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不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。

生命の講座 第三講義 VOL15 


アダムスキーは「私達のエゴは短気だ」と表現していました。


その原因は私達の心が心地良い事ばかりを求めるのに関わらず、
現実社会では不快と受け止める刺激が多い事、


更には私達は得てして外部からの刺激に対して
短絡的に反応する習慣が出来てしまっている事もその原因だと思います。


つまりは私達の心の在り方やその反応の仕方は
悪い意味で本能的で習慣的で自分勝手だと言う事です。


私達は不快な物事を自らの好き嫌いで作り上げる傾向が強く、
その原因は四つの感覚器官の影響であると言う話を
前講義でとりあげました。


私達が視覚・聴覚・味覚・嗅覚を
誤った使用の仕方をしているがために、


私達は現象を好きと嫌いに分けて認識するために、
嫌いな現象を見るたびに不快な想いをするのだと説明しましたが


その心地悪さこそが怒りの原因でも在ると思います。


そして一方では私達が心にばかり従うために
外部からの刺激、つまり四つの感覚器官の受け止めた現象に関しても
それに対して本能的に好きと嫌いで反応する事にも原因がありそうです。


もしも私達が魂に導かれようとすれば
そこでは外部からの刺激に反射的に反応してはだめで


其の刺激を冷静に分析して正しく理解し
更には其れに対する自分のどんな反応が何を齎す事になるのか
までをも想定できれば満点の行動が出来ると思います。


その事で自分の意識を客観的に判断する機会もできますし
短絡的に怒りの感情をむき出しにすることもなくなるわけです。


つまりは私達が理性の働きと呼んでいるようなものが
十分に機能している状態です。


しかし私達が甘やかしてきた心は
自分にとって不快な感覚をそのまま直接受け止め、
それに不満を感じれば憤りや怒りを表現する事にもなります。


そして自分の中の創造主の意志など省みることなく
刺激に対して好きと嫌い、心地良いと不快で咄嗟に反応するのです。


それがそのまま私達の喜怒哀楽の表現に
繋がっていると思います。


私が生命の科学を始めてから自らに課した数少ない戒律は
この喜怒哀楽を出来るだけ表現しない
若しくは強い感情を出来るだけ抑える事です。


天使達が語っていた事もまさにそれです。


地球社会の人間達は喜怒哀楽を抑える事が出来ず、
とりわけ怒りの意識を抑える事を不得手としている。


そのことが私達の精神の進化を妨害しているそうです。


心のエゴが短気であるという事を私達が理解できれば

今度は如何にそれに対処すべきかも考える事が出来ますし
私達はその事を学んで実践すべきです。


不安や恐怖を持つ事が、私達を心のエゴへと縛りつけ
それがそのまま進化の妨害となるという話を繰り返し記事にしましたが、


不安や恐怖の感情と同様に
私達の進化を妨害しているのはそのような強い感情であると言うことを
是非とも理解して頂ければと思います。


私達の常識では私達は知識を得る時も
目に見える情報や耳で聞こえる情報に拘る事になります。


言ってみれば心を司る器官ばかりが
私達に知識を与えている事にもなります。


本を読む、TVを見る
言うまでもなく視覚からの情報ですし


人から聞く これは聴覚からの情報です。


私達の知識の殆どはこれらによって形成されています。


そして私達の心は自らが心地良いと感じる事ばかりに
私達を導きがちなのです。


其の上に私達は知識や真理はそのような方法でしか
得られないとも考えています。


でも私や兄弟姉妹は知っています。


私達の魂が感じる創造主の世界、すなわち、私達が四次元と呼んでいる
創造主の想いと創造主が作り上げた法則の世界にこそ真理がある事をです。


この宇宙空間が出来あがった時から今に至るまでの
ありとあらゆる情報が、そこには存在しているのです。


それは創造主のあらゆる法則や想いと同様に
私達が共通に認識できるものであり
それを私達はアカシックレコードと呼んでいます。


つまり私達が知るべきあらゆる知識と情報が
四次元には備わっている事になります。


「私達が見た事のないもの、聞いた事のないもの
そんな全てがこの世界が出来上がったときから
私達のために用意されていた。」


その上にありとあらゆる被造物の過去から現在に至る想いや知識や記憶さえ
私達の知識となるためにそんな場所に存在し
私達が意識するのを待っています。


私達がしている勘違い、
ネットや本やTVからではないと知識や真理は手に入らないと言う意識は
私達の持っている価値観の中での常識であって


天使達の世界であれば知りたい事は
宇宙の図書館(アカシックレコード)から引き出す事が
常識とされているはずです。


私達は自分の体一つあれば
魂からありとあらゆる情報を手に入れることが出来る。


だからこそ私達は心を持って学ぶだけでなくて
意識から学ばねばならないのです。


繰り返し引用している聖書のイエスキリストの言葉を
思い出してみてください。


「求めなさいそうすれば与えられるでしょう。
叩きなさいそうすれば開かれるでしょう。」


「子供が魚を下さいと言っているのに
蛇をよこす親があるでしょうか。」


これは言うまでもなく父なる神の
私達に対する想いであり


もっと言えば創造主によって与えられた宇宙に張り巡らされている法則が
そのようなものと成っていると言う事を表現したものです。


私達が真摯な気持ちで何かを求めれば
それはきっと与えられる事になる。


とりわけ知識や知恵に関しては
私達は閃きや印象と言う形でそれを与えられる事になります。


そして其れこそが宇宙が出来上がった時から用意されていた
神から私達への贈り物だと言う事です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】

今日も朝から晩までろくでなし達の
電磁波により苛つかされています。


今の日本の中には一体どれだけ
日本人がいるのでしょうね?


自分を日本人であると認識している人間がです。


日本は既に多国籍の人間の暮らしの空間となっている事は
否定しませんし、其れが悪いとは言いません。


しかし特定の民族意識を持っている人間達に
日本の人間が苛められているようなそんな気がするのです。


そしてそんな人間達が一つの組織を中心に展開している。


私の気のせいでしょうか??



