トラウマを残さないために、何ができるのか考えていた。
痛いこととか、良かれ悪しかれショックの大きなことは、強烈な記憶となる。寝付く前とか白昼夢などのフラッシュバックの自動再生で、更に強調されて繰り返し脳に刻まれる。思い出したくない事に限って!もう、仕方がないわ。人間の自己防衛機能とか本能なんだろう。フラッシュバックに関しては、必要なことだと思って、諦める笑。
「気を紛らわす」っていうのが苦手な私。直視して落ちてみて、あぁ、まだそんなものかと安心する。瞑想に似ている。そのまんまを、観るしかない。落っこちた先に何もないのは分かってるので、もう怖くもない。思えば、昔はこれが怖かった。「怖い」っていう衝動だけで、どっかから飛び降りちゃうんじゃないかとか。「未知」の恐怖。でも人間何でも見てみないと分からないものだ。見たら満足して、気が晴れて別のことし出すから。
ネットで検索もしてみた。流産後の心境とか、その乗り越え方とか。医療系のページにはあまり当たり障りのない事しか書かれないし、相談サイトではまぁ、厳しすぎる返信者の多いこと笑。自分のストレスぶつけてる?みたいな。日本社会ぽいと言うか、自分の物差しで他人を測りすぎな感じがビシビシと。命のことも性のこともタブー視してばかりでは、困っている人の具体策にはほど遠い。それぞれ答えは自分の中にしかないのだけど。
流産の後で困っている人の多いのが、「次の妊娠」のことと「セックス」のことだろうか。痛みと喪失感、自分の身体についても相当自信を失ってしまっているので、自然な悩みのように思われた。あ、やっぱり他人の経験談を読むのって大切かも、冷静に客観視できるので笑。そうじゃないと主観で「できない、どうしよう」の思考にぐるぐるはまってしまう。
自信がなくなって当然だと思ってしまった。流産のプロセスって、現実の移り変わりのギャップが激しすぎるんだもん。1億円当選したと思って受け取りに行ったら、借金だったくらい。身に覚えがない借金なんだけど、ギャンブルに負けたようなもので、責任がある。コツコツ返済して行くしかない。精神的に余裕があったり、経験値の豊かな人の方が返済がスムースかもしれない。何事もそう。若い人はトラウマになるだろうなぁ。「一生背負って行く」って言う人もいる。私も昔のトラウマは、そうやって自分で背負ったようなトコがあった。その時は、必要な学びだったのかもしれない。
背負うには背負うのだけど、もう自分を罰したりはしない。未熟な時期はもっと精進するという意味で、ネガティブ感情が役に立つこともある。それだけ向上心があるってことだ。厳密には過去は書き換えられない。それでも個人の記憶の中で美化されるのは日常のことだ。ある事実を自分の中でどう位置づけて行くかは、意識の力で大きく変容して行けるフロンティアだと思っていいと思う。
社会常識だとか、固定概念とか、条件反射みたいなもの。国を飛び出して、世界を見てまわり、異国に定住してみると、事実それらはあまり役に立たなくなる。ある地域だけの特殊な常識にのっとって、良かれと思って人を批判することなども、コメディに見えてくる。そんな風になってしまったので、はて、「流産」=悲しい、辛い、喪失、借金、タブー、トラウマ、弱さ、不徳etcという、今までの自分の固定概念にも、???と。
今までのネガティブ偏見に自分でビックリ。ネガティブさだけでなく、悲壮感、どこかロマンチックでもあるよ?私という人間は、パブロフの犬の様に1つの事柄にただ条件反射を繰り返して来ただけでなく、しかもそれに陶酔していた。ってことだ。
私が今探している問いへの答えは、既存の社会通念の中には見つかりそうもない。問い続けること自体に意味があるのかもしれないし、自分の殻を破って、生まれ変わって行くために必要なことだと感じる。もともと人間は細胞レベルでだって、常に生まれ変わっていると言う。流産に限らず、苦い経験を潜在意識に定着させ続けることは避けたいし、だからと言って紛らわせたりうやむやにしたくない。
