不幸のブログ  -30ページ目

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


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生命の講座  第三講義VOL5


私達人間は創造主の分身としてこの世に存在しています。


そして創造主が自ら表現したいと願ったその社会を
代理人として作り上げる事が私達の任務だとも言えます。


でも不思議なのは何故に創造主は私達を当初から
完全な存在である自らと同様な存在として作り上げなかったのかと言う事です。


その気になれば神は私達人間を
自分同様100%の能力を持った存在として
作り上げる事も出来たはずなのにです。


私達の脳に存在する知識や知恵が
そっくりそのまま創造主の意識であれば


そして当初からその状態へと直線的に導けば
私達は誰もが創造主と同様の意識を持ってこの生を送る事もできたはずです。


しかし創造主はそんな事を私達には望まなかったわけです。


もしも私達が創造主とまったく同じ存在で、
創造主の法に100%従う存在として作り上げられたならば
創造主の思い通りの社会をすぐにでも作り上げてしまう事になります。


恐らく創造主はもっと別の事を私達に期待したのだと思います。


もしも誰もが創造主の意識を100%持って生きていたならば
私達は誰もが自分と言う存在を意識することなく


創造主の分身としての働き蟻のようにこの社会で暮らし、
自分と他人との間を区別する事さえも
なかったかもしれないのです。


しかし現実には私達は白紙としての脳機能を与えられ
一方では創造主の意識である魂を持って其の意志を受止めて生きています。


その状態であらゆる体験をするのですし、


個々の人間がそれぞれ別の環境や境遇
そして独自の姿として生まれて生を体験し其の記憶を噤んで行く事が
自分を自分と認識させる事に繋がってもいるのです。


その事が自分と他人とをはっきり別の存在であると
意識させる事にもなります。


そして人間は誰もが不完全な存在として日々暮らしています。


一方では魂が訴える、そして本能が求める完全なる状態を夢見て
無自覚で自らの改善や向上を目指して生きてもいます。


更に私達は誰もが異なった人間として暮らしているのは
私達の個々の人間が別の体験を持って
それで独自に心の価値観を作り上げて生きているからです。


恐らくは創造主は自分の分身としての不完全な存在を作り上げる事で
それが進化する過程を見守る事を望んでいるのだと思います。


惑星や宇宙全体の調和や進化などは、人間と言う生命体を
元々完全な存在にしておけば創造主の予定通りの世界を
早々と実現する事も出来たはずです。


それをしなかったのは創造主が自分の分身を
単に自分のコピーとして存在して欲しかったのではなく、


私達個々の存在を単に全体の一部であると言うだけではなくて
独自の体験に基づいた独立した個人としての意識をも
持たせたかったのではないでしょうか。


私達は誰もが異なった経験をする事で
他人と自分とを区別する事になります。


時にはエゴを持ち身勝手に生きる事もありますが
自ら学習しては進化し、最終的には神に似た存在となって行くのです。


個々の人間が自分と言う意識をもつためにも
そして自分の意志を持って何事をも行動するためにも
私達には自由意志という物が与えられるに至った。


そして心を魂の価値観に置き換える事前提で

心を意識した時には自分自身という存在を
そして魂を意識した時には全体を中心に思考する
そんな存在として私達が生きれるように取り計らった。


私はそのように理解しています。


しかしそのような状況の中で私達はその自由意志をもって
自分のエゴばかりを選択しては暴走を続ける事になってしまっていると言えます。


創造主が私達、被造物に与えてくれた贈り物を
私達は正しく使用する事が出来ていないと言う事です。


私達は宇宙の法則に対する知識も理解も足りないがために
本来望まれている人間という存在からはかけ離れつつある。


その事を何よりも危惧して私はブログを書き続けていました。


創造主の想いと法則が存在としての私達を作り上げているのですから
その想いや法則とはかけ離れた存在は
その世界の中では存在する事が出来なくなる。


これは当たり前の事です。


私達地球社会の人間はその法則と想いから
かけ離れる事がないように勤め
あるべき姿へと変わっていく事を求められている。


それがこの社会の急務であり
私達が目指すべき事だと言う事です。


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私達が自らの思考にばかり捉われず、
其の意志を開放する事で創造主の意識を感じ続けることが出来れば
導かれるところへと導いて貰える。。。


私達はあまりにも通常他人との関係に振り回されたり
日々のルーティーンに慣れ親しんでしまっている事から
本来感じるべき其の意識をまるで感じる事が出来なくなっているのだと思います。


私が以前触れていたのは自然から学ぶという
アダムスキーの言葉です。


誰もが郊外に出かけ公園や山や海にいる事で
爽快感を感じる事が出来るはずです。


それは通常触れる事のない自然という環境に触れる事で
新鮮さを受止めているという実態もあるでしょうが


それ以上に本来受けるべき良い想念の影響が
そんな場所ほど強く、更には他人からの負の想念を
受止め難い場所であるということも無関係ではないと思います。


私達がもしも生まれた時からたった一人で暮らしていたとしたら
(あくまで仮定です)


そして他の人間達の影響を受けることなく
受止めるのが自然からの影響だけだったとしたら


恐らくは意識を感じる能力は格段に
高い事になっていたと思います。


私達は本来人間という神の分身が持っているべき
能力を失ってしまっている


それを取り戻すための努力を
今私達は実行しているのだと理解してください。


私達の神は遠いところにいるのではなくて
自然の中、そして私達の中にこそいるのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

創価学会の在日の人間たちのしつこさには
呆れて物も言えません。


ブログを書いていると
私の脳を苛つかせようと右脳への攻撃が始まっているようです。


人間誰しも脳機能を締め付けられたり傷つけられると
精神状態が正常ではいられないようです。


其れを実行している人間達が私の近所に集う
在日の
創価学会の信者の様です。


朝は腸腫らしもされましたし
危うく吐き気の応酬を受けるところでした。


勝手なルールで他人を苦しめ
其れを反省しようともしない。


過去の過ちをまとめて許すといっても
其の手を休めることなく証拠隠滅を図ろうとする。


この意識だけは許す事が出来ません。

2014年11月21日 P.M14:22


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創価学会の中の同和部落と在日関係者が
私と妻と私をサポートしてくれている人間に対して
電磁波による攻撃を続けています。


食べ物を利用しては頭が苛つくような塩基を脳にまかれ
一方では排泄物と胃の中のものを利用しては
摂食嚥下を狙っているようです。


胃と腸の境が無い様な状態にされては
腸内の排泄物をせり上げては
吐き気を模様されてもいます。


2014年11月21日 AM7:48

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生命の講座 第三講義 VOL4


アダムスキーは人間をTV受像機に例えていました。


TVは電気が届かなければただの元素の塊に過ぎません。


コンセントに差し込む事でそこで電気エネルギーを供給し
繋いでいる間は延々とその役目を果たす事が出来ます。


そしてTvの機能は外部から電波を受け止めて
それを画像と音として表現する事でもありました。


その姿は私達人間と似ていると言う事です。


私達も実は魂から無限のエネルギーを延々と受け続けている存在です。


通常私達は自分達の事を
食事によって肉体に対してエネルギーを供給しているだけの
存在のように考えていますが、


私達を生かしているのは食事だけではなくて
魂からの無限のエネルギーが私達を生命体にしているのだと言う事を
以前にはテレパシーの記事の中でも触れたはずです。


私達は何かを思考せずには生きてはいれません。


その思考した時には私達の想念が全身から放射線状に
放出される事になりますし、私達は想念をそのへんにばら撒きながら
生きている存在でもあるのです。


例え道を歩いているときでも
無自覚に「歩こう」と言う意識を私達は持つ事になりますし


その想いを肉体をもって”歩く”という形で表現しているのが
私達人間なのです。


そんな思考をし想念として発するエネルギーを
延々と供給出来るのも、私達が父なる創造主から無限のエネルギーを受けていて
それをエネルギーとして使用しているからでした。


