龍のひげのブログ -509ページ目

車と自転車の関係性

あれは、雨降る2週間ほど前の日のことであった。

夜の6時半頃であったと思うが、荷物を降ろすために車(マツダのヴァン)を会社の前に止めた。会社事務所の前は4メートル幅の歩道がある。その前の道路は中央分離帯で仕切られた片側2車線の国道である。事務所の前は歩道と国道の境界部分の段差がない角地なので、私はいつも車を半分歩道に乗り上げて停車することにしている。

車から降りようと運転席側のドアを20cmほど開けた時に、“ガチャン”と音がして衝撃があった。私は驚いて思わず、「あっ」と声を上げた。自転車がぶつかったようだ。自転車は転倒することも、止まることもなくそのまま行き過ぎた。車から降りて見ると、ドアを開ける取っ手部分が取れてぶらさがっている。ふと前方を見遣ると、30メートルほど離れた地点で自転車が止まって振り返りこちらを見ている。自転車の男は、“当て逃げ”扱いされることを心配したのであろう。私は自転車の男を手招きで呼び戻すかどうか一瞬、迷ったのであるが、車と自転車であればこちらが不利になるであろうし、その程度のことで過失割合がどうのこうのと面倒なことをやってられないと思った。雨も降っていることだし男と口論しても仕方ない。男と私に30メートルの距離を挟んだ間合いがあったが、私に争う気配がないことを男は感じ取ったのであろう。自転車の男は、了解したように何も言わずそのまま立ち去った。

翌日の水曜日はマツダ販売店が定休日であったので、翌々日の木曜日に早速、部品を取り寄せてもらって販売店へ修理に行き、そこでマツダのサービスマンと話しをした。

私が自転車に車道を走らせるのは問題だと意見を述べると、サービスマンは

「ほんまに殺生な話しやと思いますわ。そやけど、この程度のことで済んでよかったですわ。もし自転車がこけて怪我でもしていたら、ややこしいことになっていたと思います。車と自転車やったら、どうしても車が悪くなってしまいますから。」と言っていた。

自転車が車道でこければ怪我どころか、後続車にはねられて死亡事故につながる可能性があったと考えればぞっとした。ドライバーなら誰でも同じだと思うが、車のドアを開ける時にはそれなりに注意を払っている。しかし私の場合は、雨の日の夜間で相手方自転車が無灯火であったのでまったくわからなかった。そもそも自転車が車道を当然のように走ってくるという感覚が身についていない。危険性の問題点は、バイクであれば車のドアがいきなり開くことを絶えず“本能的”に警戒しているので停車している車のすぐ際をすり抜けてくることはあり得ないのだが、車道を走っている自転車は自分が後続の車に引っ掛けられることを“本能的”に恐れるから停車している車すれすれの所をかすめてくるということである。それは普通の自転車はバイクのようにバックミラーが付いていないから右後方の車が見えないし、また危険を回避するためにバイクのようなスピードが出せないから当然であるとも言える。また自転車のライトは仮に点いていたとしても車やバイクに比べればかなり光度が弱いから、雨の日であればおそらくわかりにくいであろう。

それらの理由で私は自転車が原則的に車道を走るべきだという指針は大いに問題があると考えるものである。歩道を走る自転車の死亡事故が多発しているというが、歩道はあくまで歩行者優先で安全に自転車を走らせていれば事故など起こるものではないはずだ。歩道を我が物顔にマナー違反の危険走行をしている自転車に対して、警察は注意や取締りをするべきである。そもそも今でも、警察は暇つぶしのように若者の自転車を止めては無灯火の注意や盗難の照会をしているではないか。そんな暇があるなら歩道における自転車の安全走行に目を光らせるべきである。それが公務員の仕事だ。高齢者や子供を除く、全ての自転車は車道を走れという国の指針は滅茶苦茶だ。私のようにドアと接触するケースだけでなく、車が左折時に自転車を巻き込む事故も増えるのではないかと危惧されるものである。

それで聞くが駐車禁止の取締りをしている二人組みの監視員が、正々堂々と歩道を自転車で走らせているのは一体どういうわけだ。民間人は危険でもかまわないが、警察の手下は特例ということか。この点についてはマツダのサービスマンに聞いても

