龍のひげのブログ -515ページ目

我が神経症と自己分析 2/3

しかしである。はたして“不安”そのものは排除されるべき悪なのであろうか。私のこれまでの人生には絶えず不安がつきまとって離れなかった。ムンクの絵のようなものだ。安心が健康的な善であるという社会概念からは、必然的に不安は不健康な病理を意味することになってしまう。ならば私は基本的には不健康で病的な精神の人間なのであろうか。

人間の根源的な感情の一つに“恐怖”がある。誰しも骨身に沁みるような本物の恐怖を味わいたいとは思わないであろうが、恐怖が生存本能に結びついていることは言うまでもない。死を恐れる感情が生きる能力を育んでいる。恐怖は肉体に密接しているから誰にとってもわかりやすい。

それでは一体、不安は何に結びついているのであろうか。一口に不安と言っても様々であろうが、私は“漠とした不安”は、その時代や国の社会様式と目に見えない鎖で繋がっているのだと考える。不安感情は社会(身の回り)に対する言葉以前の、高感度のセンサーとしての側面が本質的にあるはずだ。しかし権力や精神医学は不安を個人的な病理現象として看做そうとする傾向が強い。適切な例えかどうかはわからないが具体的に説明すると、ロシアン・ルーレットに参加する人間が極限の恐怖を感じるであろうことは否定しようがないが、ロシアン・ルーレットの仕組みが複雑かつ高度に社会化されて国家や制度、社会意識、道徳などが関わってくる壮大なゲームになると、そこにあるのは恐怖ではなく不安である。そしてその社会の中で不安を感じる人間は、不安の発生原因が社会構造にあるのか自分自身の精神上の問題なのか、見分けがつかなくなってしまうことになる。そうなると不安の評価軸はその不安が正当なものであるかどうかよりも、一人の人間が社会環境に適応できているか不適応であるかという規格にごまかされてしまうことになるのだと私は思う。

確かに現実的に考えれば、現代社会において不安を鈍磨させなければ生き難いことは事実である。私の例で言えば、先に述べたように映画館内で不安が高じて90分座席に座っていられないと訴え、どこかの精神科に行くとすれば、医者はそれは不安神経症だから薬を処方しましょうということになるであろう。この薬を飲めば今後そのような場面に遭遇しても不安を軽減させることができますよと。

しかし精神科の医者は、その映画館経営者や映画館を設計した人間が悪いのであってあなたの不安は健全なものです、とは絶対に言わないはずだ。

そんなことを言ったところで商売にならないからだ。医者の仕事は商売である。私の偏見も多少あるのかも知れないが、肉体ではなく目に見えない精神を扱う医者(精神科医)は基本的に病理そのものを権力と折り合いをつけながら拡大再生産させようとする路線に乗っているように思われる。要するに最終的には人間精神の何が正常で、何が異常かを判断する基準は国家権力の都合をおいて他に何もないからである。戦争時の殺戮行為や、刑事事件における心神喪失の適用がそれらのことをよく象徴している。

もし映画館で何人もの人間が死ぬような火災が実際に発生すれば、当然その映画館は警察に捜査され防災上の責任を問われることは有り得るであろう。しかしだからと言って、火災発生前にその映画館内で建築構造に不安を感じて退席した私に下された不安神経症の診断がくつがえることはないのである。

精神科に行って不安を訴えれば不安神経症であって、その不安が正常か異常かは医者には無関係である。私は精神科の医者に罹ったことはないが恐らくその程度のものであるだろうことは普通に考えれば誰にでもわかることである。

結局何が言いたいのかと言うと我々の不安は、マスコミや権力によって一括りに管理され操作されている側面が大きいゆえに、本来的な“不安の機能”が損なわれ気味であるということである。

以前に大阪、難波の個室ビデオ店が放火にあって、たくさんの人が亡くなった。私は旅館やホテルに泊まっても非常出口の場所を確認する方なので、あのような場所で寝る気にはなれないであろう。観覧車に乗れないというと極端な臆病者に思われるかも知れないが、エキスポランドのジェットコースターの死亡事故が起きる一週間ほど前に、私は両親と息子と一緒にエキスポランド内の観覧車に乗っていた。その時に何気なく高所から風神雷神を見下ろしていて、観覧車に乗っている不安が風神雷神の方へ移っていくような感覚を受けたことを記憶している。事故を予知したといえば嘘になるが、後から考えれば私は事故発生前の風神雷神を“不安の対象”として見るべき機会を無意識に選んでいたような気がしてならない。

