不正と正義の境界 | 龍のひげのブログ

不正と正義の境界

“不正”とは文字通り、正しくないこと、正義でないことを意味する言葉である。本来の正義が欠落した状態を我々は、それは不正だと言って糾弾することになる。しかし世の中に一体どれだけの正義が保たれていると言うのであろうか。不正だらけじゃないか。正義がないところに、その欠落概念としての不正は存在し得ないのである。

よって日常の生活感覚において、教義としての正義と現実の不正の境界は非常に曖昧で混沌としている。しかし道徳や倫理感などの内面規範としての線引きは難しくとも、便利なことに我々の社会には法律と言う名の定規が存在する。

告発された問題に定規をあてて、膨大な不正の中からほんの一部が犯罪として立件されることになる。政治家にとって不正の筆頭が政治資金規正法違反である。しかし一般の国民感覚から見れば、政治献金の問題を測る定規ほど目盛りの間隔がいい加減な基準はないのではないか。

現在の法律において企業献金そのものは“適法に”処理されていれば違法ではないということになっている。ところが適法に処理されていても、献金が一旦賄賂だと認定されてしまうと贈った側(企業)も受け取った側(政治家)も贈収賄で犯罪者として逮捕されてしまうことになる。それではどういう献金が当局に目を付けられやすいかと言えば、当然、献金と見返り受益の因果関係が誰の目にもわかりやすく立証しやすいケースとなり、必然的に一件の公共工事受注で数十億円単位の金が動くゼネコンが狙われやすくなる。しかし本来、全ての企業献金とは何らかの形の見返りを期待するものであって、その見返りがどのような性質のものであるかにおいて違いがあるだけではないのか。そういう意味では企業献金とは本来、“全て等しく”悪だということが出来るはずである。ゼネコンの企業献金が単に目立ち、犯罪として立件しやすいという理由で主に捜査対象に選ばれるのは公平性の観点から問題があるように思える。そのような背景から、ゼネコンも政治家も逮捕されたくないのは当然だから、献金を迂回させて何とか出所を隠そうとするのは自然の成り行きである。当局は、そうはさせじと虚偽記載違反も含めて追及する。そのような、いたちごっこ的な捕り物劇がこれまで何度も繰り広げられてきた。私は基本的には、検察権力の源は大物政治家を逮捕するところにあるのであって、それはある種の国民に対するパフォーマンスだと思っている。

検察が絶大な権力を維持していくためには時折、大物を逮捕して国民の前に“悪の権化”として晒し者にしなければならない。誰を犠牲者に選ぶのかという自由を検察組織は有しているところから、“国策捜査”が疑われるのであるが、恐らく対象は大物であれば誰でもよいのだと思う。

誰の目にも明らかに恣意的で不当な権力行使を検察がなすことは、自らの権力基盤を破壊し、権威を失墜させる自殺行為であって、検察というエリートはそれほどの馬鹿ではないと思う。しかし捜査そのものに深謀遠慮があるのかと言えば、そういうことでもなくて単に祭りにおける供犠のように不正者を火炙りにし、大衆に正義の在り処を見せ付けることが検察の絶大な権力を温存させる一番確かな方法であることを彼らはよくわかっているのだと思う。

政治家の汚職を摘発し続けてきた、これまでの検察権力の深層力学は基本的にはそのような図式であったと思われる。しかし民主党が政権を獲得する直前、直後の小沢一郎や鳩山由紀夫に対する捜査は、少し様相が異なるような気がしないでもない。

民主党は言うまでもなく脱官僚を政策の中心として掲げ、本気で権力の質を国民目線に近いところに変えようとしている。またその対立軸を先般の選挙で、はっきりと打ち出したことによって国民の圧倒的な支持を受けたものである。しかし国民目線の脱官僚によって一番、ダメージを受けるのは実は官僚の中の官僚とも言うべき検察組織だと思われるからである。

検察の不正を摘発する機関は存在しない。誰も検察を裁けないのである。そういう意味では検察は国家機構の内部で神に近いような存在であるとも言える。善と悪を、正義と不正を切り分ける神聖な力が、いわゆる超越的な神秘性が国民目線で汚されるように感じるのは、裁判官以上に実は検察上層部の人間なのではないかと感じられる。

しかし系統的に言えば検察は法務省の管轄下に位置するのであって、法務大臣は我々が選挙で選んだ政党(総理大臣)が任命するのであるから、検察の権力は本質的に国民目線から乖離できる性質のものではないはずである。要するに目の前に同じような不正があって一方を捜査して、他方を捜査しないのであればその違いが恣意的なものでないことや、その不正自体を犯罪として立件する合理性や必要性を国民に説明する責任があるのではないかということである。公務員なのだから当然ではないか。神のように沈黙を保っていられるほど偉くはないはずである。それが国民主権というものだ。

政治家の不正に対する告発、捜査が政争の手段として利用されたり、検察組織の相対的な権力低下を妨害するためになされるなどの“より悪質な不正”がないように監視できるのは我々、一般市民だけである。それも国民主権の基本的な有り方だ。最終的に奪われるのは我々国民が、本来、享受出来るはずの物質的かつ精神的な生活水準なのだから黙って座視していてはならない。

企業から政治に対する働きかけについてもう一言、言っておきたい。国民目線で言えば、ゼネコン等の公共工事の受発注に絡む汚職よりも、業界団体が新しい時代変化の中における国民の要望を無視して既得権益を死守しようとする圧力の方がよほど弊害が大きいと思われる。たとえば新聞の再販制度や特殊指定維持のために新聞協会や新聞販売協会からなされる献金や政界工作のようなものである。新聞宅配の強制や値引き販売禁止は到底、今日の時流に適合しているようには思えない。これほどパソコンやインターネットが普及している社会にあって宅配がなければ国民の知る権利が損なわれるなどという理屈は笑止千万な話しであるし、既存の大新聞社が国民多数の知性や品位を底辺から支えているような考え方にも与することは出来ない。むしろ反対なのではないのか。

自由競争原理至上主義が今日の貧困や格差問題を生んだことは認めるが、なぜ新聞やTV業界だけがこれほどまでに保護されなければならないのか。

その部分に底知れない闇を感じるのは私だけであろうか。

不正と正義を切り分ける切れ目は、暗闇の中で固く癒着してしまっているのか目を凝らして見ても判然としないのである。