あきらめるな。
宮崎県の韓国(からくに)岳山中で小学校5年生の男の子が10月31日から行方不明になっているようだ。
このような記事を目にすると、自分も捜索に加わりたいような気持ちに駆られる。少年は2合目辺りから一人で先に登り始め、同行していた家族たちとはぐれてしまったようである。2合目から頂上までの登山ルートの中で、間違えて脇道に逸れてしまいそうな地点は何箇所かに限定されるのではないだろうか。
こう言っては何だが、闇雲に草を払うような捜索の仕方だと見つかるものも見つからないのではないのか。
自衛隊、消防署員の人々には、冷静で効率的な分散捜索に全力を挙げていただきたいものである。少年の視点、心理を意識しながら足跡を辿れば、必ず見つかるのだと信じたい。
また人工衛星による画像解析で遭難者を見つけ出すことは出来ないものであろうか。今やスパイやテロリストの監視に利用されている位なのであるから、技術的には不可能ではないと思うのだが。何よりも先ず、山中での位置情報を正確に知らせる携帯端末を早急に開発し普及させるべきだと思う。
宮崎県の知事には、こういう時こそ気合の入った陣頭指揮で大いに目立って欲しいものである。
新しい時代における新聞の問題
新聞報道、新聞業界の問題は民主主義の根幹に深く関わっている。我々一般市民がこれまで同様に、この問題を座視していれば間違いなく我々の物質的かつ精神的な生活水準は誘導された情報によってメディア既得権益の餌食とされ続けることであろう。
ところが一般大衆は、新聞や資本系列化のTV番組などによる“洗脳”が強すぎて、問題を問題として認識するところまでなかなか行きつけないのである。
ここに日本の民主主義の深刻な病巣が存在する。
先の選挙で民主党が大勝した。鳩山首相が選挙期間中にどの程度の認識と覚悟で“国民目線”の政治を訴えていたのかはわからないが、“真の国民目線”とは、そんな生易しいものではない。少なくとも国民目線とは“友愛”のような抽象的でまろやかな理想ではなく、司法権力や大新聞社を筆頭とするマスコミなどのエスタブリッシュメント層と大衆階層との間における熾烈な闘争が不可避の、日本が新しい時代の夜明けを迎える第1ページと位置付けられるものだ。
これをもって鳩山政権及び民主党を社会主義と区分する政治家がいるのであれば、明らかに知的レベルにおいて貧困であるというべきだ。
日本という国家は確かに資本主義国家であるが、一口に資本主義と言ってもその程度や態様は様々であって、当然のことではあるが社会主義的な要素を一掃させることは出来ないのである。今の日本は長引く経済の停滞や新規事業における研究開発予算縮小など民間部門の活力に陰りがあるのは事実であるが、相対的に見れば、自民党政権時代における政官癒着構造の弊害で官僚や教育、医療などの“社会主義的要因”の腐敗や劣化が著しく、その結果日本の国力が衰退したと見るべきである。そのような時代の流れの中で必然的に、パラダイムの転換が伴うような社会変化として現在、民主党が国民の幅広い支持を受けているということを基本的な認識としなければならない。
それでその社会主義的な(要するに公共財的な)要因の中でマスコミ特に大新聞社は、時代の変化についてゆけない前近代的な業界体質であるがゆえに、自らの社会的権威低下や収益の減少を回避する必要性により、大衆誘導や洗脳による情報操作から離れられないという点において日本の宿痾と言うべきである。
国民目線というか、愚直に民意を尊重する政治のあり方は本来の民主主義の基本であるが、絶えず民意をコントロールしようとする新聞社及び系列TV局などの利権と対立するのである。この辺りの事情が大衆には中々わからないから、多くの人は簡単に騙されてしまうのである。
具体的に説明することにする。前回、私は新聞社の実名公表基準について疑問を呈する記事を書いた。メディアの構造的な問題がわからない人は、一読して男女問題に触れているように感じられるであろう。要するに報道が女に甘すぎるのではないかといったところである。しかし私に言わせれば、そのように感じる時点で既に新聞社に誘導されているのである。これは社会を舞台に演じられている壮大な手品のようなものである。観客(大衆)には右手に注目させておいて、さり気なく左手でトリックを仕込んでいるのだ。痴漢容疑における男の実名報道と女の殺人容疑が同じ紙面で並置されれば、普通の感覚の人間は微妙な“男女問題”に口を差し挟みたくないような心境に陥るであろう。しかし新聞社にとっては、おそらく表面的にも内実的にも男女問題などまったく関係ないのである。新聞社の権威の源は、事件の軽重や情状をペンの力で誘導し操作するところにあるのであって、男女間の二項対立を読者に意識させる記事(編集)は“書き手”にとっては非常に効果(率)的なのであるが、そこに公共性の視点は欠落している。