つまり私達はTV同様に無限のエネルギーを休むことなく受け続けているからこそ
今のような生命として存在している事が出来るわけです。


私達はその状態でTVと同じように
想念=思念波という名の電波を魂を持って受け止め
一方ではそれを想いに変換しては肉体で表現して生きています。


アダムスキーが人間をTVに例えた理由も
単に人間が酸素を必要としていると言う表現をするためだけではなくて


TV機能と人間の存在やテレパシー能力とが似通っていることとも
無関係ではないはずです。


私達は想わなければ生きてはいけない。


アダムスキーはそのようにも語っていました。


思考とは無自覚である時間帯としての寝ている時でさえ
私達の意識は働き続けてもいます。


脳が司っている心というものは休む事があっても
魂は一瞬でも休むと言う事はありません。


無限の力の源から延々とエネルギーを供給し続け
そして私達を三次元における生き物とし続けているのです。


ただ、このエネルギーは受け止める量に個人差があるようです。


精神的進化を果たしている人間ほど、
魂から受け止めるエネルギーは大きくなるようですし
その想念と言われるものの力も大きなものとなるようです。


精神的な進化を果たした人間は
四次元と呼ばれるエネルギーの世界から魂が受けとめるその量が
大きくなると以前から私が繰り返しています。


精神的な進化が進めば進むほど私達がオーラと呼んでいるものも
思念波も強いエネルギーを発する事になると言う事です。


その意味では私達が供給されるエネルギーは必ずしも
均等ではありませんが、私達が魂から見えないエネルギーを
受け止めている事だけは間違いない事実です。


私がブログで毎回のように


”貴方に無限なる力の祝福がありますように”


と繰り返すその意味は


創造主から少しでも多くの祝福を受けて欲しい
少しでも多くの想いを感じて欲しい


少しでも多くのエネルギーを受け取って欲しいと言う
現われなのです。


「人はパンのみで生きるにあらず。」


私達を生かしているのは野菜や肉と言った食べ物だけでは在りえない。
その事を強く意識して欲しいと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

創価学会の中の同和チームと在日チーム
心無い電磁波攻撃を受け続けているようです。
語りかけの人間達が教えてくれました。


朝から晩まで延々と電磁波の効果が続くため、
そして私の行動や食事の内容をも利用しては
延々とそれを悪い効果にするよう仕向けてくるために
私は気の休まる暇がありません。


生命の講座 第三講座 VOL3


実はアダムスキーの著書の中では天使達の技術として
とても面白い話を取り上げていました。


それは彼らが地球社会における情報を得るために
使用していると言う技術です。


彼らは大きな葉巻型の母船以外に惑星探索機といわれる
スカウトシップと言われる宇宙船を使用しているそうです。


私達がUFOと呼んでいるものです。
(金星土星はアダムスキー型と呼ばれるスカウトシップだそうです)


そしてそのスカウトシップの中には更に小型の探索機が
備えてあり、


それを使用する事で
地球の特定の箇所の音や映像、更には想念までも記録しては
それをビデオテープのようなもので撮影収集し


その後TVモニターのようなもので
再現しているのだと言う話でした。


今ではビデオカメラで光の波動(映像)と
物理的振動(音)を録画し再現するのは当たり前ですが
これは50年以上前に彼らはそれを使用していたと言う事でもあります。


しかも其の上に彼らは想念の波動までをも記録しては
それを映像や音として再現する事が出来たようです。


つまりは彼らは光の波動、物理的振動以外にも
想念の波動を受け止めて記録する技術を持っていると言う事です。


そして想念の波動と映像電波は限りなく似ている
若しくは似たような技術で認識できるものだと思います。


更にそれを使用する事で彼らは言葉まで学ぶと言う話でもありました。


想念としてイメージした映像と声として発した音とを結び付けては
単語を覚え、世界中のありとあらゆる言葉を
取得していると言う話でもありました。


少し話は飛びましたが、”想い”というものも
TVの電波同様に記録認識が可能であると言う事です。


アダムスキーが紹介した想念を写すカメラを利用すれば
過去の一定時間の映像すら残留思念として映し出す事ができるので

それを警察の捜査に利用する事も可能だと話していました。


過去の事件現場すら再現できるという話でした。


つまり私達の過去の姿を”残留思念”と言う形で
捉える事が可能な技術は存在していると言う事です。


ところで、
テレパシーを勘違いしているのが私達の社会でもあります。


私達はまるで頭の中に無線や携帯が入っているように
声が届く事をテレパシーだと勘違いしていますが


現実は意識(神の意志)から受け止める物は印象や閃きであり


そして他人からの思考を受止めた時には
其れは思考として脳で再現されると言うのが正しいのです。


「ピンときた」と表現しますが
テレパシーとはまさにその状態なのです。


確かに其の中には音として脳で再現されるようなものも
存在していますが、


思考、イメージは
他人のものを受止めても思考・イメージとして
再現される事になります。


私達が受ける”地上の霊”は全てこれなのです。


私達はそのような実態を知らないために
テレパシーと言えば他人が直接声を持って語りかける事を
イメージしてしまいがちです。


しかし実際のテレパシーはそんなものではありません。


「次の道を右に曲がりなさい」と言う言葉が聞こえるのではなくて
「次の道を右に曲がったほうがよさそうだ」というイメージが
頭に閃くと言えば解りやすいかと思います。


私達は誰もがそんな体験をした事があるはずです。


そしてそれは外部からの想念、
若しくは創造主の意識の誘導を魂を持って受け止めて
脳でその情報を再現している事に他なりません。


これこそがテレパシーと言われるべきものだという事です。

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聖書の中でパウロがテレパシーを説明している箇所を引用します。


コリントⅠ 12章4節


さて、御霊には様々な種類がありますが御霊は同じ御霊です。


奉仕には色々な種類がありますが、主は同じ主です。


働きには色々な働きがありますが神は全ての人の中で全ての
働きをなさる同じ神です。


しかし皆の益となるために、おのおのに御霊の現われが
与えらているのです。


ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ
ある人には同じ御霊にかなう知識の言葉が与えられ、


またある人には同じ御霊による信仰が与えられ
ある人には同一の御霊によって癒しの賜物が与えられ、


ある人には奇跡を行う力、ある人には預言
ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、
ある人には異言を解き明かす力が与えられます。


しかし同一の御霊がこれら全ての事を
なさるのであって御心のままに
おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくれるのです。


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ちなみに「全ての人の中で
同じ働きをなさる同じ神」という言葉から
意識=魂の導きを直ぐに連想した方もいるかと思います。


これはそのまま生命の科学にも繋がる話を
パウロが語っている場面です。


この後にも人体を、まるで生命の科学に関して
語っているかのように話は続きます。


ここでパウロは「御霊は全て同じ御霊です」と触れていますが
其の御霊というのは言うまでも無く
私達が魂から受止めている創造主の意識=エネルギーそのものです。


”地の霊”と触れた時には他人の想念や残留思念を想定していて
御霊と触れた時には神の想い=四次元のエネルギー全般
=真理と理解すればよいと思います。


そして御霊によって私達が与えられるものは
知恵(神に答えを求めて授けられる返事)であったり、
知識(アカシックレコードの記録)であったり、


奇跡を行う力、癒しの力(進化に伴って発現される能力)


預言、(神の意志を感じて其れを語る事)


信仰(神への信頼を強める事)


異言 (当時パウロの時代に彼らにテレパシーを
    与えた人間達の想念。恐らくは正しくは御霊ではなくて
    天使達からのテレパシー)


霊を見分ける能力 
(この場合は残留思念を見る力、想念を見分ける力)


であると触れています。


これは私が触れているテレパシー、魂の機能そのものです。


求めて与えられるのが印象であり、これはそのまま知識や知恵となります。


そういう体験をする事で私達の神への信仰は強くなり


その結果今度は神の意志を更に強く受止める事になり
魂が受け止める事になるエネルギーも増えます。


その変化が今度は私達の脳機能に進化を齎し
それが未知能力や新たな力を私達に与えることになるのです。


其の一連の事を説明すれば
まさにこのパウロの言葉の通りです。


聖書のこの記述を正しく理解しているかたは
恐らくは殆どいないと思います。


それどころかこのパウロに関しては
聖書の一部から削除したような状態で
信仰を続けているクリスチャンもいるのではないでしょうか。


そして確かにこのパウロの言葉が、
現象しか見えない私達に
聖書を一層オカルトっぽく見せているという現実もあります。


しかし其の実態を理解すれば、私達の様に三次元と四次元
そしてテレパシーを理解すれば、実に判りやすい内容なのです。


このコリント人への手紙Ⅰには
私達なら理解できる多くの言葉が残されています。


これらは全てパウロが真理について語ったものであり
それらは全て、イエスキリストと天使達から
授けられた能力と知識によるものであったと理解すれば


聖書の中でのオカルトも容易に消えてなくなるのです。


私達はイエスキリストの語っていた
「イエスの神の国の奥義」の其の姿を
ここからはっきりと認識する事が出来るわけです。


イエスの神の国の奥義を理解したい方は
ローマ人への手紙、コリント人への手紙
ガラテヤ人への手紙を読んでください。


そこに書かれている内容こそが
今は失われてしまった真のイエスの教えそのものだと思います。


聖書が真理の書に見えるようになるかもしれません。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

創価学会の中の同和チームと在日チーム
心無い電磁波攻撃を受け続けているようです。
語りかけの人間達が教えてくれました。



何でも同和チームの人間達が
在日チームの人間達のいる時に私を怒らせて


私の印象を悪くする事で在日関係者の私への攻撃の手を

強めようとしていたという事です。


朝から晩まで延々と電磁波の効果が続くため、
そして私の行動や食事の内容をも利用しては
延々とそれを悪い効果にするよう仕向けてくるために
私は気の休まる暇がありません。


