龍のひげのブログ -10ページ目

意識が世界を選択する

ということで、自分の言葉で世界に対して、何事か物を言うというある意味で途轍もなく恐ろしい時空のラインに舞い戻る覚悟をしたのかどうか、正直な所自分でもよくわからないが、ただ何となくわかることは、今、世界は確かに微妙なる変化を遂げていて、その変化とは一本の時間軸の直線上で生じているのではなくて、複数というよりは無限にある世界線の物語というか脚本というか整合性の一つを、何かを書いたり、或いはその行為を中止して沈黙を保つというような極めて個人的な選択によっても決定されているという唯識論的な解釈が正しいのではないかと思慮しつつ、その精妙なる因果関係性や仕組みがよくわからないだけに恐れおののきながら今、この文章を書いているという有り様である。わかりやすく映画的に言えば、何かを言うか、沈黙を保つかによって世界が分岐するということは、『マトリックス』でキアヌ・リーブス演じるネオが赤と青のどちらのカプセルを飲むかということである。我々の日常は映画の中の世界のように刺激的で興奮に満ちたものではないであろうが、それでも平凡な、たとえば朝起きて靴下を右足から履くか、左足から履くかによっても、違う世界を恐らくは選択しているのである。ただしその二つの世界の違いはあまりにも些少であって、同質のものでもあるのでわからないし、また生きていく上でわかる必要もないということであろう。たとえばこれまたわかりやすい例えで言えば、新聞によく出てくる間違い探しの二つの絵のようなものである。AとBの二つの絵は一見すると全く同じ絵であるが、よく見ると何点か違うところが発見される。同じようにAとBの二つの世界、それを生きる二つの人生は異なると言えば異なるのであろうが、ほとんど同じものであるし、また我々人間は結局一つの世界しか生きられないし、認識できないし、その二つを比較することはできないのである。比較できないが、唯識史観的な意識でもって世界に対峙すれば、おそらくはそうであろうということがわかるというか、想像し得るということである。人は誰もが悲惨な状況や不幸な境遇に巻き込まれたくないと心から望んでいる。戦争や貧困や災害、疫病などによって苦しめられたり、死にたくはないと思っている。しかし現実には我々が生きている世界が何度も何度も繰り返しそのような悲惨な歴史を繰り返しているということの究極の原因は、人間が朝起きて、靴下を右足から履くか、左足から履くかによっても、微妙に異なる世界が展開されているということを、つまりは全ての人間の意識と宇宙は等価であり、世界は無限に存在するということを決して理解させ得ないような政治システムや情報の在り方にあるのではないかと私は考えている。一つでしかあり得ない世界には必ず対立と分断が必要なのであり、勝者と敗者が、富裕と貧困が、支配する者と虐げられた人々の区分が不可欠なのであり、その必要性の元で戦争などの災厄が生み出されているとも言える。そういう選びようのない唯一の間違いだらけの地獄絵図と世界観に我々の意識は固く結びつけられてしまっているのである。またそこに人間の進化上の限界があるとも見れる。

しかし今、人々の意識は少しづつではあるが進化に向かって歩み始めているようにも見受けられる。ある一つの社会システムに従属した意識の下では、何十万人が集まってデモ行進や集会を行ったところで、世界は何一つとして変わらないであろう。なぜならその絵図そのものが分断と対立の規制の社会システムに組み込まれてしまって、無化されてしまうからだ。そうではなくて人間の意識が自分の宇宙を映し出していて、現実を作り出しているということを理解できる人間が増えるほどに、政治の束縛する力は自然と弱まってゆき、一人一人の現実を生み出す選択肢の数と自由度は大きくなっていくのであろうと考えられる。平和はその意識の先にしかあり得ない。今回のトランプ元大統領に対する暗殺未遂のように、そういう悪が発生したとしても、銃弾の軌道が数センチずれて命が助かるということは、多くの人々の意識によって選択された唯一ではない一つの現実なのであろうと思われる。

(吉川 玲)