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生命の講座 第三講義 VOL14


私達は自然から一体何を学ぶ事が出来るのでしょうか。


実際にはそんな事はあり得ないと言う事を前提に
例えば無人島に一人流されてしまったとして
その島には動物だけは豊富に存在していたとします。


海には塩からい水しかなくても
鹿の後を追っていくと水場を発見するかもしれません。


小鳥が食べている木の実を毒はないと判断して
まずくても食べるかもしれませんし


イノシシが掘った穴から山芋を
発見するかもしれません。


そして動物達の気配で時には嵐を予知したり
自然の異変に気がつく事もあるかもしれません。


自分の知識と文明の便利さに慣れ親しんで
そこから抜け出る事が出来ない人間は
餓死を待つだけかも知れませんが


自然に学び動物に学ぶ意識を持つ人間は
そんな境遇でも生き延びる事になると思います。


私達人間であれば、目で見て発見したり
知識として知っていなければ認識できない事を
動物は当たり前にやっています。


彼らは其れを自然と魂の導きから学んだのです。


そんな行動を見続ける事でも
私達は見えない真理を学ぶ事にもなります。


木の切り株や星の運行で
方角を知る事も出来るでしょうし


例え漂流が数年にわたるような時でも


気温の変化や木々の葉の移り変わりで
私達は嫌でも季節を感じる事にもなります。


物事を学ぶ時には本が必要であり
講師が必要だと言うのが私達人間の先入観ですが


其の本にしても知識をまとめたのは人間ですし
大元は誰かが自然を体験して作り上げた知恵です。


そして中には間違いもあれば、認識不足で
正しくない事もあるでしょう。


しかし自然から私達が直に学んだ事は
其れが正しい事を自ら認識する事にもなります。


そして私達は体験を通じて知識を得る事になります。


聖書でイエスキリストが
鳥の生態に触れる場面がありましたが


まさに動物は誰に学ぶことなくとも
自分が生きるすべを理解し其れを実践しています。


そして其れが結果的には彼らにとっての
この世での役割にもなっています。


彼らは意識に導かれながら本能に従って生きている。


私達人間がエゴに導かれ
本能によって煩悩を作るのとは違うのです。


そんな自然環境から私達は多くを学ぶ事が出来る。


それがアダムスキーが自然から学べと言った意味です。


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自然というよりも、ありとあらゆる自然現象を眺める事で
私達の先人は多くの事を学んできました。


元々は天が動いていると信じていたこの社会に
地球の自転を提唱した人間もいました。


りんごが木から落ちるのを見てそこに万有引力の
存在に気がついた人間もいます。


船乗り達は星の運行を見つめては
自分のいる位置を把握し、航海に役立てたはずです。


ありとあらゆる発明の切欠は
自然が私達に見せている創造主の法
つまりはありとあらゆる見えない法則だったのです。


中には突然の閃きで発明をした人間達もいますが
そちらはアカシックレコードからの印象だと思います。


いずれにしても私達に何かを伝えてきたのも
何かを学ばせてきたのも、
間違いなく自然現象の中における宇宙の法則だと言う事です。


眼に見えないから其れを理解する事が出来ない。


私達の誰もがそのような感覚で生きてきたならば
この社会の文明の発展は無かったはずです。


何時の時代も決まって誰かが
魂の閃きを受止めて其れを元に私達を導いてきた。


ただ、今明かされているものが全てではなくて
私達にはまだまだ気がついていない多くの法則が
存在しています。


それを地道に理解しながら利用しているのが天使達の社会で、
私達もいずれはそれに踏襲することになるでしょう。


私達を導くのは神の想いであり
其れを一番そのまま表現しているのは自然界であるということ。


私や兄弟姉妹の学習はそれを学ぶ事から始めるべきだと言う事です。
(自分の内面に関してが最優先ですが)


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


電磁波と食べ物を利用しては

脳に糸状のものを巻いては



其の上に、酸を利用しては

特定の周波数帯で脳を洗脳してくる輩がいます。


一日中、頻繁に意識を持っていかれて

大変な状態になっています。



闇政府傀儡の洗脳強化を受けているようです。


どこの人間達かは語るまでも無いでしょうね。



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生命の講座 第三講義 VOL13


私達が人間としての自分達を最高の生命体だと認識する理由は
動物の多くが本能的で個性を持たない存在に見えるからだと思います。


多少の個体差こそあれ、多くの動物はその行動も反応も
とてもよく似ているからです。


そしてそれを持って彼らを単純だと決め付けて
十人十色の人間こそが、様々な価値観を持っている
高等生命体であると勘違いしているのです。


実際には彼ら動物はその多くが
創造主の意志によって導かれています。


つまりは彼らが同じような反応するから
彼らは単純なのだと理解するのは間違いだと言う事です。


私達は魂を持って共通認識をするのです。


つまり私達が進化した状態であれば、誰に命じられるわけでは無しに
誰もが似通った価値観を持ち、似たような行動をとるようになります。


勿論それが創造主の意志の導きであるからであり
それは私達の個人的な価値観によって
導かれたものではないからです。


アダムスキーが言っているように
創造主の意志からかけ離れた存在となっているのは
私達人間の方なのです。


その事を謙虚な姿勢を持って見つめる事ができれば
ありとあらゆる生命体に単純も複雑もなく


それらは私達以上に創造主の意志に従っていることも
理解できると思います。


だからこそ私達は自然から学ぶ事にもなる。


自然は限りなく創造主の意志を正しく表現している
現象だからです。


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価値観の多様化という言葉が頻繁にささやかれ
其の一方では其れを是認する傾向が強まっているのがこの世の中です。


更には個人の権利と言う言葉と結びついては
万人のあらゆる価値観が正当化されてもいます。


私達は個々の魂を持って個々の肉体を通じて体験し
そこで多くを学びます。


置かれた境遇が異なれば価値観も異なってくるのは
当然ともいえます。


しかしそこで私達が培った価値観というのは
決して絶対的な物ではないのです。


あくまで真理へと私達の価値観が進むための
学習の過程と言えるものです。


そして私達が共に持つべき価値観は個々の人間の
価値観の相違ではなくて、共通部分であり
言ってみれば最大公約数であるといえます。


しかし私達はそれを認識する事ができず
ありとあらゆるエゴをも持って作り上げた価値観を
そのまま尊重しようとします。


その結果巷の価値観はエゴで溢れたものばかりと成っています。


私達は心を持って独自に価値観を作り上げ
一方では魂を持って共通認識を意識します。


そして其の真理を持って心を矯正していくことこそが
私達人間に与えらた課題であるということを理解すべきです。


独自に価値観や主義主張を認め
また、時には特定の多数派意見が少数意見をつぶし、


誤った価値思想で満ちているのが
私達の社会の実情です。


この傾向を変えていかない限り私達のエゴと
誤った個人的価値観に満ちたこの社会は
決して変わる事はないでしょう。


私や兄弟姉妹は其の中でしっかりと真理を見つめ続けて行きましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


