インフルエンザウイーク 1/2
ゴールドかシルバーか知らないが、連休直前に子供(男、9歳)がインフルエンザに罹って大変であった。17日の金曜日夜に電話をすると息子は「微熱があるねん。」と言っていた。
翌日18日の朝7時頃に元妻から電話があって38度近い熱があるとのことだった。しかしその日元妻は、入院している母親の見舞いに行く予定があるので午前中は子供を病院に連れていくことが出来ないという。「学校を休ませるから一日家で寝ていれば恐らく熱は下がると思う、もし夕方に熱が下がっていなければそれから病院に連れて行く。」と元妻は言った。その後、朝9時頃に気になった私は電話をかけ元妻に「それはインフルエンザと違うんか。」と言うと、「さあ、……」と困ったような様子である。それで私が「インフルエンザやったら早いこと医者に診てもらわんとあかん。もう連休に入るから遅れると病院探すのに苦労することになる。お母さんの見舞いに行くのは日を変えて、午前中に病院連れて行ったらどうや。」と言うと、途端に機嫌が悪くなって
「もう予約してあんねんから、日にちを変えることはできへんねん。」とまるでホテルの予約をしてあるかのような事を言う。元妻は性格的に融通が利かないというか、臨機応変に事の優先順位を判断して咄嗟に計画を変更することが出来ないのである。そのくせそのような時に元妻は、私から無理筋の強制をされたがために口論になったかのような話しを作りあげ、その口論そのものの責任を私に押し付けてくるのである。
「○ちゃんは私らがこうやって電話で言い合いしてるのが悲しい、言うてるで。こんなことしてたら、○ちゃんの具合が益々、悪なるやないの。もう私、出て行くから切るで。」
と、こんな調子である。こういう性格は結婚中であろうが、離婚しようが絶対に一生変わるものではない。どんなワクチンも効かない悪性の性格因子ウイルスを保有している。予後不良だ。それで私は仕方がないので、仕事をほっぽり出して午前中に息子をマンション近くの病院に連れて行って診てもらった。
そうしたところ案の定、息子は新型インフルエンザ(A型)に罹っていた。医者が言うには息子が通っている小学校はかなり流行っているようである。息子の一学年上である4年生が学年閉鎖になっていることは息子から聞いていた。やはり学校でもらってきたようである。その日は4日分の“リレンザ”と高熱時の頓服薬を処方してもらった。医者は2~3日すれば治るだろうと言った。
その後、息子をマンションで一人で寝させておくわけにはいかないので、私が住んでいる実家に連れ帰って看病することになった。インフルエンザが高熱を出すのはわかっているが、普段見たこともないような数字が体温計に表示されると恐ろしくなってくる。その日の夜から翌日の朝にかけて40度近くまで上がった。夕方に医者からもらった頓服を飲ませたがまったく効かないので、元妻と電話相談の上、座薬を入れることにした。座薬を挿入すると1度ほど熱が下がるのであるが1時間ほどでまた元の高熱に戻ってしまう。息子は高熱で喉が渇くのか、しきりに氷を欲しがるので私は一晩中寝付くことができなかった。夜中の2時半頃に熱を計ると39度8分であったので心配になった私はまたもや座薬を入れ、どこかの救急病院に連れて行った方がよいのかどうか判断がつかないので、ネットで慌てて調べた“小児科救急電話相談センター”に電話した。応対してくれた女性が言うには、座薬は一時的に熱を下げるだけですぐにインフルエンザ本来の高熱に戻ってしまう、短時間で熱を下げたり上げたりするのは体力を消耗するのでよくない、医者からリレンザを処方してもらっているのであれば、脳症や肺炎の兆候が出ていない内はたとえ高熱でも自宅で安静にしていた方が良い、ということであった。
なるほど言われてみればその通りだと納得したが、39度8分も熱が出ればどうにかなってしまいそうで、びびってしまう。実際に死んでいる子供もいるのだから。
翌日19日の土曜日昼ごろ、息子を寝かせながら事務所で仕事をしていると息子に持たせている携帯電話から私の携帯電話に呼び出しがあって、「しんどい。息がしにくい。」と言うのであわてて見に行くと、火照った顔で目がとろんとしていた。これは駄目だと思って、当日診療している数少ない病院を調べて電話をし症状を伝えると「救急車を呼びなさい。」ということなので119番した。
息子は子供専門の病院に搬送され、急遽入院することになった。
息子は19日(土)に入院し、その日から入院期間中ずっと点滴を打ち続け、病院で3泊して22日(火)にやっと元気になって退院することができた。その間、私と元妻が交代で付き添っていた。
以上である。まあ、どこにでもあるような平凡な話しかもしれないが、私はこの出来事から言いたいことが2点ある。
政教不分離の闇
