無明の明
さて、大切なことで言っておきたいことがある。
連日、政治資金規正法違反容疑の問題において新聞などのメディアで、非常に恣意的に見られる報道の動きがあり、私は心を痛めている。
政治資金規正法は法律の条文において、その目的は、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、(略)政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。」(第1条)であり、基本理念は「この法律は、政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される国民の浄財であることにかんがみ、その収支の状況を明らかにすることを旨とし、これに対する判断は国民にゆだね、いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない。」(第2条)と定められている。
この法律が意図する方向性は、国民監視の下で国民主権たる民主政治の健全性や質を高めるところにあるのであって、メディアが主導して政治家の瑣末なミスや書面上の不備を暴き立て、鬼の首を取ったように追い詰める“見世物”は、政治改革の進展を遅らせ、我が国の民主主義の質そのものを劣化させている点において本末転倒であると言えるのではないか。
もちろんそれは細かな不正を見逃しても良いということではあり得ないし、与党であろうが野党であろうが、全ての政治家が一つの法の下で公平に裁かれなければならないということは原理原則である。しかし政治というものは国民の生活や命がかかっているのである。新聞社などのメディアが、どこからか駐車違反のような下らないネタを探し出してきて、延々と取締りキップを突き付けるような真似をして一体何になるのだ、と言いたい。メディアの権力を誇示しているだけで、到底、国民全体の声を代弁しているとは言い難いではないか。私はそのようなメディアの行為を“偽装国民目線”(←著作権放棄します。どんどん勝手に使ってください。)と命名したい。国民の目線を装いながら、その実態はメディア組織の社会に対する影響力を確保するための工作で、社会正義とは似て非なるものである。
一応、念のために言っておくが、私は民主党政権に期待するものは大きいが、個々の政治家に対しては特別誰かを支持するなどという考えはまったく持っていない。政治家などというものは、所詮、放っておいても自然に移り変わっていく使い捨ての存在に過ぎない。誰かに期待したところで特別大きな活躍をしてくれるとも思えないが、政治の世界はあまりに根性の腐ったように思える人間が多すぎるので、純粋な理想を保ち続けている政治家に希少価値を感じるという程度のものである。しかし個々の政治家はともかく、日本の権力構造は非常に強固でそんな簡単に変われるものではない。特定の社会層へ利益を誘導しようとする歪んだ仕組みは、黙っていれば子供たちの世代へ間違いなく継承されるのである。よって政治改革のこの千載一遇の機会をつまらない理由をあれこれとあげつらって潰そうとする勢力を我々国民は看過すべきではない。
政治家の不正を許してはならないのと同様に、我々は特定の政治家を糾弾するメディアの論理をよく吟味しなければならない。国民がメディア権力の欺瞞性を監視し、おかしなところは声を上げていかないと健全な民主主義は保てないからである。そういう意味では、今回の鳩山総理の政治資金問題は露骨な世論操作が行われていて問題が大きいように思われる。先の選挙で産経新聞の程度の低い記者が民主党の勝利に対してネットの掲示板に「産経新聞が初めて下野、民主党さんの思う通りにはさせないぞ。」と書き込んでお叱りを受けたらしいが、今、まさにその記者が考えていた通りの低レベルな誘導が行われている。
