デマと真実の狭間で生きるということ
狂った世界に対して、言うべき言葉は何もない。というよりも我々が今、正に見ている、見せられている現実は、悪夢のようなものなのだから、一つの論理的な言葉の整合性で説明し切れるようなものではないのかも知れない。そうであれば、人間に言葉はいらない。動物のように不機嫌に呻く以外に成す術がないからだ。或いはオウムのように何かの声真似をして、覚え込まされ、信じ込まされた言葉を機械的に発生し続けるかだ。こういう世界の中で真に人間的な言葉を発することが出来る人は、ただそれだけで、信仰や道徳の問題とは無関係に幸いであるということが出来るのであろうと思う。
ということで正月の元日からの石川県、能登地方を震源地とする最大震度7の大地震が発生した。それで最早、大災害直後の恒例の決まり事のように見られることだが、地震に関するデマ情報が、ネット上に拡散されているから決して信じないようにと注意喚起がなされ、その情報を終息させようとする動きが発生する。首相が「決して許されることではない。」などと何らかの罰則を匂わせるような発言をする。同調するように一部のタレントが「こんな時に、そういうことを言う奴は人間として最低だ。」というような類のコメントを投げかける。因みに私個人の意見はどうなのかと言えば、正直な所、わからないとしか言えない。今回の地震に限ったことではなく、この30年間ほどの期間に日本に起こった大地震や風水害全体を通観してみて、不可解に思えないところもないではないが、何よりも証拠がないし、個々人の想像の領域から踏み出せるものではないということは否定できないことである。それから、こんな時にそういうことを言うべきではないという意見も真っ当というか、ご尤もではある。なぜなら言うまでもないことではあるが、今この瞬間にも被災地の人々の人命の生存や重大な健康被害、精神的なダメージが危惧されている状況において、陰謀論的な風説を蔓延らせても、誰にとっても何のプラスにもならないからだ。そういうことで、つまり大災害直後のデマ情報で拡大できる陰謀論マーケットの規模など高々、知れているはずである。ならば未来永劫、一切議論が封殺されるべき疑惑、或いはデマなのかと言えば、政府やマスコミはそうあるべきだと考えているのであろうが、私はそうは思わない。こんな時にするべき話しではない。それはその通りである。被災民の命と財産を守るために優先されるべきことに全精力と全情報が傾注されるべきである。よって今は、こんな時なので、私が今述べていること自体が矛盾しているとも言えるが、こんな時以外に議論するべき話しなのである。こんな時以外にきちんと議論されていないから、こんな時にデマまたは疑惑が噴出するのである。それは政治やマスコミの責任であって、国民が悪いのではない。はっきりと言うが、米国やロシア、中国などの大国は、間違いなく地震兵器の研究開発を進めているものである。繰り返すが証拠はないので、私個人の想像の範疇での推測である。しかしいかに想像の領域であっても、ある程度の洞察力と知性があれば限りなく近づける真実と言うものはあるのであって、常識的に考えても世界が西と東の冷戦構造における分断の対立によって均衡が成り立っている以上、抑止力の観点から考えても敵対国が研究している可能性が高いという以上にその事実を諜報的に把握しているものを自国が研究しない道理がないからである。1976年の国連決議で採択され、1978年に発効することとなった環境改変技術の禁止条約とは、地震、津波、台風、ハリケーンなどの現象を変更して軍事的に使用することを禁止するものであって、研究そのものを禁止している訳ではないし、また平和的使用に関しても認められているものである。米国や中国などの大国だけでなく、日本ですら研究しているものである。内閣府が公表している2050年までの達成を目標としているムーンショット計画の中には、激甚化している台風や豪雨などの気象を制御する技術の獲得が含まれている。また国連決議の環境改変技術禁止条約における平和利用という文言も曲者で、国の勝手な解釈次第でどのような非人道的な使用であっても、軍事目的でないならば、たとえば国民の同意のない政府間で秘密裏に合意された実験目的の仕様であっても平和利用にされてしまう可能性もないわけではないものである。誤解のないように言っておくが、私はそういうことが行われていると言っている訳ではない。実態はよくわからないが、そういう話題が世界共通のタブーとして全く議論されていない、議論が許されない状況が危険だと考えているだけである。
