不幸のブログ  -34ページ目

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


私が以前、テレパシーとの関連してこんな事を
語っていました。


それは私達の意識を何に向けるかと言う事の
例え話としてです。


まず、私達は通常二つの無線機からの指令によって
行動していると認識するのです。


一つの無線機からは大きな声が鳴り響いています。


一方もう一つの無線機からは小さなささやきが
ぼそぼそと聞こえてきます。


言うまでもなく前者は私達の心のエゴであり
後者は私達の魂のことです。


私達は通常誰もがその大きな声によって指令を受けていて
それを受けて自らを表現している事が多いはずです。


しかし私達は本来はその小さなささやきである
意識からの訴えを聞いて、
それを表現する事こそが求められているわけです。


私達はそれを実現するために何をすべきなのか?


言うまでもなく一つには心のエゴの声を抑える事
そしてもう一つは魂の声を大きくする事です。


そのためには一体何をどうすれば良いのでしょうか?


一つには当然、煩悩を抑える事が求められる事になりますし
もう一つには魂の意識の声を聞こうと勤めることが
求められることになります。


そう言えば宗教ではキリスト教や仏教は
実はこれを実践しやすい状態に存在していると言えます。


心のエゴを抑える事を実践しようとしているのが仏教であり
こちらはエゴのボリュームを小さくしようと
勤めていると認識できます。


一方ではキリスト教は神なる意識を感じようと
魂のボリュームを大きくしようと勤めていると認識できます。


それぞれがアプローチは異なりますが
求めている事は同じだと言うことです。


そして神道であれば道徳として認識されている
魂からの価値観を実践し続けていると理解できます。


道徳とは魂から受け止めるべき創造主の意志が
私達の社会の中で既存の価値観として受け入れられているものと
認識できます。


つまり神道や道徳的意識を持った人間は
無自覚のうちに創造主の法を実践している事にもなります。


それぞれアプローチが異なりますが、
私達は出来るものならその全てを並行して
実践していく事が望ましいのだと認識しています。


生命の科学を学ぶ人間は、
人間のあるべき姿であると認識された道徳を実践しながら、


時にはエゴを抑える事を覚え、
更には魂を感じる事を意識することで、


限りなくイエスキリストやお釈迦様の行動を
模倣する事にもなると言う事です。


しかもこれは形ではなくてその意志と心のあり方を模倣するのです。


この事からも判るのは、私達は誰もが100%の真理を
実践出来ているわけではないと言うことです。


私達の社会の損失は
せっかくそれぞれが独自に真理を捉えながらも
一方ではエゴの存在がそれを妨害し独自の真理だけを全てと看做して


それ以外の真理に気がついている人間の価値観を
認める事が出来なくなっていると言う事です。


私達はお互いの真理を理解し合えば、
そしてそのためにも共通認識となっている真理を
調和のきっかけとする事が出来れば


お互いを高めていく機会とする事が出来ます。


私や兄弟姉妹は是非ともそんな意識を持って
お互いにとっての真理と向きあっていければと思います。


そして私達にとっての本当の真理とは
共通意識の中にこそ存在している。


私達はいつか其の事に気がつくはずです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

アパートの駐輪場の自転車が数台ひっくり返されていました。


そんな事を繰り返すろくでない人間が確実に存在していて
未だにこの社会で力を持ってのさばっているのかもしれません。


私はそれがどんな人間達なのかとても興味があります。


こんな社会を作り上げた人間の悪しき意識を未だに持ち続け
改善しようとしていない人間達、
それが民族意識なのか宗教意識なのかは不明です。


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私達の社会には”絶対的な真理”と言うものは存在してはいません。


なぜなら私達は誰もが独自の真理に従って生きているからです。


この創造主の作り上げた世界の中での創造主の意識が
一体どんなものであったのかを認識すれば、


創造主の想いであるその四次元と言われる空間には
無数の法則と被創造物に対する慈しみ、
そして無限のエネルギーが存在している事を思い起こす事になります。


そしてその空間に存在している創造主の想いと知識こそが
私達にとっての真理なのです。


と言う事は私達にとってはその想いを理解する事が
真理を理解する事であり、
それを実現する事こそが真理の実践なのだと言えます。


創造主の想いを私達はこの肉体を持って表現するのです。


一見、私達の肉体は、誰もが独自の価値観と意識を持った
別個の存在に見えます。


しかし究極的には私達は誰もが創造主の意識を魂として持っていて
私達が自分だと信じ込んでいるその肉体と心は単なる器であり
創造主の意識を実現するためのフォームに過ぎません。


