奇妙な一日 1/4
こんな事があった。6月18日のことである。
その日の朝、母の友人女性二人がどこに遊びに出かけるのか知らないが、母を迎えに会社事務所までやってきた。母が居宅から一階事務所に降りてくるまでの間、その二人には事務所の椅子に座って待ってもらうことにした。私は前日の売り上げを帳面に記帳しているところであった。するとその内の一人が私を見て、「まあ、立派な息子さんで。」と言い、いろいろと個人的なことを聞いてくるのである。いやな予感通り、住んでいる場所やら、結婚しているのかとか、私の妻や子供は一体どこにいるのかとかいったことである。
私の簡単な受け答えで私が妻子と別居していることの察しはついたのであろう。するとよりによって「まあ、お家がたくさんあってよろしいですはねえ。」などと嫌味に聞こえることを言われたので途端に話し相手になるのが面倒になった。私のプライバシーは込み入っていて簡単に説明できるようなものではないのである。それで居心地も悪くなり降参とばかりに、その場から忙しそうなふりをしてそそくさと逃げた。“デリカシーのないおばはんの話し相手をさせられるのだけはかなわん”と腹立たしくも憤慨した。そう言う私自身も“おっさん”だが。しかし後で母から聞いたところによると、私にはまったくわからなかったことだが、その嫌味なおばはんの正体は私の中学時代の同級生女子の母親だったのだ。同級生は名前を“めぐみ”といった。
「めぐみちゃんは早くに離婚していて、子供を引き取って、実家でピアノ教室をやってるそうやで。」ということは以前に母から聞いていたことだった。おばはんが、その“めぐみちゃん”のお母さんだとわかって、単に興味本位で私のプライバシーを詮索していた訳ではないことがわかった。私のことが、娘の境遇と同じように何となく気にかかったのかも知れない。きっとそのおばはん、ではなくめぐみちゃんのお母さまは私に自分の娘と同じような幸の薄さをそれとなく感づかれたのであろう。それでいろいろと聞かずにはおれなかったのだ、とその時は思った。
話しは変わる。その日仕事を終えてから、夜7時ごろに難波までパソコンの本を買いに出掛けた。実は最近パソコンを買い換えたのであるが、OSがVistaに変わって扱いにくいのである。それでVistaの簡単な解説本を探しに行ったのだ。ビックカメラの書籍売り場で適当な本を購入して、馴染みのバーに寄っていくことにした。場所は法善寺横丁のすぐ近くにある。法善寺界隈は織田作之助の小説『夫婦善哉』の舞台になった場所だ。私は『夫婦善哉』に出てくる、ろくでなしのどもりの主人公が大好きだ。私も立派なろくでなしになりたい。そのバーで飲んだ帰りには法善寺に立ち寄って、緑の苔に覆われた水掛不動にお参りすることにしている。息子との縁(えにし)が今世で断ち切られることがないようにと祈るのである。
その日、店内は比較的空いていた。店は扉を開けると手前から12~13人ほどの客が座れるカウンター席がまっすぐ奥に伸びている。私が入った時には既に女性の二人連れ客が入り口側の席に腰掛けていた。カウンター奥には別の客が一人、二人ほどいて中央が空いていた。私は手前二人の女性からスツール3つほど離れた場所に座った。一杯目は“ジントニック”を注文した。いつものように考え事をしながら、ぼんやりと酒を飲み進める。特に何を考えるということもない。あれやこれやと漫然と考えを巡らすだけである。本を読んでいるふりをしていることも多いが、実際には目は活字の上で止まっていて考え事をしているだけのことが多い。
二杯目は“ダイキリ”を注文する。この頃から何となく隣の女性二人の話し声がゆらゆら踊る妖精のように私の思考と交錯し始める。女性二人は親子ほど年齢が離れているようであった。年長の方は50代後半ぐらいであろうか。若い女性は20代後半か30歳ぐらいに見える。ほとんど一方的に年長女性が若い女性に話しかけていて、若い女性は相槌を打つように何度も「へぇー」という感嘆の声を上げている。その「へぇー」の音声が単調ではなくバリエーションがあるのだ。たとえば驚きの度合いが大きい時には1オクターブ下がった「へぇー」である。声に感情の豊かさがよく表れていた。私は女性が発する何種類かの「へぇー」を聞いている内に、徐々に心地よくなってきた。微かな酔いも手伝って、波間に揺られるように聞こえてくる女性の声が揺蕩うように、尖った思索をそっと和らげてゆく。
