龍のひげのブログ -514ページ目

映画の虚構性について

いやあ、面白かった。最高だ。

リュック・ベッソン製作、ピエール・モレル監督の『96時間』を見た。

息もつかせぬ緊迫と興奮の93分であった。私は『96時間』に映画の本質と醍醐味を再確認させられたような気がする。

映画はどこまでも虚構の世界である。映画を見る喜びは、観客が自らの人生(現実)に、映画という嘘(非現実)を一時的に注入することによって麻薬のように魂を飛翔させることである。しかし嘘であることはわかっていても上手(良質)な嘘でなければ飛べない。私にとって映画の定義とは精神に麻薬的に作用するところの総合芸術である。

よって難しい映画論などまったく関係なく、飛べるか、飛べないか、酔えるか、酔えないかがその作品に価値があるか無いかの明確な基準となる。『96時間』は良質な嘘であるがゆえに私の魂は反応し、飛ぶことが出来たのだと思う。

それはひとえに脚本が優れていたからなのであろう。映画の虚構性には様々な種類があるのであろうが、単にスケールが大きいと言う理由だけで必ずしも人間の精神は飛翔できるようにはなっていない。最近のハリウッド映画は宇宙人による地球の襲来を初めとして、隕石の衝突、悪性のウイルス感染の猛威、異常気象など地球滅亡の危機を煽り立てて、そこに一筋の微かな希望を見出すというパターンが一般的である。地球滅亡は誰にとっても共通の恐怖であるから、“マーケティング”的に世界中でより多くの人々が見てくれるであろうという、その馬鹿げた単純さに私は我慢がならないほど白けてしまうのだ。

一口にアメリカ的だと言ってしまえばそれまでだが、もういい加減にしてくれと叫びたくなる。映画は、もっと一人の人間を深く掘り下げた所にある恐怖や興奮を表現することが出来るはずである。屈折していても強烈な内面的エネルギーが現実社会にシンクロするようなパワーを持った映画が私は好きだ。

たとえばロバート・デ・ニーロの出世作であるマーチン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』のような映画である。名作であるのでご存知の方も多いかとは思うが、簡単に粗筋をご紹介しよう。

ベトナム戦争の帰還兵であるトラビスはタクシー運転手になる。面接でニューヨークの危険な場所に行けるのかと聞かれて、何を考えているのかよくわからない、にやついた表情で

「エニータイム、エニーウエアー(いつでも、どこでも)」と答える。

タクシードライバーとしてニューヨークの街を流すトラビスの目が麻薬の売人や売春婦、ヒモなどを映し出してゆく。トラビスはこの腐りきった街全体を水洗便所のように流してしまいたいと考える。ある日、大統領選挙の候補者事務所で働く美しい女性(ベッティー)を見初めたトラビスはデートに誘い出すことに成功する。しかし悲しいかな日頃の習性でポルノ映画に連れていってしまってあっさりと振られてしまう。その後何度電話をかけても当然のように応じてもらえない。挫折と絶望を感じたトラビスはタクシー運転手を止めようと考え、同僚の先輩に相談する。その先輩(ピーター・ボイル)がトラビスを励ますシーンの人生を達観した言葉が私は好きだ。今の日本の社会状況にもどこか通じているところがあるように感じられる。

「俺は20年間もタクシーの運転手をしているが、未だに自分の車一台持てない。しかし俺はそれでもいいと思っている。世の中には金持ちもいるが、俺たちはどうあがいたところで所詮負け犬なんだ。どうしようもないことだ。お前が一体何を考えているのか俺にはよくわからん。お前はまだ若いんだから、女を抱くんだな。」

確かそのような内容であったように思う。その先輩の言葉は現実をきちんと見据えていて、飾り気がなく正直だ。しかしトラビスは

「こんな馬鹿げたアドバイスを聞いたのは初めてだ。」

と言って力なく笑うのであった。

その後、トラビスはタクシードライバーをやめて身体を鍛え、“象をも一発で仕留める”マグナム44を売人から購入する。それからなぜか大統領の暗殺を企てるのであるがあえなく失敗し、たまたま出会った少女の売春婦(ジョディ・フォスター)を救出しようとして組織に単身で乗り込んでいくことになる。このあたりのトラビスの行動は完全に狂気一色に染まっている。マフィアを殺した後、最後に拳銃自殺をしようとするのだが幸運にも弾が切れていて助かることになる。

