政教不分離の闇
地元の“噂”ではあるが今回の選挙戦について、以下のようなことを伝え聞いた。確かめようがないので真偽のほどは定かではないが、地元の話しは馬鹿にならない。私はおそらく本当だと思う。
ある自民党議員のご婦人は、選挙前に創価学会に入会したのだそうだ。その選挙区は幸いに民主党の候補者はいなかったが、国民新党と争っていた。たとえその話しが本当であったとしても、信教の自由があるのだから第三者がとやかく言うべき筋合いではないのかも知れない。それに、厳密に言えばそのご婦人がどのような経緯で入会に至ったのかは誰にもわからないことである。
しかし世間一般の“常識”に照らして考えれば、創価学会に選挙協力してもらうために入会を勧められ断れなかったのであろう。もちろん選挙は命がけの戦いなのであろうから、立候補する当人にとってもその家族にとっても綺麗ごとを言っていられない心情はよくわかる。例えれば、経営している会社が倒産するかどうか、自己破産して家族が路頭に迷うかどうかの瀬戸際のような気持になるのであろう。人間、本当に追い詰められれば大抵のことは厭わずに出来るものであろう。またそうすることが日本の伝統的な古き良き“大人”の姿なのかも知れない。屈従を強いられようと目的のためにひたすら耐え忍ぶことが、立派な大人になるためのイニシエーションである。まさしく自民党は大人の集団だ。その点、私は限りなく“駄目人間”である。何というか私は自らの魂を汚さない永遠の子供である。一生に一度でよいから票(金)のために土下座して妻に本意でない宗教への入信をお願いするような、いなせな真似をして見たいものだ。今となってはお願いすべき相手(妻)もいないのだが。
しかしである。たとえ私が大人に成りきれない中年坊やであろうが、純粋ひねくれ男であろうとも(そうであることは認めるが)、私が日本の全体的な利益と子供たちの未来を政治家以上に憂い、考えていることは事実である。
日本国憲法二十条、一において
信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け又は政治上の権力を行使してはならない。
と定められている。
憲法の条文とは国家精神の骨格となる言葉であり、その基本から外れると国内は辻褄の合わない権力構造によって堕落するのである。憲法9条をはじめとして全ての憲法条文は、時代に合わせて改正するか、文面通り忠実に従うかの二者択一しかないのであり、恣意的な解釈は許されないものであるはずだ。特定の宗教団体が政治家やその親族に対して組織票の見返りに入信を促すことは、“政治上の権力行使”以上に宗教団体による国家権力の簒奪であるといえるのではないだろうか。
先にも述べた通り今回の話しは噂の域を出ないものであるが、これまで10年間の自公連立政権の姿は、特に自民党はそのように疑われても仕方がないのではないのか。目先の目的のためには手段をまったく選ばないように国民の目には見えるのである。事実、その通りではないか。まったく腐りきっている。
自民党はこの10年間で日本の経済を壊し、日本人の生活を壊し、日本人の心と生きる希望を壊した。そのような党が何を反省してよいのかもよくわからないままに、未だに100議席も保持していることは許しがたいことである。
もちろん組織票は創価学会だけではないが、宗教が国家権力と一体化するところの危険性を自民党政治家たちは本当にわからないのであろうか。マスコミにはやむを得ぬ理由があって口には出せないが、国民が政教不分離の自公政権に対してノーの判断を下したのは明らかである。
タレントの北野誠さんが芸能界から追放されたのは公明党から陳情を受けた自民党関係者が放送局を恫喝したのではないかと私は考えている。また圧力の事実自体をもみ消すように言論統制を強いたのではないのか。我々、日本国民はそのようなよく理由のわからない、“弱い者いじめ”を決して許してはならない。権力や資本は、組織的なバックボーンを持たない個人をいじめることで自らの“正義”を確かめようとする。冤罪の根本的な原因はそういうところにあるのである。
そこでだ。私は衷心よりお願いする。
今後の政局の流れの中でまたもや政教不分離の政界構造となる可能性がある。新政権でそのようなことになれば日本人の心はより一層病んでいくことになるであろう。これからの日本が同じ過ちを繰り返さないためにも、自公連立政権時代の政教不分離の問題を童(道)心のもとで亀井静香大臣に追及し続けていただきたい。