現在、(元)妻と息子が住んでいるマンションは確か13階建てであったと思うが、私が購入したのは住居最下階の2階にある物件である。マンション価格は最上階と最下階で2000万円ぐらいの差がある。当然、上に行くほど高い。

原価は同じであっても上層階を希望する人が多いから(人気があるから)、経済原理的にはそういうことになる。しかし私にとっては最下階ほど価値が高い。なぜならエレベーターは災害時に危険だと思うからである。大地震発生時に運悪くエレベーターに乗っていると、観覧者と一緒で閉じ込められる危険性が高い。もちろん建物自体が倒壊してしまえば、エレベーターであろうが室内であろうが閉じ込められる危険性は同じだが、エレベーターは電気系統の故障と物理的倒壊の二重の要因があるので生活手段として頻繁に利用することが私には怖いのである。だから息子にも(住居階は)2階なのだからエレベータを使わずに階段を使えと言っている。

もちろん心配性の度が過ぎれば都会生活など到底出来ないのであって、私自身傍から見れば不用心で鈍感な所は多々あると思われるが、自分の不安感覚をレーダーとして事前に察知する危機管理能力は人並み以上にあるような気がする。そのような危険を回避する能力は、本来全ての人間の内面に不安を告げる声として存在するのであろう。ここから先は心理学的にもう少し奥深い話をしたいと思う。

我が神経症と自己分析 1/3

話しが変わってしまうが、先に書きたいことがあるので前回の続きは後回しにする。先日、『宇宙(そら)へ。』という映画を見た。NASAの記録フイルムをイギリスBBCが宇宙開発の歴史として編修したドキュメンタリー映画である。

実は今回書こうと思うのは映画の内容ではない。映画館についてのことである。

あまりに圧迫感を感じさせるような建築構造だったので私は変調を来たしてしまったのだ。説明すると映画館を一つの箱として考えると前方にスクリーンがあって、通常出入り口の扉は、後方1箇所と左右のどちらかの計2箇所はあるものだ。3箇所以上ある劇場もある。ところが私が『宇宙(そら)へ。』を見た映画館は収容スペースとしての箱自体に扉がなかったのである。ではどうなっていたかと言うと座席最前列のスクリーンに向かって左側付近に、抜け道のように出入り口扉に通じる通路があるのみである。入場時も退場時もその通路を通ってしか出入り出来ない。またその通路自体、観客席からは壁で仕切られて見えなくなっている。よってその劇場は行き止まりの出口のない密閉空間になっている。まるで川で魚を獲る仕掛け罠のような一方通行的空間だ。私は閉所恐怖症ではないが、閉じ込められるような建築構造に心理的に敏感というか、過敏なのである。劇場内の歩行通路についても普通は両サイドに人間が歩けるスペースが空いているものだが、その劇場は左右両端の座席が壁面にぴったりとくっ付いている。見るだけで窮屈なことこの上ない。移動通路は座席の中央付近に一本通っているのみである。その劇場の収容人員は180人であるが、消防法上の問題はないのであろうか。観客が退場する時の流れは左右両サイドから中央の通路に一旦集まって合流し、順次後部からスクリーンのある前方に降りていき、それから出入り口扉に通じる通路へと移動してゆくことになる。その方法でしか退場できないので捌けるのにものすごく時間がかかることになる。地震や火災が発生した時には大パニックになって我先に退場しようとする人の混雑で怪我人がでるのは目に見えているはずなのだが。

席が空いていればそれほど圧迫を感じることもなかったのであろうが、私が映画を見た日は公開初日ということで1コイン(500円)のサービス価格であったため満席であった。90分ほどの上映時間であったが、私は徐々に気分が落ち着かなくなってきて映画に集中出来なくなっていった。何度も深呼吸を繰り返すが気分は回復しない。その内にトイレに行きたくなってくる。それで私は結局、退席してしまった。トイレに行った後も席には戻らずに、スクリーン左側の袖から退出通路に少し入った位置で立ったまま見ていた。僅か90分の時間が持たないことがショックであった。

劇場の構造が私の精神に影響した結果であるが、どちらに(建築構造か私の精神か)問題があるのかと決め付けるのは中々難しい問題である。なぜなら私以外の180人はおそらく何とも思わずに映画を楽しんでいたであろうし、私はパニック障害とまではいかなくとも確かに不安神経症的な傾向があるからである。私の場合は狭い空間に閉じ込められる不安、緊張が、恥ずかしい話しではあるが尿意や下痢と結びついてしまうのである。

