第一講座 VOL15 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

昨日は暖かい一日でした。

早々と桜も散ってしまいましたが今度は新緑の季節になります。

この季節も緑が急激に増えて

私達が自然を意識しやすい時期でもあるかと思います。

現実と言う名の人間の作り上げた構築物ばかりを意識するのではなくて

是非とも父なる神の意識を100%表現していると言える

自然に意識を向けて、そこから何かを感じて頂ければと思います。

地球社会は温暖化にあるという話も頻繁に語られていますし

一方では地球社会は寒冷化にあると言う話も存在しています。

残念ながら私達は、直接其の事の真偽を認識しうる情報を

手に入れる事はできません。

しかしいずれにしてもこの社会は何かの分岐点に差し掛かっていて

何らかの変化が今後起きていくであろう事は予想できます。

ただ、それが私たちに一体何を齎すのかを意識する前に

私たちが今何をすべきなのかこそを意識して

一日一日を暮らして頂きたいと思います。

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私達地球社会の人間はどうしても

環境や現象に依存しがちだからです。

それは勿論私達が視覚に捉われている事とも無関係ではありません。

そして現象としておきている事に自らを合わせたり

それと摩擦なく生きようとする姿勢も時には大切ですが

それが私達のあるべき姿から私たちを遠ざけてしまう事もあるはずです。

外部の刺激に一喜一憂するのではなくて、

例えどんな現象が目の前で起きようとも

それに一喜一憂せずに自分は自分として為すべきことをし続けることこそが

私たちにとって大切な事だと言えます。

私たちは受身ばかりではいけないと言う事

自らの意志をもって何かを為す、それこそが

私たち一人一人の今生きている課題の一つだといえると思います。

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本題です。

【私達の魂=意識】


アダムスキーさんは著書の中で意識と言う言葉を
頻繁に使用していました。


私は先述のようにその”意識”と言う言葉を
三つの意味として捉える事にしました。


一つには私達の魂そのもの。


そして一つには創造主の残留思念としてのエネルギーそのもの、
すなわち四次元のあらゆる記憶とエネルギー。


そしてもう一つは私達の頻繁に使う”意識”と言う言葉に
代表されるような、私達が感覚器官で感じようとする状態です。


それらの三つは私達が自覚していようが無自覚であろうが
全ては繋がっている事になるはずです。


私達が通常使う”意識”と言う言葉に関して
以前に室内で独り言をしていた時に語っていた内容があります。


例えば私達は何かに集中している時には
そこに対して意識を向けているのです。


TVを見ている人であればそれは視覚や聴覚に向かっているのでしょうし
音楽を聴いている方であれば聴覚に向かう事になります。


そしてその意識の状態によっては
私達は他の感覚器官から感じる情報を正しく捉える事が
出来なくなる事があります。


何かに没頭している時、例えば悩んで思考している時には
私達は、何かを見ていても目に入らず、音が聞こえていても
耳に入って来ないような状態の事があるはずです。


それは意識が思考へと向かっているために
意識を他の感覚器官へと向かわせる事が
出来なくなっているためであると思います。


そして私達の魂と言われている存在にたいしてこそ

私達は意識を向けるべきなのです。


しかし私達は魂、そして魂が受け止めている

創造主の意識を感じる事が出来なくなっています。


そして本来であれば私達の魂は常に警戒態勢、
つまりは外部からの情報を受け止める事が出来るような状態にあり
そこから頻繁に閃きや印象を受け止めるのでしょうが


私達はその実態を理解してはいない、
更にはその事を意識していないがために


感じるという魂の警戒態勢が私達に伝えるべき物事を
受け止める事が出来ないでいるのです。


私達は触覚を除く四つの感覚器官を
この世界を感じとめる唯一の手段であると認識し
その事を正しいと認識しているがために


実際には他にも存在する
”感じる”ための感覚器官を使用する事が出来ていない事が
其の原因であると認識できます。


アダムスキーさんは警戒=フィーリングの状態と
語っていました。


それは私達は本来、何かを感じようという状態で
生きていなければならないと言う事を表現したのだと思います。


動物であれば、寝ている時でも人が近づくと
いきなり目を覚ましては逃げていく姿を見せる事があります。


彼らは常時警戒態勢を感じている証拠だと思います。


私達は既にそのような鋭敏な感覚を
失ってしまっているのではないでしょうか。


「目に見えないものを信じることが出来るものは幸いである」


このイエスの言葉は、
感じる事こそが実は私達にとって一番大切なのだと言うことを
主張していると認識する事も出来ます。


私達は未だに心に囚われて暮らしていますが、、
天国のような社会を実現しようとするならば
誰もがこの感じると言う行為を意識すべきなのだと思います。


私達は時々は其れを意識して暮らして行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】