つまりは私達の肉体は主人の命令に背いて存在している事になります。


その状態で表現している私達の行動は
その殆どが自らの価値観によるエゴの表現であり
創造主の意識を実現しているものではありません。


つまり私達の肉体は創造主の意識を
正しく表現できてはいない事になります。


本来、創造主の意志を表現するための器である私達の肉体は
主人の命令に背いて勝手な行動をし続けていると言えます。


聖書の中でイエスキリストが


「私が為しているのではなくて
父が私の体を持って為している」


と語ったのは


イエスは自分のエゴを持ってではなくて
魂から感じられる父なる神の意識をもって
自分を表現しているのだと言う事を例えた物です。


イエスキリストは自らの心のエゴを抑える事で
出来るだけ神の意識を自分の肉体を持って表現しようと
したのだと言えます。


そしてそれは私達が魂を感じようと意識する事によって
実現されるはずです。


更にその時私達は、目に見えないものを感じようと
勤めているはずです。


イエスキリストと似たような思想を持っていた聖人として
お釈迦様が存在しています。


お釈迦様は煩悩を消し去って自我を消した先にこそ
悟りと言われる物が存在するのだと語っていました。


これは私達が心のエゴを消し去るよう勤めた時にこそ
私達はエゴではない真の自分を感じる事になるのだと
言う意味に取れます。


アプローチこそ異なりますが
聖人達が語っていたのはエゴを抑えた果てにこそ
私達の感じるべき真理が存在すると言う事だと思います。


そして其の真理こそが至高なる英知そのものなのです。


私達の生きるための指針はそこにこそ存在する。


私達はそれを実践するためにこそ今ここに存在しているのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

昨日は暖かい一日でした。

早々と桜も散ってしまいましたが今度は新緑の季節になります。

この季節も緑が急激に増えて

私達が自然を意識しやすい時期でもあるかと思います。

現実と言う名の人間の作り上げた構築物ばかりを意識するのではなくて

是非とも父なる神の意識を100%表現していると言える

自然に意識を向けて、そこから何かを感じて頂ければと思います。

地球社会は温暖化にあるという話も頻繁に語られていますし

一方では地球社会は寒冷化にあると言う話も存在しています。

残念ながら私達は、直接其の事の真偽を認識しうる情報を

手に入れる事はできません。

しかしいずれにしてもこの社会は何かの分岐点に差し掛かっていて

何らかの変化が今後起きていくであろう事は予想できます。

ただ、それが私たちに一体何を齎すのかを意識する前に

私たちが今何をすべきなのかこそを意識して

一日一日を暮らして頂きたいと思います。

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私達地球社会の人間はどうしても

環境や現象に依存しがちだからです。

それは勿論私達が視覚に捉われている事とも無関係ではありません。

そして現象としておきている事に自らを合わせたり

それと摩擦なく生きようとする姿勢も時には大切ですが

それが私達のあるべき姿から私たちを遠ざけてしまう事もあるはずです。

外部の刺激に一喜一憂するのではなくて、

例えどんな現象が目の前で起きようとも

それに一喜一憂せずに自分は自分として為すべきことをし続けることこそが

私たちにとって大切な事だと言えます。

私たちは受身ばかりではいけないと言う事

自らの意志をもって何かを為す、それこそが

私たち一人一人の今生きている課題の一つだといえると思います。

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本題です。

【私達の魂=意識】


アダムスキーさんは著書の中で意識と言う言葉を
頻繁に使用していました。


私は先述のようにその”意識”と言う言葉を
三つの意味として捉える事にしました。


一つには私達の魂そのもの。


そして一つには創造主の残留思念としてのエネルギーそのもの、
すなわち四次元のあらゆる記憶とエネルギー。


そしてもう一つは私達の頻繁に使う”意識”と言う言葉に
代表されるような、私達が感覚器官で感じようとする状態です。


それらの三つは私達が自覚していようが無自覚であろうが
全ては繋がっている事になるはずです。


私達が通常使う”意識”と言う言葉に関して
以前に室内で独り言をしていた時に語っていた内容があります。


例えば私達は何かに集中している時には
そこに対して意識を向けているのです。


TVを見ている人であればそれは視覚や聴覚に向かっているのでしょうし
音楽を聴いている方であれば聴覚に向かう事になります。