物事は起こるべくして起こるのである。

人間は唯一、嘘をつく生き物である。人間以外の動物の生存には嘘という概念がない。嘘の概念がない動物には正直であることの美徳もないが、ただひたすら純粋に本能に従って生き、自然環境に適応し続ける動物や植物の嘘のない世界に、人間は人間社会にない原初の美しさと価値を見出し、愛せざるを得ないということなのであろう。

深遠な生物学や人類史について話しをするつもりはないが、我々人間はもっとこの人間社会に、人間の不可避的な付属物や構成要素として埋め込まれている嘘に対して、鋭敏な感覚を持つ必要があるのではなかろうか。そしてその姿勢こそが、人が自然界に生息する穢れなき野生の植物や動物の姿を見てその美しさに感動するように、人が人としてこの世に生きていくことの本来的な意義に覚醒し、自らの魂を高めていくことになるのではないかという気がする。

ということで今、世界中で話題になっているドジャースの大谷翔平選手と通訳の水原一平氏の問題も、私は直感的に水原氏が全てを正直に語っているのではなくて、隠していることや嘘が多分にあるのではないかという気がしてならない。具体的に言えば、水原氏は自分のことをギャンブル中毒であると言っているが、それは本当なのであろうか。私は世間全体が「ギャンブル中毒」というパワーワードに誘導されてしまっているように感じる。水原氏は貯金がなくて生活を維持するために家族や友人たちから借金をしていたと述べているが、水原氏が通訳としてドジャースから貰っていた給与は年間数千万円もある。またそれ以外に大谷選手からインセンティブとして得ていた収入があってそれを含めると年収2億円になるという説もあって、その辺の信憑性ははっきりとしないが、少なくとも年間数千万円の収入があってそれが大谷選手の通訳をしている今後、10年の期間は確実に保証されているような人間相手に、恐らくはそれよりはるかに収入の少ない家族や友人が金を貸すようなことがあり得るだろうか。常識的に考えてないであろう。反対に家族や友人から借金を頼まれる側であるはずである。仮に水原氏がギャンブルが原因で金に困っていると訴えていたとしても、それに同情して世界で一番運に恵まれていて、勝ち組であるとも言えるような人間に金を貸すような家族や友人が存在するとは到底、考えられない。水原氏がスポーツ賭博をしていた可能性は否定できないが、ギャンブル中毒が原因で大谷氏の金に手を付けたという説明は、私は嘘ではないかという気がする。それではこの大谷選手や水原氏を巡る全体の構図でどういう事態が発生したことが最も考えられるかというと、私は水原氏は野球賭博を通じてアンダーグラウンドの組織の人間に嵌められたという可能性が高いように思われる。スポーツベッティングは全米で年間8兆円ものマーケットがあると言われている。そのような規模の業界にマフィアなどの闇の組織が関係してこないはずがない。さらに言えば、スポーツ界で最高収入の大谷マネーが狙われない訳がないとも言える。具体的な方法はいくつも考えられる。たとえば思いつくところで言えば、水原氏の賭博行為に気付いたマフィアなどの人間が水原氏に接触してきて、野球賭博に利用できる大谷選手の情報を提供する代わりに、水原氏の賭博の負け分をチャラにするという取引がなされるとする。