創価学会・在日朝鮮半島といったユダヤ傀儡達に
脳を弄られまくって朝から苛つかされています。


彼らにはつける薬は無いようです。


証拠が無ければそれで済む、
そして警察まで口封じされているのですから
こちらは何もする事は出来ないでしょう。


2014年11月20日 AM11:40

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生命の講座 第三講義 VOL12 


第二講義で説明したように、
私達は特別な注意を払わない限り
単に現象を眺めているだけの存在です。


視覚と言う感覚器官に囚われ、本来なら見るべき生命力や
物事の原因と言ったものを見つめる事が出来なくなっているからです。


そのために私達の価値観は、決まって見えるものにばかり
囚われてそれを重視する傾向にもあります。


イエスキリストの時代に潔癖で生真面目だったイエスは
当時の社会の中の奔放な一面や形式ばった一面を批判しました。


それはイエスキリストが真理を実践している人間であったという
事もあるでしょうし、


更には当時は少しばかり
人々が堕落しかけていたことからも
そのような厳しい姿勢が求められたのだと思います。


その意味では自らの強い意志を貫き通す
イエスキリストの姿勢は、私達、意志の弱い人間から見れば
融通の利かない様にも見えますし


それが時には万人に対して
厳しさと言える姿を見せ付ける結果となったのだと思います。


ところでイエスキリストはある一面において
とても重要な事を語っていました。


それは私達が目で見えるものにばかり囚われているがために
事の本質を正しく認識してはいないと言う事。


法律であれば条文、そして迷信であれば
其の言葉を額面どおり受け止めていると言う事です。


そして私達は物事の見かけにばかり囚われていて
実質を見つめる事がおろそかになっていると言う事でもあります。


聖書の中のイエスキリストは
戒律をも重視する姿勢を見せていたはずです。


その戒律はヘブライの昔からの言い伝えであり
モーセの十戒とモーセの神の教えです。


それは私達の社会の人間達の基本的な指針となるものであり
当時の野蛮だった人間を導くために使用された規範でもありました。


ただ、怒りんぼうでもあったイエスキリストは
当時のユダヤ教の神官達が自分の言葉に耳をかさず
過去の教えにばかりに従っていたから、


そして少しばかり乱れ始めていたその社会では
心のあり方が尊重されていなかった事もあり


形式ごとだけに捉われる事を批判して
心の在り方(実質)を重視する発言をしたのだと認識しています。


勿論、私達にはその両方こそが大切なのです。


本当であればその両面ともが私達にとって大切である事を
イエスキリストは意識していたのかもしれません。


其の延長にある今の私達の社会では形式や見た目ばかりを
重視する傾向があると思います。


勿論それは、私達が見えるものにばかり囚われる傾向があるため、
表立っての美しさや、見た目の立派さに囚われて
内面の大切さを無視しがちな事も原因となっていると思います。


私達は本来は万物を見る時は、その中に育まれている生命や
其の現象の生じた原因までも理解する事が大切なのだと言う事を
イエスキリストは言っていたのだと理解すれば


イエスが見えない物の大切さを繰り返し訴えていた事の意味だって
私達なら理解できるかと思います。


そして特筆すべきはイエスは私達に知識よりも
知恵こそが大切である事をときました。


私達にありがちな姿勢は、例えば一つの教訓を聞けば
その内容をそっくりそのまま受け止めて
額面どおりに理解しようと勤める事です。


一学んだ事から一つの教訓しか得られないわけです。


以前、モーセの10戒に関して
安息日の意味に関して取り上げたことがあります。


週に一日安息日を作り
その日は何もしてはいけないと言う
この戒律は有名です。


これを額面どおりに受け止めると
私達はそれを単に実行し、安息日に働いている人間は
戒律を破っていると責め立てられる事にもなりかねません。


しかし、そうではなくて、其の戒律の趣旨が


週に一度くらい休んでおかなければ
身体にも精神にも疲労やストレスがたまり
私達の精神に良くないからだと理解すれば、


そして主人が懸命に働いていると下僕や奴隷、更には家畜が
休む事ができなかったからだと理解すれば、


その戒律は自分や周辺の関係者を慮ったものであり
自らの肉体と精神を休めてリラックスしなさいと
言う趣旨だと理解できます。


それを戒律(知識)と言うよりは”知恵”として持てば
この知恵は、時代が変わろうが自分の精神性への気遣いと
他人や自分に関わる被造物への思いやりを示したものと認識する事が出来ます。


知識は時代にそぐわなくても知恵は時代が変わっても
応用する事が出来るのです。


そのような思考こそが大切であると
私達に教えてくれたのがイエスキリストだったわけです。


更にはイエスキリストは何よりも大切な意識として
「自分を愛するように他人を愛しなさい」


「心を尽くし、想いを尽くし、知性を尽くし力を尽くして
貴方の主たる父を愛しなさい」


と二つの重要戒律を語っていました。


これらはイエスキリストが、私達のような
宇宙の法則=創造主の法を学ぶ人間にとって
一番大切な姿勢を示したものだと認識する事が出来ます。


愛と言うのは私達の従うべき魂=意識の持っている
一番大切な想いです。


創造物に対する神の想いは慈しみ。


それこそが私達が父である創造主から学ぶべき
そして感じるべき一番の意識でありますし


神の創造物に対して慈しみを持ちなさいというのが
一つ目の戒律で、


そして一方では
その想いを発した存在である創造主の事をもっと理解して身近に感じ、
それを意識して暮らしなさいというのが


この二つ目の戒律だと言えます。


私達が学んでいる生命の科学は
まさにそこを原点としていると言えます。


私達の学ぶべきスタート地点はまさに其れなのです。


そしてそれらは同時に私達にとって
大切な戒律でもありました。


私達生命を学ぶものにとっての当初の戒律を思い出してください。


一つには魂と言う存在を理解してそれを意識する事


もう一つは私達を生き物としている
創造主の存在を信じ信頼する事です。


そして私達にとっての本来の目的は
調和であり進化です。


つまりイエスの二大戒律は
人間にとってのあるべき姿を
象徴したものとなっているのです。


過去に愛と言う物に関しても取り上げたことがあります。


「心を尽くし、想いを尽くし、知性を尽くし力を尽くして
貴方の主たる父を愛しなさい」


と言うのは一体どんな事なのか?