2014年11月19日 17:26

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質問にお答えしますね。


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旧約聖書にあるように、本当に困ったときには
神が天からパンを降らせてくれるから心配するな、
ということなのかなと勝手に想像しました。


そこで久しぶりに聖書を開いてみました。


「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか」、


「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。


この世で自分が生きていくために食べ物のことばかり考えるのではなく、
永遠の命を得るために、まず創造主の法を学び実践しなさい、
ということなのでしょうか。

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今の私がうまく説明するのは大変なので
過去の記事からの一部引用してお答えしますね。

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其の例え話の中ではアダムスキーは不幸になりました。


教会を破門され、人間社会では買い物をすることも出来なくなり
まともに相手をしてくれる人間はいない状態にされたからです。


しかし創造主はアダムスキーを見捨てませんでした。


教会に悪人とされても、アダムスキーは創造主の法を
無視して生きていたわけではないからです。


人の社会を追い出された後も、


自然環境はアダムスキーに水や食料を与え続け
彼を養う事になりましたし


人間環境から離れていたことで
以前にもまして健康になることにもなりました。


教会の権威が「裏切り者は誰だ!
アダムスキーに餌をやったのは誰だ”」
と騒ぎ立てても当然犯人は見つかりませんでした。


創造主の法がアダムスキーに糧を与えてくれていた。


教会を裏切ったのは創造主だったわけです。


あの例え話の中では、教会とされていた存在は
この地球社会の支配者そのものだと思います。


アダムスキーは妙な烙印を押されたことで
人々の社会の中では売ることも買うことも
一杯の水をもらうことさえ出来なくされていました。


しかしアダムスキーは創造主の法を
無視して生きていたわけではなかったので、
創造主の意志がアダムスキーを導いてそれを生かし続けました。


今のこの社会の中では、このような例え話は現実的ではないでしょうが
この話は平和な社会であればそれが正しいことを身をもって
体験できると思いますし


少なくともこの例え話は、
創造主の法が私達にどんな影響を及ぼしているかを
示していると思います。


本来の自然環境、人間の住むべき環境の元では
私達は創造主の法に従うことで
其の生のための生活環境を確保されることになるのだと言うことです。

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ここまで過去の記事の引用です。


創造主の法に従う生命体はその法則によって生かされる。


其の例えがイエスの語った鳥の話でもあったはずです。


「自ら撒く事も刈る事も無いのに神はそんな鳥をも
養ってくれている、ましては神が一番期待している人間が
其の恩恵にあずかれない訳が無い。」


そういう趣旨だと理解ください。


少なくとも2000年前の社会であれば
それが例え話として妥当だと判断し
イエスキリストはそう語ったのだと思います。


そして恐らくはこれも真理です。


ただ、パンに関してはモーセの時代に
マナなる物が天から降り注ぎ


移動中のヘブライ人達はそれを食べる事で
生き延びたという話がありました。


それを演出したのが天使達である事は
言うまでもありません。

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「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、
寿命をわずかでも延ばすことができようか」、

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これは私達がいくら自らの文明や社会を誇ろうと
私達は白髪を黒くする事は出来ない(白髪染があるなどといわないように)


自分の命を延ばすことも出来ない。


つまりは老いや老化含めて
神の法則の前では無力な人間であるという事を
示した言葉です。


私達は、人間がとても偉い生命体であり
他の生物とは違うのだと勘違いしていますが
結局は神の被造物に過ぎず、


神の摂理の元それに逆らって生きるなら
決して自分の望むような生き方は出来ない存在です。


(勿論一度きりの人生を送っているつもりなら
望む生き方も可能でしょうが)


思い悩んでも何も変えられないし
負の想念を垂れ流すだけですし


長い人生を考えた時に真理を理解し
其れを実践する事の方が
私達には良い影響を齎す事になる。


イエスは其れに触れていたのだと思います。


何度も繰り返しますが
私や兄弟姉妹にとってこの社会での生は
永遠の中のほんの一瞬にしか過ぎません。


肉体などいずれかならず朽ち果てて
その後は再び土(元素)になるのです。


心=肉の求める心地良さばかりに執着して
そんな滅び行くフォームに執着して
それが私達にとって一体何になるのかという事です。


まして永遠を理解できる人間にとっては
この社会での数年の寿命の延長など
何の価値もないということ。


健全な肉体と健全な精神を保った状態で
生きている時こそ、私達は真理を実践できるのであって


肉に拘る其の意識は私達にとっては誤りであるという事を
イエスキリストはここで表現したのだと言えます。


どんな時であっても私達が意識すべきは肉(心)ではなくて御霊(魂)である


イエスキリストは何よりもこの事を
私達に告げたかったのだと思います。


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生命の講座 第三講義VOL2


アダムスキーの例とは少し異なりますが
TVを例として触れておきたい事があります。


私達の感覚器官としての魂が
一体どのような役目を果たしているのかと言う事についてです。


私達が魂を持って受け止める事になる想念=思念波は
エネルギー体でもありました。


それは私達が思考するたびに全身から放射線状に放たれて
辺り一帯に蔓延する事になります。


その想念を無自覚に受け止めているのが私達の魂なのですが
これはTvとその電波との関係にも酷似しています。


私達が無自覚なだけで私達の周囲には多くの電波が飛び交っているのです。


それは独自の周波数帯を持って存在し、例え私達人間には感じる事が出来なくても
TV受像機はその電波を受止めて其れを再現している事を私達は理解しています。


TV局においてTVカメラとマイクを持って撮影し、編集されたそれらの情報は
電波と言う形に変換されては日本中へと送り届けられています。


それは勿論、私達の目には見えませんし
通常私達はその存在を認識する事も出来ません。


しかしながら、私達がもしもその周波数帯を受け止めて
更に脳内で再現できる能力を持っていれば
私達はTVの電波の存在に気がつく事にもなります。


長い目で見れば実は私達の脳機能は
そんな能力をも秘めているようです。


つまりその辺を歩いていて、TV電波を受止めて

「今日はニュースでこんな話をやっているな」
と認識する事もできるようになると言う話です。


しかし少なくとも今の私達には未だそれは不可能です


それは私達の魂が受け止める事の出来る波動や周波数帯が
限られていると言う事、更にはそれを再現する機能が
私達の脳では今は未だ整備されていないからです。


では何故にTVではそれが実行可能なのか?


言うまでもなくTVにはTV局各社が発している特定の周波数帯の
電波を受け止める能力が備わっているからであり


それを映像や音声として再現できる機能が
備わっているからです。


TV局の電波と言っても周波数帯が異なるわけですが
TVはそれらを全て受け止める事も出来ます。
(アンテナの事は無視してください)