陰惨な殺戮シーンから一転して退院後のトラビスの部屋に場面は変わる。トラビスに救出された少女の親からの感謝の手紙がナレーションによって読み上げられる。部屋の壁には、トラビスを英雄として称える新聞記事の切抜きがピン留めされている。

タクシードライバーに戻って仲間たちと談笑するトラビスに、ある一人の客が待っていた。ベッティーであった。新聞記事を見たと話しかけるベッティーの憂いに満ちた目が、トラビスが運転するタクシーのバックミラーに映る。トラビスは何も言わずに目的地でベッティーを降ろす。ベッティーは一瞬トラビスに何かを話しかけようとするのだが、トラビスは金も取らずにタクシーを発進させ立ち去ってしまう。ミラーに映るトラビスの目はニューヨークの闇に溶け流れるネオンライトを背景にまたもや狂気色に煌くのであった。

この映画の凄さはデ・ニーロの圧倒的な演技力もさることながら脚本の力にあると思われる。またカメラが狂気と日常が同居する不安定や不気味さ、不安感などを上手く捉えているところが素晴らしい。そしてこの映画は、虚構世界の中に虚構を超えた現実が感じられるのである。ベトナム戦争後の疲弊したアメリカ社会の中で、トラビスの落ち込んだ表情や孤独、狂気に彩られた眼光などの禍々しさ全体がまるで現実のように愛しく感じられる映画であったように思われる。上映当時、劇場でマリファナをやりながら『タクシードライバー』を鑑賞していたアメリカの若者たちは、現実逃避をしながら虚構の中の現実を見つめていたのではないのだろうか。

映画『96時間』は、『タクシードライバー』と比べられるような名画とは言えないかも知れないが、脚本がしっかりしていているので飛べる映画である。

引退したCIAの元秘密工作員が、離婚後再婚した元妻の下にいる最愛の娘のために人生を投げ出すようにして一人で暮らしている。ある日、その娘がフランスに旅行中、アルメニア系の人身売買組織に誘拐されて身売りされてしまう。96時間以内に救出しないと奪還できないことを知ったリーアム・ニーソン演じる父親は、警察の力を頼らずに単身で組織に乗り込んで娘を取り戻そうと戦う。その強さや活躍ぶりは漫画チックと言えるほどに非現実的なのであるが、見ていてまったく気にはならない。この映画の虚構を超える真実の感覚は、どんな事をしてでも(エッフェル塔を破壊してでも)娘を助けようとする父親の強い気持ちがスクリーンを通じて臨場感をもって強烈に伝わってくることである。そのためには何の罪もないご婦人の腕まで平気で拳銃でぶっ放してしまうのだから無茶苦茶だ。

はっきり言ってこの作品には善も悪もなく、正義も道徳もない。しかしこれぞ映画である。いやあ、痛快な映画であった。しかし本当に面白い映画は、なぜか日本では見る人間が少ないのも一つの現象である。

アメリカやフランス、韓国で大ヒットした『96時間』は私が見に行った時は平日の最終回であったからかも知れないが、私を含めてたったの3人しかいなかった。日本人は、世界には本当の絶対悪が存在するという事実を突きつけられるような映画を娯楽として楽しめないのかも知れない。この映画はパリの暗黒街に巣くう犯罪者集団の事実に基づいて作られたそうである。

エンドロールが流れ終わって劇場のライトが点いた時に周りを見渡すと、私一人しかいなかった。思えば虚構から現実の世界に立ち返るときに、私はいつも一人である。

新しい日本への提言

とりあえず2009年8月30日は、私にとって生涯最良とは言えぬまでも記憶に残る一日となった。

日本に本当の民主主義がついに始動するのである。民主党が頼りなく見えるのは、これまで権力に操作され、誘導されるだけの存在に過ぎなかった我々民衆の一人一人が自らの人生と運命を自立的に選択できる大人に成長するための第一歩を踏み出したことと同義である。国民が見識と意識を高め国家権力を監視する能力を持たなければ、我々は水が低きに流れるようにごく自然に愚民として扱われることになってしまうであろう。それが民主主義社会の目には見えないメカニカルな原理原則である。今回の選挙で当選した民主党の若手集団が我々一般の国民と感覚的にも知識においてもほとんど差がないのは幸いである。なぜならこれまでの権力構造に対峙しつつ、国民と政治家が共に新しい日本をつくるために学んでいくことが出来るまたとない機会であるからだ。