私達が誰かを愛したときの事を
そっくりそのまま連想すればその意味もわかるはずです。


私達は誰かを強く愛すれば24時間その人のことで
頭がいっぱいになります。


そしてその人の事が知りたくてたまらなくもなるでしょう。


その人に愛されたくて自らを変えようともします。


その人に喜ばれる事をしようと勤めるはずです。


つまりこれこそが私達が創造主に対して
持つべき意識だと言う事です。


いつも魂=意識を意識する。


そしてそこから神の意志を知ろうと勤める


自らは神に愛されるような存在になるための
精神の向上にも勤める


そして神が喜ぶことを実行する事にもなります。


そしてこれこそが本当の”神への信仰”なのです。


私達は父なる神を指導者として
この三次元を体験して進化する事を求められている。


そして神の代理としてこの社会の調和を果たす役目を求められている


これが私達人間にとっての本当の目的でもあるという事です。


現象を眺めるのではなくて、
そこに存在する生命力を同時に認識する


自分のエゴを持って行動するのではなくて
魂からの意志を受け止めてそれを実行する。


つまりはイエスキリストがそうであったように
「自分が為すのではなくて
自分の肉体を使って父の意志がなしている」


そんな状態に成る事こそが私達の目標なのです。


今は未だ私達は往々にエゴを持って為しています。


しかし謙虚な気持ちを持ちながら
宇宙の法則を学び続けていけば


何時しか「これは御心の実現である」と
言える日が来ることでしょう。


日々を懸命に生きる、これが私達、神の子の
あるべき姿です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】
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イエスは知恵に関しては種まきの例えでも触れていました。


そして一つの知恵から一学ぶ人間もいれば
其れから百を学ぶ人間もいると語っていました。


私達は先人の教えをそのまま暗唱するのではなく
そこから教訓を受止めて
其れを応用する知恵を持つ事を求められていると言う事です。


どんな時代でも変わる事のない
私達人間に共通の意識こそが真理であると
そこからも理解する事が出来るはずです。


 生命の講座 第三講義 VOL11


私達は何事も誓ってはいけないと
聖書でイエスキリストが語っていました。


それは私達人間は神の意識を代理しているに過ぎず
自らが法則を作り上げてその影響を受けて生きているわけではないと言う
ことを象徴していると思います。


私達は何かを自ら成し遂げて新たな法則を作り上げるような存在ではなくて
あくまで神の創造した法則の中で
其の恩恵に預かりながら生きている存在に過ぎません。


宣言して何かを成し遂げるそんな立場ではないのです。


私達はどんなにエゴを持ってこの世で好き勝手に生きようと勤めても
いくら独自に戒律や法則を作り上げて威張り散らしてみても
所詮は創造主の法の中で保護されて生きている存在であり


髪の毛一本、白いものを黒く変貌させる事すら出来ない存在なのです。


つまり私達は創造主の法の影響から逃れるすべを知らない
ただの被造物に過ぎないと言う事です。


しかしながら私達人間はその事を理解せず
自らの心の価値観を普遍的真理の上においては
それに満足して生きています。


何も出来ない、単に法則に指導されているだけの存在なのに
そのことにも気がつかず、


自分が偉人か天才であるかのように振る舞い驕り高ぶり
魂の意識を無視して生きているのです。


その上で正しく創造主の法を理解するのではなくて
独自に心の価値観に照らして何事をも理解しようと勤めるから
真理だって捻じ曲げられる事にもなります。


私達は誰もが独自の心の価値観を尺度としては
それで何事をも裁いているに過ぎないという事です。


つまり私達の真理の限界は
今現在の私達の心の資質という事にもなるのです。


そんな中で更に個人的真理を作り上げ
その価値観を他人に押し付け


その尺度で物事を測り、分裂状態や闘争状態まで
作り上げています。


全ては私達が謙虚さを持たず、
自らの存在を高く評価しおごり高ぶっている事が
原因ではないでしょうか。


私達が持つべき想いは分割や驕りではありません。


謙虚さや平和こそが私達の持つべき宇宙的な意識だと言う事
を理解できる私や兄弟姉妹は幸いです。


その意識を持ってこの社会を生きて行く事が
私達の魂の進化を齎し


強いてはこの社会の意識の改善のためにも
大切なのだと思います。

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私達人間に関しては「死人である」とか
「白髪一本も黒くは出来ない」と厳しく語ったイエスキリストですが


一方では「神は五羽一からげの鳥の事でも
私達の髪の毛の数までも知っている」と触れて


神の偉大さ、創造主の法の絶対性に触れていました。


しかしその偉大なる存在は決して驕り高ぶることなく
私達万人に同じ法則を適用し


同じように雨を降らせ同じようにお日様を昇らせる存在です。


しかも神は私達に何か自分のためにしてくれと
強制しているような存在でもありません。


只管私達誰もに対してに同じように摂理を適用しては奉仕し続け
しかもその事に対して何の見返りも求める事もありません。


そんな偉大な意識と比べると
私達の意識が如何に貧しいかという事が理解できます。


私達はどんなに立派な事を言ったとしても
そして行ったとしても
其の元々の動機の殆どは恐らくは自分自身のエゴから出ています。


そんな私達人間が何かを宣言し成し遂げたとしても
それは褒め称えられるに値しないと言う事です。


創造主にも目的はあります。


そして其れを今この瞬間も密かに実行している最中です。


しかし神は其れを宣言するのではなくて寡黙に実行しているだけで
其の想いを持って私達にそれを伝えているに過ぎません。


私達が神を正しく認識すれば
自分達が誇っている事が全て誇るに値しないことだって
判るはずです。


多くの偉大な業績を成し遂げ、多くの生命と魂を生んで従え
其れを進化へと導いている存在こそを
私達は模範としなければならない。


私達が他人や自分を尊敬し尊いと想う意識は大切です。


しかし私達は其れを過大に評価したり
自ら驕り高ぶるような意識は持ってはいけないと言う事です。


イエスも言っていました
私達にとっての師はただ一人であると。


そのたった一人の師の意識を
私達は模範として生きて生きさえすれば良いのです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】





