生命の科学 VOL18 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


私が記事を書くことも普通に生きることも
身近な加害者達は平気で妨害をしてくるようで


彼らにとって私と言う存在自体が放置出来ないという意識が
そこからもひしひしと伝わってきます。


結局は批判でなくても
宇宙の法則や、生命の科学、原因と結果の法則と言った物の存在が


地球の誤った価値観を自覚するきっかけになりかねないものなので
それを広報させたくはないのだと想像がつきます。


人間が神の意識とは無関係に
独自に作り上げた価値観で人を縛っているような組織ほど
私の存在は煙たいはずです。


今も薬品を撒かれては腸内に異物を作り上げられ
それを介しては電磁波照射を受けています。


脳や胃腸への関与が相変わらずの中心です。


とりわけここ数日間は異物が大きくされがちで
寝ている間には右脳への激しい照射が延々と続けられています。


今は左脳にも何らかの刺激が来ていますので
脳の思考能力のコントロールでもされているのだと思います。


地球の法則に従っているサイトの管理人達は
決してこんな思いをする事もないのだと思います。


彼らは宇宙の法則を隠蔽しては
地球の法則を擁護している立場だからです。


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前回で第二章も終わり今回からは
第三章に入ります。


ここでのタイトルは”宇宙の法則の応用”です


一章二章で得た精神と心に関する知識を
ここで更に深く追求していくことになります。


四章以降は科学的な話が多くなりますので
この章までの知識はしっかりと身につけて
お互い実践する努力をしていきたいです。

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いつもの様にアダムスキーの21世紀生命の科学から引用します。

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第二講では”神の意志”と言う言葉を用い
神は人間の体験の責任者ではないと説明しました。