三杯目は、“ピンクレディ”だ。しばらくした時のことである。年長の女性が私の方を見ている。その上何か言っている。何を言っているのかよく聞き取れない。私は現実に立ち返って、どきっとした。私が何かしただろうか。何もしていない。ただ一人で考え事をしながら酒を飲んでいただけのことである。
政教分離問題についての一考察
今更このようなことを言ったところで無駄だとは思うが、選挙も近づいてきているので一応主張しておくことにする。
新聞社やTV局など、高い給料をもらって偉そうな顔をしている連中が言わないのであれば、私のように権力とは無縁の市井の民が言わなければしようがないではないか。私は特定の宗教団体が宗教上の団結力を利用して権力を掌握し、日本を支配する構図に反対である。宗教団体が実質的に政治を動かすシステムに反対である。民主主義とは相容れない教祖崇拝の巨大組織が民主主義の仮面をかぶり多くの国民を不安に陥れている現状に反対である。
宗教が支配する政治の抑圧されたタブーが、社会全体にどのような結果をもたらすかは敢えて言うまでもないことだ。何よりもほとんどの人間が政治に白けてしまうことである。一般の市民感覚とは明らかに異質な洗脳された集団が、本当の民意が反映されるべき政治を壊してしまえば、誰が積極的に投票しようなどと考えるであろうか。そのような馬鹿げた茶番選挙に多額の金をかけること自体、ナンセンスであるといえるのではないのか。本来民意を反映させる唯一の機会であるはずの選挙に国民が幻滅すればするほど投票率は低下し、日本の民主主義が益々グロテスクになってゆくという現実が目の前に横たわっている。
もう一点、これもメディアが決して述べないことであるが、ここ数年日本国内でギャングストーキング(集団ストーキング)による被害の“訴え”が急増しているという事実がある。ほとんどの人がメディアが報じないゆえにその言葉すら聞いたことがないのであろう。アメリカの白人至上主義組織、KKKが開発したシステムとも言われているが、組織的ないやがらせでターゲットを自殺にまで追いやってゆくメソッドである。具体的には世間一般の常識的判断とターゲットの認知を集団行動のいやがらせで次第に乖離させてゆき、次第にターゲットが被害妄想だと診断されるような状態にまで持ち込んでゆく。それで場合によっては警察や精神科医、会社の同僚までもがグルになってターゲットを精神病院に強制入院させたり、悪評を流布させるなどして人格を崩壊させてしまうのだそうである。
最近、私はこのギャングストーキングの被害報告をいろいろと読んでいるのであるが、正直なところ今一実態がよくわからない。注意深くレポートを読んだり、被害者が撮影した証拠動画を見ていると、もしかするとこの人は本当に被害妄想に陥っているのではないかと思えるところが出てくるからである。
たとえば彼らの証言には共通するものがいくつかあって、たとえば郵便配達人であるとか、タクシー、運送会社のトラック、救急車、消防車、頭上でホバリングするヘリコプターなどが何かの条件付けのように登場してくるのである。タレントの清水由貴子さんが自殺する前に録音された音声ファイル上の会話にもそのような内容が語られていた。私にはそのような体験がないから疑ってしまうのかも知れないが、確かに何でこんな日にヘリコプターが飛んでいるのかなと思える時は私にもある。だが私の場合それでつけられているとか、監視されているという風には考えないのである。たまにブログを更新すると、それにタイミングを合わせるようにして迷惑メールが送付されてくる。それも“条件付け思い込み”への巧妙な誘導と受け取れなくもないが、私の場合はたとえば、自民党の地下組織が反体制的な人間をピックアップしてこういうことをやっているのではないか、そう言えば週刊文春に現職の女性閣僚が違法メールを大量送信して逮捕された経歴のある男と婚約していた記事が載っていたから有り得ないことではないな、などといろいろ想像してニヤッとするだけである。程度の問題もあるがそれほど気にはならない。