「さあ、我々にはわかりません。」とお手上げの様子であった。

年の瀬も押し迫ってきたが景気も回復の見込みが見えないし、世の中腹の立つことばかりである。

お釣りに関する話し 2/2

“お釣り”つながりの別の話しであるが、私はこれまでの人生でつり銭で揉めたことが一度だけある。そのことについて書くことにしよう。

もう10年以上前であるが、ある本屋で何かの雑誌を買った時のことであった。私が住んでいる町には大きな書店がない。隣町にはあるが、私が本を買う時は大体、難波か東梅田まで出かけてジュンク堂や旭屋書店に行くことが多い。最近はもっぱら“アマゾン”を利用している。元々私は、小さな本屋で本や雑誌を買うことは滅多にない。しかし、その時は何を買ったのかは忘れてしまったが、急ぎで欲しい雑誌があって近くの駅前にある小さな書店に自転車で買いに行ったのであった。広さ7~8坪くらいの小さな店で、中央にあるレジ場には老婆が座っていた。私は何百円かの雑誌を持ってその老婆に渡し、財布の中を見ると1万円札しかなかったので1万円渡したのである。そこからが大変であった。信じられないかも知れないが、今から書くことは全て事実である。

その老婆はレジスターからおもむろに何枚かの千円札を取り出すと、何ともゆっくりした非現実的とも言えるような遅い動作で1枚、1枚丁寧に数えるのである。途中で、この婆さん寝ているのじゃないかと本気で思ったほどである。それでやっと数え終わったかと思うと、何のつもりかレジスターからもう1枚の千円札を取り出して束に加え、また1から同じようなスピードで数え始めた。まるで念仏を唱えている姿のように見えた。札をめくるというよりも撫でているのである。それで2回目が終わってやれやれと思っていると、札を1枚レジに戻して、また1から3度目の読み直しが始まったのでぎょっとした。私は呆気にとられたが、お年寄りがつり銭を間違えてはならないと一生懸命数えているのだからと思うと、早くしてくれとは言えなかった。それで結局、2分近く、あるいはそれ以上かかったのではないだろうか。何かの儀式かまじないのような札読みが終わって、ほいという感じで目の前につり銭が出されたので私はそのまま財布に突っ込んで帰宅の途についたのであった。

それで店を出て自転車で100メートル程行ったところで、もしやと不安が胸をよぎった。それで財布の中を改めてみて、“やられた”と思った。千円札が8枚しかないのである。あれだけ時間をかけて読み間違えるとは、受け取る瞬間にはまさか思いもよらなかった。どうしようかと迷ったが、このままで済ますのは、あまりに気持ち悪い。確かに受け取った時に確認しなかったのは私の落度であるから返してもらうことは難しいであろうが、“道義的”に一言、言うべきだと考えたのである。千円ぐらい別にかまわないのであるが、私にとって金の問題であって金の問題ではなかったのである。それが千円ではなく1万円であっても同じことであった。それで本屋に引き返した。店内に老婆の息子と思しき店主がいた。息子といっても、60歳位の頭がすっかり禿げ上がった男である。私は店主に経緯を説明して、あのような金の数え方をして読み間違えるのは、わざととは言わないまでも問題があると言ったのである。老婆が2分もかけて札を読み、1枚少なく間違えたのは厳然とした事実であった。その場で改めなかったのは私の落度であるが、あのような状況で再度、確認する人間はよほどの暇人か変人である。普通の人間は、店を信用するものである。但し、私は老婆が故意に千円ちょろまかしたのだとは考えなかった。なぜならその本屋は小さくとも地元では老舗でそれなりに歴史がある店として通っていたので、つり銭詐欺のようなことをする訳がないからである。

私にとっては本質的には金の問題でなかったのだが、店主にとっては純粋に金の問題でしかなかったようであった。僅かでも店の責任を認めるようなことを言えば、千円損すると考えたようだ。私は、仮に店主が