ちゃんとしよう。以前のように、できるようになろう。立ち直ろう。自信を持とう。。。そんな風に思えば思うほど、そうはならない。だってもう過去の私とは違うのだから。「ちゃんと」の意味づけにもよるけど、どうも無理が出てしまう。だったら、全く違うやり方を模索してみよう。そう思うと、大分気が楽になる。
確かに次の妊娠のことは気になるし、今は全く受け付けなくなってしまった夫との仲良しのことも心配になる。命のことと性のこと。タブーなだけあって、世の中ではああするべき、こうするべきの不毛なやりとりが絶えない。何するべきなんてなくても、そのままで手一杯だよと思ってしまう。本人が一番心配なんだけど、心配したところでどうなるものでもない。自然のままでいいんだろう。そうじゃない時が来たら、きっと何とかなるんだし。
無理に立ち直ろうとしないで、良しとすることにする。笑
心の闇を受け入れて、温かく抱きしめてみようと思う。人から受け取って本当に心に染みるのも、そんな優しさだったりするものだ。今はそんな機会が与えられたと思って、満喫したらいい。あとは、出来ることを出来る限り一歩ずつ。認知行動療法と同じ。安心し切って満足したら、子供だって一歩踏み出して行くように。
インドのニュースも度肝を抜かれるものばかりだけど、漏れ聞く日本のニュースにはハートが潰れそうになる。家族をみんな殺めてしまった引きこもり青年のこと。色々な要因があっての結果なのだけど、やっぱり辛すぎる。どこかで優しさ、温かさがすれ違い、はき違えてしまったのだろう。人間みんな弱さはある。でも自分の正義を押し付け合っても、同じ幸せは二度と味わえない。弱くたっていいのに。色んな意味でそう思ってしまう。
自分の弱さ、脆さ、闇を知ればこそ、怖れるものはなくなるような気がする。不安も心配も、その時になってみないと結局は分からない。何かが起こってトラウマが残ったところで、数十年間必要な教訓だったってこともある。建設的じゃなくてもポジティブじゃなくても、闇を知れば無限な見方ができるかもしれない。個人的には無理はもう、やめとこうと思った。
「命の誕生と再々手術」からの続きです。
3月27日(火)
誰かに身体を起こされて、目を覚ますとまだオペ台の上。私の腕を掴んでいるのは見慣れない若い看護師さん。ドクターも来て、病室に移る様にと言った。時計は0時を廻っていた。
病室は、廊下の向かい側の目と鼻の先なのに、何故か車椅子に乗せられた。着いて立ち上がると、すかさず夫が支えてくれた。今回は昼間のベッドからは向かい側のベッドで、やはりもう一人の患者さんとシェアすることに。病室にベッドは8台あって、全員がシェアして使っていた。
ひと通り、夫とこれまでの経過を話し合った。私がオペ室にいた間、夫はまた薬剤の買い出しで何度も一階の薬局を往復したらしい。夫がサブウェイの袋を差し出したけれど、食欲が湧かずに眺めていた。深夜を廻り夫の帰路が心配だった。バイクは置いてタクシーで帰るよう、しきりに夫に言っていた。
すると同じベッドの患者さんの付添いの女性が、優しい笑顔でダルとチャパティーを勧めてくれた。夫は断ったけど、私は無性に食べたくなって、下さいと言った。手作りの温かい食事。無言で夢中で頬張った。とっても優しい味だった。
帰り際に夫が、周りの皆さんに私のことをお願いしてくれて、そのまま私は眠りに着いた。もう一人の患者さんは大柄だったけど、明るい笑顔で快く半分場所を開けてくれ、何の問題もなく仲良く互い違いに眠った。そのまま朝まで熟睡だった。
インドの病院の朝は早い。何しろお祖母ちゃんたちも看病に来ているので、早朝5時にはサワサワと人の動く気配が。何とか眠ろうとねばってみたが、ギブアップ。5時半に起きてみると、ほぼ全員が起床していて、患者さんのお世話を始めるところ。目が合うとニコニコと朝の挨拶をしてくれて、とっても気持ちの良い朝。
