物事は起こるべくして起こるのである。
人間は唯一、嘘をつく生き物である。人間以外の動物の生存には嘘という概念がない。嘘の概念がない動物には正直であることの美徳もないが、ただひたすら純粋に本能に従って生き、自然環境に適応し続ける動物や植物の嘘のない世界に、人間は人間社会にない原初の美しさと価値を見出し、愛せざるを得ないということなのであろう。
深遠な生物学や人類史について話しをするつもりはないが、我々人間はもっとこの人間社会に、人間の不可避的な付属物や構成要素として埋め込まれている嘘に対して、鋭敏な感覚を持つ必要があるのではなかろうか。そしてその姿勢こそが、人が自然界に生息する穢れなき野生の植物や動物の姿を見てその美しさに感動するように、人が人としてこの世に生きていくことの本来的な意義に覚醒し、自らの魂を高めていくことになるのではないかという気がする。
ということで今、世界中で話題になっているドジャースの大谷翔平選手と通訳の水原一平氏の問題も、私は直感的に水原氏が全てを正直に語っているのではなくて、隠していることや嘘が多分にあるのではないかという気がしてならない。具体的に言えば、水原氏は自分のことをギャンブル中毒であると言っているが、それは本当なのであろうか。私は世間全体が「ギャンブル中毒」というパワーワードに誘導されてしまっているように感じる。水原氏は貯金がなくて生活を維持するために家族や友人たちから借金をしていたと述べているが、水原氏が通訳としてドジャースから貰っていた給与は年間数千万円もある。またそれ以外に大谷選手からインセンティブとして得ていた収入があってそれを含めると年収2億円になるという説もあって、その辺の信憑性ははっきりとしないが、少なくとも年間数千万円の収入があってそれが大谷選手の通訳をしている今後、10年の期間は確実に保証されているような人間相手に、恐らくはそれよりはるかに収入の少ない家族や友人が金を貸すようなことがあり得るだろうか。常識的に考えてないであろう。反対に家族や友人から借金を頼まれる側であるはずである。仮に水原氏がギャンブルが原因で金に困っていると訴えていたとしても、それに同情して世界で一番運に恵まれていて、勝ち組であるとも言えるような人間に金を貸すような家族や友人が存在するとは到底、考えられない。水原氏がスポーツ賭博をしていた可能性は否定できないが、ギャンブル中毒が原因で大谷氏の金に手を付けたという説明は、私は嘘ではないかという気がする。それではこの大谷選手や水原氏を巡る全体の構図でどういう事態が発生したことが最も考えられるかというと、私は水原氏は野球賭博を通じてアンダーグラウンドの組織の人間に嵌められたという可能性が高いように思われる。スポーツベッティングは全米で年間8兆円ものマーケットがあると言われている。そのような規模の業界にマフィアなどの闇の組織が関係してこないはずがない。さらに言えば、スポーツ界で最高収入の大谷マネーが狙われない訳がないとも言える。具体的な方法はいくつも考えられる。たとえば思いつくところで言えば、水原氏の賭博行為に気付いたマフィアなどの人間が水原氏に接触してきて、野球賭博に利用できる大谷選手の情報を提供する代わりに、水原氏の賭博の負け分をチャラにするという取引がなされるとする。そういうことが何回か繰り返される内に、水原氏自身は野球賭博をしていなくとも間接的に野球賭博に深く関わることとなってしまって抜け出せなくなってしまったのではなかろうか。そしてそういう違法取引をしていたことをネタにマフィアから恐喝されることになったとは考えられないであろうか。水原氏が賭博を負けたということを理由にして、大谷氏の口座から要求された金を胴元のブックメーカーに振り込んでいたと考えるのが私には最もあり得るパターンのような気がする。水原氏にしてみればカリフォルニア州でスポーツ賭博が違法であるかを認識していたかどうか以前に、野球賭博に関わってしまったこと自体が論外にアウトであり、その事実が発覚してしまえば何も知らないはずの大谷選手までもが野球賭博に関与している可能性があるとの疑惑を受けることとなり、最悪の場合は、ピート・ローズのように野球界から追放ということになってしまうであろう。大谷マネーを狙っていた闇の組織は元々そういう計画で水原氏に接触してきたのではなかろうか。大谷選手の口座から直接、送金させていたこともそういう狙いで、大谷選手に関連があるかの証拠を残させることで水原氏が警察に駆け込んだりし難い状況を作っていたと考えるのが私には自然のように思われる。