「うちの母親がえらいお待たせしてすみませんでしたな。そやけどほんまに間違うたんか、どうかということは、やっぱりその場で言うてもらわんことにはどないもしようおまへん。そやから千円お渡しするというわけにはいきませんが、ご容赦くださいな。」

というような態度であれば黙って引き下がったのである。しかし店主は、釣りを数えるのが遅いのは年寄りやからしようがない、その場で確認しなかったあんたが悪い、というように一方的に私に非があるような言い方をしたので、私としても引くに引けなくなってしまったのである。声を荒げるようなことはなかったが、その場で膠着的な口論が続いた。

それで御当人の老婆はというと、私と店主が言い合っているすぐ横のレジ前に相変わらずちょこんと座っていて、私には関係ありませんみたいな顔で何の反応も示さないである。かと言って、ボケている風にも見えなかった。

そうこうする内に店主の嫁と思しき女性が現れた。私と店主が口論しているのを見て誰かが呼びに行ったのかも知れない。店主の嫁は登場するなり、静かな口調ながら、

「お客さんに対して、そんなことを言うもんじゃありません。」

とぴしゃりと言った。それでそれ以上何も言おうとせず、私に一言

「すみませんでした。」と謝って、千円返してくれたのである。

店主の男は何も言わずにプイと横を向いて、店を出てどこかに行ってしまった。老婆は無表情に前を向いて黙ったままである。そういうあらましの一日であった。

後日その日のことを振り返ってみて、結末が図らずも浮き彫りにした本屋の家庭内、相関関係のことを思った。店主の嫁と母親との確執であるとか、店主と妻の力関係とか、そういったどこにでもあるような人間模様についてである。しかし、私にはそれ以上にその本屋の経営上の問題が接客に影を落としているように思われた。その本屋は、小さな店内の何箇所かに万引き防止用のカメラが設置されていて、レジに置かれたモニターには4分割された画像が常時、映し出されていた。売り上げの金額が小さいから、その本屋にとっては1冊の万引きや、つり銭間違い(本屋が損する間違い)のダメージが大きすぎるのであろう。

老婆は普段から息子か嫁に絶対につり銭を間違えるなと、繰り返しくどくどと言われていたのかも知れない。それであのような札の数え方になり、無意識的に客が損して店が得するような間違いをしでかす心理状態に追いやられていたのかも知れない。もしそうであれば客にとってはいい迷惑である。

つり銭の間違いがなかったとしても、あのような狭い店内でカメラに監視されるのは気分のいいものではない。小さな書店では、買うつもりで本を手にとって見ていてもいやな顔をされることがある。ジュンク堂が客の“座り読み”のために机と椅子を用意しているのとは同じ商品を扱っていても、まったくの別世界である。

それで私はその日以降、その駅前の本屋だけでなく家族経営の小さな書店では絶対に買わないと固く心を決めたのであった。それでは小さな本屋さんが可哀想だとか、そんな事情は私には何の関係もない。私は平均以上に活字に対して親和性が高い人間である。また決して万引きなどしない人間でもある。要するに本屋さんにとって私は、自分で言うのも何であるがかなり良質の客であるはずなのだ。確かに万引きの被害は大きいのかも知れないが、経営上の悪循環は良質の客をも遠ざける。またいくら店の売り上げが小さくても、客の私がまるで釣銭詐欺をしているように受け取られかねない申告をしなければならないことは、不愉快極まりないことであった。

それで実際にその後10年以上にわたって古書店以外の小さな本屋には立ち入ったことがない。神経質な目で監視されている空間は鈍感でない人間にとって精神衛生上好ましくはないし、そもそも買いたいと思えるようなろくな本など置いていないからである。くだらない低俗なタレント本のようなものばかりだ。仮に読みたい本があったとしても、そのような空間では書物に蔵された言葉の魂(言霊)が穢されているようにまで思えてきて、穢れた言葉の本に触れたくないとまで私は零細書店に対して嫌悪感を抱くようになったのである。まあ私も少し極端なところがあるのかも知れないが。ところが古書店の雰囲気は私は好きなのだ。静謐な空間に言葉と文字の精霊が宿っているようで、その場にいるだけで心が癒されるのである。活字離れという人がいるが、不思議と町の古本屋は潰れないものなのである。