今日は朝から苛付の種をまかれた状態で
一日中苛付を誘導さえれ続けて


夕方には激怒状態にまでされました。


この状態を齎した人間達は近所の住人と
其れに対する協力者のようです。


私の室内を盗聴しながら
意図的に私を怒らせては私を悪者扱いするのが
目的だったようです。


姑息なこの人間達がこの社会の真の悪だと思います。


語りかけが言うには

私が怒りで記事を書くと其れを実行するという

そんな馬鹿げた事まで取り決めて実行している

ろくでなし達のようです。


こんな人間が私法で日本の人間を

洗脳し逆差別しているという事がこの社会の実態のようです。

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生命の講座  第三講義 VOL10


【真理は真ん中】


私達はリラックスして何事も適度にすればよいと言うのが
アダムスキーの話でもありました。


現に私達は通常の生活の中でも何事も過度では
私達にとって不快を齎すと言うことを認識すべきです。


当たり前の事ですが、暗いと言って電気をつけても
それが明るすぎれば今度はまぶしくて不快だと言う事になります。


寒いと言ってエアコンをつけても今度は温度を上げすぎれば
それは熱さを伴い不快となります。


勉強やスポーツでも適度に頑張る事は大切ですが
それが極端になると、


もしもその結果が出なかった時には
失望してひどく落胆する羽目になるかもしれませんし
時には故障や怪我に見舞われることになるかもしれません。


結果が出た時が頂点でその後は
緊張感を無くして生き方が変わる人もいるかもしれません。


強い出た人間に関しては、何かを専門的に頑張る事が
その人間の課題なのかもしれないと想いますが

私の様な凡人は何事も程を知らねばなりません。


何もしないと私達は何も得る事が出来ませんが
かと言って頑張りすぎても糸が切れると反動が大きい、


そしてその後は精神的に
堕落するようなことだってあるのです。


そんな極端な意識を求めるのではなくて
私達は何事も適度の状態で実行することが求められています。


そう言えばアニメドラゴンボールの話の中で
主人公の孫悟空と息子のご飯が


スーパーサイヤ人の状態のままで
日々の生活を送ると言う話がありましたが


要するに、あるときだけ特別な状態になるように
勤めるのではなくて


24時間いつでも延々と同じ状態を保つように勤める事こそが
大切なのだと思います。


そして24時間、常に一定の状態でいれるような精神状態こそが
私達にとって無理のない自然な状態だと言えます。


勿論その中でも小さな努力や改善をして行く事は大切です。


しかしその状態を一時で終わるのではなくて
継続する事こそが私達には重要なのです。


私達の世界は相反するものによって成り立っています。


陰と陽、プラスとマイナス、男と女
そして原因と結果です。


このような対立の真ん中において
命は生まれるというのが宇宙の法則でもあります。


例えば私達は四次元における父性原理といえる創造主の意識、
エネルギーの一部を魂として御霊の体として持ちます。


一方では母性原理として三次元において
元素を持って肉体と言うフォームを受けます。


そして命はその接点にこそあるのです。


なにか一方に偏った意識が私達を生んだのではなくて
私達を作り上げた意識は全てが二面性を持っています。


言ってみれば創造主の意識は
全てが私達が善と悪、白と黒と呼んでいるような
様々な価値観の真ん中に存在しているのだと言えます。


勿論そこにある想いに関しては
私達の心が持つようなエゴや悪と表現されるようなものは
存在してはいません。


しかしこの世のバランスは、常に極端では無い物によって
成り立っているのだと言う事にも気がつくべきです。


善と言う言葉も然りです。


私達は時には善を求めてそれを追求する余り
他人に対してまでそれを求める事もあります。


潔癖とか融通の利かないと言われるその意識は
他人に何を齎すのか?


その意識は時には分裂や争いの種にもなるのです。


そして融通の利かない其の行為は他人を裁く事にも繋がります。


私達は何事にも極端に走ってはいけない。。


極端な禁欲主義も極端な快楽主義も
私達の精神向上の妨げとなると言う事


そして極端な楽観主義も極端な悲観主義も同様に
私達に齎すものは決して進化ではないと言う事を
私達は理解しなければなりません。


アダムスキーは極度な楽観思考が
時には他人を傷つけると取り上げています。


これは、例えば自分にとって心地よい事を思考し実行し
その結果自分のエゴは満足しても
他人を不快な思いにする事だってあるという事を意味します。


この社会の中での人間関係を考えてみても判る筈です。


集団の中で独自の意見を主張してはそれをごり押し
それが自分のエゴにとっては前向きで
それを実行する事が心地良く、その結果本人が満足しても


本当はそれに反対していた人間たちは
自分達の意見と異なる事が実行された事で
不快な思いをしているかもしれないわけです。


忘年会で皆で焼肉パーティーをしたいと言う人間がいて
その人間がその主張を押し通しそれが実現して
自分は焼肉も沢山食べることが出来て満足しても


実は肉が食べられない人間達がその中に数名いたとすれば、
その人間達にとってその「個人的に心地良い思考」は
不快なものであるかもしれません。


楽観思考、プラス思考と語っていても
私達の社会における精神向上は自分の事ばかりを意識していて
未だこの程度なのだという事を私達は理解すべきだと思います。


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私の記事を読んでくれている兄弟姉妹であれば
理解してくれていると思います。


私達が意識すべきは物事の側面ではいけないという事
そして持つべき意識も楽観でも悲観でもなく
其れを両方加味した上で


其の中で最善となるであろうものを
意識するという事です。


これに関してはいつも動機と其れによる行動そして結果に関して
取り上げています。


何かを為そうとした時に私達には先ずは動機が大切でした。


それが個人のエゴから出ているものか宇宙意識から出ているものか判断し


更には宇宙的意識から出ている事を前提に
今度は悲観的でもなく楽観的でもない意識で
自分が行動した事に対する結果を想定しなければなりません。


楽観主義で言えば、
自らの行動を計画した時に取らぬ狸の皮算用をしてしまいますが


悲観的に思考すれば、其の行為が他人にどんな影響を与えるのか
自分にとって実は不快な物を及ぼすのではないかという事まで想定します。


私達の場合は其の両方を加味した上で
更にはその一時的な結果をみるのではなくて
その事が長期的には私達に何を齎すのかまで思考する事が大切なのです。


そしてその中で最良の結果となるであろう行動を選択し
其れを実行する事にもなります。


しかもその結果を見つめては自ら反省する事にも
なるかもしれません。


そこで何かを学ぶ事で次にはもっと良い選択肢を
選んで実行する事もできます。


善と悪と呼ばれるものの中にも
真理はあります。


その善と悪の判断を下したのが私達人間だからです。


しかし私達が意識すべきは物事の長所だけでも
短所だけでも偏る事になり
結果的には全ての状態を受け入れる事で

その最良の策を選択する事になる、


つまりは長所と短所、明と暗、
楽観と悲観の融合した状態であるということです。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