もし本当にギャングストーキングの実行部隊や指揮系統が日本国内に存在するのであれば、それはそれで大問題であるから公安にきちんと調査してもらわなければならないと思う。しかし現時点では、被害報告をする人の神経過敏さも少なからず現実認識に影響しているように思えるから何とも言えない。しかし一歩離れて社会学的に分析すれば、問題は別のところにある。日本でギャングストーキングの被害を訴えている人の多くが、黒幕は創価学会だと考えているようなのである。中には創価学会ではなく世界的な規模で展開している悪魔崇拝集団とつながっているのだという人もある。それで一日24時間、365日ずっと監視され続けていると訴えている。確かにそのような実態があるのかも知れないが、私にはもう一方で被害を訴えている人の非常に現代的な特徴の病理をも感じ取ってしまう。その病理とはわかりやすく言うと、“秘密結社”や“陰謀”の問題である。これを笑い飛ばすか、それとも真剣に受け止めるかはその人の自由である。しかしギャングストーキングの実態が実際に有るか無いかに関わらず、精神的な病理が日本においては、“創価学会”と深く結びついていることは看過できない問題であるともいえる。なぜなら宗教組織が裏側から権力を牛耳っているがゆえの必然的な社会現象であると見なせるからだ。
大抵の人は特定の宗教が国家権力を持つことが、政治に白ける以上に何よりも恐ろしいのである。新聞やTVが報じないような“秘密”が国民全体の無意識に共有されると、被害妄想的な悪夢となって日常生活に立ち現れるのである。創価学会や教祖、池田大作氏の悪口を公共の場で述べると口の悪いタレントのように社会的に抹殺されたり自殺や事故を装って殺されるかもしれないと本気で思っている人は決して少なくないのである。私自身は親戚に熱心な学会員がいるのでそこまでは思わないが、一度でも聖教新聞を見たことがある人間ならそのように思い込んだとしても止むを得ないものがある。あれほどまでに激しい排他性、攻撃性と盲目的な教祖崇拝の集団のドグマが、一政党として合法的に日本の権力中枢に組み込まれているのであれば、まともな感覚の国民は安心などできるわけがない。これが果たして健全な民主主義の姿であると言えるか、答えてもらいたいものだ。創価学会は政治から手を引くべきだと思う。宗教団体が政治を私物化し、民主主義システムを破壊する権利はないはずだ。宗教組織が国家に対してある一定以上の影響力を行使できる力を持ちえた時には、宗教ドグマを超えた国家道徳へとシフトし脱皮していかなければならないと思う。しかし創価学会にそれが出来るとは到底思えない。多くの国民に不安を与え、政治に白けさせ、神経を病ませているだけである。政教分離がどうしても出来ないのであれば、実質的に政治運動団体である宗教組織の金の流れや収支報告、課税について再検討し、新たに法制化すべきであるように私は思う。
一応念のために言っておくが、私は信仰者集団としての創価学会を否定しているわけではない。宗教なら宗教らしく信心の力のみで社会変革を志すべきだ。詩人が言葉の純粋な力で社会に影響を与えようとするのと同じである。宗教が金や数の力で直接的に権力を手に入れようとすることは俗悪以外の何物でもない。これ以上日本を品のない国家にしないでいただきたい。もう一つ言わせてもらえば、私は公明党よりも自民党に対して言いようのない嫌悪感を抱いている。権力維持のためには民主主義の“中身”を壊しても平気なのか、多くの国民の政治に対する絶望や不安を何とも感じないのか。
悪魔ごっこをして楽しみたいのであれば権力の座を離れて、社交クラブの中だけでやっていろよ。民主党もまた同じである。
マナーと制度の関係性
大阪の歩道は狭い上に、立て看板やのぼり、プランターなどが無造作に置かれていたり自転車がいたるところに駐輪されているので歩きにくいことこの上ない。ごちゃごちゃしているのは大阪の伝統文化みたいなものだから我慢できなくもないが、文句の一つも言いたくなる時がある。景観についてではなくマナーの悪さである。自転車で歩道を通行する場合、障害物のところでストップして相手を先に行かせてやらないと擦れ違えない場所が多い。ところが若い女性に見かけられるが、止まる気配をまったく見せずにばーっと突っ込んでくるのである。まるで六甲山中から街に下りてきた猪のようである。止まることを知らないのだ。“もうどうにも止まれない”のだろうか。それでぶつからないようにこちらが止まって道を譲っているのに、何も言わずに会釈すらしないでしらっとした顔で風のごとく通り過ぎてゆくのである。レディファーストはいいが何の反応も無いのはちょっと心寒い。私の見るところ男の子たちの方が相対的にマナーがよいのである。どうしたことだろうか。