繰り返すが、私は何も政治資金の届け出に関する嘘や不備を認めているわけではない。鳩山氏の問題が退陣に相当すると考えるのなら徹底的に追い込めばよい。個人的には鳩山氏が辞任して耳障りな“友愛”の言葉を聞かされる心配がなくなれば、爽やかな朝の目覚めを迎えられるようになるかも知れない。しかし、それはそれである。やはり程度の問題も合わせて冷静に考えると今回の件に関してはメディア誘導の方が明らかに悪質であるように感じられる。
以下、具体的にその理由を例示することにする。
鳩山氏の関連する政治団体が、鳩山氏の母が所有する北海道室蘭市内のビルを相場の5分の1以下である月10万円の賃料で借りていることが問題にされている。相場との差額は、寄付に相当するから政治資金収支報告書に記載する義務があるにもかかわらず、記載されていないということである。この記事をざっと流し読みすれば、一般の人間なら誰でも鳩山氏に何らかの“不正”があるように感じるであろう。それが不正なのか落度に過ぎないのかはともかく、一歩踏み込んで考えればそんな単純に問題視、出来るものではないことがわかるはずである。確かに、政治資金規正法の第9条(会計帳簿の備付け及び記載)には寄付について、(金銭以外の財産上の利益については、時価に見積もった金額)を記載しなければならないと定められている。
しかし鳩山氏と母との間に、格安であろうと賃貸契約が一旦“法律上”成立しているのであれば、そこに“時価”が一体どういう意味を持つのか、ということになる。そもそも簡単に時価と言うが、不動産の適正な賃料を査定する統一された会計手法はないのだから、そのような曖昧な時価を基準にして差額部分を寄付として記載しろということは現実問題として無理があるのではないのか。AとBの二人の不動産鑑定士に鑑定してもらって、仮に5万円の差が出た時にさてどちらを採用するのかという問題になる。その問題を弁護士に相談するような煩雑なことをしていたのでは、肝心の政治活動など出来るわけがないではないか。
実際には時価と言えば、寿司屋のメニューと同じで、店主がその時の気分や客の身なりを見て決める価格と同じである。基準などあって無きがごとしである。当事者間で合意があれば、高くも安くもないのである。
政治家相手の法律だから適当(厳しくて)でいいのだという理屈には絶対にならない。政治資金規正法がいい加減であれば、我々国民を取り締まる様々な法律はそれ以上にいい加減であろう。不動産賃料の時価基準を、我々国民目線に置き換えるとこのようなことになるのではないか。賃料50万円相当のテナントを仲の良い友人から10万円で借りていたとする。ある日、税務署員がやってきて差額40万円×12ヶ月=480万円は贈与と看做されるから、その分の贈与税を払いなさいということになりかねない。別の例で言えば、家電量販店が相場価格で50万円のプラズマTVを10万円の破格値で売った時に差額40万円の利益部分にも課税されるということになる。論理が飛躍した例えではあることは認めるが、権力と言うものは本質的にそんなものである。整合性を保つために、ある日急に無茶苦茶なことを言いかねないから油断はならないのだ。
話しを鳩山氏の件に戻すと、仮に賃料0円の無償であっても問題はないと思われる。法律上は“使用貸借契約”と言って、高度な信頼関係に基づいた双方が、ある目的のために無償で物を貸したり、借りたりすることである。母親が子供の政治活動のために無償で不動産を使わせることは、立派な契約の一つであって第三者がとやかく言う筋合いのものではないと思う。そこに時価基準を押し付けて差額部分を寄付として処理しなければならないとすれば、それは使用貸借契約と賃貸借契約の二重契約であって法理的に破綻してしまうことになるのではないのか。
そもそも国民の税金である政党助成金を交付されている政党(政治家)が、少しでも政治活動にかかる費用を節約しようとして交渉することは国民全体の利益に資するものであって、賄賂の要素がないにもかかわらず、文句を付けることは甚だ見当違いであるとも言える。