このことをはっきりさせるために、例として電気を引用します


【電気自体は責任者でない】


電気を作る発電所の作業員は電気を送り出し、
一般人はそれを自分達の福利のために利用します。


従業員は電気の作用やその使い方を知っていますし
一般人達もその利用法を習います。


教えられたとおりに用いるならば
多くの点でその恩恵に浴することも出来ますし、


その法則に従うならば、怪我をしないでも
それでもって実験を行うことさえ出来ます。


例えば電気のソケットは電球を差し込むために作られているのであって
電流がそこへ流れているときに
指を突っ込むために作られているのではありません。


指を突っ込まないにしても濡れた手でそれを掴めば
感電することがあります。


しかしたとえ電気の法則の御用によって
怪我をしたり不愉快な体験を持ったとしても


本人は電力を喜んで供給している発電所の従業員を
非難することは出来ません。


法則に対する無知、または自分の無茶な行為のために
自分だけを非難すべきです。


宇宙の創造主は人間の生命力と、
意識(精神)と言う経路を通じて英知を与えています。


そして個人のエゴ(自我)の心は法則(創造主の法則)に従って
これらを(生命力と英知を)よい方向に応用できますし、


または法則をおかして悪い結果を得ることもできますが、
これは電気の場合と同様です。


万人はこのための自由意志を与えられているのです。


ここで別な好例としてまたもTVの受像機を取り上げることにしましょう。


受像機は本来電気も英知も持ちませんが
人間の脳または心に相当する各種部品があって
それは電気が供給されるまでは働くことができません。


電気が流れ込んでくると知的な表現が始まります。


つまりメッセージを運ぶ電波によって知性が受像機の中に
吸い込まれると言えるでしょう。


そうすると知的な表現が起こり、
メッセージが入ってくるのみならずスクリーン上に人々が
生ける映像として示されます。


私の知るところでは、アメリカには80種類のチャンネルがあって
それによって番組が放送されています。


各チャンネルは他のチャンネルと全て分離していますが
中には周波数が類似しているために他のチャンネルを妨害するものもあります。


そこで各チャンネルをはっきり分離するためにきわめて優秀な
受像機を必要とするわけです。


あらゆるチャンネルは同一の電力と同一の法則を応用しますが
中には数チャンネルしか入らない受像機もあります。


しかしあらゆる受像機が役だつためには
電力と電波の力を借りなければなりません。


また番組を続けて映し出すためには
電波を吸い込んだり吐き出したりしなければなりません。


人間もこれと同様です。
人間には、いわばあらゆる表現能力が内蔵され潜在しているからです。


そして人間は生命の息を役立たせるために、それを吸い込んだり
吐き出したりするひつようがあります。


もしその呼吸をやめるならば
何の動きもない静止した道具となります。


しかも吸い込むだけで吐き出すことをしなければ
生命表現の連続状態は停止するでしょう。


人体を活動させるためには絶えずこの生命の呼吸が
人体を流れなければなりません。


これはテレビ受像機を生かす電波に比較できます。


注意しなければならないのは生命の息も電波も
至る所に存在していてそこに障壁はないけれども
表現するためには道具を必要と言うことです。


人間の心はテレビ受像機の検波管にたとえて良いでしょう。


これは電気が供給されない限り機能を発揮できません。


意識はこの電気と知性のようなもので
生命の呼吸と言う方法によって心を刺激します。


我々が空気と呼んでいるこの息なくしては何物も生きることは出来ません。


一粒の砂さえも生きることは出来ないでしょう。


万物がその息に頼っているからです。


その息が各種の形態を通じて現れるとき
それは完全なメロディーを生み出し充分に生命を表現します。


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新しい講座早々脱線します。


今では製造物責任法などと言う法律が施行され
販売側も、むやみやたらと売れば良い時代では無くなっているようです。


企業を庇う気は毛頭ありませんが
この法律も道徳的意識とはかけ離れている存在だと思います。


ここでアダムスキーが触れているように、
電気を供給されている時にその使用の仕方を誤って怪我をしたような場合、
供給者を攻め立てるのは個人のエゴだと思います。


電気が頼みもしないのに勝手に送られてきて
何かの拍子で感電してしまったと言うのであれば話は別でしょうが、


使用者がその使用方法を誤ったことが
事故や怪我の原因になった場合、
それは理解不足の自分が悪かったのだと判断すべきで


それを製造側に責任転嫁するのは
お門違いだと思います。


以前にお盆を持った状態で
カバンに足を引っ掛けた時に


「ここにカバンを置くから悪いのよ」


と言って一方的に怒るのは自分可愛さゆえの
エゴであると言う話に触れたのですが


ここではそれ以上のエゴの大きさを
感じることになります。


製造物責任法では、
子供の手に届くところに置いてはいけない物を
置いといた場合などに


子供が物を誤って口に入れて事故になったと言った
親の過失とも言える事故の連続が
その法律の制定の背景になっていたと思います。


つまり親の過失をそっくりそのまま
エゴで責任転嫁して法定化したもの、


もしくは使用者の不注意や理解不足が生んだ事故の原因を、
製造者に押しつける行為でもあると思います。


少し以前にコンニャク食品を子供に与えて
事故になったケースがありますが、


あれにしても親がその固さを自ら試して
しっかり理解した上で子供に与えるかどうかを判断すべき話で、
責められた企業が気の毒に思いました。


それは自分が正しいとか、自分可愛さゆえのエゴという心の動きが
強く発現したがための態度であると認識することが出来ます。


自分の責任を認めるのではなくて
責任を他人に求める事で自らを正当化するという行為ですし
最近巷で取り上げられている”モンスター”族にも繋がる話だと思います。


製造物責任法という名の実質は、
製造者への責任転化法と言うことに思えます。


生命の科学での原因と結果の法則を用いれば
反省しなければならないのは、ここでいえば親の方であり
失敗を自らの過失と反省し


それを経験として今後は同じような間違いを繰り返さないよう
そこから学ぶ。。


そんな姿勢こそが求められることになるのだと思います。