そしてその意識の状態によっては
私達は他の感覚器官から感じる情報を正しく捉える事が
出来なくなる事があります。


何かに没頭している時、例えば悩んで思考している時には
私達は、何かを見ていても目に入らず、音が聞こえていても
耳に入って来ないような状態の事があるはずです。


それは意識が思考へと向かっているために
意識を他の感覚器官へと向かわせる事が
出来なくなっているためであると思います。


そして私達の魂と言われている存在にたいしてこそ

私達は意識を向けるべきなのです。


しかし私達は魂、そして魂が受け止めている

創造主の意識を感じる事が出来なくなっています。


そして本来であれば私達の魂は常に警戒態勢、
つまりは外部からの情報を受け止める事が出来るような状態にあり
そこから頻繁に閃きや印象を受け止めるのでしょうが


私達はその実態を理解してはいない、
更にはその事を意識していないがために


感じるという魂の警戒態勢が私達に伝えるべき物事を
受け止める事が出来ないでいるのです。


私達は触覚を除く四つの感覚器官を
この世界を感じとめる唯一の手段であると認識し
その事を正しいと認識しているがために


実際には他にも存在する
”感じる”ための感覚器官を使用する事が出来ていない事が
其の原因であると認識できます。


アダムスキーさんは警戒=フィーリングの状態と
語っていました。


それは私達は本来、何かを感じようという状態で
生きていなければならないと言う事を表現したのだと思います。


動物であれば、寝ている時でも人が近づくと
いきなり目を覚ましては逃げていく姿を見せる事があります。


彼らは常時警戒態勢を感じている証拠だと思います。


私達は既にそのような鋭敏な感覚を
失ってしまっているのではないでしょうか。


「目に見えないものを信じることが出来るものは幸いである」


このイエスの言葉は、
感じる事こそが実は私達にとって一番大切なのだと言うことを
主張していると認識する事も出来ます。


私達は未だに心に囚われて暮らしていますが、、
天国のような社会を実現しようとするならば
誰もがこの感じると言う行為を意識すべきなのだと思います。


私達は時々は其れを意識して暮らして行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


スタッフ細胞は本当に存在するのかしないのか、

其の研究者は嘘を語ったのかそれとも一人責任を負わされたのか、


色々な憶測も語られていますが、私達は科学の専門的な知識も乏しいし

其の判断材料は限られていると言うのが実情です。


ただ、限りなく科学は発展し私たちの生活の向上のために役立っている。


それだけは確かなのだと思います。


私達が知るべき事の一つは己の実態

人間と言うものを現象として認識する事でもあります。


そのためにはミクロ的な視野で多くを知る事は大切です。


ただ、出来ればそれだけでは、

なくて逆にマクロ的な意識をもって現象を眺める事、


人間社会だけではなくてもっと別の場所に視線を向けて

そこに神を感じる、そんな機会を持つ事も重要だと思います。


ミクロが人間個人であり其の細胞であれば、

マクロは全体であり宇宙空間です。


私達が井の中の蛙でなくなるためにも

私達はもっと宇宙を見つめるべきである


そして全体を意識すべきである。


そんな事を考えていました。


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今日の本題です。



【大切なのは動機】


以前に、私達の意識の在り方として
悲観思考と楽観思考の話を取り上げたことがあります。


今私達の社会では楽観思考が頻繁に取り上げられています。


以前には私は楽観思考を否定していましたが
実はこれも私達にとって大切な一面である事を今では理解しています。


つまりこれも私達の”想い”の大切さとは無関係ではありません。


私達の想いがこの社会を作り上げるのだと言う話を
私は以前にも紹介しました。


私達の地球社会を覆っている周波数・波動と言われる物は
そこに住んでいる私達の想念の影響を強く受けると言う話でした。


この社会はそこに住んでいる私達の影響を受けて
その波動や周波数を変動させる。


一方ではその地球自体に蔓延した周波数帯が
今度は私達へと働きかける事になり
それは相互にフィードバックの関係にあると言う事です。


この社会の中で暮らしている私達が
記憶を持っての転生が出来ないその理由の一つは、


私達の住んでいるこの社会の持っている波動が
低い状態に維持されている事と無関係ではないようです。


私達は死んだ時には、その時の魂の状態に照らして