総括すればなぜこのようなおかしな話になるのかと言えば、先ず第一に政治資金規正法の条文を作成した政治家か、司法官僚の考えが足りなかったので法律そのものに欠陥があるということである。それゆえに、このような混乱と政治の遅滞を招き、国民全体が多大なる迷惑を被っているのだ。第二に新聞社を筆頭とするメディアが、絶えず国民全体の皮膚感覚に訴求する正義で世論を誘導しようとするために根本的な問題点が隠蔽され、結局のところ最終的には国民にまで利益が誘導されない社会構造が温存されることになってしまうのである。我々が目の前に見ている、社会の図柄は3Dアートのようなものであって、じっと根気よく見続けないと実相が浮かび上がってこないのである。
と、偉そうなことを言ったところで私自身、何一つ見えていないのだが。しかし私は見えないことが見えているから、朧げに見えてくるものがあるのである。
座頭一みたいなもんだな。無明の明だ。
台風も近づいているようであるし、何やら空しくなってきたので、今日はここまで。
不正と正義の境界
“不正”とは文字通り、正しくないこと、正義でないことを意味する言葉である。本来の正義が欠落した状態を我々は、それは不正だと言って糾弾することになる。しかし世の中に一体どれだけの正義が保たれていると言うのであろうか。不正だらけじゃないか。正義がないところに、その欠落概念としての不正は存在し得ないのである。
よって日常の生活感覚において、教義としての正義と現実の不正の境界は非常に曖昧で混沌としている。しかし道徳や倫理感などの内面規範としての線引きは難しくとも、便利なことに我々の社会には法律と言う名の定規が存在する。
告発された問題に定規をあてて、膨大な不正の中からほんの一部が犯罪として立件されることになる。政治家にとって不正の筆頭が政治資金規正法違反である。しかし一般の国民感覚から見れば、政治献金の問題を測る定規ほど目盛りの間隔がいい加減な基準はないのではないか。
現在の法律において企業献金そのものは“適法に”処理されていれば違法ではないということになっている。ところが適法に処理されていても、献金が一旦賄賂だと認定されてしまうと贈った側(企業)も受け取った側(政治家)も贈収賄で犯罪者として逮捕されてしまうことになる。それではどういう献金が当局に目を付けられやすいかと言えば、当然、献金と見返り受益の因果関係が誰の目にもわかりやすく立証しやすいケースとなり、必然的に一件の公共工事受注で数十億円単位の金が動くゼネコンが狙われやすくなる。しかし本来、全ての企業献金とは何らかの形の見返りを期待するものであって、その見返りがどのような性質のものであるかにおいて違いがあるだけではないのか。そういう意味では企業献金とは本来、“全て等しく”悪だということが出来るはずである。ゼネコンの企業献金が単に目立ち、犯罪として立件しやすいという理由で主に捜査対象に選ばれるのは公平性の観点から問題があるように思える。そのような背景から、ゼネコンも政治家も逮捕されたくないのは当然だから、献金を迂回させて何とか出所を隠そうとするのは自然の成り行きである。当局は、そうはさせじと虚偽記載違反も含めて追及する。そのような、いたちごっこ的な捕り物劇がこれまで何度も繰り広げられてきた。私は基本的には、検察権力の源は大物政治家を逮捕するところにあるのであって、それはある種の国民に対するパフォーマンスだと思っている。
検察が絶大な権力を維持していくためには時折、大物を逮捕して国民の前に“悪の権化”として晒し者にしなければならない。誰を犠牲者に選ぶのかという自由を検察組織は有しているところから、“国策捜査”が疑われるのであるが、恐らく対象は大物であれば誰でもよいのだと思う。
誰の目にも明らかに恣意的で不当な権力行使を検察がなすことは、自らの権力基盤を破壊し、権威を失墜させる自殺行為であって、検察というエリートはそれほどの馬鹿ではないと思う。しかし捜査そのものに深謀遠慮があるのかと言えば、そういうことでもなくて単に祭りにおける供犠のように不正者を火炙りにし、大衆に正義の在り処を見せ付けることが検察の絶大な権力を温存させる一番確かな方法であることを彼らはよくわかっているのだと思う。