創価学会に再び洗脳教育をされているようです。

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生命の講座 第三講義 VOL9


【リラックスが大切】


私達の常識で精神修行のために精神統一や瞑想を実行する方がいます。


何も意識せずにボーっと生きている人間に比べれば
はるかに好感も持てますし、何らかの効果もあるのだと思います。


ただ、それは決して最高の方法では無いようです。


祈りや精神統一はそのまま想念を吐き出す行為であると言う事を
感じてみてください。


何かを懸命に想い、それを吐き出し続けるのが精神統一です。


その行為は想いを強くすることに関しては有効なのかもしれません。


ただ、私達が気がつくべきなのは
私達は想うだけではなくて一方では感じなければならないと言う事です。


想念をやり取りするのがテレパシーだと理解すれば
精神統一は想念を送る行為であり、残念ながら一方通行だからです。


更に瞑想と言うものを
暗いところで延々と実行する方もいるかと思います。


こちらにも弊害があります。


それは暗い状態は自己暗示に陥りやすいと言う事です。


確かに私達が何かを感じようとすれば
落ち着いた環境での行為が一番有効かもしれません。


しかしその状態で感じたと勘違いしたものが
自分の思いであったとすればそれを真理として
受け止めて勘違いする原因にもなるからです。


地上の霊(他人の想念)であれば、まして真理ではありえません。


私達が本来あるべき状態は
意識ある限り警戒状態だと言えます。


つまり特別な時にだけ感じようと意識するのではなくて
身体が無自覚のうちに常に警戒態勢になっているような


そして常に感じようとしているような
そんな状態こそが求められていると言う事です。


特別な時にだけ神を感じようと勤めてしまうのが
私達人間ですが、


出来れば24時間、そちらばかりに意識を意図的に向ける事なくても
自然に意識しているような状態になる事こそが求められている。


そして常時に同じような意識をもって
生きる事こそが大切なのだと言う事です。


もっと具体的に言えば、心を外部刺激に揺り動かされて
喜怒哀楽に反応させられている状態ではなくて
自然体と言える姿でいる事だと思います。


私達は、その時だけ意識して後にはまるで意識しないと言う
良くない意味での切り替えをする事があります。
(喉もと過ぎれば熱さ忘れる)


更には、一時には緊張しすぎて
張り詰めた状態になってしまう事もあります。


しかし私達に求められているのは
だらけているわけでもなくて、緊張しているのでもない
リラックスをした状態であるという事です。


そんな状態の時にこそ私達は魂を感じやすいと思いますし
一方その状態であれば私達は疲労や苦痛を感じることなく
何事をも為す事が可能だからです。


このようなリラックスの意識は
「何事も程々に」と言う意識にも繋がって行きます。


つまりは何事も極端な事は最良の結果を齎す事はないと言う事。


確かに極限まで自らを鍛え上げる事で精神や肉体を
磨く人間もいますが、


私達凡人にはそのようなやり方は懸命ではないと思います。


彼らはそうなる事で何かの役目を果たす事を
課題とされているのでしょう。


私達がそれをまねる必要は無いのです。


私達は私達で自分の器と身の丈にあった生き方を勤める事こそが
精神の向上にも繋がるのだといえます。

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何事も適度に。


アダムスキーが語ってくれた私にとっても心強い言葉です。


私はタバコをたしなみますし、酒も時には飲みます。


性的なものを意識してしまう事もありますし
食事にしても余分な栄養を取り
口が好むものを食べる習慣もあります。


もしも、私達が進化するために
自らの良くないとなされる行いの全てが
禁じられる事になるのであれば


それは修行僧のような暮らしを強いられる事になります。


私にはそんな厳しい修行はこなす事が出来ません。


それ以前に、私達にはそれぞれ資質があります。


感受性含めて誰もが人それぞれ異なるのです。


其れを無視して一緒くたに誰もが同じ戒律を適応しても
私達は決して進化を果たす事は出来ません。


そして大切なのは自らの器と資質を
しっかりと判断した上で、


自らの進化の妨げとなっている事柄を自らの戒律とする事こそが
私達にとって無理の無い生き方だと言えます。


私達は聖人になるために生命の科学を
学んでいるのではないのです。


私達が啓示と呼んでいる状態こそが
悟りに繋がるはずのものでしょうが


そのためにも厳しい戒律を自らに課して
それを実行できる人間などはこの世には恐らくはいないと思います。


私達が実行すべきは自分の課題を果たす事と
其の中で無理の無い魂の進化を意識して


自らが罪と認めた事を戒律として課して
それを実行する事です。


私達には無限の時間があります。


今無理してこの社会の中で
宇宙的啓示を目指して生きる必要も無いのです。


私達はリラックスして進化を体験しましょう。


そのためにも先ずは自分の資質を
しっかりと自覚する事だと思います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11326078801.html
自らに最適な戒律を課す
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11453252587.html
自らに最適な戒律を課す VOL2

http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11043534771.html
魂の器
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11037806234.html
魂の検定試験

私を苦しめている中心は朝鮮名誉毀損防止教会なる
組織と其の関係者のようです。


そこに関わっているのは恐らくは創価学会・統一教会
そして在日朝鮮半島の人間達であり
日本社会の中でユダヤを語る同和部落の人間の一部だと思います。


最近のTVを見れば解りますが
そこでは日本の過去は悪く再現され
朝鮮半島のドラマでは彼らは美化されています。


其れが一体何を意味するのか?


言うまでも無く歴史を捏造しては
自分達を美化・正当化している人間達がいるという事です。


世界のユダヤを名乗る人間達が
ユダヤ名著毀損防止協会を作り上げ


日本の創価学会そして韓国をそのまま
自分達の有効組織と看做しているわけですが


それに追従する人間達は今度は
自分達をもユダヤ同様に
美化する策略を実行中という事のようです。


先日の長野の地震。


私はこの悪魔達の関係者が何かをやらかす時に限って
苦しい目に遭わされます。


今回もまさに其れでした。



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生命の講座 第三講義 VOL8


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私達は自分の心こそが自分の実態であると勘違いしています。


そのために、心を持って思考しそれに従うことこそが
当たり前だと受止めてもいます。


おまけにその心は際限のない欲求を求め
一方では自らが心地良い事ばかりを望んでいるのですから


それに従えば私達はどんどんと創造主の意識から
かけ離れる事にもなります。


しかし私達の心は副次的なものであり、その実態は創造主の意識であり、
その意志を実現する事こそが私達の役目だと理解すれば
私達は心を持ってそれに背いている反逆者でもあるのです。


魂を感じる事が出来ないために、
私達は本来与えられた目的を意識から受け止める事もできず
与えられた役目を果たす事も出来ないでいますし、


その上で心こそが真理だと信じてはそれに従って生きています。


しかし真理は魂からこそ告げられますし
私達の肉体はその真理でもある魂を収める器に他ならないのです。


パウロは聖書の中で
「私達が神の神殿であることを知らないのですか」と
表現していました。


更には私達の想いを二つの源泉に分けて
それを”御霊の想い”と”肉の想い”として区別してもいました。


昔ながらの聖書解釈をしている敬虔なクリスチャンほど
パウロの言葉が理解できないかもしれませんが、


パウロは私達人間が同時に二つの意志の経路を持っている事を知っていて
それを表現していたのだと言う事を私達ならば理解できるはずです。


滅ぶべき肉体と滅ばない肉体
地に属するものと天に属するもの


そのような表現を繰り返しては、パウロは私達に
”心”ではない私達の本当の実体である”魂”の存在を示し
それに従う事こそが人としての本当のあり方である事を語ったのです。