その魂の資質に合わせた肉体を維持できる社会へと
転生していく事になるようです。


私達の多くは残念ながら、それぞれの生において
十分な魂の進化を果たすには至らないために


自分の魂の周波数帯に適しているこの社会の中での転生を
繰り返しているのだと認識する事も出来ます。


そして其の波動と同じような周波数帯と波動を持っている
私達多くの地球社会の人間は
この社会での転生を繰り返しているのですから


この社会の中は容易に改善される事もありません。


と言う事は私達に求められている事の一つは
私達が少しでも高い意識を持って
高い周波数帯の想いを出すように勤める事だと言えます。


其の事が次の世代次の転生における私たちに

良い影響を齎す事になるのです。


そのためには、やはり低い周波数帯
不安や恐怖、怒りのような思いに満たされるよりも


明るく喜びのような周波数帯に満たされたほうが
良いのだと思います。


多くの人間はそれが出来ないのですから
先ずは私達はそこを第一段階として目指していく事になります。


その上で私達はもっと更に上の状態を目指せば良いのだと思います。


私達の目標は、ポジティブを求めた上で
しかもその想いが心のエゴではなくて
魂から湧き上がったものである状態を目指す事です。


つまりいくら楽しい想いであっても、
それが個人的なエゴから出ているものであっては
全体を思う意識よりも低い状態に抑えられてしまうからです。


自分の心地良さを求める意識は心から出ますし
全体を求める意識は魂から出ます。


つまり聖書のパウロ風に言えば
私達は肉の想いではなくて御霊の想いこそを
全身を持って表現する事が求められているのだと言う事になります。


次に大切なのは私達が何か行動をしようとした時に
その指針となる動機です。


私達はいつも結果ばかりに囚われて
それに行き着くまでの過程というものを見ようとはしません。


良い結果に見えてもそれが心のエゴから出ているものもあれば
良くない結果に見えても魂の想いから出るものもあります。


エゴをもって良い結果を齎すのはおそらくは偶然でしょうし
それは長くは続かないでしょう。


もしくは誰かに負担をかけることになっているかもしれませんし
どこかに歪を生んでいる可能性もあります。


魂を持って良くない結果を招いた場合は
きっと努力が足りなかったか、
もしくはこれから改善されるのでしょう。


そして長い目を持って思考すれば
大切なのはその動機でもあります。


その動機が心のエゴに根ざしているものなのか
それとも魂からの思いなのかが、
行為が正しいか正しくないかの基準ともなるのです。


更に私達は行動をしようとした時に
時には楽観的になりすぎたり、時には悲観的になりすぎたり
することもあるかと思います。


しかし本当に私達が求められているのは
悲観的でも楽観的でもない姿勢。


もっと言えば私達は悲観的な事にも悲観的にならず
楽観的な物事にも楽観的な状態になりすぎないような
そんな精神状態こそが求められていると言う事になります。


そして何かをしようとして因なるものを思考した時には
結果は最低の結果から最高の結果まで予測した上で
行動をする事が必要なようです。


つまり私達は結果を見据えた上で出来るだけより良い行動を
実践する事を求められているのです。


そしてもしもそこで自分が予想していた通りの結果が
導き出せなかった場合にも私達はそこから何かを学習し


次に同じような行動をする時には
もっと良い結果を出せるような思考をすれば良いのです。


そのためにも、一般の方々よりも少しだけ
精神的な進化を余分に果たそうとしている私達は


何事にも動じないような精神状態を少しでも培うような姿勢、
更には喜怒哀楽を出来るだけ制御できるような意識を
求められているのだと言えます。


私達をよりよい結果へと導くのは
私達の心の価値観ではなくて魂の意識であり、理性であり、
自分を客観的に見つめる姿勢でもあります。


個人的価値観に過ぎない独自の心をエゴを頼って
反射的に反応するのではなくて


元々が100点満点であるはずの神=創造主の想いこそを信じて
それを実践するように勤める事が何よりも大切だと言う事です。


これらは楽観思考をある程度マスターした後に
その後の指針として与えられるのだと理解して頂ければと思います。


私達、真理(キリスト)を求めるものはその状態を目指さねばなりません。


この社会の中の波動に染まるのではなくて
自らの意識をもって其れを改善していく思考を作って行く、


其れこそが私達に求められているものだと言う事です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


桜の季節も終わりを迎えようとしています。


皆さんもお花見は済みましたでしょうか?