政治家の汚職を摘発し続けてきた、これまでの検察権力の深層力学は基本的にはそのような図式であったと思われる。しかし民主党が政権を獲得する直前、直後の小沢一郎や鳩山由紀夫に対する捜査は、少し様相が異なるような気がしないでもない。
民主党は言うまでもなく脱官僚を政策の中心として掲げ、本気で権力の質を国民目線に近いところに変えようとしている。またその対立軸を先般の選挙で、はっきりと打ち出したことによって国民の圧倒的な支持を受けたものである。しかし国民目線の脱官僚によって一番、ダメージを受けるのは実は官僚の中の官僚とも言うべき検察組織だと思われるからである。
検察の不正を摘発する機関は存在しない。誰も検察を裁けないのである。そういう意味では検察は国家機構の内部で神に近いような存在であるとも言える。善と悪を、正義と不正を切り分ける神聖な力が、いわゆる超越的な神秘性が国民目線で汚されるように感じるのは、裁判官以上に実は検察上層部の人間なのではないかと感じられる。
しかし系統的に言えば検察は法務省の管轄下に位置するのであって、法務大臣は我々が選挙で選んだ政党(総理大臣)が任命するのであるから、検察の権力は本質的に国民目線から乖離できる性質のものではないはずである。要するに目の前に同じような不正があって一方を捜査して、他方を捜査しないのであればその違いが恣意的なものでないことや、その不正自体を犯罪として立件する合理性や必要性を国民に説明する責任があるのではないかということである。公務員なのだから当然ではないか。神のように沈黙を保っていられるほど偉くはないはずである。それが国民主権というものだ。
政治家の不正に対する告発、捜査が政争の手段として利用されたり、検察組織の相対的な権力低下を妨害するためになされるなどの“より悪質な不正”がないように監視できるのは我々、一般市民だけである。それも国民主権の基本的な有り方だ。最終的に奪われるのは我々国民が、本来、享受出来るはずの物質的かつ精神的な生活水準なのだから黙って座視していてはならない。
企業から政治に対する働きかけについてもう一言、言っておきたい。国民目線で言えば、ゼネコン等の公共工事の受発注に絡む汚職よりも、業界団体が新しい時代変化の中における国民の要望を無視して既得権益を死守しようとする圧力の方がよほど弊害が大きいと思われる。たとえば新聞の再販制度や特殊指定維持のために新聞協会や新聞販売協会からなされる献金や政界工作のようなものである。新聞宅配の強制や値引き販売禁止は到底、今日の時流に適合しているようには思えない。これほどパソコンやインターネットが普及している社会にあって宅配がなければ国民の知る権利が損なわれるなどという理屈は笑止千万な話しであるし、既存の大新聞社が国民多数の知性や品位を底辺から支えているような考え方にも与することは出来ない。むしろ反対なのではないのか。
自由競争原理至上主義が今日の貧困や格差問題を生んだことは認めるが、なぜ新聞やTV業界だけがこれほどまでに保護されなければならないのか。
その部分に底知れない闇を感じるのは私だけであろうか。
不正と正義を切り分ける切れ目は、暗闇の中で固く癒着してしまっているのか目を凝らして見ても判然としないのである。
インフルエンザウイーク 2/2
先ず初めに、このシルバーウイーク期間中、これだけインフルエンザが流行っているというのにほとんどの病院が休暇をとっていたということである。私が最初に息子を連れて行ってリレンザを処方してもらった病院は18日(金)の午後と19日(土)の午前を臨時休診にしていて、18日の午後から23日(水)まで連休にしていた。私が心配して18日、金曜日の午前中に息子を病院に連れて行ってリレンザをもらえたから良かったものの、元妻が言う通りに夕方まで様子を見ていると連休前に病院で診てもらえたかどうか、わからなかったのである。後に人から聞いた話しによると、この連休期間中はインフルエンザ患者のために休まないで診療するようにとの要請が医師会から各病院に出されていたとのことである。ところがほとんどの町医者は自分の所にインフルエンザ患者が殺到するのを恐れて、暦通りか、正規の休日直前を臨時休診にしてまで連休期間を長く取っていたのである。