そういうことが何回か繰り返される内に、水原氏自身は野球賭博をしていなくとも間接的に野球賭博に深く関わることとなってしまって抜け出せなくなってしまったのではなかろうか。そしてそういう違法取引をしていたことをネタにマフィアから恐喝されることになったとは考えられないであろうか。水原氏が賭博を負けたということを理由にして、大谷氏の口座から要求された金を胴元のブックメーカーに振り込んでいたと考えるのが私には最もあり得るパターンのような気がする。水原氏にしてみればカリフォルニア州でスポーツ賭博が違法であるかを認識していたかどうか以前に、野球賭博に関わってしまったこと自体が論外にアウトであり、その事実が発覚してしまえば何も知らないはずの大谷選手までもが野球賭博に関与している可能性があるとの疑惑を受けることとなり、最悪の場合は、ピート・ローズのように野球界から追放ということになってしまうであろう。大谷マネーを狙っていた闇の組織は元々そういう計画で水原氏に接触してきたのではなかろうか。大谷選手の口座から直接、送金させていたこともそういう狙いで、大谷選手に関連があるかの証拠を残させることで水原氏が警察に駆け込んだりし難い状況を作っていたと考えるのが私には自然のように思われる。ところが闇側組織の人間にとって計算外であったことは、FBIがたまたまその違法業者を捜査していたことから大谷選手の名前が浮上してきて、今のような状態になっているということではなかろうか。FBIも馬鹿ではないからそういう可能性も踏まえた上で、今後徹底的に捜査するのであろうが、何よりも憂慮されることは水原氏の身に危険が及ぶ可能性があるということだ。殺害されたり、自殺または自殺に見せかけた殺害ということもあり得るので、アメリカの警察当局は早急に水原氏の身柄を確保すべきである。事実関係は現時点ではまだはっきりとはしないものの、今回のことから言える教訓があるとすれば、物事は起こるべくして起こるということである。大谷氏のビックマネーがあって、大谷氏は野球馬鹿で野球のことしか考えていなくて、傍に水原氏のようなマネージャーとしての存在があって、その水原氏を罠にはめて篭絡すれば大谷氏の金をいくらでも引き出せるというような状況が存在するのであれば、その状況を利用しようとする悪人は確実に現れるということである。ボクシングのメイウェザーなどは金の亡者のように批判されることも多いが、金に関する危機管理はなされているように感じられるし、それは持てる者の義務であるとも言える。そういう意味では大谷選手は危機管理意識の欠如からこのような事態を発生させているとも言えよう。今後、大谷氏は自身の財産をきちんと自分で管理することが出来ないのであれば、自分は野球だけに専念したいのであれば、球団に紹介してもらうなりで財産を資金管理会社に預託して(ドジャースはそういう金に関することが得意であろうから)悪の魔手にかからないように留意すべきである。それで資金管理会社との連絡や窓口は全て嫁さんにやってもらえばよいのではないか、と余計なお世話だがそう思う次第である。別に私には何の関係もないことだから、どうでもよいといえばどうでもよいのであるが。