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話を本題に戻します。


アダムスキーはTV受像機を例にして
私達の精神と心の働きを説明してくれています。


ここではTVを私達の肉体そのものであると
捉えて頂ければ良いかと思います。


勿論、魂の器であるフォームとしての
私たちの肉体と言う意味です。


つまり、それは脳や内臓や血管等
人間が活動するために必要な全ての機能のそろった状態で存在していて


後はそこに魂を吹き込むことで
人間として機能する事になる物として捉えてください。


神の形態の一つであり、魂の器である私達の肉体は、
精神=神のエネルギーが入り込むことで
人間として機能するように、


TVは内臓機器が一式揃っていれば
電気と言うエネルギーが供給されることで
本体が起動する事になります。


TVというフォームは
電気と言う名の神のエネルギーでもある魂を受け入れること、


そしてエネルギー供給をそこから受け続けることで
活動をし続けることになります。


そしてこの事は私たちの肉体も同様のようです。


ここでTVが受信する電波について二通りの捉え方をして見ます。


アダムスキーの引用分とは又別な捉え方での例えです。


まずTV画面そのものを私達の心だと考えて見ます。


受け止める電波を外界からの刺激だと考えてみてください。


その心は外部の刺激や情報を電波という形で
受けとめる事になるわけです。


そしてその時々で外部から受け止めた物に対して心が反応した状況を
そっくりそのまま心が画面として映し出していると考えて見ます。


私達の心は電波と言う外部の刺激を受けては
それに反応するわけです。


その心の反応がそのまま画像だとします。


TV(肉体)は電気と言う神のエネルギー供給がなければ
勿論動くこともありません。


この時、電気なるものこそが神の意識であり
精神と言うことになります。


外部から電波を受けてそれを映し出している状態は
外部刺激に心が影響を受け続けている状態です。


しかし精神を感じようとすると
その外部からの刺激に心は捉われていはいけないわけで


私達をTVに例えるならば
電気という無限の神のエネルギーの中にこそ
普遍的真理がある事になります。


この時に普遍的真理を感じるためには
心が外部刺激を価値観として動いていない状況ですから


言ってみればTV画面が”砂の嵐”を写している状態が
精神を感じている状態ということでしょうか(苦笑)


少したとえが悪かったのですが


もう一つ、今度はTVを使用して
想念の話に触れてみたいと思います。


同様に電気を神のエネルギーとしての精神と捉え、
更には電波として飛んでくる各放送局の映像を
想念であると仮定してみてください。


そして今度はTV画面は心ではなくて、
脳に浮かび上がるイメージだと考えてみてください。


私達の心は電気という、
精神であり神のエネルギーでもある存在と繋がることで
初めて肉体を機能させるわけですが


その神の意識である私達の魂が感じる感覚こそが
”触覚”であると言うことに以前触れました。


TV回路全体に電流が流れては機能している状態の時に
そこでは外部からの想念としての電波を受ける事になります。


想念はそれぞれ独自の周波数を持っているわけで
私達の精神(電気エネルギーの流れている状態のTV装置)が想念を受け止めて、
イメージ(Tv画面)がそれを画像として映し出す事になります。


TVチャンネルはいくつもありますし
送られてくる電波も複数チャンネル分あるわけですが


その電波は意識の低いものから高いものまでの各種想念であると考え
TVチャンネルの存在はそれを受信する能力だと考えます。


私達の場合この状態の時に問題となるのは
想念を受ける事の出来る能力が足りないと言うことです。


TV機能として、
外部からの電波を受け止める能力が不足しているわけです。


ブラザーズの場合であれば
周波数に関わらず精神がそれを受け止めて
イメージとして再現することが出来るようですが


能力不足の私達の場合は、自分達の心の意識に近い
特定の周波数しか受け止めることは出来ないのです。


つまりはいくつも存在しているチャンネルの中の
一つの画像だけが”写せるかもしれない”
状態にあるのだと考えれば良いのだと思います。


しかも、近い周波数に関しては無自覚で受け止めてそれの影響を
心が受けている事もあるわけですが


それでもその想念をはっきりと自覚することは
難しくなっています。


私達の受信能力では想念を受け止めながらも
画面に一つのチャンネルの映像すら鮮明に映し出す事が難しいのです。


ましてTVのように各周波数ごとの電波を受け止めて
再現する能力を私達は備えてはいないわけです。


つまり似たような波動の想念は受け止めることが可能でも
波動がずれるとそれを容易には受け止める事が出来ないわけです。


そして唯一つの画像すらしっかりと映し出す事の出来ない理由は
周辺に妨害電波ともいえる人工想念が散乱していることや
想念なる物の知識が元々不足している事にも由来します。


つまり妨害電波が多すぎて
しかも自分達の持っている機能を理解していないがために


しっかりと電波を受け止めることが出来ず、
それが想念であると理解する事が出来ないでいる。。


もしくは、私達は受け取っていながらも
無知ゆえにチャンネルの合わせ方を知らないわけです。


神のエネルギーである精神で覆われている肉体
(ここでは電気が流れているTV回路全体)は


本来それだけで想念を受け止めることが出来るはずなのに
妨害するエネルギーの存在や私達の無知ゆえに
それを受け止めにくくなっているのです。


私達は想念を精神で受け止めるためには
まずはその受け止めると言う行為を意識すること、


そのために知識を得ること、


そして究極的にスペースブラザーズの如く
いくつものチャンネルを受け止められるようになるためには


精神を感じる能力をどんどんと高めていくことが
必要なのだと思います。


テレパシーなる能力は一朝一夕では
使いこなせるものではあり得なません。


その事は理解していただけるかと思いますが
このテレパシーなる存在が私達を深い覚醒へと
導くものであることも間違いありません。


原因と結果の法則を実践し続け
精神を強く感じることが出来るようになる事が
そのための確実な方法でもあると思います。


是非実践を続けてほしいです。

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P.S.