この事でTVの受け止める事の出来る電波の周波数帯は
広い範囲である事も想像つきますし


受止めた電波を再現する機能を持っているから
TVはそれを実現出来ている事にもなります。


つまりは私達がテレパシーを使用するためには
特定の周波数帯を受止めるための能力が
必要だという事になります。


そして其れを意識する事も私達には必要なのです。


別の例で表現してみます。


特定の周波数帯を受け止める事に関して、
テレパシー能力の高い天使達を、ビルの屋上にいる人間に例えると
私達は地べたを歩いている人間に例える事が出来ます。


例えば地べたを歩いている私達は
目の前で事故が起きたとか
近くで火事が起きたという事を知れば


それにすぐさま反応する事になります。


其れに対して不安や恐怖を感じる事になりますし
そのために本来まっすぐに進もうとしていたのを
回り道をする事になるかもしれません。


直ぐにでも目的地に行かねば成らないのに
火事の現場を眺める続けるかもしれません。


目の前の事象に対して影響を直撃され
しかも通常視界に映るのは前方や
足元だと思います。


しかし屋上で眺めている人間は
其れらを見下ろしては客観的に判断する事ができますし
物理的な影響は少ないはずです。


地べたを歩いている私達は視界も狭く
意識も特定方向にしか向ける事が出来ません。


しかしビルの上にいる人間であれば
真下を眺める事も出来ますし
水平方向を見れば遥か彼方まで眺める事も可能です。


其の上に精神的なゆとりがある人間は空を見上げる事もあります。


この例えは私達地球社会の人間は
特定の低い意識の波動ばかりを受止めて
其れによって他人の想念の影響を直撃されている存在であるという事。


更には其の事を自覚できない存在だと言う事を
示しています。


天使達であれば例え同じ想念を受止めても
それを冷静に受止め影響を受けないでいる事が出来ます。


しかも彼らは私達社会の波動ばかりではなくて
同じ天使達の社会の波動を受止めますし


時にはしっかりと天を見据え(例えです)
創造主の意識をも感じようと勤めます。


つまり私達は同じような意識の波動、似たような想念ばかりを
受止めているだけですが、


天使たちは幅広い想念を受け止める事が可能だと言う事です。


しかも彼らは良くない想念を受止めた時には
其の悪影響を避ける事も出来るわけです。


テレパシー能力に関して
自覚して其れを応用している人間と
無自覚で生きている人間とでは


それほどの違いが出てくるのだと言う事を
理解して下さい。


人間は想念的な生き物である、


そして想うことなくして生きている事も出来ない。


その事を考えても、私達にとって如何に想念
そしてテレパシーを理解する事が大切かが
解るかと思います。


永遠への地道な一歩はテレパシーから。

そしてテレパシーの第一歩は三次元と四次元の理解からです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


過去の生命の科学の記事を同時に引用します。


アダムスキーの生命の科学の引用がありますし
私の思考能力も今よりは高かったようで
参考になる事があるかと思うからです。


今日の記事に対応する内容です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11071435443.html

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生命の講座 第三講義VOL1


【宇宙の法則とテレパシー】


私達の周囲には見えない法則が取り巻いています。


それらは私達が正しく理解して使用すれば
私達の進化のためにもにも
そして平和な社会を作り上げるためにも利用できるものです。


しかしいくら有益なものが提供されていたとしても
それを理解し正しく使用しなければ、


それは逆に私たちの社会に不幸や争いを齎す事にも
なりかねないと言う事になります。


日本では製造物責任法と言われる法律があります。


製品の製造者は通常であれば、その製品を如何に使用すれば
本来の目的どおりの機能を発揮するかを説明書として
添えているはずです。


しかし時には私達はそれを誤用しては
不幸を齎す事もあります。


以前私は子供がプラモデルや小さな部品を飲み込んで
しまう事による弊害を取り上げた事がありました。


元々、食べ物や箸のようなもの以外の道具は
口に入れて使用する事を目的とはしていません。


子供はその説明書きを読んで理解できない事から
本来の有益な効果を利用する事ができないだけでなくて
自らに不幸を齎してしまう事があるわけです。


この事は法則を正しく理解して実行していない事と
比べる事も出来ます。


元々の効用が食べるためのものであっても
しっかりと噛まねば時にはのどにつかえて
それが致命傷となるような事だってあります。


私も昔にはトマトを四分の一個丸呑みしてしまって
呼吸困難になりかけた事もありました。


本来の法則や摂理を思考して実行すれば自らの益になる事を、
無理解や思考の足りなさが
自分に不運を齎す事になると言う例です。


そして私達は自分の周囲に蔓延している諸法則を
殆ど理解してはいません。


そのために簡単な事を難しく考え
誤ったことを正しいと思考し
それを実行しては失敗すると言う行為を繰り返しているのです。


私達は見えない宇宙の法則を正しく理解して
その波に乗る事も出来ます。


一方は理解をする事が出来ずに
簡単な事を複雑にしては苦しむ事も出来ます。


どちらを選択するのかと言われれば
通常私達は無自覚に後者を選んでいるはずです。


一部の物理法則は容易に理解出来る宇宙の法則ですが
一方では未だ知られていない多くの法則が存在していて
それが私達の社会のあり方に大きな影響を与えていることを認識すれば


私達はまずはそんな法則の存在を理解しようと勤めますし
それをよりよい生活を送るために使用する気にもなります。


だからこそ見えない真理である宇宙の法則を
探求し続けていく事が、私達の精神状態だけではなくて
この社会に暮らす万物のためにも必要なのだと言う事になります。

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眼に見える当たり前の物理法則ばかりを私達は意識しています。


其れも確かに宇宙の法則の一環であり
其れを正しく理解する事で私達は生活を豊かに
そして便利にすることも出来ます。


しかし私達が未だに気がついていない法則が
この世界にはいくらでもあるようです。


例えば以前私が触れた、運命と言われている
この世界の見えないエネルギーの波動や
それが誕生日にも何らかの影響を齎している事
(生まれた日や時間ごとに特別な使命や
課題が課されているという法則)


更には因果の法則そしてテレパシーのようなもの含めて
私達はそれを理解してうまく活用しているとは言えません。


しかしそれは間違いなく存在しています。


マタイ9章3節


すると律法学者たちは心の中で
「この人は神を汚している」といった。


イエスは彼の心の想いを知って言われた。

「何故心の中で悪い事を考えているのか・・・」

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ここでのイエスキリストの記述にしても
それがそのままテレパシーである事は
私が説明するまでもありません。


イエスは他人の想念を読めたのです。


しかし勘違いしないでください。

これは特定の人間だけが持っている能力ではありません。

超能力などというものは存在せず、
私達にとっての未知能力が多数存在しているに過ぎません。


そしてこれらも私達の知らない法則の一環だといえます。


自らに課された課題を理解して其れを実行できれば
そして自らの行動が何を齎すのかを理解した上で
行動が出来れば、


私たちは個々の精神だけではなくて
この社会の全体の改善にだって貢献する事が出来るはずです。


しかし現実はその法則を正しく理解できず
若しくは誤用する事で不快な現象を作りあげては


その結果、自らを苦しめる羽目になり
神頼みをする事になるという現実が在ります。


本当は神が導いてくれている其の法則に基づき
其れを実行できていれば私たちは改善できるものを


誤った方法そして見当違いの生き方をしているが故に
それが自らを不幸にしていると言うのが現状なのです。


正しい理解と使用が私達の生活を改善する
強いてはこの社会に平和を齎す。


その事を是非とも意識して
見えない真理である宇宙の法則を
実践するように勤めていきましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

生命の講座 第二講座VOL19


私達の持っている不安や恐怖を作り上げているのは一体何でしょうか??