たとえば私は観覧車が怖くて乗れない。実際にはこれまでに何度も乗っているので乗れなくはないが、心理的な抵抗が大きいのである。何が怖いかと言うと、乗っている最中に地震が発生して止まってしまって復旧するまでゴンドラの中で閉じ込められる状況を想像することである。あの狭い空間内で何時間もトイレにも行けず、じっと待ち続けなければならない不測の事態を考えると、外の景色を楽しむ心の余裕は私にはない。どうぞ笑いたければ笑っていただいて結構だが、要するに私は極度の心配性なのである。知的な分析判断が先走って最悪の状況を想定してしまい、それに肉体が反応する。

しかしここで私の症状を二つの要因に分けて考えなければならないと思う。先ず第一に不安や緊張が肉体的に尿意や下痢につながることは自律神経失調の症例であって病理であることは間違いない。しかし私の場合は軽度であるのでほとんど気にしていない。大体において女は便秘が多く、男は下痢が多い。男の下痢や多尿はストレスや不安などの心理的な要因が関わっているケースが多い。安部元総理が辞任する前に下痢で衰弱していたということも人事とは思えず同情してしまう。私はサラリーマンではないから物理的、肉体的に拘束される機会がほとんどないので、いつでも行きたい時にトイレに行ける。よってそれほど日常に不便はない。映画を見ている途中でトイレに行きたくなれば我慢しないで行けば良いだけのことである。乗りたくもない観覧車に無理して乗ることもない。しかし自律神経がうまく働いていないのはやはり無視できないことである。これを解決する方法を私は知っているので人事のようにご紹介しよう。簡単なことではあるが簡単すぎて怠けてしまうと、私のように情けないことになってしまう。

先ず第一に酒などの刺激物を控えるということである。第二に運動することだ。暑いからといってクーラーが効いた部屋で、冷たいビールばかり飲んでいると自律神経の働きが狂ってしまう。習慣的に運動をし、汗をかくことによって肉体は活性化され、自律神経の働きが整うのである。第三にこれは一般的ではないかも知れないが、毎日10分ほどでもよいから瞑想することである。瞑想を習慣化することで直感や洞察が研ぎ澄まされてゆく。瞑想をした後では目が澄み、皮膚の調子も良くなる。わかってはいるのだが継続させることはとても難しい。私にとって一番難しいのが酒を控えることだ。今もビールを飲みながら書いている。しかし運動は最近、水泳を始めるようになった。近くのプールに仕事後や週末に通っている。また瞑想も毎日するようにしている。いつまで続くかわからないが、ここにこうして書いたことでもあるし何とか継続して続けたい。水泳などのスポーツをする時間や機会がないという人には、簡単な強健体操がある。一般的にはほとんど知られていないが、大正時代に肥田春充という武術家がいた。この人が創案した『肥田式強健術』という簡易体操があるのだが、腰と腹の間にある体の物理的中心の丹田(正中心)を体得して精神と肉体の合一をはかり、より完全な人間形成を目指すという方法である。

肥田春充は天才である。日本にも100年ほど前には凄い人間が当たり前のように存在したことは驚くばかりであるが、肥田式強健術は今の時代でも誰でも出来る15分ほどの簡単な体操である。宣伝するつもりは毛頭ないが、興味のある人は是非試して見ていただきたい。私のように下が緩くなってきている中年男が言ったところであまり説得力はないとは思うが。

不安が身体に与える悪影響については、生活習慣を見直したり運動をして自律神経を鍛えることによって自分で克服することは十分可能であると思われる。最終的には運動や節制を継続させる意志力があるかどうかの問題になると思う。私個人について言えば毎日1箱吸っていたタバコも20歳代後半に一日で止めることが出来たので自信はなくもない。最近離婚したことでもあり、今後だらしない生活に陥らないように、自分の肉体と精神を(そして下の締まりも)今一度強化させたいと考えている次第だ。

