第一講座 VOL16 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

アパートの駐輪場の自転車が数台ひっくり返されていました。


そんな事を繰り返すろくでない人間が確実に存在していて
未だにこの社会で力を持ってのさばっているのかもしれません。


私はそれがどんな人間達なのかとても興味があります。


こんな社会を作り上げた人間の悪しき意識を未だに持ち続け
改善しようとしていない人間達、
それが民族意識なのか宗教意識なのかは不明です。


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私達の社会には”絶対的な真理”と言うものは存在してはいません。


なぜなら私達は誰もが独自の真理に従って生きているからです。


この創造主の作り上げた世界の中での創造主の意識が
一体どんなものであったのかを認識すれば、


創造主の想いであるその四次元と言われる空間には
無数の法則と被創造物に対する慈しみ、
そして無限のエネルギーが存在している事を思い起こす事になります。


そしてその空間に存在している創造主の想いと知識こそが
私達にとっての真理なのです。


と言う事は私達にとってはその想いを理解する事が
真理を理解する事であり、
それを実現する事こそが真理の実践なのだと言えます。


創造主の想いを私達はこの肉体を持って表現するのです。


一見、私達の肉体は、誰もが独自の価値観と意識を持った
別個の存在に見えます。


しかし究極的には私達は誰もが創造主の意識を魂として持っていて
私達が自分だと信じ込んでいるその肉体と心は単なる器であり
創造主の意識を実現するためのフォームに過ぎません。


つまりは私達の肉体は主人の命令に背いて存在している事になります。


その状態で表現している私達の行動は
その殆どが自らの価値観によるエゴの表現であり
創造主の意識を実現しているものではありません。


つまり私達の肉体は創造主の意識を
正しく表現できてはいない事になります。


本来、創造主の意志を表現するための器である私達の肉体は
主人の命令に背いて勝手な行動をし続けていると言えます。


聖書の中でイエスキリストが


「私が為しているのではなくて
父が私の体を持って為している」


と語ったのは


イエスは自分のエゴを持ってではなくて
魂から感じられる父なる神の意識をもって
自分を表現しているのだと言う事を例えた物です。


イエスキリストは自らの心のエゴを抑える事で
出来るだけ神の意識を自分の肉体を持って表現しようと
したのだと言えます。


そしてそれは私達が魂を感じようと意識する事によって
実現されるはずです。


更にその時私達は、目に見えないものを感じようと
勤めているはずです。


イエスキリストと似たような思想を持っていた聖人として
お釈迦様が存在しています。


お釈迦様は煩悩を消し去って自我を消した先にこそ
悟りと言われる物が存在するのだと語っていました。


これは私達が心のエゴを消し去るよう勤めた時にこそ
私達はエゴではない真の自分を感じる事になるのだと
言う意味に取れます。


アプローチこそ異なりますが
聖人達が語っていたのはエゴを抑えた果てにこそ
私達の感じるべき真理が存在すると言う事だと思います。


そして其の真理こそが至高なる英知そのものなのです。


私達の生きるための指針はそこにこそ存在する。


私達はそれを実践するためにこそ今ここに存在しているのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】