日本の政治家でこの問題について論じる勇気のある人間は、ほぼ皆無だが唯一の例外は、米国のシンクタンク(CSIS)主任研究員を経て2010年の参院選で当選した元国会議員、浜田和幸氏であり、議員時代から気象兵器や人工地震の真実について発信し続けてきた。TOKANAの取材記事を読んで感じたことだが、浜田氏の発言内容は信憑性が高く、信用できるものである。日本国内でこのような発言ができるのは、CSIS(戦略国際問題研究所)在籍時代の米国との人的コネクションによって守られているからなのであろうか。ともかくも浜田氏がそこで述べていることは本当のことである。簡単に要約すると米国は第二次世界大戦が勃発する何年も前から、文化人類学的に日本人のメンタリティーを研究していたということである。そうしなければならない潜在的な脅威を米国は日本人に対して感じていたということである。これを言うと話が変な方向に行ってしまうので詳しくは述べないが、日本人は敗戦の影響でほとんど全く自覚できていないが、日本民族は元々精神性の高い特別な民族なのだ。世界で唯一の被爆国というのもその特別性と関係があることはほぼ間違いがないと考えられる。日本的な精神性の高さを封印するために原爆が投下されたとも言える。それで現在の地震や火山噴火などの恐怖心も実は、米国が日本人をマインドコントロールするために必要な恐怖心として戦後も継続して行われている政策であるということである。それで信じ難いことではあるが、日本の政治やマスコミは、米国の恐怖による日本人への洗脳工作に陰ながら協力しているのである。原爆投下と最後の一文は、浜田氏の述べていたことではなくて私の見方である。信じる、信じないは皆さんの自由である。というよりもそう言っている私自身が全体的に真実だと考えて言っている訳ではない。恐らくはそうであろうと考えている程度である。また繰り返すが、今回の能登半島地震が人工地震だと決めつけているわけでも、その可能性が高いと思っている訳でもない。結局、何が真実で何が正しいかということではなくて、誰もがそれぞれの守らなければならない生活や立ち位置、物の見方や考え方というものがあって、それはそう簡単に変えられるものではなく、その全体的な総意なり、均衡によって日本という国家や日本人の生命の安全性が支えられているのだから、その固定化された枠組みのなかで発生するリスクというものを日本人の一人一人がよく認識する必要性があるのではないかということである。政治やマスコミの説明が必ずしも正しいわけではないのである。むしろ正反対のことも多いと言うことだ。最後に1995年の阪神淡路大震災についても少し触れておくがあの地震は私にとっていまだに不可解である。謎として心の中で燻り続けているところがある。もはや死刑になってしまったので解明の仕様がないが、オウム真理教の麻原彰晃は、どうも地震の発生を本当に予言していたというか、事前に知っていた節があるということだ。私は信者じゃないので当時の内部的なことはわからないが、当時から教団機関紙のヴァジラヤーナ・サッチャに予言が当たったとか、広報担当であった上祐氏がそういった旨の発言をしていた記憶がある。最初は例の如く嘘だと思っていたが、どうもそうでもない感じがしたのである。名前は忘れたが元信者で「オウムからの帰還」というタイトルだったと思うが、その著書の中では刺殺された村井秀夫氏に命じられて、不眠不休の作業で占星術のソフトを作って、そのソフトで神戸市の震災の場所と1月17日に日時を見事に予言して的中させたと書かれていたが、いくら何でもそんな馬鹿なことはあり得ない。占星術のソフトで地震の日時と場所がわかるのであれば、誰も苦労はしない。あの時の1月17日の地震発生でオウム真理教に対する強制捜査が流れたことは事実なのである。麻原は本当に地震の発生を予知していた可能性があるのである。何で知っていたのであろうか。早川紀代秀氏は一体何の目的で何度もロシアに行ったり、日本に帰国したりを繰り返していたのであろうか。その年の3月に地下鉄サリン事件が発生するのであるが、当時から私の目には、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件は、オウムが関与する一連の事件として映っていたものである。もちろん単なる私の思い違い、間違いである可能性もあるので何とも言えないが。阪神淡路大地震について書かれた小説に柴田哲孝氏の「GEQ 大地震」がある。一応はフィクションということにされているが、私は緻密な調査、取材によって書かれたノンフィクションだと考えている。オウム真理教との関連についてはまったく述べられていなかったと記憶しているが(随分昔に読んだのであまり覚えていない)、その小説の衝撃的なラストシーンが真相の全てであるような気がする。興味がある人は是非、読むべきだと思う。