家族という病 5

それで私は腹立たしく、悩ましく、やるせない判断を迫られることとなった。生活費を減額すると、妻はこれでは生活できないと弁護士を通さず直接、私に電話してきた。確かに、その金だけでは生活できないであろう。しかし私が前回に述べたような当時の状況からすれば、つまり夫婦間で裁判を争っていて、おまけにマンションの鍵を付け替えられ、部屋に立ち入れなくさせられている身であれば常識的にも、法的に見ても、誰が考えても私は払いすぎていたのだ。当然妻の弁護士Mもそのあたりのことは承知しているから生活費の減額については異議を申し立てることはできない。よって妻は直接私に文句を言ってくることとなる。私は妻が訴える窮状を聞かされるのが苦痛でならなかった。だが本当のところ如何ほど困っていたのか、未だによくわからない。確かに贅沢な暮らしからは程遠い母子の暮らしであったのであろうが、同じマンションに住む息子の同級生やその母親と一緒に焼肉を食べに行ったりしていたことを私は息子から聞いていたので極端に困っていたことはなかったと思う。何しろ妻は元お嬢様で、実家は貧乏人を見下すために生きているような金持ちである。私は妻から何度も、これまでの人生で金で苦労しすぎているから性格がひねくれているのだと指摘されてきた。性格がひねくれていることは認めるが、金で苦労した記憶はない。どちらかと言うと恵まれてきた方だとも思うのだが、秘密結社の社交クラブにつながるような育ちからはそう見えたのかも知れない。あるいは金持ちが自己肯定のために貧乏人を侮蔑するフレーズというものは古今東西、決まっているのかも知れない。金持ちは対人的に金の力を見せつけて、主導権を握ろうとする傾向が強い。金持ちの金とは本質的に費消することよりも畏怖させることに絶対価値がある。資産で誰かを畏怖させても金自体は減らないから、見せつけることが最も生産的な金のパフォーマンスであるといえるのだ。そもそも金持ちとはそういう人種なのである。妻は妻の兄Kと同様にそのような遺伝子を有していたから、同居していた時には絶えず私を貧乏人扱いすることで私を支配しようとした。貧乏人のささやかな矜持を刺激することが金持ちが貧乏人を搾取してより一層金持ちになるための常套手段である。もちろん本人は無意識にやっていることだから、まったくそのような自覚はない。客観的なゲーム理論に基づいて考えてみても、仕事をしていない妻が夫を階級的に下等視して得るものはないはずであるが、遺伝子プログラムは生物の進化であれ思考原理であれ環境の変化が組み込まれるまでに相応の時間が掛かるのである。女は結婚すると生存環境が変わるということである。

有数の金持ちは圧倒的多数の貧乏人を基本的に馬鹿にしながら食い物にしなければ絶対に金持ちの地位を維持できないであろう。万人に対する博愛や友愛精神で本当の金持ちになどなれるものではない。昨年のサブプライムローン問題に端を発する米国の金融危機は、つまり資本主義の構造には、金持ちが貧乏人の住宅取得を願う心理を利用して証券化し、金融テクノロジー工学により等比数列的に全世界へ規模を拡大させたものである。

私は妻の悪口を言うつもりはない。その証拠に私は離婚してからの方が(元)妻と仲良くとは言わないまでも順調に協力関係を保てている。よって本当はあまり書きたくないのであるが、私の表現は私情を超越しているのである。それは私がナショナリストだからだ。私にとっての“ナショナリズム”が意味するところを一応説明しておきたい。いわゆる民族主義や国家主義ではない。反利己主義のようなものであるが、利他主義でもない。“利己”というものの意義を拡大して、自分と他者、あるいは自分と社会との関係性を外部から暗黙的に束縛する社会意識や道徳、あるいは強制力の伴う制度などの全体に対して個として責任を持つことである。そこには前回も述べたように機械論的な人間観が根本にあって人間とはパソコンのように複雑ではあるが操作され、意図的に作られるものだという見方がある。人によっては夢も希望もないような人間の可能性を矮小化させた思想のように捉えられるかも知れないが、一方でメカニカルな人間存在を見つめないと、機械的肉体を超える魂の価値は見えてこないと私は考えるのである。私は個人が自分自身をどのように考えているかということの背後に拡がるシステム的な力について考察したいのだ。見かけの道徳と全体的なシステムの中枢がどのようにつながっているのか見極めなければ気がすまない。資本主義的な遺伝子プログラムは道理や道徳とはまったく無縁に発動する。妻が同居している時に私を貧乏人扱い(というほどでもなかったが)していたのに、別居後に送金が減らされると離婚を拒みつつ苦境に訴えるという態度は一見したところ調子が良いようにも思えるが、機械的に一定のプログラムに従っているという観点から考えると矛盾はまったくないことになる。そのプログラミングの内容についてどう考えるかは人それぞれだと思うが、そもそも家庭とはそういうものなのである。家庭に精神の自立はない。金だけの問題ではないと思う。子供にとっても大人にとっても、歪められた閉塞の象徴が家庭だ。家庭というものは資本主義差別や冷戦下のイデオロギー対立の残滓が縮尺されて投影された4コマ漫画のようなものだ。官憲が推奨する戦時下の国家称揚の戯画のようなものである。本来複雑な社会要因が、わかりやすい姿(身近な問題)に化身して立ち現れる場であるという意味である。官憲とは現代にあっては政治家ではなく、官僚であったりマスコミであるということだ。ファシズムの性質は時代によって変遷する。