大きな原因は私達が自分の実態を知らないために
死を恐ろしいものとして見つめている事に由来するかと思います。


私達は自分の肉体を持った今の生を見つめ
それがこの生一度限りのものであると認識しています。


しかし実態はそうではありません。


多くの場合は私達は例え死んでも
すぐに別の場所で新しい肉体を持って生まれ変わるからです。


ただ、私達は其の事を知らないだけです。


自分が転生を繰り返している存在でありながら
其の事を理解出来てはいないのです。


それは私達が記憶を失っての転生を
続けている事とも無関係ではありません。


殆どの人間が、転生した後には
前世の記憶の殆どを失っているからこそ
私達は自分の魂の永遠性に気がつく事も出来ません。


そして一度きりの人生を信じては
其の生に執着し肉体を滅ぼす事を恐れているのです。


更には肉体を滅ぼす要因をも恐れる事にもなります。


病は死に繋がる事ありますし
病になれば死を意識する事にもなります。


貧困は餓死につながるので、
失業やお金のない状態を恐れる事にもなりますし、


他人との関係でもそれが悪化すれば
精神状態を不快にし時には自殺を誘導されるような
そんな精神状態になる事もあります。


私達はこのように、ありとあらゆる側面で
無自覚の内に死を恐れて生きています。


そして一方では一度きりの人生だからと言っては
他人を踏み潰してでも自分は其の中で
より楽しく、より心地よく生きたいと願う事にもなります。


私達が自らの実態を知らないがゆえに、

不要な恐れや恐怖を抱くことになり
其の事が私達の心を萎縮させてしまってもいるのです。


つまりは私達の生命への理解不足が
私達に無用な不安と恐怖を与えている事になります。


太陽系の天使達は、私達が進化するための妨害となっているのは
不安や恐怖であると語っていました。


それが時には私達が魂を感じる事を
妨げているのだと思います。


生まれてきた子供は恐怖を知りません。


病への恐怖にしても、食べる事の出来ない恐怖にしても
全ては後天的に学習してそれを持つ事になるはずです。


つまり恐怖と不安は私達が偏った感覚器官の使用の仕方で作り上げたものであり、
誤った真理を元に生きてしまっている事の現われと言えます。


聖書でイエスが語っていた

「明日何を食べようか悩んではいけない」


と言う言葉は、通常の暮らしをしている人間が
「明日の献立を冷蔵庫の中身と相談する」と言う意味ではなくて

食べ物がない状態だからと言って
何を食べて生きていこうかと悩むなと言う事です。


そのような意識が私達が真理を学ぶ妨害ともなるから
私達はそんな不安や恐怖を持ち続けて生きてはいけないのです。


満腹時代の私達には考えられないことでも
イエスキリストの時代には
畑に生えている麦をとって食べたくなるほど
彼らの生活は貧窮していました。


しかし其の中で彼らは真理を学び広報し
自らを高めてもいました。


ただ、私達が広報しているような考え方を出来る人間は
今の世の中決して多くはないと思います。


それは現代社会が余りにも
在るべき人の姿からかけ離れてしまっていると言う事。


心の価値観なるものと真理とのギャップが
余りにも大きくなってしまっているために


真理は理想であり現実ではなくなってしまっているからです。


そして少数の人間こそがこの事を
理解する事になると思います。


アダムスキーは
「私達は意識と言う永遠の中央通を歩むべきときだ」

と表現しています。


しかしこの社会の中央通はいまや廃れて荒廃しているのです。


そこは荒れ果て雑草や茨で覆われ
道である事さえ傍目には判らない獣道のようになってしまっています。


そして一方では、本来側道であるべき誤った道が舗装され
尤もらしく表札まで出来上がり
誤った真理へと多くの人間を誘ってもいるのです。


荒れ果てて見つけ難くなっている真理への道から進む人間は極わずかです。


一方整備された誤った道は多くの人で溢れています。


そして多くの人間がそこを進んでいるからと
誰もが安心してその人為的に整備された道へと進んでいます。


しかし其の先には天国はありません。


イエスは聖書の中で語っていたはずです。


狭き道を進み狭き門から入りなさいとです。


天の御国へと続く道は細く狭く
誰もがそれを見つけることは出来ません。


そして多くの人間は広い道から入り
広い門へと進む事になります。


しかしそんな生き方を続けているこの社会の多くの人間が
記憶を失っての転生を繰り返し続けているのですから、
私達はイエスの言葉が正しかった事を理解する事にもなります。


私達の社会もそしてそこで暮らす私達も
今運命の分岐点に存在していると思います。


多くの人間が歩いているからと言って
そして舗装されていて進むのが楽だからといって、
誤った道へと進むような事が無い様に


私達は魂=意識に導かれて
一歩づつ真理の道を歩んで行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


生命の講座 第二講義VOL18


【意識こそが真理】


私達にとっての真理とは一体何でしょうか?


それは私達が生きている事の意味であり、
私達を取り巻いている諸法則の存在だと思います。


しかし私達にとっての真理は
心が司る個人的なものとなってしまっている現実があります。


実際には私達の心は真理の一部を知っている程度で、
その他に関しては私達が独自に体験の中で作り上げた
個人的な価値観に他なりません。


私達の心が持っている価値観は
其の殆どが真理とはかけ離れた物なのです。


しかし通常この社会の多くの人間は
その個人的な価値観を持って真理と勘違いしてもいます。


つまりとても自尊心が高い私達の心は
自分こそが絶対なのだと言う意識を
私達に送り続けているといえます。


私達はそれを尺度にありとあらゆるものを裁くのです。


しかし私達は理解しなければなりません。


真理は私達の魂から与えられると言う事をです。


それはこの三次元社会が出来た時から既に、
四次元と言う名の創造主の想いの空間に存在していたものであり、


全ての法則と万物の存在の意味や目的が
そこには存在していました。


「目で見た事の無いもの、耳が聞いたことの無いもの
神を愛するもののために、神はそれらを皆備えてくださった」


聖書の約とは少し異なりますが
コリントⅠ 2章の7節の


「神は私達の栄光のために世界の始まる前から
あらかじめ定めたものです。」


とあるので、この解釈が正しいと思います。


つまりはありとあらゆる法則
そして神が創ろうとした被造物の姿は
この世界が出来たと同時に既に存在していたと言う事で、


私達が意識しようとしまいと
神の摂理=真理は存在していたと言う事です。


全ての摂理が出来上がっているのですから
そこには100点満点の答えが存在している。


其れを作ったのは神だから
神はこの宇宙空間の中において完全であり全能で在る
と表現されることにもなります。


それは決して神を美化したわけではないのです。


つまり”真理”とは神によって与えられた
私達この宇宙空間に生きる全ての生命体が持つべき
共通認識であると定義する事も出来ます。


私達はまず其の事を理解すべきです。


つまり神の意識の一部である魂こそが
真理を知る者であり


アダムスキーも語っていた様に
私達の心は全てを知るものではありません。


しかし私達は其の心を持って全てを量ろうとします。


勿論それは不可能です。


だから私達は理解不能なものを嫌い恐怖する事にもなるのです。


私達が不安や恐怖を作り上げるのも
そして好きと嫌いを作り上げ分裂を引き起こすのも


すべては私達が真理には程遠いものを尺度として持って
それで全てを裁いているからだといえます。


何故なら元々が意識=魂には恐怖や好き嫌いなど
存在してはいないからです。


考えてみれば、創造主の意識には
被造物に対する溢れんばかりの愛が詰まっているはずなのです。


更に心が正しく理解しないと
時にはオカルトをも作り出してしまう事にもなります。


心の理解の足りなさを私達は正しく認識できないゆえに
誤った真理を生み出しつづけ


今ではその数多にある真理が
自分達の心の暴走に気がつく事さえ難しい状態を
延々と作り上げているのだと思います。


私達の心は其のままが真理ではありえないし
決して絶対的なものではない、


真の指導者である父に其の意志を任せる時に
私達は真理を知る事になるのです。

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はじめに理があった。
はじめに言葉があった。


私にはどちらも同じ意味であると認識できますが


この社会が出来上がった時には既に
私達が日常体験している摂理、物理法則は存在していた
と言うのが正しい認識だと思います。


私達の社会ではそんな眼に見えない法則や
エネルギーを無視して、視覚で確認できる現象をもって
宇宙の創造までをも説明しようとする人間がいます。


しかし、頭の良い人間であれば
頭が凝り固まっていない人間であれば理解できる事があります。


宇宙空間成るものは一体どうやって出来上がったのか?

其の中で惑星や恒星を作り上げたのは一体どんな意志なのか?


