家族という病 1
長期間に亘る離婚の紛争劇を経験すると、社会システムが家庭に投影する歪みや欺瞞が身に沁みてよくわかる。しかし個人的な問題の渦中にあって、自らが直面する問題を材料に客観的な社会批判をすることは難しい。なぜなら一市民が個々に属する問題に過ぎないものを、社会制度の不備や欠陥、あるいはメディアなど社会正義を代弁する組織の欺瞞性に原因を置き換えて、牽強付会や我田引水の理屈で糾弾することは基本的に許されないと思うからである。
そういう認識というか良識は私にはある。だからこれまで、私事の離婚裁判に関することは書かないようにしてきた。しかし今やっと離婚が確定し、片が付いたからにはやはりどうしても言わなければならない。私は個人的なトラブルや紛争の遠因を一方的に社会システムに押し付けるような卑怯な真似、すなわちそのような小さな悪を犯さないように身を律してきたつもりである。ならば今こそ言うが、官僚などの権力や一部の圧力団体、メディアなどの大資本が結託して、自らに都合の良いおためごかしの道徳で公然と社会支配を為し、国民生活そのものを洗脳によって統制・利用することは、個人レベルが自らを正当化するために働く悪の力学とは比較にならぬほどの巨悪であるのではないのか。私がこれまで悪とまったく無縁に生きてきたとは言わないが、平然と悪の核心を隠して善に化けるような妖怪とは戦わなければないし、退治しなければならないと思う。お前のほうがよほど妖怪だと言われるかも知れないが、それならそれで結構だ。俗悪で恥知らずな人間よりは、ベムやベラのような良心的な妖怪であるほうを私は選ぶ。
離婚が確定したからといっても、決して晴れ晴れとした気持ちで書くことは出来ない。むしろかなり気は重いが、私は通過した者、乗り越えた者として自分の問題を自分だけの問題で終わらせないためにもやはり書かなければならない。
私には書く責任がある。あなた方、心ある者は謙虚に私の言葉に耳を傾けるか、それとも無視するかを決める全き自由を有する。ただそれだけのことだ。
最初に断っておかなければならないことがある。私はこれまでの紛争劇を、骨格となる事実に即して淡々と書き進め、その上に自らの想像や洞察、見解などの肉付けを施し、一つの小さな作品を作り上げたいと思う。私は嘘を書くつもりはないし、自らの表現内容に対して誠実でありたいとも思う。しかし言うまでも無いことだが、それらは所詮私の視点から離れられないものである。“私の視点”は死ぬまで私について回るのである。妻には妻の視点があるし、弁護士には弁護士の視点がある。しかし一旦そういうことを言い出すと、芥川龍之介の小説『藪の中』のようになってしまって結局、自らの恥を晒してまで何かを語る意味を喪失してしまうことになる。そこには沈黙という虚無があるだけだ。私が経験した紛争劇は入り組んだ話しであるので、それぞれ登場人物の主張に相違があるのは当然である。よって私が述べる事柄は第三者が全面的に信用するべき筋合いのものではないことを最初に言明しなければならないのかも知れないが、行き着くところはもう全て終わったことだということだ。法的な解決はついた。正直なところ今更、過去を蒸し返て悪夢のような法廷闘争を再現したくはない。個人的にはうんざりだ。だが私は一人のナショナリストとして、個人の問題を離れて黙っていられない峻烈な心情がある。以下において私が述べる内容は、少なくとも全体的な流れというか大まかな概略において誰にも否定できない真実である。それ以上の細かな事実関係の判断については、読者の直感と洞察力におまかせしたい。読む者の実直な感想が、個人的な内面の思想傾向と社会全体の偏向の関係性を映し出す大きな鏡であるような記事を私は意識して書きたいと思う。要するに私が書く内容が、個人的に都合が悪いか認めたくない人々にとっては嘘だと思えるような社会的な機序を炙り出したいのである。私は書くことによって試され、あなた方は読むことによって試される。私の表現は、真剣勝負の命がけである。
もう一点重要なことは、これは世間一般の印象とかけ離れているかも知れないが、私は少なくとも“道徳的”には妻を初め、誰一人として批判するつもりはないということである。私が道徳的に誰かを批判できるような人間でないことだけは唯一はっきりしている。人は皆、それぞれの道徳に従って生きている。仮に私が誰かに対して、あなたの道徳はまちがっている、などと指摘したとしても、ああ、そうですか、と返されればそれで終わりである。しかし人間は社会的な生き物であるから、異常者でもない限り、社会からまったくかけ離れた道徳があり得ないのも事実である。道徳やモラルの本質は高度に社会的なシステムであって、マナーの悪さを注意するような簡単なものではないのである。