誰もが自然から心地良さを感じることになるそんな行事。


私も昔からこの季節とお花見が大好きでした。


見ているだけで心が洗われる桜の花。


そして多くの人間がお花見などでのどかにしている其の様子を見ては

自分も更に心地良い想いを感じることになります。


このような機会は是非誰もが率先して体験して欲しいと思います。



私達が少しでも良い想いを持つ事が出来る数少ない機会を

是非ともしっかりと生かして欲しい。。。


そして自然の偉大さと大らかさを身近で感じて欲しい。


私たちであればきっとそこから何かを感じることが出来るはずです。



私達が神と呼んでいる存在は遠くにいるのではなくて

万物や私達の中にこそ存在している。


其れを実感して頂ければと思います。



余談ですが、私は桜や美しい自然を眺めると

自分の中から心地良さが吹き出てきているような感覚に陥ります。


おそらく其れは自分の中の実態である創造主の意識と

自然の中の創造主の意識の共鳴ではないかと想像もしています。


つまり私達が自然現象の中に神の意識を感じて

自分の中の実態が其れに反応している可能性です。


そんな感覚を受け止めやすいのが

お花見や桜の花、自然環境と言った現象なのではないでしょうか。


私達は自然の中にこそ神の実態を感じなければなりません。


日々慌しく大変な毎日を送っている方も少なくないでしょうが

時々は自然に目を向けて暮らして頂ければと思います。


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今日の本題です。



【原因と結果】


私達が学ばなければならないのは、
目に見えるもの耳に聞こえるものばかりに囚われるのではなくて
目に見えないものを感じようとする事のようです。


私達は通常、心と言う価値観をもって現象を眺めています。


しかし本当はそれだけではなくて


同時に魂を持って目に見えないものを感じ取る事が必要なのだと
私は繰り返し説明しています。


通常、感覚器官ばかりに頼って生きている私達にとっては
その事はとても難しく、なかなか実践出来る事ではないかもしれません。


しかし、もしも私達がそれを実践する事が出来るようになれば
私達は目に見えるものと目に見えないものを同時に
見る事になります。


極端な事を言えば、四次元を感じながら
三次元を生きる事が出来るようになるのです。


私達は自分達が通常見つめているものが
実は現象であると言うことを理解してはいません。


私達人間でさえも、
そして1000年生きていると言われるような樹木でさえも
実はこの宇宙空間の無限の時間の中においては、ほんの一瞬の出来事です。


私達にしてみれば、
一瞬の輝きである花火のような物こそを
現象として認識してしまいがちですが、


永遠と言う長い時間の中において
100年や1000年という時間も一瞬の瞬きに過ぎません。


つまり私達が”存在”と呼んでいるありとあらゆるものは
単なる現象に過ぎないと言う事です。


そして私達の因なる実態は,

いずれ朽ち果てる事になる肉体ではなくて

その魂にこそあると言うこと。


と言う事は私達は通常は誰もが結果(現象)ばかりを見つめていて、
その因なるものを見つめようとはしてはいない事になります。


そこで私達に求められているのが
原因と結果を注意深く分析すると言う姿勢です。


単に結果・現象だけを眺めないで、
結果・現象に関しても私達にありがちな先入観を持って眺めるのではなくて
赤子のごとく素直な心をもってそれを見つめる、


更には目には見えない万物の実態である生命力を
見つめるように勤める事が大事なのです。


それを実践するためにも原因と結果を意識できるような状態になる事が
私達に求められているのだと思います。


アダムスキーさんの著書の中では
「イエスが語ったように誠実になれ」
と言う趣旨の事が書かれていました。


言うまでもなくそれは私達が心を白紙の状態にして
素直に見たままを受け止めるような状態になりなさい
と言う事だと思います。


そしてそのためにも私達は幼子のような心を持って
何事をも見つめる事が大切であると言うこと。


私たちは自分の心が驕り高ぶっている事に気がついて
謙虚な気持ちで何事をも受け入れるような
そんな意識を持てるように勤める事が大切だと言う事です。


これは誰もが容易に実践できる事ではありません。


しかし私達は精神・意識の向上を目指している人間の中の
開拓者である事を自覚して皆でそれを実践して行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】




