意識が世界を選択する | 龍のひげのブログ

意識が世界を選択する

ということで、自分の言葉で世界に対して、何事か物を言うというある意味で途轍もなく恐ろしい時空のラインに舞い戻る覚悟をしたのかどうか、正直な所自分でもよくわからないが、ただ何となくわかることは、今、世界は確かに微妙なる変化を遂げていて、その変化とは一本の時間軸の直線上で生じているのではなくて、複数というよりは無限にある世界線の物語というか脚本というか整合性の一つを、何かを書いたり、或いはその行為を中止して沈黙を保つというような極めて個人的な選択によっても決定されているという唯識論的な解釈が正しいのではないかと思慮しつつ、その精妙なる因果関係性や仕組みがよくわからないだけに恐れおののきながら今、この文章を書いているという有り様である。わかりやすく映画的に言えば、何かを言うか、沈黙を保つかによって世界が分岐するということは、『マトリックス』でキアヌ・リーブス演じるネオが赤と青のどちらのカプセルを飲むかということである。我々の日常は映画の中の世界のように刺激的で興奮に満ちたものではないであろうが、それでも平凡な、たとえば朝起きて靴下を右足から履くか、左足から履くかによっても、違う世界を恐らくは選択しているのである。ただしその二つの世界の違いはあまりにも些少であって、同質のものでもあるのでわからないし、また生きていく上でわかる必要もないということであろう。たとえばこれまたわかりやすい例えで言えば、新聞によく出てくる間違い探しの二つの絵のようなものである。AとBの二つの絵は一見すると全く同じ絵であるが、よく見ると何点か違うところが発見される。同じようにAとBの二つの世界、それを生きる二つの人生は異なると言えば異なるのであろうが、ほとんど同じものであるし、また我々人間は結局一つの世界しか生きられないし、認識できないし、その二つを比較することはできないのである。比較できないが、唯識史観的な意識でもって世界に対峙すれば、おそらくはそうであろうということがわかるというか、想像し得るということである。人は誰もが悲惨な状況や不幸な境遇に巻き込まれたくないと心から望んでいる。戦争や貧困や災害、疫病などによって苦しめられたり、死にたくはないと思っている。しかし現実には我々が生きている世界が何度も何度も繰り返しそのような悲惨な歴史を繰り返しているということの究極の原因は、人間が朝起きて、靴下を右足から履くか、左足から履くかによっても、微妙に異なる世界が展開されているということを、つまりは全ての人間の意識と宇宙は等価であり、世界は無限に存在するということを決して理解させ得ないような政治システムや情報の在り方にあるのではないかと私は考えている。一つでしかあり得ない世界には必ず対立と分断が必要なのであり、勝者と敗者が、富裕と貧困が、支配する者と虐げられた人々の区分が不可欠なのであり、その必要性の元で戦争などの災厄が生み出されているとも言える。そういう選びようのない唯一の間違いだらけの地獄絵図と世界観に我々の意識は固く結びつけられてしまっているのである。またそこに人間の進化上の限界があるとも見れる。

しかし今、人々の意識は少しづつではあるが進化に向かって歩み始めているようにも見受けられる。ある一つの社会システムに従属した意識の下では、何十万人が集まってデモ行進や集会を行ったところで、世界は何一つとして変わらないであろう。なぜならその絵図そのものが分断と対立の規制の社会システムに組み込まれてしまって、無化されてしまうからだ。そうではなくて人間の意識が自分の宇宙を映し出していて、現実を作り出しているということを理解できる人間が増えるほどに、政治の束縛する力は自然と弱まってゆき、一人一人の現実を生み出す選択肢の数と自由度は大きくなっていくのであろうと考えられる。平和はその意識の先にしかあり得ない。今回のトランプ元大統領に対する暗殺未遂のように、そういう悪が発生したとしても、銃弾の軌道が数センチずれて命が助かるということは、多くの人々の意識によって選択された唯一ではない一つの現実なのであろうと思われる。

(吉川 玲)