私が誰かを道徳的に批判できなくとも、その道徳がどのように作られているのかを見抜くことはできる。現行の道徳的社会システムが、本当に我々の幸福に寄与するものであるのか、為政者の都合に過ぎないのかを論ずることは許されるはずだ。道徳というよりはそのような“道理”的な思索こそが本当に必要な視点だと私は考えるものである。たとえば目の前に壊れたパソコンがあったとして、そのパソコンを憎んだり罵倒しても絶対に回復しない。パソコンが壊れるには、壊れるだけの理由があるのである。またパソコン自体は自らが壊れているなどという認識はない。パソコンを利用する人間にとって壊れているように見えるだけで、パソコンは諸種の条件に“正確”に反応しているのである。パソコンを回復させるには怒りやモラルに訴えるのではなく、パソコンの内部構造を理解する以外に道はない。社会システムについても本来同様であるはずなのだが、システムを管理している者は絶えず大衆の道徳心に訴えかけることによってメカニカルな本質を理解する目を曇らせようとする。なぜなら隠された“本質”こそが彼ら(あなたがた)の権威や利益を不可視的ピラミッド構造の底辺となって支えているからである。このあたりの多重構造的な正義や真実の感覚は裁判を経験したものにはよくわかることであろう。
妻は最後まで離婚に応じようとはしなかった。妻は、女にとっては籍が自分を守ってくれる砦だ、というような意味のことを私に言っていた。私がそれを弁護士に伝えると弁護士は首を傾げていたが、妻は正直なのである。妻は自分の皮膚感覚でそうだと思うことを周りの状況とは無関係に口にするのである。弁護士の仕事は法という社会的建前の領域で論理を組み立てることなので、女の本音が建前から乖離しすぎていると首を傾げるしかないことになる。しかし妻が言う通り基本的に国家権力は婚姻下にある女の味方である。国が女性に期待する出産や子育てと関係しているとは思うが、女のわがままや嘘には寛容である。極端なことを言えば、自分の子供や夫を殺しても心神耗弱が適用されて無罪(不起訴)になる可能性が高い。状況は変化してきていると思われるが、心療内科への通院歴があるというだけで子供を殺しても新聞報道されないケースはこれまでかなりあったであろうと思われる。その一方で生殖や子育てとは関係の薄い年齢層の女性、はっきり言うとおばさんや年寄り女性はそれほど極端な保護対象とはならない。おばさん以後は社会学的にいうと女ではないのである。
跳躍 2/2
その桜文鳥を妻は入院に際して病室に連れてゆくことは当然出来ない。妹の家に持って行かせようかとも思ったのだが、小鳥とは言っても水を交換したり鳥かごの糞を掃除したりと結構手間が掛かるのである。また小鳥は習性としてえさの殻を撒き散らすので部屋が汚れる。何度も掃除機をかけなければならないことになる。そういうことを考えると必要以上に妹家族たちに迷惑をかけてはならないと思い、仕方ないので私が世話をすることを息子を引き取る二日ほど前に妻に電話で伝えた。ところが妻は私に小鳥を預けることを躊躇しているようなのである。理由はよくわからないが、どうも息子が大変心配していると言う。それで息子に代わってもらい話しを聞くと、息子はこう言ったのである。
「心配やねん。亀、死んだやろ。」
息子は覚えていた。実は1年ほど前にこれも息子のために近くのホームセンターで小さな緑亀を買って実家で飼っていたのである。週末に息子が遊びに来たときに見せていた。有名デパートではなくホームセンターで買ったからという下らない理由で差別などしないで、忙しいながらも大切に育てていたのである。日中はベランダに出して日光浴をさせていた。夜になると部屋の中に取り入れた。4日に一度ぐらいは水を替えて水槽の底に敷いた砂利も洗っていた。ところが去年の5月にものすごく気温が上昇した一日があって、その時に水温が上昇しすぎて酸素不足になったのであろうか、外に出している間に可哀想に死なせてしまったのである。息子はそのことをよく覚えていて、私は小動物飼育者失格の烙印を押されてしまったようである。そういえばどこかで買ってきたカブトムシもすぐに死んでしまったが…。
しかしそれでも私は息子にこう言った。
「パパは本当は生き物を飼うのは上手なんやで。亀の時はちょっと油断しただけや。心配せんでも大丈夫や。」
「もう、油断せえへん?」
「大丈夫、大丈夫。大体、小鳥なんかはな、部屋の中で水と餌やってたら死ぬわけがないねん。心配せんでもええからまかしとき。」
その後、もう一度妻に電話が代わると息子だけでなく妻までが心配しているような口調である。それで私がちょっと嫌味気味に「えらいまた、大事にしてんねんな。」と言ってやると妻は、「だって家族同然やから。」と答えた。