私達が従うべきは御霊の心です。


そしてそれを意識して受け止めるように勤める事こそが
私達に求められているのですから
私達もそれを実践して行かねばなりません。


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聖書の中でパウロが宇宙の法則に触れていた箇所があります。

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麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。


ところが、神はみこころのままに、これに体を与え、
その一つ一つの種にそれぞれの体をお与えになる。


すべての肉が、同じ肉なのではない。
人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。

天に属する体もあれば、地に属する体もある。
天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。


日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。
また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。


死人の復活も、また同様である。


朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、


弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。


肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。

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ここでの”肉”は私達が創造主の意識の分身としての
魂を入れるための器=フォームとしての肉体のことです。


人と言う形態があり、鳥と言う形態がある、獣と言う形態があり
魚と言う形態がある。


つまりこの世界の中では様々な形で創造主の想いが
表現されているのだと語っているのです。


天に属する体というのは、勿論私達が霊魂とか魂と呼んでいるものですし
地に属する体というののは三次元で元素を持って作り上げた
私達の肉体の事に他なりません。


(記憶を失って転生する私達の体と
記憶を持って転生できる天使達の体という意味でも理解できます)


ここでの”栄光”と言う言葉は”性質”とか”機能”と読み替えてください。


「太陽と月と惑星はそれぞれ別の役目を持って存在していて
星にしてもそれぞれ性質や見た目や役割が異なっている」


このように受け止めることが出来ます。


そして死人の復活ですが単純に
記憶を失った転生を繰り返す状態から
記憶を継続した転生を繰り返す状態という事を
示しているだけではなくて、


前講義で触れたように
私達が心だけに囚われるのではなくて
魂の意識をも感じる事が出来た状態の事を指し示す事もあります。
(父の元に帰ることです)


つまりは今までは人生の半分しか生きていなかった、
イエスキリストに死人と言われた私達が
本来の生き方を出来る状態へと変貌する事です。


それは第二講義で紹介したイエスキリストが語っていた
放蕩息子の例えからも理解できるはずです。


私達の社会の常識では理解できない宇宙の法則が
実は2000年前には既にパウロによって
語られていた事になります。


そしてそれをパウロに告げたのは恐らくは
創造主ではなくて転生したイエスキリストだと思います。


私達の社会では未だに理解されていない三次元と四次元、
天と地の関係を、
この時代には既に理解して語っていた人間達がいたわけです。


私達人間の本体は肉の体ではなくて
御霊の体であるということ。


そして私達が受け止めるべきは心から出てくる
エゴ(肉)の想いではなくて魂=御霊の想いであると言う事を
この社会の人間は誰もが理解すべきなのだと思います。


【貴方に無限なる力の祝福が在りますように】



生命の講座 第三講義 VOL7


私達の社会では寿命はおおよそ80年程度だと言われています。


世界でも長寿である日本でさえ平均寿命は90歳には届きません。


しかし私が記事でも取り上げたように
太陽系の天使達は数百歳から千歳近くの寿命を持っています。


ではその差は一体何なのでしょうか?


以前でも記事で取り上げたのは彼らの世界は厚い雲で覆われていて
それが有害なX線やγ線といった放射線を吸収し
地表にそんな影響を与えないようにしているからだと言う話でもありました。


勿論それだけではなくて、彼らの通常の生活が
肉体に摩擦を起こす事の無い暮らしを続けているからですし


更には彼らの精神性の高さが魂から多くのエネルギーを受け止めていて
それが肉体を活性化しているからでもあると思います。


一方私達の社会はノアの時代に厚い雲が全て雨となって降り注ぎ
おかげで太陽の明るい日差しを直接受け続ける事が出来るようになり
満天の星空を眺める事が出来るようにもなりましたが


同時に有害な放射線の影響をも受ける事になりました。


結果肉体への放射線の悪影響を受ける事になり
老化促進が進んだのだと理解できます。


もう一方、私達が魂ではなくて心に捉われる機会が増えた事で


私達は魂から受け止めるエネルギー量も減っていると
理解する事が出来ます。


その上に私達は魂の意識に従わずに生きているために
自分の肉体を指導するその意識に気がつかないために


悪しき想念を吐き出しては
肉体(細胞)にも目に見えない負担をかけ続けている事で
その摩擦が激しくなっているのだと理解する事も出来ます。


私達は意識に導かれるのではなくて心のエゴを選択して生きている事で
常に肉体にも負担をかけ続ける事になっているのです。


その意味では世界でも寿命が長い日本は
単に食料が豊富で暮らしが豊かだから寿命が長いのではなくて
そこに暮らしている人間達の心の摩擦が少ないからであると
認識できるかもしれません。


島国根性と言われますが
争いごとを好まず、周囲の平和を願って生きていたその意識がです。


しかしそれでも私達は数百歳を生きる事はできません。


私達が良くない想いを吐き出し続けては
この社会を取り巻く周波数帯を低く維持している間は


その影響を直撃されている私達地球社会の生命体は
いつまでたってもその悪影響を受け続ける事になりますし


それから逃れるためにも根本的な心の価値観の
改善が必要かと思います。


勿論それは心のエゴを魂の導きに置き換える作業です。


私達の肉体は自らの想念の影響を直撃される事もあります。


私達の想い自体が私達に影響を与えるのです。


私達の肉体は不健康なエネルギーに晒されて
その影響を受け易くもなります。


その事だって私達の老化現象を誘発しているのだと思います。


私達が創造主のエネルギーを受け止めて
それを活力としていると言う事を意識すれば


それを多く受け止めるためにも
私達は自分の実態とその機能を知り
その上で創造主の法に従う必要があるのです。


学ぶ対象は自然と表現していますが
知るべき対象は自分自身だという事です。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】