点滴は一旦外れていたので、起き上がってトイレへ。水分が足りないせいかあまり出ず、まだ少し熱っぽく脱水ぽかった。部屋に帰ると、同じベッドの患者さんのお義姉さんが私にピッタリ付き添ってくれ、点滴針の残る手では難しいバナナの皮をむいて手渡してくれる。多分パンジャービ語で「心配しないで何でも言ってね」と言い聞かせてくれていた。
同じベッドの大柄な患者さんもトイレから戻って来て一緒に座った。義理のご姉妹だとかで、見かけは全然似ていない二人だけど、二人共、穏やかで優しい雰囲気。ウチの大家さんみたいに、少し押し付け気味?の優しさじゃなくて、自然で控え目な優しさ。
夫が来るまで、勧められるままにチャイとビスケットをいただき、片言のコトバで談笑した。小柄で天使の様な優しい笑顔のお姉さんは、しきりに私に話しかけてくる。
「私たちと一緒に村に来なさい。マッキーロティ(とうもろこしのチャパティ)とサーグカレーをご馳走するわ。旦那さんにことわって、一緒に来なさいな。」
半分本気で言ってくれているらしかった。気の良い妹さんも、ニコニコ笑って見ている。二人を見ていると、映画で見たような古き良きパンジャーブの村の、平和でのどかな様子が思い描かれて、何だか本当に行きたくなってしまった。。
きっとそう言って下さるのが、彼らのホスピタリティーなんだろう。
それから少し横になった。7時頃に看護師が来て、点滴を付けてくれる。8時頃、友達の家に泊まっている夫を電話で起こす。9時頃には着替えや洗面道具など、一式持って来てくれた。普段から特に何も言ってないのに、必要な物がよく分かっていて、探して全部揃えてくれていた。いつの間に見ていてくれたんだろ。。フレッシュジュースの差し入れも。
夫が状況を聞きに詰め所に行った。その間、私はお喋りが楽しくなっていた。みんな近隣のベッドの人とも屈託なく話している。お祖母ちゃんたちは恒例?井戸端会議。隣のベッドに英語の話せる女子がいて、看護師の指示を完璧に通訳してくれた。昨日はまだ辛そうだったけど、今日は大丈夫そう。
ふと見ると、昨夜の超難産?から無事出産した若いお母さんも、2つ隣のベッドにいた。断末魔の雄叫びを上げていた同じ女性とは思えない程、穏やかで慈愛に満ちた眼差しで小さな我が子を見つめている。この子、生まれた直後から「キャッキャキャ〜」と可愛い笑い声?のような声を出すので、一緒だったオペ室でも癒やされること何の。「ムンニ(女の子)?」と聞くと、すかさずお祖母ちゃん「ムンナ(男の子)よ!」と、誇らしげなこと。(やっぱり男児が好まれるのか。)
そういえば、日本の様に流産とか中絶の患者と、産後の患者&ベビーを分けることもここではしていない。こうして一緒にいると、それがごく自然なのだと肌で感じた。女性が人生で味わう喜びも悲しみも、これからの苦労も、ここでは共有されて繋がっている。集団主義社会なのだろう。エゴは目立たないけど、安定した自尊心もあるように見受けられる。人との繋がりと信頼があればこそだ。
同じベッドの大柄のマンジートは、この朝の退院が決まったらしい。まだ本調子ではなくとも、笑顔が晴れ晴れとしている。そのお義姉さんのチャランジートは、帰る支度をしながらも私に「私はまだいるからね。」と朝食のパンとホットミルクを持って来てくれた。
食べながら、窓際の英語の堪能なニーシャとお喋り。彼女は博士課程で癌の薬の研究をしていると言う。退院の許可が降りたのでホッとした様子だ。旦那さんの到着を待つ間、スマホのアプリで自撮り写真を撮ってくれる。緊張も解け、と今どきのインド女子の素顔だった。長く辛い夜を越えて、一人ずつ、本来の笑顔を取り戻した朝だった。
夫がようやく戻って来て「診察後に退院だって!」と言った。ああ、夜が明けたんだと思った。一昨晩、昨晩と、辛く悲しく痛く惨めで、怖ろしさに心が砕けそうだった時、こんなにも皆が笑顔になる明るい朝が来るとは思ってもみなかった。人目もはばからず喜んでいた。アンティもディーディーも、皆が良かったねと笑っていた。