ともかくも能登半島地震の被災者の人々に一日も早く、これまで通りの日常生活に戻れるよう強力な支援が為されることを心から願う。
(吉川 玲)
水槽の中の飼育情報
人間の生活における情報は、ある意味で、水槽の中を泳ぐ金魚にとっての水のようなものであろう。水は金魚にとって生存上、絶対的に必要不可欠なものであり、金魚の生命そのものが直接的にその環境の質によって重大な影響を被る。水がなければ金魚は生きていくことができないが、腐敗していたり、多少の毒素が混ざった水であっても、個体差はあるが、大半は自然と耐性が生じて、何とか生き長らえることが可能である。よって金魚の生命は、自分たちが生存している水槽の水に深く依存していると言えるが、問題は、金魚そのものが自らの生存と、生命の質を決定している水の存在を意識できていないところにある。なぜ意識できないかと言えば、水は金魚と完全に一体化しているので、分離して思考の対象とすることが不可能だからである。金魚は水槽と水を自ら選び取ることができないのだから当然のことだとも言える。選べないものを意識したり、思い煩って何になるのかということである。清浄であろうと穢れていようと、不即不離に金魚の生命とはすなわち水槽の水であり、水が金魚の生命なのである。金魚とは斯くも哀れで、馬鹿な生き物なのだ。哀れで、馬鹿で、健気な小動物だからこそ、飼育され愛玩の対象となるとも言える。
しかしである。そういう人間も実は、程度の差こそあれ、金魚と同じである。人間も実に哀れで、馬鹿な生き物なのだ。何でこんなことを言うのかというと、近年、人間の生存環境としての情報が酷く汚染され、非常に生き難くなってきているように感じられるからである。生き難いなどというような生易しいものではなくて、ほとんど狂った世界の中で屍として飼育されているように思えてならない。私の目には、現代の人々は濁り切って、腐敗した水のなかで口をぱくぱくさせて新鮮な酸素を求めつつ弱っていく金魚に見える。衰弱して死につつあるのに情報と一体化している人間はその現象を病理として理解できていない。
具体的に述べることにする。この1年ほどを振り返って見て、日本ではどのような情報が、金魚にとっての水のように日本人の意識を盲目化させてきたのであろうか。先ず旧統一教会に対する解散請求への政治的な動きがあった。次にジャニーズ事務所の性加害問題である。どちらも今に始まった問題ではない。何十年もタブーとして、それらの重大な被害事実があることがわかっていながらも、放置されてきたことである。それがどうして今、この時期になって世間の耳目を集めるように糾弾されることとなったのか。最近では政治資金、裏金の問題で俄かに東京地検特捜部が事情聴取を開始して、それに関する情報に覆われている。政治資金の不祥事はこれまでにも何度も繰り返されてきていることだが、今回の問題に対する報道の特徴は、自民党の最大派閥である「清和政策研究会」の政治資金パーティーをめぐるものであるということから、「安倍派」という言葉が重要なキーワードのように、執拗といえるほど何度も使用されているということである。このような情報の推移と社会現象は一体、何を意味しているのであろうか。何を見えないように国民の目を誘導しているのかということである。おわかりであろうか。正直に言って、わたしは大半の国民がこの程度のことがわからないことが不思議でならない。本当に日本の大衆は金魚と同じ程度の情報認識しかできないレベルになってしまっているのであろうかと愕然とする思いであるが、そうであるのならばもはや何を言っても仕方のないことである。全体の1%か0.1%か知らないが、金魚ではない人間としての認識能力を保持している人々にのみ提言せざるを得ない。もう金魚などどうでもよい。金魚は死なない程度に与えられた餌を食べて生き長らえることを考えていればよいのであろう。ということで、今見えなくさせられている対象とは、安倍元首相を殺害したとされている山上徹也被告の公判についてである。山上被告についての情報がある時期から全く途絶えてしまったことについて違和感なり不自然さが感じられないであろうか。現時点で山上被告がどのような状況下にあるのかと言えば、来年1月まで鑑定留置が延長されているとのことであるが、具体的な公判の日程はまだ未定のようである。情報がないので何とも言えないが、恐らくは刑事責任能力の有無を調べる精神鑑定をより慎重に行うために留置を延長しているのではないであろう。