結局のところ自分の波長と合わない場所に入ってしまうと、そこは自分の居場所ではないということを再認識させられるような事件が形而上的に発生しそうで恐ろしくもある。“客筋”とはおそらくそういう風に誰かを遠ざけ、誰かを呼び込みながら決まってゆくものなのであろう。

人づてに聞いたところによると、本屋さんの老婆はその2~3年後に亡くなったようである。また、その数年後にその老舗の小さな本屋は営業権を売却して経営者が代わってしまった。新しい経営者は以前の店名のままで何年間か書店を営んでいたが、今から半年ほど前に店を閉めてしまったようである。今は貸し店舗になっていて、2~3日前に前を通ったところ店内はすっかり空の状態で店前で野菜が売られていた。

本よりも野菜、今やそういう時代である。 その野菜を何気なく見ていると、10年前の不愉快なできごとがまざまざと鮮やかに蘇ってきたのであった。

お釣りに関する話し 1/2

本当は社会マナーとしては、このようなことに触れるべきではないのかも知れないけれど、日常生活のちょっとした場面で感ずる世の中のご婦人方(特に年配のお婆さん)への苦言をあえて呈したい。

たまにスーパーなどに買い物に行くと、レジで清算している女性が財布の中の小銭を掻き集めるのに手間取っていることが多い。1円玉や5円玉を少しでも減らして財布をすっきりさせたい気持ちはわかる。5秒くらいであれば仕方ない。しかし10秒を超えると列に並んで待っている方としては、いらいらしてくる。酷いのになると20秒以上にわたって財布の小銭と格闘している女性がいる。

運悪くそういう女性がいる列に並んでしまうと、ほとほとうんざりさせられることになる。そのような光景は大阪の特徴なのか、少なくないというよりほぼ常態的に見られる。しかし、“いらち”の大阪人といえども後ろからせかしたり、文句を言っている場面に出くわしたことはない。それは思うに、スーパーの買い物客は女性が圧倒的に多いことが原因なのであろう。女性同士、同類意識があるから寛容になれるのかも知れないが、男の感覚ではちょっと考えられないことである。おばさん又はお婆さんだから仕方ないと思って我慢して待っているが、男が相手なら怒鳴りつけたくなる。

しかし男は年齢に関わらず、若かろうが年寄りであろうがそういうことはしないものである。私の場合は自分の番が来る前に5円玉と1円玉を何枚か出しておいて金額が表示されれば、札と10円未満の端数をさっと出すようにしている。10円玉や50円玉の数まで減らそうとは思わない。とにかく、男がレジ前で財布の小銭を漁って後ろの客を待たせている場面は見たことがない。

私も含めて男は人を待たせるのが嫌いなのである。嫌いというよりは、男は早く次の人に回してあげなければならないという“義務感”に急き立てられるものだが、女はやっと自分の番が回ってきたのだからそこで自分なりの時間を費やす“権利”があると考えるようだ。本当にそういう風に考えているかどうかは別だが、少なくともそのように見えるということである。

男と女では時間に対する感覚にかくも違いがあるものなのである。美しい肉体を有する若い女性が、男の熱烈な求愛に対して曖昧なアルカイックスマイルで応え、待たせ続けることはどこか神々しいような威厳も感じられるが、それもひと時のことである。年を取って性的な魅力がなくなってしまえば、レジ前で財布の底の1円や5円を掻き集めながら後ろの客を平気で待たせるようになる。“女”というのも分かりやすくも悲しい生態である。

一応念のために言っておくが、男であれ女であれお年寄りの動作が緩慢なのは止むを得ないことであって、公共道徳的には辛抱強く待ってあげなければならない、という大前提の上での話しである。程度や許容に対する社会的感覚や、待つことと待たされることの男女間の意識の違いについて述べているだけである。こういう断りを入れなければ日本という国は極端に振れてしまいそうな恐ろしさがある。特に制度の強制力というものは、人間の中庸を推し量るバランス感覚を破壊してしまうのである。