マナーと制度の関係性 | 龍のひげのブログ

マナーと制度の関係性

大阪の歩道は狭い上に、立て看板やのぼり、プランターなどが無造作に置かれていたり自転車がいたるところに駐輪されているので歩きにくいことこの上ない。ごちゃごちゃしているのは大阪の伝統文化みたいなものだから我慢できなくもないが、文句の一つも言いたくなる時がある。景観についてではなくマナーの悪さである。自転車で歩道を通行する場合、障害物のところでストップして相手を先に行かせてやらないと擦れ違えない場所が多い。ところが若い女性に見かけられるが、止まる気配をまったく見せずにばーっと突っ込んでくるのである。まるで六甲山中から街に下りてきた猪のようである。止まることを知らないのだ。“もうどうにも止まれない”のだろうか。それでぶつからないようにこちらが止まって道を譲っているのに、何も言わずに会釈すらしないでしらっとした顔で風のごとく通り過ぎてゆくのである。レディファーストはいいが何の反応も無いのはちょっと心寒い。私の見るところ男の子たちの方が相対的にマナーがよいのである。どうしたことだろうか。

先日もこのようなことがあった。ある映画を見終わった帰りのことである。小さな子供を連れた母親がエレベーターの方に向かって近くまで来ているのに、エレベーター内で一ヶ所しかない開閉ボタン前にいた10代後半と思しき女性は“開く”ボタンを押そうともしないでぼさっと突っ立っている。それでその母親はエレベータードアにバンという音とともに結構派手に挟まれてしまった。私は開閉ボタンの対角線後ろに立っていたが、あっという間のことであった。エレベーター内で母親は、(挟まれたのが)何々ちゃんでなくて良かったねと子供に話しかけ腕をさすりながら開閉ボタン前の女性を軽くにらんでいた。しかしにらまれている方は特に悪びれた様子もなく、何で私がエレベーターガールみたいな仕事せんとあかんの、と言わんばかりの顔をしていた(ように見えた)。反射神経が鈍くて開くボタンを押せなかった訳でもなさそうだった。

常識がないと言えばそれまでだが、こういうことはきちんと教えてやらないと“わからない”のである。

もちろん一義的には親の躾の問題であると言える。恐らくこういうマナーが悪い子供をもつ親は、親自体が猪並みの知性や感性しか持ち合わせていないのであろう。しかし親の躾が全てかというと私にはそうとも思えない。親の程度が低くとも、その親を反面教師とするような道徳涵養の機能が社会には必要なはずである。ところが日本には、たとえば“愛は地球を救う”といったような漠然としたキャッチフレーズは山ほどあるが、一人の人間が生きていく上で他者との関係において自らを律したり、一歩退いて我慢するようなモデルは皆無である。よって日本人そのものにそのような知恵や感覚が欠落しているのである。現代では市民の本来的な道徳感覚に制度が取って代わっている。昔に比べて世の中が複雑になっているから仕方ないのだと識者はいう。果たしてそうだろうか。

たとえば自転車が歩道を通行する際に発生する事故について考えて見よう。人込みの中を猛スピードで自転車を走らせば危険なのは当たり前である。道幅や歩行者の数に見合った速度で安全に走っていれば、自転車で死亡事故など起きるわけがないのである。これは本来、マナーというより常識の問題である。これが制度として自転車の歩道通行禁止になるとどうなるであろうか。最近、車を運転していて驚いたことであるが、自転車が歩道寄りの車道ではなく中央分離帯横を平然と走っているのである。若い女性が2車線国道の中央付近を自転車で悠然と車と一緒に走っている光景も見た。まあ大阪ならではなのかも知れないが、20年前の中国のような風景である。

制度は事を極端に走らせる危険性があるのである。逆に言えば法律に違反さえしなければ、何をしてもよいのだというような風潮になりやすい。

このような社会背景に大衆を“モノ化”させる官僚支配の思想を私は見る。データを弄くりながら、政治家やメディアを通じて一元的に中央統制をかけてゆく。次第に大衆はモノ以上のモノでは有り得なくなってゆくのである。かつての大量生産、大量消費の時代にはそのような大衆をモノ化させる統治形態が有効であった。ところが今日社会状況は180度変転し、大量生産、大量消費へ逆戻りすることは考えられないにも関わらず、日本には自民党の政治しかないがゆえに官僚の一元的な統治は弱まるどころか寧ろ強化されているのである。それは今日においては、基本的に高級官僚の危機意識から保守的になされていることである。そういうからくりを大半の人間が見抜く目を持てないこと自体が、モノ化された結果であるといえる。一旦モノに堕してしまった人間がモノから脱することは極めて難しい。しかしこれは民主主義の質の問題であるのだから軽く考えることは許されないはずだ。

“人間”は人の間と書く。人の間をつなぐものは、法律や条令ではなく“道徳”であるべきだ。なぜなら法律には心がないからだ。あるのは大衆を管理する一部の人間たちの背後に隠された利権だけである。悪魔ごっこをして喜んでいる連中のことだ。

日本人が心を取り戻すことはもう無理なのか。

言ってもわからないだろうな。

壊れたパソコンに文句を言うのは、とても、とても空しい。