そうではなくて検察は山上被告の殺人容疑が無実であることがわかっているから、起訴すべきか、不起訴にするかを未だに迷っている、或いはどのように決着すべきかが分からなくなっているのではなかろうか。今の政治資金問題で安倍派という文言がリフレインされるのは、安倍氏に対するダーティーなイメージ付でガス抜きさせることで、銃撃事件を、そしてその加害者とされる山上被告の裁判への関心を国民の意識に上らせないようにするための操作である。旧統一教会の献金問題もジャニーズの性加害も同じである。元々日本のマスコミの報道内容はそういう類のことばかりであるが、最近はあまりにも情報操作が露骨化しているというか、闇が底なしに深まっているようで、批判する言葉も出てこない。ということで私は今、本気で心配していることがある。ある日、突然に山上被告が留置所で自殺したという報道が出てくるのではないかと。まさかとは思われるかも知れないが、万が一にもそういうことが起きないことを願うのみである。
(吉川 玲)
朝倉未来はなぜ負けたのか
傷心の敗者を執拗に批評し続けて、溜飲を下げるような趣味はないのだけれど、朝倉未来の敗北からは誰もが共通に学ぶべき教訓が多く含まれていると思われるので、さらに踏み込んで述べることにする。
ABEMATVで当日の試合会場の様子を見ていたが、YA-MANは試合開始の1時間ほど前には、シャドーで身体を動かしてウォーミングアップに努めていたのだが、一方の朝倉は弟の海の前でゆったりと椅子に座ってくつろいでいるだけであった。目をギラギラさせて張り詰めた雰囲気のYA-MANとは対照的に、朝倉の表情はリラックスしていて余裕が感じられた。しかし朝倉のその余裕は、目の前に控えた格闘技の試合に勝てるという確信から来ているのではなくて、恐らくは「人生の勝者」としての風格のようなものなのである。若くして、31歳程度の年齢で、巨万の富と影響力、名声を得ている絶対的な自信が醸し出している落ち着きであって、それはそれで立派なものであるが、嫌な言い方かも知れないが、それと格闘技の純粋な強さは別物である。朝倉は自分のことをMMAの世界における日本のトップファイターであると自称しているが、厳密には日本のトップですらないし、世界には他にいくらでも強い選手が存在する。朝倉はとても頭の良い人間だとは思うが、それでも自らのインフルエンサー、興行者としての成功と格闘家としての純粋な強さ、位置づけと言ったものを切り分けて考えることが出来なくなっていたように私には見受けられた。そういう意味では金の力というものはやはり麻薬のようなものなのであろう。有り余る金とその金を生み出す圧倒的な注目度の高さ、人気に埋もれるようにして、自らの格闘技の強さや今後の成長の伸びしろなどを正確に自己評価できなくなっていたようにも思える。そういう朝倉の慢心はいたるところで目についた。たとえば今回の試合前に行われたYA-MAN軍団との会見でも、ケルベロスに対して、馬鹿にするようにお前は一体誰だと、お前のように誰も知らない人間はファイトクラブという新しい興行で客を呼ぶことすらできない、朝倉未来というブランドの力で注目されて、その恩恵にあずかっているのだから、感謝しろよという意味合いのことを言っていた。確かに朝倉は間違ったことは言っていない。朝倉の言う通りなのであるが、それと格闘技の実力は別物であるということが、朝倉未来と言う一人の人格の中でわからなくなってきていると言うか、混在してしまっているように私には見えた。さらに言えば、朝倉は少し裁判のし過ぎである。金があるからいくらでも民事裁判が出来るのであろうし、それはそれで朝倉の権利であり、自由であるが、今や日本で一番、有名とも言えるような人物が安易に裁判に訴えることはどうなのかと思う。1000万円企画で世間の批判を浴びた時に、どこかのマスコミの記者が朝倉の母親の元に許可なく取材に行ったことに激怒して訴えていたが、個人的にはどうなのかと思う。ユーチューブでもその結果について報告されていないが、和解でなければ恐らくは負けたのであろうと想像される。朝倉は、いや朝倉だけではないが世間のほとんどの人々は、裁判の判決というものが、どういう基準で決定されるのかということをよくわかっていない。裁判官は自分が出す一つの判決が、その後の社会にどういう影響を与えるか、どういうように方向づけるのかということを第一に考慮するというか、恐れるのである。直接の関係のない母親の元に取材に行ってはいけないという判決を出してしまえば、その後のマスコミは、あらゆるケースにおいて犯罪者や容疑者の家族に取材ができなくなってしまうではないか。