医者も商売だから気持ちはわからないではないが、これでは昨今盛んに報道されている医師不足というのも怪しいものである。勤務医と開業医では労働条件が当然、異なることは言えるであろうが、シルバーウイーク期間中ある大阪の大病院の小児科勤務医全てもずっと休暇を取っていた。メディアが伝える勤務医の過労死などの報道はどうも疑わしい。確かにそのような事実もあるのであろうが、日本全体の実情を“正確”に伝えているとは思えない。はっきり言うが、こういう国民生活の基本となる情報において新聞社やNHKはどこか信用しきれない部分がある。要するに報道側が金儲けの論理で万人に受け入れられやすいように適度に情報に手を加える(調整する)ことは最終的には社会悪であるということである。
医師不足の実態の裏側で、医師の怠慢が隠されているように思える。私は息子が連休期間の直前にインフルエンザに罹ったからといって、病院や医者の悪口を言って鬱憤を晴らすことが本意なのではない。もっと根本的で、おそらく多くの人には過激すぎると思うであろう事を考えている。
それは国民の祝日についてである。そもそも、未だに国が指定する特定の日を休日として国民が唯々諾々と従うことが国益に適っているのであろうか。自分が仕事を休みたい日は会社員であろうと、自営業者であろうと自分自身で決めて休暇の計画を立てることが本来、自立した人間として当然なのではないのか。
昨今の環境問題において考えて見ても、日本という国家を一体の人体と考えれば、絶えず“特定箇所”と“特定時期”に多大な負荷がかかることは、心筋梗塞や脳溢血と同様の症例を地球に与えていることになるのではないのか。地方分権で都市部に集中した人口を分散していかなければならないのと同様に、人間の移動においても一時期に集中しないように制度を改める時期にきているように思える。それが祝日制度の廃止だ。特定の日に特定の場所で大移動が起こるから、二酸化炭素も多く発生するであろうし、高速道路などの道も痛みやすく補修に費用が掛かることとなる。我々は今や奴隷ではないのだから道路の大渋滞や通常より料金の高い期間の混み合った旅行で未来永劫、我慢しなければならない理由はないはずだ。民間会社のサラリーマンも公務員も学校の生徒たちも、国民の祝日を全て廃止してその代わりに自分たち(家族)で決めた一定期間をバカンスとして過ごすことが出来れば、どれだけ自分の人生が豊かになるのか想像して欲しい。
そうしたところで(国民の祝日を廃止したところで)何の不都合があるのだ。
本当は我々はもっと素晴らしい人生を送ることが出来るにもかかわらず、国家権力や一部の資本家が我々の自由を踏みにじっていることに、いい加減に日本人は気づかなければならない。秋分の日や体育の日など糞くらえだ。そんな名目が、我々の人生にいかに貢献しているか具体的に述べてみろ。2020年までに1990年比で温室効果ガスを25%削減すると高らかに謳うのであれば、環境税などの法人対策ではなく人間の分布と移動を再デザインしなければならないのである。わかるか。正しい選択というものが常に国民の幸福に寄与するものであることを。
もう一点は離婚後の父親と母親の関係を“規整”する民法のあり方についてである。私は今年の6月中旬にやっと元妻との離婚が成立したが、共同親権の代替案となる親権と監護権の分離にどれだけ苦労したことか、簡単に言葉にしようがないほどである。今回、息子がインフルエンザに罹った場合のようなことを想定して、私は頑なに共同で子育てするところの親権、監護権分離に拘り、高裁までいって辛うじて認められたものである。どうして父親が、離婚後の子供の生活環境を守ることがこれほど困難でなければならないのか言ってみろよ。現在の民法は“子供の見殺し”どころか、“未必の故意”として一定数の子供を殺している。本質的に痴漢やストーカーにも劣る性根の持ち主たちが、これまでエリートとして日本を支配してきた結果だ。