我が神経症と自己分析 3/3
仮にその不安の声の主をXと名付けることにする。Xは全ての人の無意識に存在する別人格の何者かである。ある人とXとの協調関係が良好でコミュニケーションが上手く図られているのであれば、その人は危険な場所やタイミングをごく自然に避けることが出来るであろう。なぜならXが守ってくれているからである。Xは強力な守護者である。これは神秘や宗教の領域ではない誰にとっても共通する一般的な話しをしているつもりだ。ところがXが発する不安の声を無視したり、抑圧したり、責任転嫁のような態度を取り続けていると、徐々にXとの関係が険悪になってくる。そしてXと敵対関係になると大変なことになる。不安が復権を求めて暴動を起こし、大挙して復讐してくることになるからである。こうなるともはやXは守護者ではない。その人は交通事故や災害に見舞われやすくなるかも知れない。
このような検証不能の論理は平和が保たれている現在の日本国内にあっては実感を伴って感得される機会が少ないのであろうが、戦地にあっては生き残る兵士と死ぬ兵士の間で運命を鮮明に切り分ける、非常に現実的な能力概念として認識されるであろうと想像される。昔、ダイエーの創業者である中内功さんのインタビュー記事をある雑誌で読んで、未だに印象深く記憶に残っている逸話がある。ご自身の戦争体験についての話しであったが、中内さんはどこかの戦場で銃弾が自分を避けて飛び交っていたというような言い方をされていた。誇張されていた部分もあったのかも知れないが、一時代を築き上げたカリスマが言うことは違うものだなと感心したものだ。銃弾を掻い潜るという言い回しはあるが、銃弾が自分を避けて飛んでいたと断言する自信は、ほとんど神がかっている。Xとのコラボレーション能力が最大限に発揮されると本当にそのように感じられるのかもしれない。
ここで思い出す映画の一シーンがある。さて何だろうか。
答えはフランシス・F・コッポラ監督『地獄の黙示録』で、キルゴア中佐がベトコンが支配する危険な海岸でサーフィンに興じるあまりに有名なシーンだ。キルゴア中佐には自分は被弾しないという絶対的な自信がある。ところが私はキルゴア中佐は本当は臆病な人物なのではないかと考えている。臆病でなければ、あのような大胆な芸当は出来ないはずだ。見かけによらず、私と同じようにちょとしたことで腹をこわすようなデリケートな神経も持ち合わせているのではないかと想像する。Xのメッセージを聞き取る能力(X能力と名付ける)が高い人間の言動は常人には理解しがたい複雑さがあるのかも知れない。
私自身は戦争を知らない一小市民にすぎないので、あまり偉そうなことは言えない。8ヶ月ほど前に、とあるバーでたまたま横に座っていた渡世人稼業の人(ヤクザ)と話しをする機会があって(というより向こうから一方的に話しかけられてきて話し相手にならざるを得なかったのであるが)、特に私から話すネタもないので仕方なしに先ほどの中内さんの戦争体験のことを話すと、そのヤクザは、
「それはその通りや。わしもこれまでに何回も死に掛けたことがある。生き残る奴はみんなそういう運を持っているんや。」
と力説していたので、やはりそういうものかも知れないなと思うのみである。
ただ人生において生死を分かつような運の正体とは、その人のXとの関係性(X能力)なのではないかと私は考えるのである。このようなことを言うと、我々は兵士でもなければヤクザでもないのだからX能力など関係ない、平凡な日常を真面目にこつこつと生きてゆくのみだと考える人が多いかも知れない。しかしはたしてそうであろうか。私は、そうではないような気がするのだ。確かに日本は戦争がないので平和な国である。だが年間に3万人以上もの自殺者がいて、自殺率は非常に高い。うつ病やパニック障害などの精神のバランスを崩している人が年々増加しているような気がする。身近でそのような話しをよく聞くからである。私の素人分析でそれらの社会的背景について安易に断定することは憚れるのであるが、やはり個々人のレベルにおいて内なるXとの関係性が狂ってきているように感じられる。最悪の場合、最終的にXとの殺し合いにまで発展してしまうことになる。部屋で一人でじっとしているだけで自分が何をしでかすかわからない。とんでもなく大きな不安がいきなり襲ってきて動悸が激しくなり、今にも死にそうな気がする。目の前にカッターナイフがあると衝動的に手首を切りつけてしまいそうになる。このような症状の人が今の日本に、おそらくものすごくたくさん存在するのだと思う。全ては内なるXの暴発によって自我構造が破滅に追いやられる恐怖からくるパニックが引き金になっているように感じられる。私自身これまでに何度かそのような状態に陥りかけた経験があるので、何となく原理がわかるような気がするのである。
私が瞑想するのはXとの良好な関係を構築するためである。自らの不安の発生源を見つめて意識化し、Xとのパイプを強くして、絶えずXが私の守護者であるようにと対話を試みるのである。これを日常的におこなっているとXとの対立は徐々になくなってくる。Xは自分の内部に住まいながらも、自分とは別人格で自分よりもはるかに強大な力と知恵を有している存在である。この基本的な認識を持てなければ私の言っていることは理解できないと思う。
Xはロト6の当選番号を教えてくれたり、株式の売買のタイミングを指南してくれることはあり得ないが(少なくとも私にとっては)、不安感情を通じて私に有益な情報を伝達してくれるのである。それで先にも書いた通り不安は社会様式に結びついているので、内なるXとの対話は取りも直さず、社会との対話であり社会批判ともなりえるのである。おわかりであろうか。
中世の時代には(あるいは現代にあってさえ)Xの暴動が悪魔(悪霊)付きのように見られたのであろう。それで鞭で叩いたり、火炙りにするなどの野蛮な行為で肉体から悪魔を追い出そうとした。しかしXは外部から取り憑いた悪意の化身ではなく、社会と自我の間に映し出される自己分身なのであるから暴力的な手段に頼ったところで自分からも社会からも追い出すことなど出来ないのである。もちろん、どんな時代にあっても人間が生きていく上で不安はある。中世のヨーロッパのように教会が絶対的な権力を持っていた時代には、その抑圧的な観念や倫理観が庶民の心の中にXを悪魔の姿として立ち現せたのだと私は考える。私は人間界を越えた世界に存在する天使や悪魔の存在を信じるものであるが、人間が人間社会の中で遭遇する悪魔や悪霊の正体は、その時代の権力や社会様式が生み出した人造的なあやかしだと思う。現代社会では悪魔狩りにあって拷問や処刑される心配をしなくてもよいのであろうが、それに似たような状況はいくらでもあり得る。
この10年間の間に日本は経済的に悪くなっただけではなく、日本人の心そのものが他者に対する人間らしい信用や思いやりからご都合主義の理屈や極端な利己主義に誘導されてきた結果、自己の無意識たるXときちんと協調関係が取れなくなってきたのだと私は考える。それが何よりも自公連立政権が生み出した悪魔の姿だと私は思うのだ。日本人はこの悪魔の姿をはっきりと認識するまでに10年もかかったのである。
真理を見極めるには時間がかかるが、時間は必ず真理を顕す。選挙直前にしてこのことが言いたかったのである。尚、私が書いたXとの関係性の心理学をより専門的に学びたい人は、プロセス志向心理学創始者であるアーノルド・ミンデルの著書を読むべきだ。私が最近、読んだ本では『シャーマンズボディ』(コスモスライブラリー)が面白く役に立った。