人間は心のエゴに支配されているとアダムスキーさんは語っていました。


私達は何をするにも何を見つめるにも
心の価値観や心の司る感覚器官に影響されている存在なのです。


本来であれば素直に見つめるべきものであっても
先入観を持って見つめてしまう事を
誰もが体験していると思います。


例えば見慣れた風景を詳細に見つめて
その中に違和感を感じる様な経験を誰もがしているのではないでしょうか。


「この場所にこんな建物があったかな?」
「この壁はこんな色をしていたかな?」


時にはそんな事に気がついて違和感を感じるのは
自分が無意識のうちに先入観を持って物事を見つめていた証拠です。


私達は現象を眺める時でさえ
そのように心の誤った記憶や価値観
そして先入観を持ってそれを実行しているのです。


そして自らの心を過信しては
それが理解できるものこそを真理であると認識し
理解不能なものは受け入れようとはしません。


そんな意識をしていれば
私達はいつまでたっても正しい事と正しくない事を
選別する事は出来ないのです。


更には私達は心をもって好きと嫌いを
作り上げてしまう事もあります。


自らの価値観と照らして、そして視覚・聴覚・味覚・嗅覚に照らして
好ましいものと好ましくないものを作り上げ
そこに独自の価値観をも持ってしまってもいます。


これでは”現象”や”存在”と私が呼んでいるものであっても
正しく認識する事は出来なくなってもしまいます。


創造主の意識は人間だけに限らず
ありとあらゆる生命体、そして物質の魂として存在しています。


しかし私達人間はその本来の意識からかけ離れた存在となっているのに
未だにそれに気がつく事が出来ないでいるのです。


そして時には心を持って自分の好ましい事、好きな事ばかりに接しては
一方では好ましくない事、大変な事から遠ざかり
自らを楽する事を願う事にも成っています。


しかし時にはそのような姿勢は
私達の精神的な進化の妨げにもなると言う事に
私達は気がつかねばなりません。


私達はその事を意識して自らを改善する事を求められているのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



【人生の指針】

私達人間は自分自身の事を正しく理解してはいません。


人間とは一体何なのでしょうか?


私の理解では、まず、人間とは元素を持って作り上げられた
一つのフォーム(形態)です。


そして創造主=神によって作り上げられた最高の生命体であり
創造主が自らの分身としての役割を担っている存在でもあります。


そして四次元における創造主の想いが
三次元において具現化したものとして存在してもいます。


聖書風に言えば私達は、
”御霊の神殿”として神の意識を治めるための器として存在しているのですし、


三次元の肉体と四次元の神の分身としての魂とを
兼ね備えた存在であると認識する事も出来ます。


更にその目的は創造主の目的である創造物の進化と調和を齎す
役割を担う事と理解できます。


ここでは私達の心は神からの贈り物として存在しているものであり
それ自体は神の意識ではありえません。


私達が担わされているのは神に代わってその想いを実現すること。


とすればこの社会に生きている多くの人間は
それを実践出来ていない事になります。


私達は誰もが肉体に付属された心の価値観をもって
行動の指針としていますし、


一方では私達は未だに神の意識を
正しく受け止める事もできないでいるからです。


本来、内に求めるべき創造主の意識を
どうしても目に見えるものや外に対して求めがちですし
一方では心を持って外部からの刺激に反射的に反応してしまいます。


つまりは私達はあるべき自分自身の姿を
未だ正しくは理解していない事になります。


私達地球社会の人間は未だに真の美を見てはいないと言うのが
金星のマスターと言われた人間の話でもありました。


そして私達は不安と恐怖に取り付かれて
その意識を縮小させているのだと思います。


本来感じるべきそして指導者とすべき神の意志に代えて
私達は恐怖と不安、更にはエゴの虜となっているのだと言えます。


私達の魂は未だ開放されていないのだと言っても過言ではないと思います。


もしも私達が自分自身の事を正しく理解する事が出来るようになれば
そして人間の生きる目的を知るようになれば
その時私達は自らの魂が開放される事になるのです。


私達は父の元に帰らねばならない。


そして自分と言う存在が、この宇宙空間の無数の存在の中の
一部であると言う事実を知るのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