地元の“噂”ではあるが今回の選挙戦について、以下のようなことを伝え聞いた。確かめようがないので真偽のほどは定かではないが、地元の話しは馬鹿にならない。私はおそらく本当だと思う。
ある自民党議員のご婦人は、選挙前に創価学会に入会したのだそうだ。その選挙区は幸いに民主党の候補者はいなかったが、国民新党と争っていた。たとえその話しが本当であったとしても、信教の自由があるのだから第三者がとやかく言うべき筋合いではないのかも知れない。それに、厳密に言えばそのご婦人がどのような経緯で入会に至ったのかは誰にもわからないことである。
しかし世間一般の“常識”に照らして考えれば、創価学会に選挙協力してもらうために入会を勧められ断れなかったのであろう。もちろん選挙は命がけの戦いなのであろうから、立候補する当人にとってもその家族にとっても綺麗ごとを言っていられない心情はよくわかる。例えれば、経営している会社が倒産するかどうか、自己破産して家族が路頭に迷うかどうかの瀬戸際のような気持になるのであろう。人間、本当に追い詰められれば大抵のことは厭わずに出来るものであろう。またそうすることが日本の伝統的な古き良き“大人”の姿なのかも知れない。屈従を強いられようと目的のためにひたすら耐え忍ぶことが、立派な大人になるためのイニシエーションである。まさしく自民党は大人の集団だ。その点、私は限りなく“駄目人間”である。何というか私は自らの魂を汚さない永遠の子供である。一生に一度でよいから票(金)のために土下座して妻に本意でない宗教への入信をお願いするような、いなせな真似をして見たいものだ。今となってはお願いすべき相手(妻)もいないのだが。
しかしである。たとえ私が大人に成りきれない中年坊やであろうが、純粋ひねくれ男であろうとも(そうであることは認めるが)、私が日本の全体的な利益と子供たちの未来を政治家以上に憂い、考えていることは事実である。
日本国憲法二十条、一において
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け又は政治上の権力を行使してはならない。
と定められている。
憲法の条文とは国家精神の骨格となる言葉であり、その基本から外れると国内は辻褄の合わない権力構造によって堕落するのである。憲法9条をはじめとして全ての憲法条文は、時代に合わせて改正するか、文面通り忠実に従うかの二者択一しかないのであり、恣意的な解釈は許されないものであるはずだ。特定の宗教団体が政治家やその親族に対して組織票の見返りに入信を促すことは、“政治上の権力行使”以上に宗教団体による国家権力の簒奪であるといえるのではないだろうか。
先にも述べた通り今回の話しは噂の域を出ないものであるが、これまで10年間の自公連立政権の姿は、特に自民党はそのように疑われても仕方がないのではないのか。目先の目的のためには手段をまったく選ばないように国民の目には見えるのである。事実、その通りではないか。まったく腐りきっている。
自民党はこの10年間で日本の経済を壊し、日本人の生活を壊し、日本人の心と生きる希望を壊した。そのような党が何を反省してよいのかもよくわからないままに、未だに100議席も保持していることは許しがたいことである。
もちろん組織票は創価学会だけではないが、宗教が国家権力と一体化するところの危険性を自民党政治家たちは本当にわからないのであろうか。マスコミにはやむを得ぬ理由があって口には出せないが、国民が政教不分離の自公政権に対してノーの判断を下したのは明らかである。
タレントの北野誠さんが芸能界から追放されたのは公明党から陳情を受けた自民党関係者が放送局を恫喝したのではないかと私は考えている。また圧力の事実自体をもみ消すように言論統制を強いたのではないのか。我々、日本国民はそのようなよく理由のわからない、“弱い者いじめ”を決して許してはならない。権力や資本は、組織的なバックボーンを持たない個人をいじめることで自らの“正義”を確かめようとする。冤罪の根本的な原因はそういうところにあるのである。
そこでだ。私は衷心よりお願いする。
今後の政局の流れの中でまたもや政教不分離の政界構造となる可能性がある。新政権でそのようなことになれば日本人の心はより一層病んでいくことになるであろう。これからの日本が同じ過ちを繰り返さないためにも、自公連立政権時代の政教不分離の問題を童(道)心のもとで亀井静香大臣に追及し続けていただきたい。
日本の行方
選挙が終わって政権交代したばかりであるが、今後の中・長期的な民主党政権と日本の行方を大胆かつ無責任に予測してみたい。