ところが闇側組織の人間にとって計算外であったことは、FBIがたまたまその違法業者を捜査していたことから大谷選手の名前が浮上してきて、今のような状態になっているということではなかろうか。FBIも馬鹿ではないからそういう可能性も踏まえた上で、今後徹底的に捜査するのであろうが、何よりも憂慮されることは水原氏の身に危険が及ぶ可能性があるということだ。殺害されたり、自殺または自殺に見せかけた殺害ということもあり得るので、アメリカの警察当局は早急に水原氏の身柄を確保すべきである。事実関係は現時点ではまだはっきりとはしないものの、今回のことから言える教訓があるとすれば、物事は起こるべくして起こるということである。大谷氏のビックマネーがあって、大谷氏は野球馬鹿で野球のことしか考えていなくて、傍に水原氏のようなマネージャーとしての存在があって、その水原氏を罠にはめて篭絡すれば大谷氏の金をいくらでも引き出せるというような状況が存在するのであれば、その状況を利用しようとする悪人は確実に現れるということである。ボクシングのメイウェザーなどは金の亡者のように批判されることも多いが、金に関する危機管理はなされているように感じられるし、それは持てる者の義務であるとも言える。そういう意味では大谷選手は危機管理意識の欠如からこのような事態を発生させているとも言えよう。今後、大谷氏は自身の財産をきちんと自分で管理することが出来ないのであれば、自分は野球だけに専念したいのであれば、球団に紹介してもらうなりで財産を資金管理会社に預託して(ドジャースはそういう金に関することが得意であろうから)悪の魔手にかからないように留意すべきである。それで資金管理会社との連絡や窓口は全て嫁さんにやってもらえばよいのではないか、と余計なお世話だがそう思う次第である。別に私には何の関係もないことだから、どうでもよいといえばどうでもよいのであるが。
(吉川 玲)
誰も言わないのであれば、私が言う
誰も言わないのであれば、私が言うしかない。世界には、たくさんの人間が存在しているように見えながら、それは錯覚で本当は私の他には誰も存在しないのかも知れない。もちろん唯一の実在者であるこの私が何か言ったところで、この世界は何も変わらない。実質的には何も変わらないけれど、影のような有象無象の人々の顔付きが、そして世界全体の気配が微妙に変化する。それは影響力といった類のものではない。影響力とは数による力である。私の他に誰も存在しないのであれば、そういう境地に立脚するのであれば、幽霊のように実体のない数に何の意味があるのかということである。数の幻影から離脱し、唯一の実在者として人間らしい言葉を発するならば、世界は一見するところ何も変わっていないように見えながら、恐らくはそれまでの世界とは微かに横にずれている。ずれることによって世界は平静を装いつつも、動揺しているようにも感じられる。恐らくは世界の初めに言葉があったのだ。数ではない。数に騙されてはいけない。数の力に頼っていると世界は同一の次元と周波数に固定化される。それはある意味で牢獄である。政治とマスコミの支配する舞台である。人間の、人間らしい言葉こそが神の御業の如く、新しい世界を創造していくのであろうと思われる。ということで今、私は人々の顔付きと世界全体の気配を変化させるために何かを言おうとしている。何を言うのか。別に何でもいいのだが、また人任せにしていると誰も言わないゆえに、結局私が言わなければならないと思われることは無数にあるが、今回は戦争や災害、政治の問題ではなく一人の若者の死に関連したことについて述べることにする。この数日、言うか言わないでおくか迷っていたが、やはり言わねばならない。その若者とは昨年、12月26日の日本バンタム級王座戦で判定負けした後に意識を失って昏睡状態に陥り、2月2日に亡くなった穴口一輝選手についてである。23歳没ということでミレニアムベビーの西暦2000年生まれは、私の息子と同じ年齢である。23年の年月は、充分に生きたとは言うにはあまりにも短過ぎる人生である。井上尚弥選手対マーロン・タパレス戦の前座試合ということで、私はリアルタイムでTV観戦していたが、確かに白熱した好試合で、穴口選手の戦いぶりや表情から見てもレフェリーが途中でストップを掛けられるようなものでなかったことは確かである。