我々日本人は神から与えられたこの千載一遇の好機を決して無駄にしてはならないし、間違っても潰してしまうようなことは許されない。

その上で今後の政治に生かすためにも自民党大敗(退廃)の原因を自分なりに分析してみたいと思う。私が考えるに自民党の大きな責任は総括の機能を失っていたことにあると思う。麻生首相は今回の選挙活動中、お詫び行脚をしていたというが一体何を今頃お詫びすることがあるのだろうか。つまらない失言やスキャンダルのお詫びならともかく、党としての政治責任のお詫びは本来、総括とセットになっているべきものであるはずである。選挙は国民審判の場であって総括ではない。自民党はこれまで小泉政治以降に、安倍、福田、麻生と3人も首相が交代しているのであるから総括の機会が何度でもあったはずである。端的に言えば、小泉、竹中の経済政策の失政を見直して軌道修正が出来たはずであるのに、それをしようとしなかった。具体的には大企業の輸出主導型経済から国内景気の内需(消費)拡大へと根本的に政策転換をすべきであったのである。小泉、竹中路線の基本思考は、経済のグローバリゼーションなどといかに尤もらしい言葉で説明されようとも、所詮、圧倒的多数の中小、零細企業は大企業利益のおこぼれにあずかるべき弱者に過ぎないのであるから強者をより一層強くすることが弱者の取り分も増えるという自民党的な論理であったのである。

その自民党的論理が世界的な同時不況で通用しないことがはっきりしたのだから、その時点できちんと総括してそれまでの経済政策が間違っていたことをきちんと党として認めて国民にお詫びすべきであった。しかし現実には日本は、タイタニック号のように目の前に巨大な氷山が見えていながら進路変更できずに衝突してゆっくりと沈没してしまうことになってしまったのである。自民党内で総理大臣が代わったところで、それまでの基本路線を否定することは許されない。せいぜい“美しい国”などと抽象的な言葉で、前任者とは異なる自分らしさをアピールするのが関の山である。

なぜそうなるのかと言うと、やはり日本の総理大臣がアメリカ型の大統領に比べて権限が弱いからであると思われる。総裁として党のトップであっても、党に従属する位置付けにあるので党の方針に逆らえないのであろう。しかしこの権力構造では現実的に世界の潮流変化に対応し切れないと私は思う。なぜなら経済も国際情勢も生き物のように変化してゆくものであり将来のことは誰にも予測できないことを大前提にすれば、軌道修正が利かない権力は国家にとって非常に危険であるからである。そもそも日本人は一政治家の独裁にはアレルギーがあって遠ざけようとするが、突発的な危機管理や全体的な流れに盲従することの危険性に対して鈍感すぎるように思われる。小泉、竹中の改革路線が功を奏さないのであれば、しかるべきタイミングで時の総理がきちんと総括して国民に謝罪し、新しい方向性を示すべきであった。それで党内が分裂してまとまりが保てないのであれば、その時点で政界の再編をするなり解散総選挙をなすべきであったと私は考える。何はともあれ今回の選挙は遅すぎたのだ。

因みに小泉元総理があれほどまでに国民的人気があったのは、“自民党をぶっ壊す”というようなフレーズが、日本型権力システムの問題と限界を打ち破るかのように一般大衆に錯覚させていただけだと私は思う。そのような言葉の選び方や国民心理を巧みにつかむパフォーマンス能力は高かったのであろうが、基本的には政治家として“まがいもの”であったような気がする。日本の現状に心を痛めている様子もまるで見えない。

これからの民主党に注意していただきたいことは、民主主義ではあっても政治そのものが烏合の衆になってはならないということである。やはり政治のトップである総理大臣がリーダーとして強力な権限で統率し、我々国民は結果によって評価するのが基本であると思う。結果を評価する時期についてもやはり最低4年間は我慢しながらじっくり見ていかなければならないと思う。国民やマスコミはつまらないことで政治の足を引っ張って喜ぶような真似は控えるべきだと思う。そのようなことをしたところで日本のためにならないからだ。