その瞬間にわかった。私がマンションを出てから、私の代わりに桜文鳥のプチがどうも家族に昇格していたようであった。私はもう家族ではないのである。その翌日にマンション前まで息子とプチを迎えに行った時のことである。妻から聞いた話しでは、当日になって息子がまた急にプチの身を心配しだしてさっきまで号泣していたというのである。それでペットショップに預けるかどうか迷っていたらしい。私は話を聞いていてほとほと馬鹿らしくなってきた。私の目から見れば、本当に心配しているのは息子ではなく妻のほうなのである。妻は、私が私の代わりに家族に昇格したプチを恨んで殺してしまうとでも思ったのであろうか。息子は妻のそのような感情に一時的に連帯というか同調しているだけなのである。
息子を妹に預けている期間中、何度か私は妹の家に行ったが息子はプチのことなどもうすっかり忘れてしまっているようであった。私にプチの様子を聞くことすらしない。子供とはそんなものである。
しかし今改めて思うことであるが、息子は妻とプチの三人(二人と一羽)で一家族として暮らしている方が幸せではないのか。あるいはそうではないのかも知れないが私には正直なところよくわからないのだ。家族というものが。
家族の概念だけではなく、私はこの地上に居場所のない人間であるような気すらする。それは私が大人になりきれていないからかも知れないし、元々私という人間は孤独という森の奥深くに帰っていかなければならない宿命を背負っているようにも感じられる。マーチン・ルーサー・キングは「私には夢がある」と言った。対して私の場合はこういうことになる。
私には夢も、希望もない。
そればかりか私には居場所すらない。
しかし私には道がある。
曲がりくねっていようと
暗くとも、明るくとも
私には歩むべき道がある。
昨月6月にやっと妻との離婚が成立した。調停を申し立ててから不調になり、家裁での判決、高裁での和解まで2年かかった。それ以前の親族間の紛争も含めると5年間、双方弁護士を立てて争ってきたのである。そのような泥沼の状況の最中にあっても私は息子との接触を保ち続けてこれたし、妻とも連絡を取り続けた。結果当初から私が要求してきた通り、共同親権の代替となる親権と監護権を分離する方法が採択され、私が親権者となった。妻と息子は、息子が18歳になるまで私が所有するマンションに住み続け、私は養育費とは別にマンションのローン代や管理費も負担し続けることになる。
ここまでたどりつくのに何とも大変だったのである。特に親権については私の代理人弁護士でさえ無理だと言い続けてきた。しかし私は諦めなかった。私が親権者になる方が、息子の利益になることが明らかであるからだ。
本当に大変ではあったが何とか筋を通すことができた。最終的に私が親権者となることを認めてくれた妻にも感謝しなければならないのかも知れない。これからも互いの協力関係の下、共同で子育てしてゆきたいと思う。
しかし結婚だけはもう御免だ。婚姻という悪魔の館には二度と戻りたくない。
それもこれも元を質せば政治が腐っているからだ。程度の低い政治家や役人がグルになって、稚拙な善意や良心で国民生活を支配しようとするところに我々の生活の不幸が生まれる原因の一端は確かにあるのである。たとえ育ちの良い二世、三世の世襲議員であろうと、学業成績の優秀なエリート官僚であろうと、志のない人間が目先の安易な論理や手段に訴えることの弊害が我々の生活の隅々にまで及んでいる。具体的には次回書くことにしよう。
書くことが私にとっての唯一の復讐の手段であり、歩むべき道である。
兎にも角にも私は離婚したことによって、解き放たれた。
私は跳躍したのである。
私自身が、巣箱から飛び立った小鳥のようなものである。
跳躍 1/2
書くべきことはたくさんあるのだが、日常生活の雑事にかまけているとついつい書くことから遠のいてしまう。書く、文章を作るという行為は私にとって日常の延長に位置するものではなく、日常からの跳躍である。世間一般の常識的な観点から見れば、日常からの跳躍とは現実離れした夢想世界へ遊離することを意味するのかも知れないが、私にとっては自分自身への跳躍である。
跳躍にはエネルギーが必要である。鳥が枝から空へ向かってはばたくような瞬発力が要求される。日常という重力はあまりにも強力であるので、止まり木に留まっているほうが楽ではある。