自分達の勝手なルールで日本人や
敵と決めた人間を只管苦しめる専門家が
こいつらの中には存在しているようです。


自分達を美化するために他人を怒らせては
仲間を募っては更に攻撃を強化する。


そんな事を延々と繰り返しています。


在日関係者が語っていた
日本人虐めは今だ継続中ということです。


今日は一日中近所に集った悪魔達に
ユダヤ教式リンチを受け続けていました。

生命の講座 第三講座 VOL6


動物や植物は人間と同様に創造主の被造物でありながら
限りなく創造主の意志を実現している存在だと言えます。


動物は心に従うと言うよりも通常は魂の意識に従って生きているのは
私が説明するまでもありません。


人間には理解できない彼らの不可解な行動は
まさに、彼らがテレパシーを使用して何かを感じたり
意志の疎通をしていると認識できます。


ただ、時には私達人間の良くない想いや波動が
地球社会の動物に影響を与える事もあるようです。


地球社会に凶暴な動物が存在するのは、そこで暮らしている
私達人間の影響であるとアダムスキーは語っていました。


彼らは創造主の意識を受け止めて一方では機能としての
本能にも従って生きる一方で


地球社会を取り巻く良くない想念の影響を
直撃されている存在なのだと言えます。


近年、動物を取り巻く環境の悪化が原因なのか
それとも単に食料が足りていないのか


熊やイノシシ、そしてサルなどが、人間を襲うような現象が
頻繁に起こっています。


それももしかしたら単なる食糧不足ではなくて
彼らも私達人間の低い意識の影響を受けて


闘争本能や食欲をむき出しにするようになった
結果なのかもしれません。


そしてこの社会を取り巻いている
良くない周波数帯の影響があらゆる生命体に対して
悪影響を与え続けている可能性をも感じる事になります。


その意味では限りなく魂の意識だけに従って
生きているのが植物だけです。


彼らは創造主の摂理をそのまま表現しているのだと思います。


光合成のために光を必要としては
明るいところを目指しては根を生やし


適度な気温と湿度という環境の整った場所でこそ
彼らは自らを十分に表現します。


私達人間がそんな環境を整えてやれば
時には自然に生きているとき以上に
多くの花や実を結ぶことにもなりますが


一方では不完全な環境下ではすぐに枯れてしまいます。


彼らは自然に生えている状態では
創造主の意識に従って存在しているからに他なりません。


そんな自然から私達は見えない法則をも
感じる事になります。


私たちは自然からこそ学ぶべきだと言うアダムスキーの言葉も
植物の様に創造主の意志にだけ従って生きている存在の生命力こそ
創造主の意識を感じやすいと言う事を表現したのではないでしょうか。


と言っても、私達の体も実はその90%が創造主の意志に従って
生きていると言う話でもありました。


私達は消化にしても妊娠にしても心臓の動きにしても
自らがその意志で実行しているわけでない事を理解しています。


そしてそれらが正常に機能し続けるためにも残りの10%の意志で
そのような魂の導きを正常に働かせることをも
意識しなければならないのだと思います。


アダムスキーはもしも私達の体内で調和の法則が働いていなければ
私達の肉体は数年と持たないと表現していました。


私達は時には身体に有害なもの
そして身体に良くない影響まで受けながらも
それを克服して生きているのは


全てが残りの90%の肉体を誘導する創造主の法が
身体内部で働いているために他ならないのです。


老廃物を排泄するような誘導も
癌細胞を死滅させるような誘導も
そして常に疲労し老廃する細胞を蘇らせるのも


すべては意識の働きかけだといえます。


目には見えない法則が
私達の肉体に対して働きかけている事とは無関係ではないはずです。


自然同様に自らを知る事こそが大切だと言う事が
私達はこんな側面からも理解する事が出来ます。

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私達の社会の中で実は想念の影響ではないかと想像できる
様々な変化が現れています。


例えば以前は人間に危害を齎さなかったや微生物が
突然人間にとって有毒な成分を持つにいたり
それが私達に悪影響を与えています。


これは人間が免疫機能を低下させた事だけではなくて
元々は害のなかった生命体が
この社会の環境の中で人にとって有害なものへと
変貌したのだと認識する事も出来ます。


其の原因を追究すれば大気汚染、そして土の汚染
更には私達の環境の変化でしょうしそして想念の影響です。


このような影響が現実に私達の周辺を変貌しているのだとしたら
私達の想いがこの社会を変えた事にもなります。


楽に歩きたい、快適に暮らしたいそんな意識が、


更には自分が良ければよい、人間だけがよければ良い、
そんな身勝手な心のエゴがそれを変貌したからです。


動物でも最近
サルや熊、イノシシなどの凶暴化が騒がれていますが


あれだって突発的なものではありえず、
恐らくは自然環境の何らかの変化が一番の原因で


それまで地道な変化だったもの
があるとき突然に一斉に其の変貌を
私達に見せつけるに至ったのだと思います。


それが大気の汚染のためなのか、
土壌の汚染のためなのか、森の伐採のためなのか

気候の変動による食物の不足のためなのか


様々な原因があるでしょうが、
いずれにしても自然環境を変貌させたのは私達人間です。


そんな私達が自然を崩壊した事に関して、
更には良くない想いのエネルギーをばら撒いた事に関して、
しっぺ返しを受けているのだとすれば


私達は其れを真摯に受止めて改善を図らねばなりません。


私達は自然から多くの恩恵を受けているのに
一方では其の自然に対して後ろ足で砂をかけている
そんな側面を持っているのだと思います。


確かに私達の社会の文明は発展しました。


移動するのも楽ですし家での生活も
ありとあらゆる便利で満ち溢れています。


川で食器をあらい其の水や井戸水を飲み山を越えて歩き
ランプで暮らしていた頃とは段違いに文明的です。


家は立派ですし、出歩くにしても
しっかりとした道があります。


しかし一方では私達はどんどんと貴重な宝物を捨ててきました。


魚や沢蟹で溢れる川
木の実に満ちた山
サンゴで満ちた海


今では川は洗剤や排水で満ち、海も油で汚れ
弱い生命体は絶滅の危機にもあります。


只でさえ自然を感じる機会が少ない私達ですが
そんな汚染された環境に魅力を感じなくなった私達は
今ではそこに自然を感じる事も出来ません。


私達の世界は人間は其の姿こそ大昔も今も変わっていませんが
私達人間が悪しき想念で汚れているように

自然界までもが汚染され続けているのです。


自然に学ぶのはこういう場面でも同じだと思います。


自然環境に何らかの変化があると言うことは
私達はそこに何かを気がつき
そしてそこから何かを学ばねばなりません。
(まして其の変化を齎したのが私達なのですから)


心が休まる暇もなく、将来のためそして生きるために
日々働かねば成らない私達ですが


時には心を意識するのを止めて

ボーット自然でも眺めて暮らして欲しい

そしてそこから何かを感じ取って頂きたいと思います。


私達にとっての一番の師は人間ではなくて
自然環境だという事。


私達であればこの事がよく理解できると想います。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


創価学会の集中攻撃で
頭を激怒されまくっています。