先日もこのようなことがあった。ある映画を見終わった帰りのことである。小さな子供を連れた母親がエレベーターの方に向かって近くまで来ているのに、エレベーター内で一ヶ所しかない開閉ボタン前にいた10代後半と思しき女性は“開く”ボタンを押そうともしないでぼさっと突っ立っている。それでその母親はエレベータードアにバンという音とともに結構派手に挟まれてしまった。私は開閉ボタンの対角線後ろに立っていたが、あっという間のことであった。エレベーター内で母親は、(挟まれたのが)何々ちゃんでなくて良かったねと子供に話しかけ腕をさすりながら開閉ボタン前の女性を軽くにらんでいた。しかしにらまれている方は特に悪びれた様子もなく、何で私がエレベーターガールみたいな仕事せんとあかんの、と言わんばかりの顔をしていた(ように見えた)。反射神経が鈍くて開くボタンを押せなかった訳でもなさそうだった。
常識がないと言えばそれまでだが、こういうことはきちんと教えてやらないと“わからない”のである。
もちろん一義的には親の躾の問題であると言える。恐らくこういうマナーが悪い子供をもつ親は、親自体が猪並みの知性や感性しか持ち合わせていないのであろう。しかし親の躾が全てかというと私にはそうとも思えない。親の程度が低くとも、その親を反面教師とするような道徳涵養の機能が社会には必要なはずである。ところが日本には、たとえば“愛は地球を救う”といったような漠然としたキャッチフレーズは山ほどあるが、一人の人間が生きていく上で他者との関係において自らを律したり、一歩退いて我慢するようなモデルは皆無である。よって日本人そのものにそのような知恵や感覚が欠落しているのである。現代では市民の本来的な道徳感覚に制度が取って代わっている。昔に比べて世の中が複雑になっているから仕方ないのだと識者はいう。果たしてそうだろうか。
たとえば自転車が歩道を通行する際に発生する事故について考えて見よう。人込みの中を猛スピードで自転車を走らせば危険なのは当たり前である。道幅や歩行者の数に見合った速度で安全に走っていれば、自転車で死亡事故など起きるわけがないのである。これは本来、マナーというより常識の問題である。これが制度として自転車の歩道通行禁止になるとどうなるであろうか。最近、車を運転していて驚いたことであるが、自転車が歩道寄りの車道ではなく中央分離帯横を平然と走っているのである。若い女性が2車線国道の中央付近を自転車で悠然と車と一緒に走っている光景も見た。まあ大阪ならではなのかも知れないが、20年前の中国のような風景である。
制度は事を極端に走らせる危険性があるのである。逆に言えば法律に違反さえしなければ、何をしてもよいのだというような風潮になりやすい。
このような社会背景に大衆を“モノ化”させる官僚支配の思想を私は見る。データを弄くりながら、政治家やメディアを通じて一元的に中央統制をかけてゆく。次第に大衆はモノ以上のモノでは有り得なくなってゆくのである。かつての大量生産、大量消費の時代にはそのような大衆をモノ化させる統治形態が有効であった。ところが今日社会状況は180度変転し、大量生産、大量消費へ逆戻りすることは考えられないにも関わらず、日本には自民党の政治しかないがゆえに官僚の一元的な統治は弱まるどころか寧ろ強化されているのである。それは今日においては、基本的に高級官僚の危機意識から保守的になされていることである。そういうからくりを大半の人間が見抜く目を持てないこと自体が、モノ化された結果であるといえる。一旦モノに堕してしまった人間がモノから脱することは極めて難しい。しかしこれは民主主義の質の問題であるのだから軽く考えることは許されないはずだ。
“人間”は人の間と書く。人の間をつなぐものは、法律や条令ではなく“道徳”であるべきだ。なぜなら法律には心がないからだ。あるのは大衆を管理する一部の人間たちの背後に隠された利権だけである。悪魔ごっこをして喜んでいる連中のことだ。
日本人が心を取り戻すことはもう無理なのか。
言ってもわからないだろうな。
壊れたパソコンに文句を言うのは、とても、とても空しい。