私達は何事も「経験によって多くの物事を学ぶ」と言うことを
記事の中で頻繁に繰り返し説明してきました。


元々私達に課されている課題自体が経験なのですし


私達は肉体のフォーム(形態)を変え、
生活環境を変えながら延々と経験をし続ける事になります。


百聞は一見に如かずと言われるように
他人から聞いたことや本やネットで読んだ事ではなくて

私達は自ら体験した事からより多くを学ぶ事になると言うことです。


例えそれが失敗と言う経験であっても
私達はそこから多くを学ぶ事になります。


そしてそれは時には自らの戒律として課される事にもなります。


一方正しいと確信したこと、それが精神的に良いと感じた事は
それを自らの価値観として持つきっかけにもなります。


ありとあらゆる事は体験によって培われる。。


私達にとって大切なのは自らが経験することです。


そしてもしも失敗した時はそれを教訓とし、


正しいと感じた事や
後になってもっと別の方法があると感じた時や
それが誤りであると感じた時には


それをすぐに置き換える事で
私達はより真理に近いものを自らの価値観とする事も出来ます。


以前に私はジグゾーパズルでその事を説明した事があります。


似たような断片が多く存在しているこのパズルの断片を
誤った箇所にはめ込んでしまうと、
その周辺は残りの断片が正しくはめ込む事が出来なくなります。


その事がその周辺を誤った状態とし
それは時間が経つにつれて大きな誤りとなるかもしれません。


人間は誰もがそれと同じ事を繰り返しているのです。


だからこそ私達は誤りや、より良いものを受け止めた時には
それを訂正し改善していく事が求められるのだと言うことです。


同時に私達は、失敗を恐れると何も出来ないと言う事も
意識しなければなりません。


何もしなければ失敗する事も過ちを犯す事もありませんが
同時に私達には進歩はないのです。


この場合は


「君子危うきに近寄らず」ではなくて
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」


これこそを私達は実践していかなくては
ならないと言う事になります。


失敗を恐れることなく、かといって慎重さに欠ける事なく
しっかりとした判断力を持って何事も実行する事が
私達には求められているという事です。


私達の社会では多くの方がどちらかと言えば
慎重になり行動を抑制する傾向がありますが


今後はどんどんと何事も積極的になって
誰もが活発に活動してくれるような社会になり
明るい世の中が世界中に広がっていく事を期待しています。


聖書のイエスキリストが
神殿の中で両替商や行商人を追い出した記述があります。


そこから伺えるのはイエスキリストの人間らしい姿でもあります。


イエスキリストのような聖人とされていた人間でも
間違いを犯すのだと言うことです。


天使達に見守られて育ち、彼らに見守られて
活動をしていたであろうイエスでさえ、
自らの教えに反して他人を裁いてしまったのです。


まして私達はイエスと比較すればあまりにも至らない存在ではありませんか。


学ぶべき事が多いとしても
私達がより深く宇宙の法則を理解すれば
間違いを犯す機会はおのずと減っていく事になります。


聖人になることが出来なくても
永遠の命・記憶を持っての転生へと進む事が出来れば
私達は次の生では再び今の状態から学び始めることが可能となります。


私達の今の知識や知恵を100とすれば、次に生まれ変わったときには
1からのスタートではなくて101から始めることが出来るのです。


そして私達はどんどんと高みに登っていき
結果的には神=創造主に近づく事になる。


その事を何よりの目的として今はこの社会を大いに体験して行きましょう。


この地球社会を十分に体験して学ぶ事も
地球社会の中で生まれてきた人間の課題のはずです。


この社会が例え精神的には幼い保育園程度であったとしても
私達はその社会の中で優等生になるつもりで
多くの物事を学び体験していく。


他人と比較して自分の今の理解を持って驕り高ぶるのではなくて
そのくらいの高い目標をもって
私達は暮らしていくべきだと思います。


そしてその想いはきっと周囲の人間にも
影響を与えていく事になるでしょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



アダムスキー氏は著書の中で、生命の科学を学ぶにあたり
常に心と意識=魂の両方を用いる事を勧めていました。


いくら真理へのきっかけとなる知識を与えられたとしても
それを私達の既存の価値観を持って理解しようと勤めてしまっては
その内容を十分には理解できないことになるからです。


