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第二講義 VOL14
私達の社会の多くの人間は皆罪人です。
自覚無自覚に関わらず誰もが精神的な罪を犯しながら生きています。
しかし私達は其の事に自覚してはいません。
何故なら私達は目に見えている、明文化されている法規ばかりを意識して
大切な心の法規を無視しているからです。
ただ、そんな罪人であっても、更には法的な犯罪者であっても
創造主は同様にお日様を照らしてくれますし、
雨を降らしてもくれます。
勿論これも例えで、誰もが同じように
創造主の法の下に存在していていると言う事だと思います。
同時に誰もが見えない法則から逃れる事は出来ないという事でもあります。
一方では私達が生き方を変える事ができれば、
誰もが平等に永遠の命へと導かれるはずです。
イエスキリストは善人を救いに来たのではないのです。
「医者を必要とするのは病人である」と言う例えの様に
イエスキリストの語っていた創造主の法を必要とするのは
罪人だと言う事です。
勿論、地球社会の罪人とは全ての人間の事なのですが
それに気がついていない人間は自称善人であり
自分が罪人であると反省し、それを改善しようと努める人間こそが
イエスキリストの教えに従う事にもなります。
私や兄弟姉妹は恐らくは自らが罪人である事を
意識していると思います。
時には自分の過去の罪を反省したり
思い出しては胸を痛める事もあるのではないでしょうか。
そしてそんな意識こそが私達の罪を清算する事に繋がりますし
其の事が私達を学習や進化へと導くきっかけにもなるのです。
時には謙虚な気持ちをもって自らの人生を振り返ってみましょう。
反省の意識や改善の意識が私達を進化へと導くのです。
【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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P.S.独り言
従来からの私の記事を読み続けてくれている方には
繰り返しになりますが、
そうでない方のために少し詳細で触れておきたい事があります。
旧約聖書におけるモーセの戒律時代の”罪”と
新約聖書におけるイエスの教えの時代の”罪”とは異なると言う事を
私は以前から繰り返し語っていました。
モーセの時代の無法者の野蛮人には
「他人と争うな」、「人を殺すな」、「親に敬意をしめせ」
「力ずくで女性を犯すな」
そのような、今では常識と言われるような事ばかりが
道徳として語られていたのだと理解してください。
それは人間であれば誰もが持つべき最低限の良識でありますが
当時の人間達にとっては当たり前ではなかったからこそ
それを徹底する意味でモーセは彼らに戒律を課したのだと理解すべきです。
そして一方では彼らに対してモーセの神が
あらゆる法規を細かく課しました。
それは其の時代の人間達に知恵として何かを与えても、
そのまま其れを実践してくれるような甲斐性が無かったために、
一つ一つを事細かに説明しなければ
民は其れを実行しようとしなかったためだと認識できます。
つまり、旧約聖書の戒律と言うのは
発展途上の道徳性の乏しかった人間達に対して
行動の指針として与えられたものであり
其の当時の時代に即して彼らの生活習慣を考えた時に
其れが適していると判断して与えたものだと言う事です。
つまりは真理と言われるような絶対的なものではなかったと言う事です。
旧約聖書でモーセと其の神に与えられた教えは
現代人を前提に考えれば道徳の基礎であり、
方針だとでもいえば解りやすいかもしれません。
今の時代の思考で考えればモーセの戒律は大雑把であり
一方モーセの神の教えは形式的に見えるかと思います。
しかし当時の人間の知能や慣習を考えた時に
道徳として知恵と其の応用を与えるには無理があったために
彼らはそのような具体例を示す事で法規としたと理解する事が出来ます。
その後時代が過ぎて、モーセと其の神の教えが
ある程度徹底された時代にイエスキリストが登場しました。
エリアの予言どおりイエスはユダヤの救世主として
今度は更なる知恵を民衆に与える事になります。
モーセと其の神が方向の指針を与えたのと異なり
今度のイエスキリストは私達に抽象的ではありますが
心のあり方を教えました。