もちろんこのような“独自解釈”に対して、私のひねくれた性格から導かれた一方的な見解に過ぎないと思われる方も多いであろう。その通りである。私はひねくれている。それで結構だ。私は、自分の頭で考える人間だけを相手に語りかけたいと思っているので弁解する気も、論争する気も一切無い。
鳩山首相に対する各新聞の政治資金規正法違反、追及の姿勢は新聞社が奉ずる“正義”がいかに偽善に満ちているかをよく表わしている。民主党はそもそも企業献金廃止を公約としているものである。今から3年ほど前に新聞の再販制(再販売価格維持制度)の見直しが公正取引委員会で進められた時に、各新聞社は猛烈な勢いで再販制存続の持論を紙面で展開させ、水面下で自民党議員へのロビイング活動や新聞販売協会を通じた献金も当然のように行われていたと思われるが、結局のところ見直し案を潰してしまった。新聞社は今、取るに足らないような政治家の不正を拾い上げてきて検察と協力するかのように、国民目線の政治改革を封じ込めようとしているように見られるものである。鳩山首相の故人献金の問題と果たしてどちらが社会的に問題が大きいとよく考えていただきたいものである。
また民主党にも進言したいことであるが、まあ釈迦に説法かも知れないが、既存の勢力は民主党政治そのものを様々な圧力をつかって、これまでの自民党政治と実質的に変わらないものに引き戻そうと仕掛けてくるであろう。それが現時点では民主党に緊張感があって骨抜きにするのが難しいと思われるところから、政治資金規正法で民主党政権そのものを潰しに来ているのである。今後、どのように展開するのかわからないが最終的には国民の理解と支持が全てであることを肝に銘じて忘れないでいただきたい。
国民は馬鹿なようでいて、実はそれほど馬鹿ではないのである。裏で、こそこそと小細工しているのは全て見えてしまうものである。
“天網恢恢疎にして漏らさず”だ。
この老子の言葉を全ての新聞社と政治家に送ろう。新聞記事の著作権についての考え方や新聞料金の再販制、契約方法についても言いたいことがあるが、次回に続く。
いつもながら私の気が変わらなければの話しであるが。
新聞社の実名報道基準
どうも私には新聞報道における、容疑者氏名の公表基準と言うものがとんとわからない。
結婚詐欺で逮捕された女は、複数男性の殺害に関与している疑いが濃厚であるにも関わらず、朝日新聞においても読売新聞でも“東京都豊島区の女(34)”である。その一方で新聞社は、“犯罪”とも言えないような痴漢やわいせつ容疑などの迷惑行為における実名報道は大変お好みのようである。
たとえば10月27日、読売新聞夕刊には、強制わいせつ容疑で阪急電鉄社員、“谷口洋一容疑者”(62)が実名報道されている。介護士の女性(25)とその母親3人で食事をした帰り、女性を自宅に送る途中で二人きりになった時に無理やり体を触ったのだという。谷口洋一容疑者は「身に覚えがない」と否認しているという。
果たしてこれが、実名報道する内容の事件なのか。これだけの情報量ではあまりに曖昧すぎて犯人と特定することも憚られるであろうし、仮に事実であったとしても実名を公表することの公共的な利益が私には疑問である。谷口洋一容疑者の親族は一体どのような気持ちになるであろうか。
同じく10月27日、朝日新聞朝刊には、私服の補導員をかたって女子中学生の体を触ったとして、兵庫県芦屋市の“永井透容疑者”(24)がわいせつ目的誘拐と強制わいせつの疑いで逮捕されたことが報道されている。
結婚詐欺で逮捕された女に関する報道では、現在のところ朝日新聞と読売新聞で微妙な違いもある。朝日新聞では、被害者の男性氏名を不動産管理会社員、“大出嘉之さん”と実名で記載しているが、読売新聞では男性会社員(41)とされている。読売新聞は加害者と被害者が、“男女平等”基準で裁かれているし、朝日新聞は、結婚詐欺に引っ掛かった“哀れな”男を晒し者にしているようにも思える。
いずれにしても、大新聞社の閻魔大王ぶりは本当に鼻持ちならないし、閉口させられる。