昨日1人ぼっちで寝ていた時に「あなたはbeautifulね!」と親切に話しかけてくれたラマンディープは、別れ際「次に会うときは、お互い5人の子持ちよ!」と言って、満面の笑顔でぎゅーっと抱きしめてくれた。彼女の白髪のマミジも一緒に笑。約束ね!と返したけど、5人ってーーっ?笑
最初は入って行くのも躊躇した病室を、名残惜しい気持ちで後にした。振り返って手を振ると、昨日明け渡した向かえのベッドの家族も、その隣の家族も、最初のベッドの家族も、新しく入ったネパール系の家族も、みーんながこっちを見てニコニコ笑って見送ってくれていた。(;_;)
すべてが、奇跡だった。そう感じた。インドに来て2年目で、初めてこんなに沢山の笑顔を見たのが、救急病棟の病室だったなんて全く不思議な感覚だった。ということは、病気だって痛みだって、奇跡に違いないのだ。ただただ、涙が溢れた。確信があふれていた。怖れることは何もないのだ。全ては、恵みなのだ。
この朝、私に注がれた無限の恵みと優しさ、はにかむような女性たちの笑顔を、私は一生忘れない。
で、ヒンディー語、もっと話そう!笑
忘れずに頑張ります。ありがとう💖
インド人の半数以上が、月収3万円以下で暮らしていると聞いたことがある。私が2016年にインドに来た当時、大手プロバイダーの出現で、高速インターネットが急速に普及し始めた。月収3万円でも何とか手の届く低価格で、それまで考えられなかった農村でも電波が入る。インドの消費生活がまた一段階、変わろうとしているのを感じる。
「庶民」にはまだ、収入の変化は感じられないだろう。どこまでを庶民と呼ぶかは曖昧だけど、先ほどの平均的な月収でサバイバルしている大多数の層。貧困人口も莫大なので、「平均的」な人なんて多くないのかもしれないけど。
先進国で言うところの「ワーキングプアー」とも重なる。年収が少なければ税金を支払う義務もなく、インドの狭い社会福祉の対象にもならない層。地方出身者で、都市部に出てサービス業に雇われている人たち等。大卒でも、ずっとお給料が上がらない人もいるという。
市場の店員さんたちは、暇な時は暇だ。日本の店員さんたちも暇はあるけど、ここぞとばかりにお掃除したり、営業したり、何かしら戦略を練って次への一手を打っていて、かえって気忙しい。私もバイト時代はそんなだった。インドでは商売が暇な時、店員さんはチャイ飲んで、談笑してる。オーナーでもなければ、日本ほど先の事を気に病む人もいないと思う(大都市とか繁盛店は別かな)。
うちの夫が、その口だ。商品も仕入れられないパソコン店、お客さんが来ても帰ってしまう(笑)。名刺交換とかネットワーク作りは盛んにしてて、町中に「知り合い」が増えて行く。何かの時に都合してもらおうという、助け合いの精神がすごい。店内の掃除は「お掃除の人」がいるから、しない。お茶も「チャイの人」がいるから、勝手に出てくる。暇な時は新型のデモ用ノートブックで、ゲームしてるか映画見てるか、クリケット見てるか。
そんな「自堕落な」と、日本人としては?思っていた。「バチ」が当たるんじゃないかと。でも市場に買い物に行っても、お茶に行っても、よく見るとこの町、「バチが当たってる人」だらけ笑。そして、何か皆仲が良く、楽しそうでもある。店の前で並んで人間観察してる店員さんたちもいる(めっちゃ入りづらい)。月曜だろうが週末だろうが、公園の木陰には昼寝をする大人は必ずいるし。
彼らが自堕落で罰当たりなんだとしたら、インドの半数が堕落してるってことになる。必然的に、自分のロジックの可笑しさに気付く。ふと日本のスタンダードで育ち生きてきた、このガチガチの価値観を思った。そんなに頑張らなくても、地球上の半数は笑って生きてる。貧困とか紛争とか病とかの困難が必ずあるから、わざわざ心配もしないのだろうか。