なお今後の政権と官僚との関係については非常に興味深いところである。民主党の新人若手議員には官僚というものの性質を徹底的に研究していただきたいと思う。相手のことをよく知らなければ、使いこなすことなど絶対に不可能であるからだ。どのような動機や背景で、誰の利益を代表して役人はデータや資料を持参してくるのか妥協しないでとことん考え抜いていただきたい。それが出来ないで馴れ合いになるのであれば、自民党政治とまるで変わりはないし、むしろ自民党政治の方がこなれていて安心だとも言えるからである。

また“国家戦略局”なる組織も様々な抵抗や反対はあるかと思うが、時間をかけてじっくりと高度なものに作り上げていっていただきたいと希望する。基本は戦略が利権や予算とつながるようなこれまでの膠着的な官僚体質を廃して、時代の変化に応じてきちんと結果を総括し、柔軟に見直せるような評価システムを確立することであると私は思う。そのためには役人と政治家が密室で協議するものであってはならないと思う。ホームページ等で全てを情報公開し、国民の意見を吸い上げながら生かしてゆくことができるシステムも早急に作るべきだと私は主張する。

何度も繰り返すが、我々国民が民主党に期待するものは国民視点のより高度な国家システムなのである。

わかりましたか。これから何度でも書き続けますよ。

我が神経症と自己分析 3/3

仮にその不安の声の主をXと名付けることにする。Xは全ての人の無意識に存在する別人格の何者かである。ある人とXとの協調関係が良好でコミュニケーションが上手く図られているのであれば、その人は危険な場所やタイミングをごく自然に避けることが出来るであろう。なぜならXが守ってくれているからである。Xは強力な守護者である。これは神秘や宗教の領域ではない誰にとっても共通する一般的な話しをしているつもりだ。ところがXが発する不安の声を無視したり、抑圧したり、責任転嫁のような態度を取り続けていると、徐々にXとの関係が険悪になってくる。そしてXと敵対関係になると大変なことになる。不安が復権を求めて暴動を起こし、大挙して復讐してくることになるからである。こうなるともはやXは守護者ではない。その人は交通事故や災害に見舞われやすくなるかも知れない。

このような検証不能の論理は平和が保たれている現在の日本国内にあっては実感を伴って感得される機会が少ないのであろうが、戦地にあっては生き残る兵士と死ぬ兵士の間で運命を鮮明に切り分ける、非常に現実的な能力概念として認識されるであろうと想像される。昔、ダイエーの創業者である中内功さんのインタビュー記事をある雑誌で読んで、未だに印象深く記憶に残っている逸話がある。ご自身の戦争体験についての話しであったが、中内さんはどこかの戦場で銃弾が自分を避けて飛び交っていたというような言い方をされていた。誇張されていた部分もあったのかも知れないが、一時代を築き上げたカリスマが言うことは違うものだなと感心したものだ。銃弾を掻い潜るという言い回しはあるが、銃弾が自分を避けて飛んでいたと断言する自信は、ほとんど神がかっている。Xとのコラボレーション能力が最大限に発揮されると本当にそのように感じられるのかもしれない。

ここで思い出す映画の一シーンがある。さて何だろうか。

答えはフランシス・F・コッポラ監督『地獄の黙示録』で、キルゴア中佐がベトコンが支配する危険な海岸でサーフィンに興じるあまりに有名なシーンだ。キルゴア中佐には自分は被弾しないという絶対的な自信がある。ところが私はキルゴア中佐は本当は臆病な人物なのではないかと考えている。臆病でなければ、あのような大胆な芸当は出来ないはずだ。見かけによらず、私と同じようにちょとしたことで腹をこわすようなデリケートな神経も持ち合わせているのではないかと想像する。Xのメッセージを聞き取る能力(X能力と名付ける)が高い人間の言動は常人には理解しがたい複雑さがあるのかも知れない。

私自身は戦争を知らない一小市民にすぎないので、あまり偉そうなことは言えない。8ヶ月ほど前に、とあるバーでたまたま横に座っていた渡世人稼業の人(ヤクザ)と話しをする機会があって(というより向こうから一方的に話しかけられてきて話し相手にならざるを得なかったのであるが)、特に私から話すネタもないので仕方なしに先ほどの中内さんの戦争体験のことを話すと、そのヤクザは、