自らの怠惰を正当化するつもりはないが、私の表現は路傍に咲く誰も名前の知らない雑草の花のようなものである。雑草は自然に勝手に生えてくるものであり、権力や圧力によって早く成長しろとか枯れろなどと命ずることはできない。雑草の花は愛でられることも慈しまれることもないが、ただ純粋に生命の発現として予期せぬように姿を現すのである。ハウスで栽培されるバラや蘭のような人工的に手を加えられた美しさはないが、生命とは本来規格化されるべきものではないはずだ。雑草は生命に忠実であるがゆえに、ただそれだけの理由で高価なバラや蘭に優越できることを知っている。なぜなら純粋な生命力に支えられた表現こそが枠組みを超えて芸術として昇華され、大地だけでなく天界にもその根を伸ばしてゆくからだ。
そう言えば以前に司馬遼太郎さんの邸宅に出入りしていた造園業者の人から話しを聞いたことがあるが、司馬さんは自然な状態の庭を愛されていて出来るだけ手を加えないようにといつも言っておられたとの事であった。司馬さんは人工的な予定調和の美しさよりも、形態の背後にある雑然とした生命力そのものを大切にされていたのではないだろうか。スケールの大きな人はそもそも視点が違うのである。目の前の物しか見ていない人間には、その物に限定付けられた程度の生命力しか持ち得ないであろう。
さてそれでは本題だ。私という雑草を、退屈で今にも踏み潰されそうでありながら大いなる生命力に至らんとするけなげな開花のような日常の一断面をあなた方にお見せすることにしよう。
今年の3月中旬ごろのことである。息子は春休みを間近に控えていて4月になれば小学校3年生に進級するという時期であった。別居している妻から私の携帯に電話が掛かってきた。詳しいことはよくわからないが、妻が言うには鼻がどないやらなって手術するから一週間ほど入院しなければならないという。それでその間、子供の面倒を看ることが出来ないので児童相談所の施設で預かってもらう予約を取ってあると言った。本来そのような理由で子供を預かってもらうことはできないのだが、事情を話して特別に許可してもらったそうである。唐突なことで私は大変驚いた。一応念のために言っておくが妻は嘘をついていたわけではない。嘘をついてまで一時的にせよ、子供の養育を放棄するようなことはしない。それまで私は聞いたこともなかったのだが本当に鼻がどないやらなったのか、あるいは以前からそのような状態であったために入院することになったのである。まあそれは止むを得ないとしても、息子をどこかの施設に預けるとはただ事ではない。当たり前のことだが心配だ。それで私は妻に、
「児童相談所みたいな恐ろしい所に一旦子供を預けてしもたら、どんな理由で返してもらわれへんようになるかわからんぞ。」
と言って説得に努めた。妻はまったく信用している気配はなかったが、(私自身、本気でそう思っていたわけでもないので無理もないが)万が一でもそのような事態になれば大変である。それで私は尚、
「いや国や行政は基本的に腐っている。何かの理由でこじれるとどんなことになるか想像もつかん。そんな簡単に全面的に信用したらあかん。自分の子供のことやないか、最悪を考えろ。妹に頼んで見る。」
と言って、あわてて奈良に住んでいる妹に電話をかけて了解を取り、妻に電話をかけ直して児童相談所の方はキャンセルさせることにした。本当はこじれているのは私と妻の関係なのであるが、そこに行政機関が“善意”で介入するとろくなことにならない可能性が高いことを私はよく知っているのである。日本は善意と言う名の悪魔が支配している国家だ。善意が権力と結びつくことほど恐ろしいことはない。結局、妻も私の妹に看てもらう方が安心だと言っていた。それなら最初から相談しろよ。本当に危ないところであった。
妹家族は旦那と子供は当時中学3年生、小学1年生姉妹の4人家族であるが、旦那が広島に単身赴任しているので女ばかりの3人で生活している。そこに息子を春休みの期間中預かってもらうことになったのである。妹といっても多少の気兼ねはあるのでその間の食費として5万円入れることにした。まあそんなことはどうでもよいのであるが、息子を引き取る直前に小さな問題が生じた。妻と息子はマンションで小鳥を飼っている。元々私がそのマンションで妻子と同居していた時分に、当時4歳ぐらいであった息子のために息子と一緒に高島屋で手乗り桜文鳥のヒナを買ってきたものである。妻は、「さすがに高島屋で買っただけあって綺麗やなあ。」とよくわからない理由で息子以上にその小鳥が気に入っていたようであった。「そんなもん、どこで買っても一緒やないか。」と私は言ったが、妻は「いや、ホームセンターで売っているのとは違う、やっぱり高島屋や。」と言い張っていた。桜文鳥の出自(売店)にまでこだわるのかと私は半ば呆れたが、ブランドに執着する心理同様、女は所詮そんなものだと思ったものだ。その桜文鳥の名前は買ってきた日に息子に考えさせた。息子は“プチ”と名付けた。当時4歳の小さな息子が自分よりもさらに小さな生き物に対して、フランス語の“小さな”を意味するPETIT(プチ)という言葉を選んだのが面白かった。