マスの生産力(GDP)が減退すると、制度や大衆意識に深く結びついた社会の末端組織(家庭)がどうしても利権や搾取の対象になってしまい勝ちである。それで、より一層全体的な洗脳が加速化されると個人は自らの幸福よりも無意識に権力に迎合することになり、本当の幸福とは何かを考えるよすがすら見失ってしまうことになるのである。

しかしそれでは一体家庭とは何だと問われるとよくわからないのである。わからないから私は離婚したようなものでもあるのだが、家庭とは本質的に国家権力と切り離せない関係にあることだけは確かであろう。だから国家権力に向かい合う対立図式の構図が夫婦関係に根深くも暗い影を落とすことになるのである。我々の生活は日々そのようにして作られている。

話しが逸れてしまったが、妻との結婚当初、妻の兄であるKは30代半ばで1000万円ほどする高級外車にお抱えの運転手までつけていた。まるで上場企業の役員か知事クラスのような威勢なのだが、亡くなった父親から相続した財産は一等立てのビルなどもあったようだが、引き継いだ会社の規模は所詮、零細の身内だけでやっていた不動産管理会社に過ぎないのだ。普通の感覚から見れば、親から相続した財産を見せつけるような派手な振る舞いは人格を疑われることになるので控えようとするものだが、Kにそのような慎みの気配はまるでなかった。しかし今よく考えて見るにKに照れや恥じらいがないのは、そのような人種が集うネットワーク(フリーメイソンに繋がる組織)に加入しているからなのである。傍目には金持ちの社交クラブにしか見えなくとも、世界を支配する権力組織に属しているという自負があるのであろう。Kを馬鹿にすることも、一目置くこともできるであろうが、私が思うに自民党の世襲議員などというものはそもそもKのようなタイプがほとんどなのではないのだろうか。だから政治家は基本的に恥じらいのない馬鹿であるし、より大きな力の家来に過ぎないのである。

本題に戻すと、私は妻にマンション鍵の原状回復を要求し、その要求が受け入れられない場合は使用貸借契約を解約する旨を通告することとなった。法律的にはマンションの所有者である私と、そこに住んでいる妻との契約は賃貸借契約ではなく無償で貸し付ける使用貸借契約であって、基本的には貸主である私が借主である妻に返還を請求すれば妻は返還しなければならないのである。それで原状回復の期限日、二日ほど前に妻の弁護士Mから私の弁護士Tに電話連絡があって元の鍵は紛失したから合鍵を作って私に送付することで勘弁してくれということになった。普通に考えれば、ここで一区切りついたということになるはずである。ところがそうはならなかったのである。合鍵送付の前提条件としてTとMはとんでもない取り決めをしたので、事態はより一層悪化することになり、結局私とTは喧嘩別れすることになった。詳細は次回に書くことにする。あまりさぼらずに出来るだけ早く書きたい。

それから今、副島隆彦氏と佐藤優氏の対談集『暴走する国家 恐慌化する世界』(日本文芸社)を読んでいるのだが、そこに秘密結社の実像が語られていて大変に面白いので次回、私自身の感想を含めてご紹介したいと思う。またそこから出来ることなら悪魔論にまで話しを進めたいと思うのだが、少し飛躍しすぎかも知れないし実際にはどういう内容になるか自分でもよくわからない。

話しがあちこちに飛んで申し訳ないとは思うが、正直なところ個人的な離婚騒動はもうすでに終わったことなので書いていて退屈なのである。しかし、なぜか書かなければならないというような責任感のようなものも感じる。

私はやはり、ほんの少しだけ変わっているのかも知れない。