(吉川 玲)

誰も言わないのであれば、私が言う

誰も言わないのであれば、私が言うしかない。世界には、たくさんの人間が存在しているように見えながら、それは錯覚で本当は私の他には誰も存在しないのかも知れない。もちろん唯一の実在者であるこの私が何か言ったところで、この世界は何も変わらない。実質的には何も変わらないけれど、影のような有象無象の人々の顔付きが、そして世界全体の気配が微妙に変化する。それは影響力といった類のものではない。影響力とは数による力である。私の他に誰も存在しないのであれば、そういう境地に立脚するのであれば、幽霊のように実体のない数に何の意味があるのかということである。数の幻影から離脱し、唯一の実在者として人間らしい言葉を発するならば、世界は一見するところ何も変わっていないように見えながら、恐らくはそれまでの世界とは微かに横にずれている。ずれることによって世界は平静を装いつつも、動揺しているようにも感じられる。恐らくは世界の初めに言葉があったのだ。数ではない。数に騙されてはいけない。数の力に頼っていると世界は同一の次元と周波数に固定化される。それはある意味で牢獄である。政治とマスコミの支配する舞台である。人間の、人間らしい言葉こそが神の御業の如く、新しい世界を創造していくのであろうと思われる。ということで今、私は人々の顔付きと世界全体の気配を変化させるために何かを言おうとしている。何を言うのか。別に何でもいいのだが、また人任せにしていると誰も言わないゆえに、結局私が言わなければならないと思われることは無数にあるが、今回は戦争や災害、政治の問題ではなく一人の若者の死に関連したことについて述べることにする。この数日、言うか言わないでおくか迷っていたが、やはり言わねばならない。その若者とは昨年、12月26日の日本バンタム級王座戦で判定負けした後に意識を失って昏睡状態に陥り、2月2日に亡くなった穴口一輝選手についてである。23歳没ということでミレニアムベビーの西暦2000年生まれは、私の息子と同じ年齢である。23年の年月は、充分に生きたとは言うにはあまりにも短過ぎる人生である。井上尚弥選手対マーロン・タパレス戦の前座試合ということで、私はリアルタイムでTV観戦していたが、確かに白熱した好試合で、穴口選手の戦いぶりや表情から見てもレフェリーが途中でストップを掛けられるようなものでなかったことは確かである。しかし結果論と言われればそれまでだが、やはりボクシングの基本的なルールに問題があると思われる。穴口選手の死を無駄にしないというのであれば早急にルールを変更すべきである。結論を言えば、1試合に4回以上のダウンを許容することは選手の頭部へのダメージ蓄積において、過酷であり生死に関わることであり、問題が大きいと考えられる。1ラウンドに3回ではなく、1試合にトータル3回のダウンで試合をストップするようにルールを変更するべきだ。今回の死亡事故の教訓は、試合直後に昏睡状態に陥るほどのダメージを脳に受けていても、試合中は相手選手と互角か圧倒するほどの動きを見せることが出来るということである。今回の試合においても結果論ではあるが、3回目のダウンで試合がストップされていれば穴口選手は亡くなっていなかったであろうし、試合直後に意識を失うような事態にもなっていなかった可能性が大きいと思われる。大体において常識的に考えても、「明日のジョー」じゃあるまいし、漫画ではないのだから、人間の身体は特に頭は、1試合の短い時間の中で何回ものダウンによるダメージの蓄積を耐えられるようにはなっていないであろう。私は昔からボクシング観戦が好きで、小さなころから世界戦をTVで見るのが楽しみであったが、はっきり言って何十年も昔の選手の闘い方の方が、消極的というのか手数が少なくて、見合っている時間が長く面白くない試合が多かった。それでほとんど手を出していなくて、相手選手に決定的なダメージを与える有効打が全くというほどないのに、なぜか不可解な判定で日本選手が勝つことになるので、子供心にもボクシングというスポーツはインチキで、日本で戦う外国選手が気の毒でならない気持ちが常にあった。今思えば、昔の選手の方がある意味で賢いというのか、自分のボクサーとしての肉体を道具のように考えて大切に扱っていたような気がする。当たり前のことだが、プロボクサーであってもパンチドランカーになったり、死につながる可能性のある危険な打ち合いは出来るだけ避けたいと考えるのは当然のことである。昔は、特に80年~90年代の日本で開催される世界戦は、日本の経済力のおかげで日本人選手はほとんど手を出さなくても判定で勝利をもらえたのである。見ている方は面白くないし、不満も残るが、概してボクシングとはそういうスポーツであったと言える。ところが今の時代はそういうインチキが許されなくなってしまった。ある時期から総合格闘技などのガチンコによる真剣勝負のファンが増えた影響も大きいと思われるが、見る人間がそういう馴れ合いのような戦い方を許さなくなってしまったからである。ボクシングという興行の見世物としてのファンの要求度が厳しくなってきていて、当然選手もそれを意識した戦いをせざるを得ないから、ボクシングは昔よりもはるかに危険なスポーツになったと言える。そういう時代の変化というものをボクシングの関係者がきちんと感じ取ることが出来ていれば、これまでにもルールの見直しがなされていたとも言えようが、残念ながらそうはならなかったということである。そういう意味では、今回の穴口選手の不幸は必然であるとも考えられる。もちろん世界戦のルールは各団体が決めることなのですぐに変更ということにはならないであろうが、日本ボクシング協会は二度とボクシングの試合における死亡事故が起こらないように1試合におけるダウンの回数を3回に制限すべくルールの変更をすべきである。これはボクシングという興行の存否自体が問われることである。また同じような死亡事故が発生すればボクシングという競技はなくなった方がよいという声も出てくるであろう。せっかく現在の日本には、奇跡のように井上尚弥という偉大な選手が現れて活躍しているのであるからそういう事態は何としても避けなければならない。これは1ボクシングファンとしての切実な願いである。

(吉川 玲)