アダムスキーは想念の受信能力について
人が高い場所から下を眺めている状態に例えていました。


視線を真っ直ぐにした状態に見えるものが
自分の波動レベルの想念であるとすれば


下を見た時に見えるものは
自分の波動よりも低いレベルの想念という事になります。


見ようとすれば少し首を下げさえすれば
容易に下の景色も見えますし


想念に例えれば自分よりも低い波動の想念は
感じようとすれば感じる事が容易だということです。


感じたくなければ視線をそこに向けなければ良いわけで
アダムスキーは負の想念を受信しないことも可能だと話しています。


そして通常は私達は普段は上方を見上げることはありませんし
ここでは上を向いた時に見える景色に例えることの出来る”高い波動”は
意識して初めてその存在を感じることができる事も稀にある。。


と言うことになるのでしょうか。。


波動の法則という名で
想念の授受に関しては触れられているようですが


同じような水準の想念を発している人間同士は惹かれやすいようですし
お互いを理解しやすいと言う事にも繋がっていくのだと思います。


更に自分と似たような波動ほど私達は受け止めることも容易なようですし
想念の存在は私たちの意識を無自覚のうちに増幅することにも
一役買っているのだと思います。


そしてこの地球のような社会環境の中では
恐れ、不安、恐怖、憎しみ、怒り、嫉妬、欲といった
負の想念が蔓延していていますので


私たちは心を乱すたびに、その波動を下げては
無自覚にその負の想念の影響を強く受けては
生活をしていると言うことにもなります。


低い波動に影響を受け続けることで
私達の意識もそれに染まったものへと変貌することも
あると思います。


一方、そうではない人間は時には低い意識の想念を感じては
そこに大いなる不快感をも感じ取ることにもなるようです。


以前に呪いが強い負の想念であると言う話も取り上げましたが
それを受け止めないですむ方法もあるようです。


つまりはそういう波動に意識を向けない、
それを精神が無視をすれば良いと言う事のようです。


波動(意識)が高くなっている状態の人間には
おそらくは無自覚のままでは呪いは利かないということに
なるのだと思います。


だからこそ術者は意図的に相手に呪いの存在を教え
相手にそれを意識させる事で


その呪いの想念を受け止めやすい状態へと
誘導するのだと想像していました。


受け留める事で何らかの負の影響を
私たちに与えかねない負の想念は
出来るだけ受け止めないようにする一方


自らは高い波動の想念を発するようにすることで
私たちは心身ともに良い影響を受けることも出来る。。


私たちは想念と言う、視覚では認識できないエネルギーを
軽視してはいけないのだと思います。


”心の中で犯罪を意識しただけで
現実にそれを実行したのと同じことである”


と言う趣旨の聖書の言葉が確か存在していたと思いますが


それは想念レベルで考えれば理解できます。


何かを考えた時点でその意識は
想念となって全身から発せられるわけですし、


それが犯罪意識や負の意識であれば
その悪影響は少なからず自分自身、
そしてその想念を無自覚で受け止めた人間に与えることになるからです。


頭に嫌なイメージが勝手に浮かび上がってきたような場合に
それを振り払うと言う行為は
もしかしたら負の想念を無視すると言う意思に繋がる物かもしれません。


ただ、何でも負のイメージを排除すれば良いという意味ではありません。


精神を使用して物事を行動に移す前に
ありとあらゆる状況を想定することが大切だと思いますが、


想念で浮かび上がってくる負のイメージは
想定の状況に負の状況が存在してくるような場合とは
区別されなければいけないのだと思います。


楽観主義が楽観思考を呼ぶような状況は避けなければならないからです。


私は毎日右脳に激しい刺激を受けているためか
想念を殆ど感じることも出来ない状態にされていますが
原因と結果を使用しては精神を感じる事は出来ていると思います。


想念が殆ど感じることが出来なくてもそれを悲観することなく
まずは精神を感じるためにも原因と結果の法則を実践し
精神の存在を深く理解できるようになることで


”通常の場合”は結果的に想念を感受するような能力も
ついてくるはずです。
(私のように妨害されていない場合です)


ただ、私達の学習は超能力を得る事が目的ではありませんし、
まずはしっかりと精神を感じて
確実に地球の法則からの卒業を果たすこと。


そこから始めて欲しいと思います。


そして想念に関しては是非良い想念を送る練習をし続けてみてください。
(私は今は殆ど出来ません)


その時には私にも応援の想念を送ってやってくださいね。