一言で言えばイエスの語っていたのは道徳に他ならないのです。
そして法規と言う言葉で表現すれば、
「時代背景により左右される事のない心の法律」であり
教えと言う意味では「心の知識」ではなくて「心の知恵」でした。
そしてそれはそのまま宇宙の法則であり
私達のあるべき姿、神の望んでいる私達の生き方そのものです。
イエスが現れた当時のユダヤ教徒が当惑したであろう原因は、
モーセの時代の戒律を絶対的なものであり
其の具体例こそが罪であると認識してしまっていた事だと思います。
結果、神とモーセの具体例を知識として受け入れ
それを守る事で自らは善人でいられると勘違いしていた事になります。
しかし元々モーセの語りたかったことは
本当は心のあり方であり、他人との関係であり、
争いを否定する意識だったわけです。
安息日を設けて其れを聖なる日にしろ
これは当時の慣習に照らして考えれば
主人が働き尽くめでは奴隷も家畜も休む事が出来ない
そのためにも一日くらいはお休みして心の事でも考えなさい。
とか
毎日働いている最中には神を意識する事も出来ないし
心がどんどんと萎縮する事になる。
だからせめて週に一日くらいはお休みしては
精神を意識しなさい。
と言う内容を趣旨とするはずです。
「安息日を設ける事」という形式的な意識を持つのではなくて
心を休める機会を持つことが自分にとって大切なのだと
言う趣旨であると理解すれば
「安息日に何をしてもいけない」という上辺の言葉を理解して
休まずに働いている他人を罪人扱いする事も無いはずです。
貴方の父と母を敬え
これは今では当たり前の意識とされていますが
この趣旨も父と母と言うのは自分と言う人間にとって
一番の身近な存在であり
他人を敬うと言う意識を
先ずは一番の身内から持たせようとしたものだと理解すれば
他人に対して敬意を表することや
自分を大切に思うように他人をも大切に思うと言う意識を
持たせようとしたものだと理解できます。
このような内容を形式的に理解して、
そのまま実行していたのが当時のヘブライの人間達です。
その事をイエスは今度は自分の独自の教えとして、
条文とされた法律を覚えて守れば正しいのではなくて
学ぶべきは知恵であり
大切なのは心の持ち方であるという事を教えてくれたのです。
先ほどの趣旨こそが私達が学ぶ知恵であり
「安息日を設けてそれを聖なる日となさい」という表記ではなくて
弱きものに思いやりを持ち、自らも心を落ち着けるために
時間をとって心に余裕を持ちなさいという知恵であればどの時代にも通じるはずです。
(忙しいと精神を意識するような時間もなくなるはずです)
そしてイエスは心の中での思考、心のあり方をより重視したと言う事を
先日”想念”のところで説明したかと思います。
例えばモーセの時代の教えに「殺してはいけない」と言う一説があります。
それを守ると言う事は人殺しをしないと言うことになりますが
イエスの教えに至っては例え人を殺すことなくとも
他人を殺したいと思っただけでも其れは罪だと言う事になります。
例え眼に見える行動が清廉潔白でも
心で疾しい事を考えていたり、
心の中で悪しき想いを持っていればそれは罪だと言う事です。
悪い想い、想念=思念波のエネルギーは人間の心から出て
自分の身体のみならず他人の心にまで影響を及ぼすからです。
つまりは心無い事を思考した時点で私達は罪を犯していると言うのが
天使達の社会での常識であり思考だということになります。
つまり私達は天使達と比べると
誰もが毎日多くの罪を犯しているはずなのです。
だからこそイエスの教えにおいては
この社会に”善人”は存在しない事になります。
そしてイエスが言っていた
「私は罪人を救いに遣ってきた」の真意は
イエスは犯罪者を救いに来たと言っているのではなくて、
「自らを罪深いと意識し反省できているような人間こそを
自分は救いに来たのだ」と言う意味だと認識できます。
当時は徴税人のような職業が忌み嫌われていたためか
民衆に批判され、自らは罪悪感を持っていたのか
イエス信奉者としてイエスの周りに何人もいたようですが
其の職業と風当たりゆえに彼らは自分達の心を意識し
自らの罪をも反省するようになったのかもしれません。
イエスは、大切なのは自らを省みて反省する意識であると考えていたので、
表立っては敬虔な神の使徒を装っている人間以上に