まず来年の参議院選挙の結果が一つの大きな指標となるであろう。今後、一年ほどの間に鳩山政権に対する国民やマスコミの批判が、外交や財源の問題などで現実問題として顕在化していくであろうから、これまでの自民党批判に後押しされた民主党支持の流れはブレーキがかかったように減速することになると思われる。また、参議院は“良識(再考)の府”とも呼ばれる通り、国民の投票心理においてもバランス感覚が働いて自民党優位になることが想定されるので、民主党の単独過半数は難しいのではないだろうか。
社民党や国民新党は閣僚として存在感を上手くアピールすることが出来れば議席を大幅に増やすであろう。
問題は次の衆議院選挙である。次回の衆議院選挙で日本の今後の方向性が完全に確定されるように思われる。おそらく任期の4年は持たないであろう。鳩山政権が行き詰まって次の総理大臣が選任される時期に、民主党の政権担当能力そのものが問われることになり解散総選挙となるのだと予想される。よって2年後位にまた衆議院選挙になる可能性が高いのではないだろうか。
その結果については二通りのパターンが想定される。まず今回の選挙がこれまでの自民党の長期政権を打ち壊す歴史的な結果であったことから、次の選挙は大地震の揺り戻しのような民意の力学が働くと思われる。今回の議席数からの微増、微減で安定することはちょっと考えにくい。また大きく動くのだと思う。第一は自民党が復活することである。200議席位で民主党と自民党が拮抗して並んでしまうか、あるいは自民党が完全に形勢逆転してオセロのように、またもや3分の2位の議席を取り返してしまうかである。
第二は反対に民主党が今以上に躍進して、自民党は公明党位の議席数(20~30)まで減少してしまうことである。こうなると自民党はもはや半永久的に与党に復元する力を失うばかりか、二大政党の一翼としての資格すら認められないので党自体の存亡が根本的に問われることとなるであろう。
私自身は正直なところ後者の方が可能性として高いように思われるのである。その理由は国民がこれまでの自民党権力そのものに条件反射的な拒否反応を示し始めてきたことと、長期的な時代のスパンで見て自民党の役割が終焉しつつあるように感じられるからである。参議院で民主党の暴走に歯止めをかける位の位置付けがちょうどよいのではないだろうか。自民党は時代の変化を敏感に読み取って、自ら変わることが出来なかったのだから自業自得である。
後者の第二のパターンになった場合に日本の二大政党制はどうなるのかと言うと、小沢一郎は民主党を二つに割るであろう。小沢対反小沢が日本の新しい二大政党の構図となるのであろう。私はそういう気がしてならない。たぶんそうなるのであろう。ただし民主党にも大きな問題がある。人材不足であるということだ。総理の座を担える人物がほとんどいないということは致命的である。鳩山の後を考えると非常に心許ない。
鳩山由紀夫とは一体どのような人物なのであろうか。雑誌Voice寄稿の“私の政治哲学~祖父に学んだ「友愛」の旗印”を読んで感じたことがある。全般的には日本が進むべき針路について、時代の変化に合った正しい感覚を持っているように思われるのだが、やはり“友愛”の言葉が鼻に付くのである。
友愛とはフリーメイソンの理念だ。鳩山一郎はフリーメイソンであることを公言していた。鳩山一郎が『全体主義国家対人間』という書物を読んで共感を覚え、『自由と人生』という書名で翻訳、出版したという、汎ヨーロッパ運動の提唱者クーデンホフ・カレルギーもまたフリーメイソンに入会していた。鳩山由紀夫は祖父、鳩山一郎とクーデンホフ・カレルギーに強い影響を受けているようである。
ならば当然、鳩山由紀夫もフリーメイソンリーなのかと言えばそれはわからない。私の印象では、鳩山由紀夫はフリーメイソンの友愛精神を理想の対象として一定の距離感を持ちながら美化しているように感じられる。友愛が内面(人格)化された言葉としてではなく、憧憬として伝わってくるということは鳩山由紀夫自身はフリーメイソンリーではないのではないかという気がする。
その点、弟の鳩山邦夫の方はいかにも実務的なフリーメイソンリーに私には見える。そもそもフリーメイソンという組織は秘密主義集団であるので、会員がそれも首相の地位にある者が公然と友愛精神を啓蒙することは考えにくい。ビル・クリントンが大統領の職を利用してフリーメイソンの宣伝をするようなものである。
鳩山由紀夫の元々の気質は理想主義者であって、少し現実離れしたところがあるので政治家よりも学者タイプなのであろう。理想主義者のお坊ちゃまだから、汚いことや不正に魂を売り渡すようなことはないであろう。その点は自民党と違って評価できる。しかし夢心地のような憧憬としての友愛を乗り越えて、新しい社会を作り上げることができるかどうかとなるとかなり疑問ではある。
政権は交代したが相変わらず、日本の行方は混沌としている。
官僚から政治家へ、そして最終的には日本のポピュリズムが一つの層として力を持たなければならないのだ。マスコミもまた敵である。