以前も触れましたが無の空間で何かの爆発がおきて
そこで宇宙空間に沢山の塵が飛び交ったとしても


それは何時までたっても只の塵であり

其れが惑星や恒星に変貌することなどありえないはずなのです。


私達が自ら思考しないから
微粒子や原子が惑星や恒星を作りあげた事も
全ては偶然の産物で済まされることにも成ります。


砂の山に風が吹いてそこに砂の城が出来ないように
宇宙空間に大量の元素が出来上がり巻き散らかされたとしても
それが偶然星に変貌する事も在りえないのです。


そこには既に何らかの摂理が存在していた。


そして其の摂理に従って星は形成された。


其の摂理を形成したのは何らかの意志であり
その意志の持ち主こそが創造主だと言っているわけです。


宇宙に関しての私達の知識は乏しいものです。


未だに眼に見える現象すら把握できていないのが
私達地球社会の実態でもあります。


そんな私達だからこそ井の中の蛙同様
独自の法則を作り上げては其れを信じ
何時まで経っても真理に辿り着く事が出来ないのです。


昔は宇宙船を神の乗り物と考えていた私達も
今では独自の宇宙船を作れるにまで至りました。


そろそろ科学の発展にあわせた精神性も
兼ね備えるべき時に来ているのだと思います。


私達はこの社会になじむ事が出来ない人間かもしれません。。


しかしそれは決して恥じる事ではなく
其の価値観が真理に近い証拠だと言えます。


私の兄弟姉妹は例えこの世に調子を合わせ事とが出来なくても
決して嘆かないでください。


私達は父の元に帰るのです。


【貴方に無限なる力の祝福が在りますように】

生命の講座 第二講座VOL17


意識=魂の導きは
子を想う親の意識の様な物の様です。


子供をより良く導くために
そして不快な想いをさせないためにも
親は子供に教訓やアドバイスを与えます。


アダムスキーは生命の科学の中では火の熱さを例に
親が子供に対して導きをしている様子を取り上げていますが
創造主の意識も似たようなものだと言えます。


私達に対して密かに指導をしてくれますが、
もしも私達がそれに従わなければそして誤った使用をするならば


私達は身をもって、時には痛い思いをして
自ら正しい物事を学習する羽目になります。


「理解してそれを実践出来ないのなら
其の機会を設けて貴方にそれを学習させてあげましょう」


創造主の法則は私達にそのように働きかけているのです。


だから其の法則を無視して生きれば
私達は時には痛い目にも遭う事になりますが
其の事でそこから何かを学ぶのです。


そして理解の足り無い物事を中心に学習する事になり
時には延々と同じ事を繰り返し、
其の中で一定の理解を示す事で私達の魂は進化する。


私達は真理の一定の理解を示すまでの間、

若しくは真理に視線を向けようとするまでの間、
そんな事を延々と繰り返す事になりそうです。


この事に関して私が頻繁に例えていたのは、


お金を沢山持っていて地位も名誉もありながら

貧乏人や地位や権力の無い人間を
省みようとしない人間に関しての話でした。


其の人間はこの生で権力にもお金にも名誉にも
恵まれているとします。


しかし其の人間は自分のためにも十分以上のお金を持ちながら
貧しくてお金に困っている人間達の事を理解できず
他人のためには一切それを使用しようとしなかったとします。


更には権力を持っている事を笠にかけて
権力の無い人間や社会的弱者に対して
思いやりが持てなかったとします。


其の人間は自らがお金と権力を持つ事で何が出来るかと言う
経験の機会を生かす事が出来なかったわけですから


創造主の法はそれを本人に学ばせる機会を与える方向へと
働く事になります。


恐らくは学ぶべき事を学べなかった其の人間は、
次の生において貧困と
権力の無い人間の立場を学ばされる事になるはずです。


(他人への思いやりや平等と言う意識が
其の根底だと思います)


そして其の人間がそれを正しく理解するまでは
課題は絶える事は無いでしょう。


私達は誰もが無自覚のうちに創造主の法の働きを受けて、
それによって自分の精神状態を高めるために必要な事柄を
学ぶべき状態へと導かれているのです。


今、自分自身が置かれている立場を理解して
其の立場において私達が学ぶべき事を学ぶ事が出来れば、


自分の置かれている環境をそのための良い経験の機会とすることが出来れば、
私達の精神は限りなく創造主の意識を理解しやすい状態へと
改善されていく事になるでしょう。


少なくとも私達の社会においての創造主の法の導きは、
私達が生命についての最低限の理解をするために、


そして自分に対しての最低限の理解を求めるように働きかけているのですから、


私達の社会に対しての創造主の法の働きかけは
やはり命や真理を理解する様に私達を誘導するのだと認識できます。


考えてみれば楽しい毎日を送っている方は
良くも悪くも心のエゴを満たされていますし
あまり神や真理を意識する事も無いでしょう。


その意味では神の導きと言われるものは
私達を困難へと向かわせるものなのかもしれません。


だからこそ例え今自分が苦しんでいても、そして嘆き悲しんでいても
嘆く必要は無いと思います。


それは神の与えた誘導であり課題を消化している
機会だと理解できるからです。


イエスキリストは言っていました。


悲しんでいるものは幸いです、
心の貧しいものは幸いです、
義に飢えているものは幸いです
柔和なものは幸いです
哀れみ深いものは幸いです


これらの意味するところを私達なら理解できるはずです。


全ては私達の心のあり方が大切であると言う事と、
更には今現在の私達の置かれている立場が全てではないと言う事です。


私達は自分の人生を一度きりだと認識しているからこそ
今置かれている境遇に思い悩み、即座の改善ばかりを願い
課題を正しくこなす事が出来なくなっているのです。


生まれてきた環境や置かれている境遇を
自らの体験の機会、課題の消化と認識し


時には開き直る事が出来れば
魂の導きを感じる切欠になるのだと思います。


私達は置かれた環境の中で最大限の体験と
学習を果たして行きたいものです。


そして其れこそが神の与えた
進化のための試練だと認識してください。

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因果応報と言う言葉や自業自得と言う言葉がありますが
私達の理解では今の生の中での因果を
表現した内容として認識されていると思います。


しかし私達は過去からの因果を背負って生きている存在であると言う事
更には今の因果が其の次の生にも繋がっていくと言う事を
理解しなければなりません。


つまり、自分は何も悪い事をしていないのに
何でこんなに酷い目に遭うのだと嘆く方は

前世での因果から神が何かを学ばせようとしている可能性があるということ。


そして其んな境遇に遭っていると言う事は
永遠の生を受止める資質を持った魂であると
創造主の法が判断しているのだと理解すべきだと思います。


「神は背に背負える以上の荷物を背負わせることはない」


と表現する事があるかと思いますが
まさに其の通りだと言う事です。


眼に見えない因果を張り巡らせた運命の波に
しっかりと乗り続けているからこそ
貴方は今のような境遇に置かれている。


そして其れをこなす事が自らの今の生の課題であり
父の元に帰る条件なのかも知れないわけです。


アダムスキーは私達が父の元に帰る為には
とても辛い想いをする事になると表現していましたし


まして真理を語る人間に課される負担は大きいのだと
表現してもいました。


一方イエスキリストも聖書の中で
自らの教えを実行し広報すると辛い目に遭うとか
迫害を受けることまで予言していました。


どうやら私達が永遠の生へと進むためには
とても高いハードルが私達の前に立ちふさがっているようです。


と言ってもそれは不可能と言う意味ではなくて
最後までそのために努力をし続けることが
恐らくは天国行きのパスポートになるのだと思います。


私達は何事も眼に見える結果ばかりを意識しています。


しかし私達にとって大切なのは結果としての現象だけではなくて
其の過程に私達が何を想って何をしたかが大切だと言う事。


私達はこれから永遠の時を生きるのです。


この生の50年や100年がほんの一瞬であるということを
是非とも思い出して今を懸命に生きて欲しいと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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第二講義 VOL14


私達の社会の多くの人間は皆罪人です。


自覚無自覚に関わらず誰もが精神的な罪を犯しながら生きています。


しかし私達は其の事に自覚してはいません。


何故なら私達は目に見えている、明文化されている法規ばかりを意識して
大切な心の法規を無視しているからです。


ただ、そんな罪人であっても、更には法的な犯罪者であっても
創造主は同様にお日様を照らしてくれますし、
雨を降らしてもくれます。


勿論これも例えで、誰もが同じように
創造主の法の下に存在していていると言う事だと思います。


同時に誰もが見えない法則から逃れる事は出来ないという事でもあります。


一方では私達が生き方を変える事ができれば、
誰もが平等に永遠の命へと導かれるはずです。


イエスキリストは善人を救いに来たのではないのです。


「医者を必要とするのは病人である」と言う例えの様に
イエスキリストの語っていた創造主の法を必要とするのは
罪人だと言う事です。


勿論、地球社会の罪人とは全ての人間の事なのですが
それに気がついていない人間は自称善人であり


自分が罪人であると反省し、それを改善しようと努める人間こそが
イエスキリストの教えに従う事にもなります。


私や兄弟姉妹は恐らくは自らが罪人である事を
意識していると思います。


時には自分の過去の罪を反省したり
思い出しては胸を痛める事もあるのではないでしょうか。


そしてそんな意識こそが私達の罪を清算する事に繋がりますし
其の事が私達を学習や進化へと導くきっかけにもなるのです。


時には謙虚な気持ちをもって自らの人生を振り返ってみましょう。


反省の意識や改善の意識が私達を進化へと導くのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

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P.S.独り言


従来からの私の記事を読み続けてくれている方には
繰り返しになりますが、
そうでない方のために少し詳細で触れておきたい事があります。


旧約聖書におけるモーセの戒律時代の”罪”と
新約聖書におけるイエスの教えの時代の”罪”とは異なると言う事を
私は以前から繰り返し語っていました。


モーセの時代の無法者の野蛮人には
「他人と争うな」、「人を殺すな」、「親に敬意をしめせ」
「力ずくで女性を犯すな」


そのような、今では常識と言われるような事ばかりが
道徳として語られていたのだと理解してください。


それは人間であれば誰もが持つべき最低限の良識でありますが
当時の人間達にとっては当たり前ではなかったからこそ
それを徹底する意味でモーセは彼らに戒律を課したのだと理解すべきです。