彼は「私達は半分しか世界を体験していないのだ」と
表現していました。


そしてイエスキリストは私達人間の事を「死人である」とさえ
表現していました。


それは私達が見ているようで見ておらず、
聞いているようで聞いておらず、
自ら思考して理解しようと勤めないからでありますし、


目に見える事、耳で聞こえる事しか
認識しようとしないからでもあります。


しかし私達は魂の存在、創造主の想いの存在を理解しているのですから
その事を大前提に常に自らの心を抑えつつ、


素直な気持ちで真理の欠片を眺めるようにすることが
大切なのだと思います。


そして何事にも、「原因があるから結果がある」と言うことを理解し
原因と結果を同時に見つめる様に勤めることで


目に見えるものと目に見えないものの両方を
理解することが出来るようになる。。。


つまりは私達は無自覚であるだけで
元々が心と意識の両方を使用するべき存在であると言う事です。


そして時には自分の中で既存の価値観を持った自分と
それとは事なる意識を持った自分を
同時に感じる事になるのかもしれません。


その時に私達は自分の中に二人の人間が存在しているような
そんな気分になるのではないでしょうか。


自らを客観的に見ることが出来る人間は
おそらくは精神的資質の高い方ではないかと想像できます。


私達も誰もがそんな状態に成れるよう意識して
暮らして生きたいものです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】



私達は常に結果に頼って生きています。


それは私達が常に目に見える事や耳で聞こえる物にばかり囚われていて、
見えない物、聞こえない事を感じることが
出来なくなっていると言う事に由来します。


先述のイエスの言葉の通りで、
私達は未だその域から逃れる事ができてはいません。


しかし私達が、もしも正しい生き方を実践しようと勤めれば
私達は現象として存在している物を見て聞くだけではなくて
魂を持って創造主の想いを感じなければなりません。


現象を捉えてそこから学ぶのではなくて
現象を引き起こしている因なるものからこそ
私達は学ばねばならないと言う事にもなって来ます。


そしてそんな私達を導くものは自らの意識であり
それをどこに向けるかを私達の課題とすべきかもしれません。


”意識”と言う言葉に関して触れておけば


一つには私達の魂、
一つには私達が何かを意識する時に向けるその矛先を誘導するもの、
一つには創造主の想いの世界。


これらの三つをまとめて
”意識”と表現していると理解してください。


全てが繋がっている事も理解して頂けるかと思います。


私の想像では、創造主の意識の社会があって
そこから私達の魂が派生して存在し、


更にその最先端にアンテナのようなものが存在していると
考えています。


意識と言う言葉は、私達が何かに対して警戒をしていると言う事の
現われでもありますし、


同時に創造主の想いその物をも指している
少し複雑な使われ方をしている言葉だと理解すれば解り易いかと思います。


そして創造主の想いは音声として私達に対して響くのではなくて
印象や閃きと言う形で私達に対して語りかけるのだと言うことを
是非とも忘れないで欲しいです。


そしてそれは私達にとっては一種のテレパシーのです。


ここから理解して欲しいのは、目が光の波動を捉える器官であるように
耳は物質の振動としての波動を受け止める器官であり
更には私達の魂は想い、想念の波動を受け止める器官であると言うこと。


そして想念と言うものは受け止めた後に、脳において
映像や音声として再現されることもありますが
一方では閃きや印象として認識される物であると言うことです。


私達は無自覚のうちに時にはそれを感じて
自覚していないと言う事が悲劇でもあるのだと思います。


テレパシーに関しては別の講義で後述しますが、


以前から私が説明しているのは、
例えば発明家でもあるような科学者が


自らの理論や法則を駆使して思考し何かを創造しようとしている時に
思考が行き詰まり、
疲れて思考をやめた時に突然、頭に答えが閃く様な状況です。


思考をためた後に閃く其の想いは決して私達の思考ではないのです。


しかし私達はそれを自らの思考であると勘違いしては
その閃きが魂から与えられた物であるという事に気がついていません。


つまり私達は日常において、
誰もが魂からの印象を体験していて
其の事に気がついてないだけだと言う事になります。


人間同士の間のテレパシーにしても、


例えば歩いていたり、電車の中にいる時に
誰かに見られている気がして振り返ると
そこにはこちらを見つめている人間がいた


と言うような事例で説明する事が出来ます。


其の時私達の魂は他人の意識を感じ取ったのです。


どうやら私達の魂は無自覚の内に他人の想い=想念を
受け止めている事になります。


そして其の想いを受け止める行為こそが
私達がテレパシーと呼んでいるものであるということ。


更には私達は無意識でその影響を受け続けている存在であり
人間自体が想念的な存在であると言う事を私達は理解しなければなりません。


私達は想いながら存在している。


その事を先ずは意識して頂きたいと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】