そんな罪人を自覚している人間達を導こうとしていたと理解できます。
誰もが清廉潔白は在りえない状態なのに
自分は一切の罪を犯してはいないと言う方は
自分の表面上は法を犯していないと
言う事を前提に主張している事になるはずです。
心の中でどんなに汚い意識を持っていても
それを表に出さなければ、
そしてどんなに残酷な意識を持っていても
それを表現しなければ
更には例え他人に迷惑をかけていても
法律とされているものに触れていなければ
其の人間は善人だと言う事になります。
更に私達は上辺はいくらでも着飾る事が出来ます。
いわゆるイエスが偽善者と呼んだ人間たちの様にです。
心にも無い事を語り、他人が見ているところでは善行を行い
しかしながらその実心の中は策略や野望やエゴで満ちている
そんな人間がこの社会には溢れていると思います。
今現在のあらゆる詐欺や法の穴を抜けたような商売は
結果的には法律にかからないので
この世の罪としては罰せることは出来ませんが
実質は罪であり他人を苦しめたり迷惑をかける行為
正当化されることはありえません。
しかし今の現実社会はどのようになっているでしょうか。
法律と言う名の決め事と一応は慣習やマナーといわれることを
守ってさえいえれば、後はなにをしても一切の罪に問われる事はありません。
どんなに悪どい事をしていても
どんなに他人に迷惑を与えていてもです。
其の上で他人の前で愛想を振りまいて
心にも無い事でも語っていれば
其の人間は善人とされることでしょう。
つまり私達は世間体や上辺ばかりを磨いては
肝心の魂を清めると言う意識など
まるで持ってはいないと言う事になります。
イエスの表現で例えれば
私達は表面ばかりをピカピカに磨いては
内側は汚れた杯のような状態なのです。
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ところでイエスの時代のそんな教えで
天使達の教えが全て完結したわけではありません。
モーセと其の神が基本を語り、イエスがそれを応用として推し進め
其の上にアダムスキー時代に天使達が与えた
生命の科学が其の発展として与えられました。
別の表現をすれば、宇宙の法則を学ぶための基礎を
モーセ、そしてイエスが私達に与え
とうとう本編である普遍的な真理を
天使達は私達に提示した事になります。
モーセの時代やイエスの時代に
生命の科学=宇宙の法則が与えられたとしても
決して当時の人間達はそれを理解する事はできなかったはずです。
それが今の時代になり多くの人間が色々な形で
神なるものを意識する機会を与えられ
ユダヤ教(正統派)、イスラム教、ヒンズー教、キリスト教、仏教
更には其れを発展させたような教えが蔓延している時代だからこそ
私が今触れているような話を聞いても、
内容的に理解できる人間が増えていると言う実態もあるはずです。
彼らは私達が知識として精神の何たるかを理解する事ができるようになったと判断し
「機は熟せり」というタイミングで
私達に私たちが天国と呼んでいる社会での実践されている戒律を
私達に与えたのだと思います。
心無い人間達の手により其の教えは更に
別の思想や教えに歪められている場合もありますが
結果的に私達の魂は本物に直面すれば
其れを見抜く事も出来ます。
今の時代だからこそ、学ぶべき真理を
正しく理解できる人間も育っているはずです。
(そう思考することで自らの慰めにもしています。)
天使達の話は100%信頼してよいと思います。
表現的な間違いはあるかもしれませんが
彼らの社会では”偽り”は存在しないからです。
モーセ、そしてイエスキリスト更にはアダムスキーの時代のオーソンと
同じ魂が生まれ変わりながらこの社会に其の都度
教えを与えてくれたと言う話を真実だとすれば、
そしてマホメットや孔子、更にはお釈迦様もが彼らの仲間の
地球社会での生まれ変わりであったと言う事を信じれば、
この社会の中では多くの宗教信者が
新たな教え、更なる教えとして天使達の真理を
実践していく事も可能なはずなのです。
「全ての思想の基礎は私達が時代や其の地域の習慣等に照らして
妥当だと想うものを貴方達に与えたのですから
全ての真理は同じ宇宙の法則へと繋がるのです。
民族や思想や国籍で対立しているのではなくて
心の思想の共通点を持って理解しあいなさい」
と彼らが語っているような気がします。