そして一方では彼らに対してモーセの神が
あらゆる法規を細かく課しました。


それは其の時代の人間達に知恵として何かを与えても、
そのまま其れを実践してくれるような甲斐性が無かったために、


一つ一つを事細かに説明しなければ
民は其れを実行しようとしなかったためだと認識できます。


つまり、旧約聖書の戒律と言うのは
発展途上の道徳性の乏しかった人間達に対して
行動の指針として与えられたものであり


其の当時の時代に即して彼らの生活習慣を考えた時に
其れが適していると判断して与えたものだと言う事です。


つまりは真理と言われるような絶対的なものではなかったと言う事です。


旧約聖書でモーセと其の神に与えられた教えは
現代人を前提に考えれば道徳の基礎であり、

方針だとでもいえば解りやすいかもしれません。


今の時代の思考で考えればモーセの戒律は大雑把であり
一方モーセの神の教えは形式的に見えるかと思います。


しかし当時の人間の知能や慣習を考えた時に
道徳として知恵と其の応用を与えるには無理があったために
彼らはそのような具体例を示す事で法規としたと理解する事が出来ます。


その後時代が過ぎて、モーセと其の神の教えが
ある程度徹底された時代にイエスキリストが登場しました。


エリアの予言どおりイエスはユダヤの救世主として
今度は更なる知恵を民衆に与える事になります。


モーセと其の神が方向の指針を与えたのと異なり
今度のイエスキリストは私達に抽象的ではありますが
心のあり方を教えました。


一言で言えばイエスの語っていたのは道徳に他ならないのです。


そして法規と言う言葉で表現すれば、
「時代背景により左右される事のない心の法律」であり
教えと言う意味では「心の知識」ではなくて「心の知恵」でした。


そしてそれはそのまま宇宙の法則であり
私達のあるべき姿、神の望んでいる私達の生き方そのものです。


イエスが現れた当時のユダヤ教徒が当惑したであろう原因は、
モーセの時代の戒律を絶対的なものであり
其の具体例こそが罪であると認識してしまっていた事だと思います。


結果、神とモーセの具体例を知識として受け入れ
それを守る事で自らは善人でいられると勘違いしていた事になります。


しかし元々モーセの語りたかったことは
本当は心のあり方であり、他人との関係であり、
争いを否定する意識だったわけです。


安息日を設けて其れを聖なる日にしろ


これは当時の慣習に照らして考えれば
主人が働き尽くめでは奴隷も家畜も休む事が出来ない
そのためにも一日くらいはお休みして心の事でも考えなさい。


とか


毎日働いている最中には神を意識する事も出来ないし
心がどんどんと萎縮する事になる。
だからせめて週に一日くらいはお休みしては
精神を意識しなさい。


と言う内容を趣旨とするはずです。


「安息日を設ける事」という形式的な意識を持つのではなくて
心を休める機会を持つことが自分にとって大切なのだと
言う趣旨であると理解すれば


「安息日に何をしてもいけない」という上辺の言葉を理解して

休まずに働いている他人を罪人扱いする事も無いはずです。


貴方の父と母を敬え


これは今では当たり前の意識とされていますが
この趣旨も父と母と言うのは自分と言う人間にとって
一番の身近な存在であり


他人を敬うと言う意識を
先ずは一番の身内から持たせようとしたものだと理解すれば


他人に対して敬意を表することや
自分を大切に思うように他人をも大切に思うと言う意識を
持たせようとしたものだと理解できます。


このような内容を形式的に理解して、
そのまま実行していたのが当時のヘブライの人間達です。

                                                                                                              
その事をイエスは今度は自分の独自の教えとして、


条文とされた法律を覚えて守れば正しいのではなくて
学ぶべきは知恵であり
大切なのは心の持ち方であるという事を教えてくれたのです。


先ほどの趣旨こそが私達が学ぶ知恵であり
「安息日を設けてそれを聖なる日となさい」という表記ではなくて


弱きものに思いやりを持ち、自らも心を落ち着けるために
時間をとって心に余裕を持ちなさいという知恵であればどの時代にも通じるはずです。
(忙しいと精神を意識するような時間もなくなるはずです)


そしてイエスは心の中での思考、心のあり方をより重視したと言う事を
先日”想念”のところで説明したかと思います。


例えばモーセの時代の教えに「殺してはいけない」と言う一説があります。


それを守ると言う事は人殺しをしないと言うことになりますが
イエスの教えに至っては例え人を殺すことなくとも
他人を殺したいと思っただけでも其れは罪だと言う事になります。


例え眼に見える行動が清廉潔白でも
心で疾しい事を考えていたり、
心の中で悪しき想いを持っていればそれは罪だと言う事です。


悪い想い、想念=思念波のエネルギーは人間の心から出て
自分の身体のみならず他人の心にまで影響を及ぼすからです。


つまりは心無い事を思考した時点で私達は罪を犯していると言うのが
天使達の社会での常識であり思考だということになります。


つまり私達は天使達と比べると
誰もが毎日多くの罪を犯しているはずなのです。


だからこそイエスの教えにおいては
この社会に”善人”は存在しない事になります。


そしてイエスが言っていた
「私は罪人を救いに遣ってきた」の真意は


イエスは犯罪者を救いに来たと言っているのではなくて、
「自らを罪深いと意識し反省できているような人間こそを
自分は救いに来たのだ」と言う意味だと認識できます。


当時は徴税人のような職業が忌み嫌われていたためか
民衆に批判され、自らは罪悪感を持っていたのか
イエス信奉者としてイエスの周りに何人もいたようですが


其の職業と風当たりゆえに彼らは自分達の心を意識し
自らの罪をも反省するようになったのかもしれません。


イエスは、大切なのは自らを省みて反省する意識であると考えていたので、
表立っては敬虔な神の使徒を装っている人間以上に

そんな罪人を自覚している人間達を導こうとしていたと理解できます。


誰もが清廉潔白は在りえない状態なのに
自分は一切の罪を犯してはいないと言う方は


自分の表面上は法を犯していないと
言う事を前提に主張している事になるはずです。


心の中でどんなに汚い意識を持っていても
それを表に出さなければ、


そしてどんなに残酷な意識を持っていても
それを表現しなければ


更には例え他人に迷惑をかけていても
法律とされているものに触れていなければ
其の人間は善人だと言う事になります。


更に私達は上辺はいくらでも着飾る事が出来ます。


いわゆるイエスが偽善者と呼んだ人間たちの様にです。


心にも無い事を語り、他人が見ているところでは善行を行い
しかしながらその実心の中は策略や野望やエゴで満ちている


そんな人間がこの社会には溢れていると思います。


今現在のあらゆる詐欺や法の穴を抜けたような商売は
結果的には法律にかからないので
この世の罪としては罰せることは出来ませんが


実質は罪であり他人を苦しめたり迷惑をかける行為
正当化されることはありえません。


しかし今の現実社会はどのようになっているでしょうか。


法律と言う名の決め事と一応は慣習やマナーといわれることを
守ってさえいえれば、後はなにをしても一切の罪に問われる事はありません。


どんなに悪どい事をしていても
どんなに他人に迷惑を与えていてもです。


其の上で他人の前で愛想を振りまいて
心にも無い事でも語っていれば
其の人間は善人とされることでしょう。


つまり私達は世間体や上辺ばかりを磨いては
肝心の魂を清めると言う意識など
まるで持ってはいないと言う事になります。


イエスの表現で例えれば
私達は表面ばかりをピカピカに磨いては
内側は汚れた杯のような状態なのです。


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ところでイエスの時代のそんな教えで
天使達の教えが全て完結したわけではありません。