一般の大衆が分かりにくいのは一方で国益としての少子化対策や家族の紐帯を推奨しながら、もう一方で制度としての婚姻主義に囚われるあまり、破綻した夫婦間の子育て能力をまったく認めようとしないことである。子育てに際して婚姻というよくわからない書面上の契約を境界にして父親と母親を分断し、子供を不幸にしているのである。これは何度も言うとおり冷戦下におけるイデオロギーの2項対立の残滓に過ぎない。一人親で育てるほうが子供の為になる場合が多いのは認めるが、離婚後においてすら共同で子育てする方が適切であるケースが一定割合あるのは厳然とした事実である。現に私の場合がそうである。1年間に離婚するカップルが何組あるのか知れないが、その関係の険悪さの度合いにおいて私はトップ10に入るとまでは言わないが上位0.1%に入ることはおそらく間違いない。なにせ90%が協議離婚であるのに、私の場合は離婚以前に親族間で民事裁判していた上に離婚裁判でも控訴審までいってやっと和解(離婚)した位であるのだから。それでも私と元妻は今でも子育てにおいて最低限の協力関係は取り合えている。どうだ、何か文句があるなら言ってみろ。
離婚しても父親と母親が望むのであれば共同で子育てすべきだ。私の元妻もそのように望んでいたのであるが、離婚後の共同親権制度がないがためにここまで縺れ揉めたのである。こういう弱い者(幼児)虐めのおためごかし(現行制度)は古臭い時代遅れのイデオロギーやら、“常識”を支配しながら大衆を支配しているマスコミの既得権益に複雑に化学反応のように結びついて強固な結晶構造となっているのである。私は正直なところそのようなインチキを堂々と標榜する連中に殺意に近いものを感じる。
たとえば婚姻の夫婦別姓を新たに法制化するのであれば、それ自体に私は何の反対も無いが結局のところどうでもよいことである。要するに過去のイデオロギーに囚われているだけで本当の国民目線ではあり得ないし、国民の直接的な利益とは無関係なものである。社民党が連立に入っていることがそのような法案提起の原因であろうが、私が言いたいことは相矛盾するベクトルを一つの制度に閉じ込めることは国民の不幸以外に意味するものは何もないということである。夫婦別姓というような段階的な婚姻制度の破壊を誘導するのであれば、端から“婚姻制度廃止”を正々堂々と開陳すればいいじゃないか。本当の目的を隠しながら別の建前で社会の仕組みを作っていくようなやり方は、国民目線とは言えないし、国民のための政治の対極にあるものである。
そういうところが社民党の小賢しくも、インチキ臭いところである。バカのくせに国民を洗脳しようとなど大それたことを考えるな。胸糞悪いわ。おまえらは自分たちが一体、何様のつもりだと思っているんだ。そういうところが大多数の国民から信用されぬ根本原因だとまだ気付かぬか。
今の時代、真面目に一生懸命働いても結婚できない若者が一定の比率で存在するであろうし、その比率は今後高まっていく一方のように思える。夢や希望もないことを言ってしまうが、はっきり言って金のない人間は結婚ができない。これは事実である。そのような社会にこれまでの自民党政権がしてしまったのだから、どうしようもないことである。政権が代わったからと言って5年や10年でそう簡単に社会構造が変わるとも思えない。このままいけば数年後には、ほんの一握りの上流階級の人間しか結婚して子孫を残せない社会になる可能性が高いと思われる。そもそも住宅ローンを組むことすら難しくなっているのに結婚など出来るわけがない。
こういう世相であれば事実婚であっても未入籍であっても子供をきちんと養い育てていける環境や、離婚後に父親と母親が共同で子育て出来る社会制度を整えることが急務のはずである。婚姻という骨格の枠組みの中で夫婦別姓などという男女間の冷戦的なイデオロギーにこだわり続けることは、時代錯誤というよりも頑迷固陋な主張に過ぎない。そのようなピントの外れた得点稼ぎが、もやもやとした悪い空気となって日本を間違った方向へ導いていくのである。
世の中には、誰かを洗脳したり、誰かに洗脳されることから離れられないような人間がたくさん存在する。そういう人は政治に関わるべきではないと思う。