「それはその通りや。わしもこれまでに何回も死に掛けたことがある。生き残る奴はみんなそういう運を持っているんや。」

と力説していたので、やはりそういうものかも知れないなと思うのみである。

ただ人生において生死を分かつような運の正体とは、その人のXとの関係性(X能力)なのではないかと私は考えるのである。このようなことを言うと、我々は兵士でもなければヤクザでもないのだからX能力など関係ない、平凡な日常を真面目にこつこつと生きてゆくのみだと考える人が多いかも知れない。しかしはたしてそうであろうか。私は、そうではないような気がするのだ。確かに日本は戦争がないので平和な国である。だが年間に3万人以上もの自殺者がいて、自殺率は非常に高い。うつ病やパニック障害などの精神のバランスを崩している人が年々増加しているような気がする。身近でそのような話しをよく聞くからである。私の素人分析でそれらの社会的背景について安易に断定することは憚れるのであるが、やはり個々人のレベルにおいて内なるXとの関係性が狂ってきているように感じられる。最悪の場合、最終的にXとの殺し合いにまで発展してしまうことになる。部屋で一人でじっとしているだけで自分が何をしでかすかわからない。とんでもなく大きな不安がいきなり襲ってきて動悸が激しくなり、今にも死にそうな気がする。目の前にカッターナイフがあると衝動的に手首を切りつけてしまいそうになる。このような症状の人が今の日本に、おそらくものすごくたくさん存在するのだと思う。全ては内なるXの暴発によって自我構造が破滅に追いやられる恐怖からくるパニックが引き金になっているように感じられる。私自身これまでに何度かそのような状態に陥りかけた経験があるので、何となく原理がわかるような気がするのである。

私が瞑想するのはXとの良好な関係を構築するためである。自らの不安の発生源を見つめて意識化し、Xとのパイプを強くして、絶えずXが私の守護者であるようにと対話を試みるのである。これを日常的におこなっているとXとの対立は徐々になくなってくる。Xは自分の内部に住まいながらも、自分とは別人格で自分よりもはるかに強大な力と知恵を有している存在である。この基本的な認識を持てなければ私の言っていることは理解できないと思う。

Xはロト6の当選番号を教えてくれたり、株式の売買のタイミングを指南してくれることはあり得ないが(少なくとも私にとっては)、不安感情を通じて私に有益な情報を伝達してくれるのである。それで先にも書いた通り不安は社会様式に結びついているので、内なるXとの対話は取りも直さず、社会との対話であり社会批判ともなりえるのである。おわかりであろうか。

中世の時代には(あるいは現代にあってさえ)Xの暴動が悪魔(悪霊)付きのように見られたのであろう。それで鞭で叩いたり、火炙りにするなどの野蛮な行為で肉体から悪魔を追い出そうとした。しかしXは外部から取り憑いた悪意の化身ではなく、社会と自我の間に映し出される自己分身なのであるから暴力的な手段に頼ったところで自分からも社会からも追い出すことなど出来ないのである。もちろん、どんな時代にあっても人間が生きていく上で不安はある。中世のヨーロッパのように教会が絶対的な権力を持っていた時代には、その抑圧的な観念や倫理観が庶民の心の中にXを悪魔の姿として立ち現せたのだと私は考える。私は人間界を越えた世界に存在する天使や悪魔の存在を信じるものであるが、人間が人間社会の中で遭遇する悪魔や悪霊の正体は、その時代の権力や社会様式が生み出した人造的なあやかしだと思う。現代社会では悪魔狩りにあって拷問や処刑される心配をしなくてもよいのであろうが、それに似たような状況はいくらでもあり得る。

この10年間の間に日本は経済的に悪くなっただけではなく、日本人の心そのものが他者に対する人間らしい信用や思いやりからご都合主義の理屈や極端な利己主義に誘導されてきた結果、自己の無意識たるXときちんと協調関係が取れなくなってきたのだと私は考える。それが何よりも自公連立政権が生み出した悪魔の姿だと私は思うのだ。日本人はこの悪魔の姿をはっきりと認識するまでに10年もかかったのである。

真理を見極めるには時間がかかるが、時間は必ず真理を顕す。選挙直前にしてこのことが言いたかったのである。尚、私が書いたXとの関係性の心理学をより専門的に学びたい人は、プロセス志向心理学創始者であるアーノルド・ミンデルの著書を読むべきだ。私が最近、読んだ本では『シャーマンズボディ』(コスモスライブラリー)が面白く役に立った。