モーセと其の神が基本を語り、イエスがそれを応用として推し進め


其の上にアダムスキー時代に天使達が与えた
生命の科学が其の発展として与えられました。


別の表現をすれば、宇宙の法則を学ぶための基礎を
モーセ、そしてイエスが私達に与え


とうとう本編である普遍的な真理を
天使達は私達に提示した事になります。


モーセの時代やイエスの時代に
生命の科学=宇宙の法則が与えられたとしても
決して当時の人間達はそれを理解する事はできなかったはずです。


それが今の時代になり多くの人間が色々な形で
神なるものを意識する機会を与えられ


ユダヤ教(正統派)、イスラム教、ヒンズー教、キリスト教、仏教
更には其れを発展させたような教えが蔓延している時代だからこそ


私が今触れているような話を聞いても、
内容的に理解できる人間が増えていると言う実態もあるはずです。


彼らは私達が知識として精神の何たるかを理解する事ができるようになったと判断し
「機は熟せり」というタイミングで


私達に私たちが天国と呼んでいる社会での実践されている戒律を
私達に与えたのだと思います。


心無い人間達の手により其の教えは更に
別の思想や教えに歪められている場合もありますが


結果的に私達の魂は本物に直面すれば
其れを見抜く事も出来ます。


今の時代だからこそ、学ぶべき真理を
正しく理解できる人間も育っているはずです。


(そう思考することで自らの慰めにもしています。)


天使達の話は100%信頼してよいと思います。


表現的な間違いはあるかもしれませんが
彼らの社会では”偽り”は存在しないからです。


モーセ、そしてイエスキリスト更にはアダムスキーの時代のオーソンと

同じ魂が生まれ変わりながらこの社会に其の都度
教えを与えてくれたと言う話を真実だとすれば、


そしてマホメットや孔子、更にはお釈迦様もが彼らの仲間の
地球社会での生まれ変わりであったと言う事を信じれば、


この社会の中では多くの宗教信者が
新たな教え、更なる教えとして天使達の真理を
実践していく事も可能なはずなのです。


「全ての思想の基礎は私達が時代や其の地域の習慣等に照らして
妥当だと想うものを貴方達に与えたのですから
全ての真理は同じ宇宙の法則へと繋がるのです。


民族や思想や国籍で対立しているのではなくて
心の思想の共通点を持って理解しあいなさい」


と彼らが語っているような気がします。





創価学会の人間達が私の住む早宮周辺に集っては
私や妻への脳への電磁波洗脳や苛立ちの誘導を続けているようです。


本当は私の自殺誘導を計っているように見えます。


二言目には妻を人質に取るような言葉を音声送信で投げかけて
私には行動の制約をするように暗示を仕掛けてきます。


其の上に一日中私を怒らすことだけを目的に
執拗に計算づくで身体の操作をもしてきます。


そんな人間達が私を苦しめている事を知っていても
多くの人間がそれに手をさす事が出来ないようです。


自称、名誉ある教団の狂信者達は
一体どんな脳の構造をしているのかとつくづく思います。


自分達を善人だと思っているようですし
きっと一般市民とは脳の構造も違うのではないのでしょうか。


恐らくは左脳だけで生きている
そして他人に対して思いやりや優しさなど持つことの出来ない
そして争いごとが大好きな人間達なのだと思います。


私達とは一番意識のかけ離れた人間達だということです。


ユダヤ名誉毀損防止のための

国内の主要メンバーがここにいるはずです。



一番気に入らないのは何かにつけて

他人を脅す事。


この人間達にはつける薬もなさそうです。


今度からは事細かに報告する事にします。


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第二講義 VOL16


私達は二通りの経路から想いを発しているようです。


言うまでもなく一つは心の想いであり
私達が通常思考する其の思考、そして心の価値観が其の中心です。


一方は魂から湧き出てくる創造主の意識です。


聖書ではパウロがこの二つの経路を
”肉の想い”と”御霊の想い”と分けて表現していました。


私達が心から出す其の思いは個人的でありエゴに根付いています。


必ずしも悪いとは言えませんが
其の殆どは私達の個人的価値観と心地良くありたいと言う
エゴからのものです。


そして一方、魂から湧き出てくる想いは暖かく宇宙的であり
自分だけではなくて万物に対しての優しい想いです。


其の両方を私達は持っていますが、
通常私達は頻繁に心を持って想う事になります。


つまり残念ながら私達は
通常、肉の想いばかりを吐き出している事になります。


そこで私達は自分の意識を宇宙意識へと誘導するために
自らが発している想念を分析する事が有効だと
アダムスキーが言っていました。


つまりは自らの思考の根底が心のエゴに根ざしているのか、
それとも全体を思う魂の意識に根ざしている宇宙的なものなのかを
其の都度注意深く観察するのです。


それを繰り返していく事で私達は心の動きを理解し
一方では魂を意識する癖をつける事にもなります。


そして常に宇宙的意識を持つ様に心がけているのが
太陽系の天使達だと言う事です。


この想念分析は私も意識しては実行はしてませんが
恐らくは通常エゴの心で生きている私達には
有効な手段となる事でしょう。


自分の意識を意識する事、
それ自体が自分を客観的に分析することに繋がりますし
それは魂を意識する行為に繋がるからです。

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聖書でイエスキリストが


人の中から出て他人を汚す悪しき想いとして表現していたのが
私達の心のエゴであり悪しき想念であると言う事を
恐らくは多くの方が理解できていないと思います。


私達には想念(思念波)というエネルギーの存在の
知識が無かったからです。


そういう私もイエスキリストの言葉を
単なる綺麗ごとと思い込んでいた時期があります。


この社会の実態を見つめそれに慣れ親しむ事で
イエスの言葉が余りにも美しく
そして非現実的に思えてしまったのだと思います。


それだけ当時の私の心は荒んでいたわけです。。


更には理解するにも納得できない表現があり
それが私をイエスの教えから遠ざける原因にもなっていました。


言うまでも無く三次元(地)と四次元(天)、
そして記憶を持っての転生(永遠の命)
更には天使達(スペースブラザーズ)と言う他の惑星の人間達の存在です。


私達はイエスの言うとおり
目で見ているが見ていない、聞いているが聞いていません。


若しくは現象ばかりをボーット見つめては
それに思考も加えないし眼に見えない摂理を追求しようと
する事もありません。


其の事を理解できるようになって私は始めて
聖書の正しい意味と価値を理解できるようになりました。


アダムスキーが語っていたように
聖書のイエスの言葉は全てが三次元と四次元など
宇宙の法則を大前提に


眼に見えない世界こそが私達にとって
大切であると言う事を語った内容だったわけです。


半端な意識を持った私が理解できる内容ではなかったのです。


しかしそこに書かれている人の人としての在り方は
今の時代であっても其のまま私達の指針となるような
内容であることも言うまでもありません。


その後イエスによって覚醒へと導かれた
元迫害者パウロはイエスの其の教えを
一番解りやすく表現してくれた存在だと思います。


天と地、肉の想いと御霊の想い


そんな表現が全て宇宙の法則を前提にしているとして解釈すると
パウロの語っていた内容の全てが
正しく理解できる事にもなります。(一部の改ざんを除いてです)


私達はその先人たちに従って生きるならば
肉の想いを出来るだけ御霊の想いに書き換えて
其れを自らの行動の指針としなければならないわけです。


見えないものを理解できる者は幸いである。


イエスのこの言葉の通り
眼に見えない神の意志を理解し其れを実践しようとしていたのが
イエスの時代の使徒達であったと言う事。


そして彼らが学んだ「イエスの神の国の奥義」こそが
生命の科学=宇宙の法則であり
テレパシーであったという事を私達は理解しなければなりません。


預言とか啓示とか御霊の贈り物と触れられているのは
テレパシーに他ならないと言う事です。


聖書の中でもパウロの頭の中にイエスが直接語りかけて
それにパウロが驚く場面がありました。


あれは音声送信と同じような手法だと思いますが
その後パウロは間違いなくイエスキリストから
イエスの奥義、真のテレパシーを学んだはずです。


私達は心の四つの感覚器官に捉われて
常に其れを意識している存在です。


勿論、元々の心の意識に御霊の想いと同じものを
兼ね備えている人間もいることでしょう。


しかし多くの場合は私達は自分の肉の想いと
この世の霊(他人の想念)ばかりを意識して暮らしていて
御霊なる物を感じることが出来無い状態だと言えます。


でも私達は理性と客観性で其れを補う事も可能です。


例え、直接閃きや印象を受け取る事が出来なくても
自分の思考を客観的理性的に見つめる習慣をつける事で

心の価値観は確実に魂の価値観へと変貌していくはずです。


「天で御心が行われるように
地でも御心が行われますように。」

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P.S.


意味をしっかりと理解してくださいね。


「天国と言われる社会の人間達が宇宙の摂理で生きているように
私達の社会でも其の摂理が実践できますように」


と言うのが真意だと言う事です


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】