しかし結果論と言われればそれまでだが、やはりボクシングの基本的なルールに問題があると思われる。穴口選手の死を無駄にしないというのであれば早急にルールを変更すべきである。結論を言えば、1試合に4回以上のダウンを許容することは選手の頭部へのダメージ蓄積において、過酷であり生死に関わることであり、問題が大きいと考えられる。1ラウンドに3回ではなく、1試合にトータル3回のダウンで試合をストップするようにルールを変更するべきだ。今回の死亡事故の教訓は、試合直後に昏睡状態に陥るほどのダメージを脳に受けていても、試合中は相手選手と互角か圧倒するほどの動きを見せることが出来るということである。今回の試合においても結果論ではあるが、3回目のダウンで試合がストップされていれば穴口選手は亡くなっていなかったであろうし、試合直後に意識を失うような事態にもなっていなかった可能性が大きいと思われる。大体において常識的に考えても、「明日のジョー」じゃあるまいし、漫画ではないのだから、人間の身体は特に頭は、1試合の短い時間の中で何回ものダウンによるダメージの蓄積を耐えられるようにはなっていないであろう。私は昔からボクシング観戦が好きで、小さなころから世界戦をTVで見るのが楽しみであったが、はっきり言って何十年も昔の選手の闘い方の方が、消極的というのか手数が少なくて、見合っている時間が長く面白くない試合が多かった。それでほとんど手を出していなくて、相手選手に決定的なダメージを与える有効打が全くというほどないのに、なぜか不可解な判定で日本選手が勝つことになるので、子供心にもボクシングというスポーツはインチキで、日本で戦う外国選手が気の毒でならない気持ちが常にあった。今思えば、昔の選手の方がある意味で賢いというのか、自分のボクサーとしての肉体を道具のように考えて大切に扱っていたような気がする。当たり前のことだが、プロボクサーであってもパンチドランカーになったり、死につながる可能性のある危険な打ち合いは出来るだけ避けたいと考えるのは当然のことである。昔は、特に80年~90年代の日本で開催される世界戦は、日本の経済力のおかげで日本人選手はほとんど手を出さなくても判定で勝利をもらえたのである。見ている方は面白くないし、不満も残るが、概してボクシングとはそういうスポーツであったと言える。ところが今の時代はそういうインチキが許されなくなってしまった。ある時期から総合格闘技などのガチンコによる真剣勝負のファンが増えた影響も大きいと思われるが、見る人間がそういう馴れ合いのような戦い方を許さなくなってしまったからである。ボクシングという興行の見世物としてのファンの要求度が厳しくなってきていて、当然選手もそれを意識した戦いをせざるを得ないから、ボクシングは昔よりもはるかに危険なスポーツになったと言える。そういう時代の変化というものをボクシングの関係者がきちんと感じ取ることが出来ていれば、これまでにもルールの見直しがなされていたとも言えようが、残念ながらそうはならなかったということである。そういう意味では、今回の穴口選手の不幸は必然であるとも考えられる。もちろん世界戦のルールは各団体が決めることなのですぐに変更ということにはならないであろうが、日本ボクシング協会は二度とボクシングの試合における死亡事故が起こらないように1試合におけるダウンの回数を3回に制限すべくルールの変更をすべきである。これはボクシングという興行の存否自体が問われることである。また同じような死亡事故が発生すればボクシングという競技はなくなった方がよいという声も出てくるであろう。せっかく現在の日本には、奇跡のように井上尚弥という偉大な選手が現れて活躍しているのであるからそういう事態は何としても避けなければならない。これは1ボクシングファンとしての切実な願いである。
(吉川 玲)
デマと真実の狭間で生きるということ
狂った世界に対して、言うべき言葉は何もない。というよりも我々が今、正に見ている、見せられている現実は、悪夢のようなものなのだから、一つの論理的な言葉の整合性で説明し切れるようなものではないのかも知れない。そうであれば、人間に言葉はいらない。動物のように不機嫌に呻く以外に成す術がないからだ。或いはオウムのように何かの声真似をして、覚え込まされ、信じ込まされた言葉を機械的に発生し続けるかだ。こういう世界の中で真に人間的な言葉を発することが出来る人は、ただそれだけで、信仰や道徳の問題とは無関係に幸いであるということが出来るのであろうと思う。
