに勝負論があると、そしてそれは注目されるであろうと考えてオファーを受けたのであって、それは漢気というよりも経営判断である。そして不利なはずのキックボクシングルールでも勝てると考えていたのであれば、それは単なる金持ちとしての余裕から生じる慢心である。金を持つことが間違っているのではなくて、それゆえに本来の自分を見失っていたことに問題があったのではないか。

朝倉未来という人物のカリスマ性なり魅力の源泉が一体どういうところにあるのかと言うと、私が思うところでは、それは彼の独自の死生観にある。朝倉は若いにも関わらず、心のどこかでいつ死んでもいいと思っている諦念というか、達観のようなものがあって、それは日本の武士道に通じるもののように私は感じていた。それでは武士道の精神とはどういうものかと言えば、自らの命よりも価値があると信じる何かのために、いざとなれば死を厭わないということ、自らの命を投げ出してもよいと覚悟を決めて生きていくことではなかろうか。もちろん朝倉がそこまではっきりと自覚していたかどうかはわからないが、そういう風に感じさせる雰囲気は確かにあって、それが今の日本では稀有な存在感になっていたようにも感じられる。朝倉はYA-MANに負けた翌日のユーチューブ上で、前日の試合だけでなく、自分が何者なのかということもよくわからほどに記憶を失っていて、住んでいる部屋を見渡しながら、何で自分はこんなに豪華な所に住んでいるのかなどと言ったり、スマホで自分のことを検索して調べながら、自分にはアンチや反対に応援してくれるファンがたくさんいることを不思議そうに再確認していた。またその時点では、前回はケラモフに寝技で負けて、今回は打撃でYA-MANに負けたのだから、客観的に見て引退だなと何度も繰り返し述べたり、記憶をなくしぼんやりとしている状態の中で、今、死んでもいいような気もするという発言をしているのを見て、私は何となくわかったような気がしたのである。何の根拠もないので、スピリチュアル的なことや霊的なことは言いたくはないが、朝倉は恐らくは、本来の自分を取り戻して、自分自身を新たに更新するために、無意識の内に負ける現実を作り出していたのである。武士道的な本来の自分の精神に立ち返るためには敗北が必要であるということが、大いなる朝倉未来はわかっていたのではなかろうか。まあ私が勝手にそう解釈しているだけで実際のところはわかりようのないことだが、確かにそういう目で見るとYA-MANにKOされたシーンも格闘技というよりは、武士が真剣勝負で一刀のもとに断ち切られた時の前のめりの倒れ方をしているように見えるのである。その翌日にはまたユーチューブの動画で朝倉は、やはりこのまま格闘技をやめることもくやしいのでしばらく休養してまた再開させるようなことを言っていたがどうなのだろうかか。BDとかユーチューブや何か知らないが新規で始めたいことがあると言っていたことなど、色々なことに手を染めていると、朝倉未来という人間の精神という中心軸がぶれてしまうがゆえに、体幹が弱くなるように肝心の格闘技も今以上にあまり強くならないような気がするのは私だけなのであろうか。

(吉川 玲)

朝倉未来とBD論

危険のない無難なところで、先ほど見終えた格闘技ファイトクラブの朝倉未来のことについて語ることにしようか。別に私は未来のファンでもアンチでもないが、未来という人物像に興味を感じていたのでユーチューブやBDで動静を追って、観察していた。今回のYA―MANとの試合は、試合が開始される直前までは、正直なところ五分五分だと思っていたが、1RのゴングがなってYA-MANが圧力を掛け、未来をコーナーに追い詰めていった時点で、YA-MANの方が強いことがわかった。カウンター狙いでわざと下がっているというような余裕が未来の表情や身体の動きから全く感じられなかったからだ。格闘技の面白いところは、私は全くの未経験であるが、向き合った時点で勝敗の何割かが決するところにあるように思われる。そこから劣勢の方がどれだけ挽回できるかということも見どころであろうが、それはルールや審判のある人間の競技としての闘いであるからで、これが野生動物の世界における雌の獲得を巡る雄同士の決闘であれば、向き合って勝てないことがわかった時点で弱い方は相手に背を向けて逃げ出すであろう。それは卑怯であるとか弱虫であるというようなことではなくて、雌を獲得して自らの遺伝子を自然界に残すことが目的であるならば、負けるのがわかっている相手に戦いを挑んで命を落とすよりは、その場は逃げて生き続け、次の自分が勝てそうな雄との決闘とそのご褒美としての性交の機会を待った方がゲーム理論的には正しいからである。もちろん戦って無残に負けて死んでしまう場合も多くあるだろう。何が言いたいかと言えば、試合開始直後にYA-MANにコーナーに追い詰められる未来の姿を見て、ルールのない鹿や猿などの野生動物の闘いならば、戦わずに逃げ出すのではないかというように私には瞬間的に見えたということだ。それだけYA-MANのほうが過酷な自然界における野生動物の生命を掛けた戦いに近い気迫を持っていたということかも知れない。未来の敗北は、有名になり過ぎ、金を持ち過ぎたゆえに、プロの格闘技の世界では生物学的なあくなき強さへのモチベーションを持てなくなったのかも知れない。そうであるならばYA-MANの未来に対する指摘が正しいことが証明された闘いでもあった。嫌味を言うつもりをないが、未来の本当に輝く場所は、ライジンやUFCなどのプロの団体で自らが戦うことではなくてBDで不良を喧嘩させてそれを見世物として興行することにあるのではないかという気がする。悪く言えば、未来は元々がお山の大将の気質を強く持っているのである。しかしそれであれだけの金を稼ぐ能力は凄いことではあるし、頭が良いことは否定できないことである。そういう意味で未来は、観察の対象として面白い人物であることは事実である。しかしBDがこれほどに今の日本でバズるというのか、注目されることは私には単なる平和ボケの裏返しに過ぎないような気もする。ウクライナの日常のように、ロシアとの戦地から、手や足をうしなったり、失明して帰還する若者が無数に存在する現実のなかで、BDのような不良の喧嘩の動画を誰が見たがるであろうか。どのような企業がそんな動画に勇気をもらったなどと言って広告の金を出すであろうか。砲撃された病院で小さな子供の生命が日々失われていくパレスチナの地でも同じである。そういう意味では未来が主催するBDは日本における偉大な平和の象徴なのである。批判している訳ではない。未来は恐らくはもう格闘技を引退するであろう。お疲れさまと言いたい。

(吉川 玲)