跳躍 1/2 | 龍のひげのブログ

跳躍 1/2

書くべきことはたくさんあるのだが、日常生活の雑事にかまけているとついつい書くことから遠のいてしまう。書く、文章を作るという行為は私にとって日常の延長に位置するものではなく、日常からの跳躍である。世間一般の常識的な観点から見れば、日常からの跳躍とは現実離れした夢想世界へ遊離することを意味するのかも知れないが、私にとっては自分自身への跳躍である。

跳躍にはエネルギーが必要である。鳥が枝から空へ向かってはばたくような瞬発力が要求される。日常という重力はあまりにも強力であるので、止まり木に留まっているほうが楽ではある。

自らの怠惰を正当化するつもりはないが、私の表現は路傍に咲く誰も名前の知らない雑草の花のようなものである。雑草は自然に勝手に生えてくるものであり、権力や圧力によって早く成長しろとか枯れろなどと命ずることはできない。雑草の花は愛でられることも慈しまれることもないが、ただ純粋に生命の発現として予期せぬように姿を現すのである。ハウスで栽培されるバラや蘭のような人工的に手を加えられた美しさはないが、生命とは本来規格化されるべきものではないはずだ。雑草は生命に忠実であるがゆえに、ただそれだけの理由で高価なバラや蘭に優越できることを知っている。なぜなら純粋な生命力に支えられた表現こそが枠組みを超えて芸術として昇華され、大地だけでなく天界にもその根を伸ばしてゆくからだ。

そう言えば以前に司馬遼太郎さんの邸宅に出入りしていた造園業者の人から話しを聞いたことがあるが、司馬さんは自然な状態の庭を愛されていて出来るだけ手を加えないようにといつも言っておられたとの事であった。司馬さんは人工的な予定調和の美しさよりも、形態の背後にある雑然とした生命力そのものを大切にされていたのではないだろうか。スケールの大きな人はそもそも視点が違うのである。目の前の物しか見ていない人間には、その物に限定付けられた程度の生命力しか持ち得ないであろう。

さてそれでは本題だ。私という雑草を、退屈で今にも踏み潰されそうでありながら大いなる生命力に至らんとするけなげな開花のような日常の一断面をあなた方にお見せすることにしよう。

今年の3月中旬ごろのことである。息子は春休みを間近に控えていて4月になれば小学校3年生に進級するという時期であった。別居している妻から私の携帯に電話が掛かってきた。詳しいことはよくわからないが、妻が言うには鼻がどないやらなって手術するから一週間ほど入院しなければならないという。それでその間、子供の面倒を看ることが出来ないので児童相談所の施設で預かってもらう予約を取ってあると言った。本来そのような理由で子供を預かってもらうことはできないのだが、事情を話して特別に許可してもらったそうである。唐突なことで私は大変驚いた。一応念のために言っておくが妻は嘘をついていたわけではない。嘘をついてまで一時的にせよ、子供の養育を放棄するようなことはしない。それまで私は聞いたこともなかったのだが本当に鼻がどないやらなったのか、あるいは以前からそのような状態であったために入院することになったのである。まあそれは止むを得ないとしても、息子をどこかの施設に預けるとはただ事ではない。当たり前のことだが心配だ。それで私は妻に、

「児童相談所みたいな恐ろしい所に一旦子供を預けてしもたら、どんな理由で返してもらわれへんようになるかわからんぞ。」

と言って説得に努めた。妻はまったく信用している気配はなかったが、(私自身、本気でそう思っていたわけでもないので無理もないが)万が一でもそのような事態になれば大変である。それで私は尚、

「いや国や行政は基本的に腐っている。何かの理由でこじれるとどんなことになるか想像もつかん。そんな簡単に全面的に信用したらあかん。自分の子供のことやないか、最悪を考えろ。妹に頼んで見る。」

と言って、あわてて奈良に住んでいる妹に電話をかけて了解を取り、妻に電話をかけ直して児童相談所の方はキャンセルさせることにした。本当はこじれているのは私と妻の関係なのであるが、そこに行政機関が“善意”で介入するとろくなことにならない可能性が高いことを私はよく知っているのである。日本は善意と言う名の悪魔が支配している国家だ。善意が権力と結びつくことほど恐ろしいことはない。結局、妻も私の妹に看てもらう方が安心だと言っていた。それなら最初から相談しろよ。本当に危ないところであった。

妹家族は旦那と子供は当時中学3年生、小学1年生姉妹の4人家族であるが、旦那が広島に単身赴任しているので女ばかりの3人で生活している。そこに息子を春休みの期間中預かってもらうことになったのである。妹といっても多少の気兼ねはあるのでその間の食費として5万円入れることにした。まあそんなことはどうでもよいのであるが、息子を引き取る直前に小さな問題が生じた。妻と息子はマンションで小鳥を飼っている。元々私がそのマンションで妻子と同居していた時分に、当時4歳ぐらいであった息子のために息子と一緒に高島屋で手乗り桜文鳥のヒナを買ってきたものである。妻は、「さすがに高島屋で買っただけあって綺麗やなあ。」とよくわからない理由で息子以上にその小鳥が気に入っていたようであった。「そんなもん、どこで買っても一緒やないか。」と私は言ったが、妻は「いや、ホームセンターで売っているのとは違う、やっぱり高島屋や。」と言い張っていた。桜文鳥の出自(売店)にまでこだわるのかと私は半ば呆れたが、ブランドに執着する心理同様、女は所詮そんなものだと思ったものだ。その桜文鳥の名前は買ってきた日に息子に考えさせた。息子は“プチ”と名付けた。当時4歳の小さな息子が自分よりもさらに小さな生き物に対して、フランス語の“小さな”を意味するPETIT(プチ)という言葉を選んだのが面白かった。