ということで正月の元日からの石川県、能登地方を震源地とする最大震度7の大地震が発生した。それで最早、大災害直後の恒例の決まり事のように見られることだが、地震に関するデマ情報が、ネット上に拡散されているから決して信じないようにと注意喚起がなされ、その情報を終息させようとする動きが発生する。首相が「決して許されることではない。」などと何らかの罰則を匂わせるような発言をする。同調するように一部のタレントが「こんな時に、そういうことを言う奴は人間として最低だ。」というような類のコメントを投げかける。因みに私個人の意見はどうなのかと言えば、正直な所、わからないとしか言えない。今回の地震に限ったことではなく、この30年間ほどの期間に日本に起こった大地震や風水害全体を通観してみて、不可解に思えないところもないではないが、何よりも証拠がないし、個々人の想像の領域から踏み出せるものではないということは否定できないことである。それから、こんな時にそういうことを言うべきではないという意見も真っ当というか、ご尤もではある。なぜなら言うまでもないことではあるが、今この瞬間にも被災地の人々の人命の生存や重大な健康被害、精神的なダメージが危惧されている状況において、陰謀論的な風説を蔓延らせても、誰にとっても何のプラスにもならないからだ。そういうことで、つまり大災害直後のデマ情報で拡大できる陰謀論マーケットの規模など高々、知れているはずである。ならば未来永劫、一切議論が封殺されるべき疑惑、或いはデマなのかと言えば、政府やマスコミはそうあるべきだと考えているのであろうが、私はそうは思わない。こんな時にするべき話しではない。それはその通りである。被災民の命と財産を守るために優先されるべきことに全精力と全情報が傾注されるべきである。よって今は、こんな時なので、私が今述べていること自体が矛盾しているとも言えるが、こんな時以外に議論するべき話しなのである。こんな時以外にきちんと議論されていないから、こんな時にデマまたは疑惑が噴出するのである。それは政治やマスコミの責任であって、国民が悪いのではない。はっきりと言うが、米国やロシア、中国などの大国は、間違いなく地震兵器の研究開発を進めているものである。繰り返すが証拠はないので、私個人の想像の範疇での推測である。しかしいかに想像の領域であっても、ある程度の洞察力と知性があれば限りなく近づける真実と言うものはあるのであって、常識的に考えても世界が西と東の冷戦構造における分断の対立によって均衡が成り立っている以上、抑止力の観点から考えても敵対国が研究している可能性が高いという以上にその事実を諜報的に把握しているものを自国が研究しない道理がないからである。1976年の国連決議で採択され、1978年に発効することとなった環境改変技術の禁止条約とは、地震、津波、台風、ハリケーンなどの現象を変更して軍事的に使用することを禁止するものであって、研究そのものを禁止している訳ではないし、また平和的使用に関しても認められているものである。米国や中国などの大国だけでなく、日本ですら研究しているものである。内閣府が公表している2050年までの達成を目標としているムーンショット計画の中には、激甚化している台風や豪雨などの気象を制御する技術の獲得が含まれている。また国連決議の環境改変技術禁止条約における平和利用という文言も曲者で、国の勝手な解釈次第でどのような非人道的な使用であっても、軍事目的でないならば、たとえば国民の同意のない政府間で秘密裏に合意された実験目的の仕様であっても平和利用にされてしまう可能性もないわけではないものである。誤解のないように言っておくが、私はそういうことが行われていると言っている訳ではない。実態はよくわからないが、そういう話題が世界共通のタブーとして全く議論されていない、議論が許されない状況が危険だと考えているだけである。