日本では時間単位で生きていた気がする。バイトから正社員になっても、残業とかシフト管理とか。非正規雇用、臨時職員、非常勤、派遣、色んな名前の切り売りがある。身を削る中でも競争もある。インド人みたいに小銭を貸し借りしたり、お互いに助け合うのなんて、日本では「だらしなくて管理能力のない人」とか言われるのがオチだった。「依存」は悪だと。何でも「自立」「自己責任」「お一人さま」って、一人よがりの方向への流れが強い。
今回私が急に入院することになった時、痛いとか辛いとかもあったけど、心の負担の半分は、夫が会社を休んでずっと付き添ってくれることだった。夫はそんなこと大丈夫だし、それより私の健康が大事だと言ってくれたけど、それは正論でしょ?とまだ思っていた。私の取り越し苦労をよそに、会社の方々は2日間のお休みを快くくれ、その後の1週間も、夫を毎日昼食を届けに家に帰らせてくれた。
自分の「ネガティブ思考」の正体に、大きく気付かされてつつもあった。~ねばならない、~しないと~になる、~したら~ダメだ。そういう「条件付け」が、私の中に多すぎた。お弁当箱に納まるような日本の生活でそれらは有効でも、インドでは小っさすぎるのだ。もっと大きく構えて、、、いや、自分史上最大限に自分を解放して行かないと、やって行けなくなると思った。国立病院の手術台で、何かがロック解除した。笑
単純に「インドの人は暇で気楽よね」という話ではない。こうも病院にお世話になることが多いと、ようやく気が付いたか?と何度も言われてるようだ。病棟でもそうだったけど、インドの村の人たちはとにかく助け合う。そうしないと生きていけないのだろうと思う一方、私が今まであまり感じたことのない心の触れ合いを通じて、何かが呼び覚まされていた。
人間ってこんなに弱くてもいいんだ、と。こんなに無力でも、助けてもらえること。外国人でも、お金がなくても。何もできなくても愛されること。生きていてもいいんだ、と。夫の寛大さ。言葉も文化も人種も服装も違うけど、私を気にかけてくれた病棟の女性たちの、愛と慈悲と心の広さ。
~なければならない、~しなければ~になる、っていう条件付けの中に生きていたら、そういう慈愛はとっさには出ないだろう。私がインド庶民の夫との生活で、手も足も出ない気がしているのは、そんな所に答えがあったのかもしれない。価値観の違いからの衝突で、近所付き合いもままならなくなり、外出も好んではしない。
そんな私は、病院で出会ったインド女性たちのような、無条件の愛や親切とはほど遠い。巡り巡って支えあう輪の中から、切り離されている。仕事を紹介されても(ビザがない・微々たる報酬で)断わらざるを得なかったし、結婚式やお呼ばれをしても、気疲れしたり、考えるだけで調子が悪くて行けなかったり。海外居住者の社会不適応って、まさにこのこと。
でも私にも、少しずつ見えて来ているんだと思う。美化しているのかもしれないし、物事には両極がつきものだけど、それでも、温かい人たちがいること。生まれ育った親兄弟よりも、自然に愛をくれること。日本では知らなかった「暇」が持て余せること笑。タライで洗濯したり、繕い物をする愛のこと。私がどんなに具合が悪くても、グレてても、顔洗ってなくても、変わらず愛してくれる人がいること。心配してもしなくても、その時になってみないと分かんないっていうこと。
北インドに暮らして2年目。何もできなかったけど、心にいっぱいの宝物をもらった。だからガラクタで溢れ返ってた自分を整理して、沢山の鍵を外して行こうと思う。もっと大きく、空っぽになろうと思う。一時帰国&ヴィパッサナー瞑想まで、あと一ヵ月半。
"人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに、成長しなくてはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで最善をつくすべきだ。"