普通に考えてそのような判決を一裁判官が出すはずが、いや出せるはずがないのである。実際に裁判になったのかどうかは知らないが、平本蓮選手を訴えるとか言っていたことも私には余計なことであったと思う。粘着的に色々なことを言われれば腹が立つ気持ちもわからないではないが、格闘家は裁判に訴えることよりも、試合で勝つことを優先しなければならない。プロは結果が全てなのだから試合に負ければ、裁判ばかりしているから、負けるのだと言われても仕方がないのである。最近もユーチューブのどっきり企画で、男性の浮気を肯定するかどうかの話題について悪意のある切り抜きをされて大炎上したことから、金はあるから相手を特定して裁判しようかなどと朝倉は発言していたが、下らないとしか言えない。言いたくはないがそういうところに思考が行っているから、肝心の試合で負けてしまうのである。はっきり言って朝倉は金を持ち過ぎたがゆえに、本来の自分自身というものを見失っているように私には見えた。恐らくは客観的な自己評価ができなくなっていたのである。今回のYA-MANとの試合も朝倉の取り巻き連中は、不利なキックボクシングルールで戦ったことを漢気があるなどと称賛するが、それは正確に見れば、一格闘家としての漢気という性質のものではない。先ず朝倉は興業の成功のことを第一に考えるのである。自分がYA-MANと戦うことに勝負論があると、そしてそれは注目されるであろうと考えてオファーを受けたのであって、それは漢気というよりも経営判断である。そして不利なはずのキックボクシングルールでも勝てると考えていたのであれば、それは単なる金持ちとしての余裕から生じる慢心である。金を持つことが間違っているのではなくて、それゆえに本来の自分を見失っていたことに問題があったのではないか。
朝倉未来という人物のカリスマ性なり魅力の源泉が一体どういうところにあるのかと言うと、私が思うところでは、それは彼の独自の死生観にある。朝倉は若いにも関わらず、心のどこかでいつ死んでもいいと思っている諦念というか、達観のようなものがあって、それは日本の武士道に通じるもののように私は感じていた。それでは武士道の精神とはどういうものかと言えば、自らの命よりも価値があると信じる何かのために、いざとなれば死を厭わないということ、自らの命を投げ出してもよいと覚悟を決めて生きていくことではなかろうか。もちろん朝倉がそこまではっきりと自覚していたかどうかはわからないが、そういう風に感じさせる雰囲気は確かにあって、それが今の日本では稀有な存在感になっていたようにも感じられる。朝倉はYA-MANに負けた翌日のユーチューブ上で、前日の試合だけでなく、自分が何者なのかということもよくわからほどに記憶を失っていて、住んでいる部屋を見渡しながら、何で自分はこんなに豪華な所に住んでいるのかなどと言ったり、スマホで自分のことを検索して調べながら、自分にはアンチや反対に応援してくれるファンがたくさんいることを不思議そうに再確認していた。またその時点では、前回はケラモフに寝技で負けて、今回は打撃でYA-MANに負けたのだから、客観的に見て引退だなと何度も繰り返し述べたり、記憶をなくしぼんやりとしている状態の中で、今、死んでもいいような気もするという発言をしているのを見て、私は何となくわかったような気がしたのである。何の根拠もないので、スピリチュアル的なことや霊的なことは言いたくはないが、朝倉は恐らくは、本来の自分を取り戻して、自分自身を新たに更新するために、無意識の内に負ける現実を作り出していたのである。武士道的な本来の自分の精神に立ち返るためには敗北が必要であるということが、大いなる朝倉未来はわかっていたのではなかろうか。まあ私が勝手にそう解釈しているだけで実際のところはわかりようのないことだが、確かにそういう目で見るとYA-MANにKOされたシーンも格闘技というよりは、武士が真剣勝負で一刀のもとに断ち切られた時の前のめりの倒れ方をしているように見えるのである。その翌日にはまたユーチューブの動画で朝倉は、やはりこのまま格闘技をやめることもくやしいのでしばらく休養してまた再開させるようなことを言っていたがどうなのだろうかか。BDとかユーチューブや何か知らないが新規で始めたいことがあると言っていたことなど、色々なことに手を染めていると、朝倉未来という人間の精神という中心軸がぶれてしまうがゆえに、体幹が弱くなるように肝心の格闘技も今以上にあまり強くならないような気がするのは私だけなのであろうか。
(吉川 玲)