日本の政治家でこの問題について論じる勇気のある人間は、ほぼ皆無だが唯一の例外は、米国のシンクタンク(CSIS)主任研究員を経て2010年の参院選で当選した元国会議員、浜田和幸氏であり、議員時代から気象兵器や人工地震の真実について発信し続けてきた。TOKANAの取材記事を読んで感じたことだが、浜田氏の発言内容は信憑性が高く、信用できるものである。日本国内でこのような発言ができるのは、CSIS(戦略国際問題研究所)在籍時代の米国との人的コネクションによって守られているからなのであろうか。ともかくも浜田氏がそこで述べていることは本当のことである。簡単に要約すると米国は第二次世界大戦が勃発する何年も前から、文化人類学的に日本人のメンタリティーを研究していたということである。そうしなければならない潜在的な脅威を米国は日本人に対して感じていたということである。これを言うと話が変な方向に行ってしまうので詳しくは述べないが、日本人は敗戦の影響でほとんど全く自覚できていないが、日本民族は元々精神性の高い特別な民族なのだ。世界で唯一の被爆国というのもその特別性と関係があることはほぼ間違いがないと考えられる。日本的な精神性の高さを封印するために原爆が投下されたとも言える。それで現在の地震や火山噴火などの恐怖心も実は、米国が日本人をマインドコントロールするために必要な恐怖心として戦後も継続して行われている政策であるということである。それで信じ難いことではあるが、日本の政治やマスコミは、米国の恐怖による日本人への洗脳工作に陰ながら協力しているのである。原爆投下と最後の一文は、浜田氏の述べていたことではなくて私の見方である。信じる、信じないは皆さんの自由である。というよりもそう言っている私自身が全体的に真実だと考えて言っている訳ではない。恐らくはそうであろうと考えている程度である。また繰り返すが、今回の能登半島地震が人工地震だと決めつけているわけでも、その可能性が高いと思っている訳でもない。結局、何が真実で何が正しいかということではなくて、誰もがそれぞれの守らなければならない生活や立ち位置、物の見方や考え方というものがあって、それはそう簡単に変えられるものではなく、その全体的な総意なり、均衡によって日本という国家や日本人の生命の安全性が支えられているのだから、その固定化された枠組みのなかで発生するリスクというものを日本人の一人一人がよく認識する必要性があるのではないかということである。政治やマスコミの説明が必ずしも正しいわけではないのである。むしろ正反対のことも多いと言うことだ。最後に1995年の阪神淡路大震災についても少し触れておくがあの地震は私にとっていまだに不可解である。謎として心の中で燻り続けているところがある。もはや死刑になってしまったので解明の仕様がないが、オウム真理教の麻原彰晃は、どうも地震の発生を本当に予言していたというか、事前に知っていた節があるということだ。私は信者じゃないので当時の内部的なことはわからないが、当時から教団機関紙のヴァジラヤーナ・サッチャに予言が当たったとか、広報担当であった上祐氏がそういった旨の発言をしていた記憶がある。最初は例の如く嘘だと思っていたが、どうもそうでもない感じがしたのである。名前は忘れたが元信者で「オウムからの帰還」というタイトルだったと思うが、その著書の中では刺殺された村井秀夫氏に命じられて、不眠不休の作業で占星術のソフトを作って、そのソフトで神戸市の震災の場所と1月17日に日時を見事に予言して的中させたと書かれていたが、いくら何でもそんな馬鹿なことはあり得ない。占星術のソフトで地震の日時と場所がわかるのであれば、誰も苦労はしない。あの時の1月17日の地震発生でオウム真理教に対する強制捜査が流れたことは事実なのである。麻原は本当に地震の発生を予知していた可能性があるのである。何で知っていたのであろうか。早川紀代秀氏は一体何の目的で何度もロシアに行ったり、日本に帰国したりを繰り返していたのであろうか。その年の3月に地下鉄サリン事件が発生するのであるが、当時から私の目には、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件は、オウムが関与する一連の事件として映っていたものである。もちろん単なる私の思い違い、間違いである可能性もあるので何とも言えないが。阪神淡路大地震について書かれた小説に柴田哲孝氏の「GEQ 大地震」がある。一応はフィクションということにされているが、私は緻密な調査、取材によって書かれたノンフィクションだと考えている。オウム真理教との関連についてはまったく述べられていなかったと記憶しているが(随分昔に読んだのであまり覚えていない)、その小説の衝撃的なラストシーンが真相の全てであるような気がする。興味がある人は是非、読むべきだと思う。
ともかくも能登半島地震の被災者の人々に一日も早く、これまで通りの日常生活に戻れるよう強力な支援が為されることを心から願う。
(吉川 玲)