北インド☆ゆるヨガライフ -24ページ目

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

今日からは1日2回、朝晩メニューを変えてヨガすることに。少しずつ、体力回復中です。
 
 
実はこの1年ほどで、更に身体の強ばりを感じる様になっていた。38、9の頃から、あれー?何か違う?と思い始めていたのだけれど。幼稚園の仕事で子供たちと走り回ってる時は忘れてたけど、休日には倦怠感と足腰や関節の強ばりが来た。それで定期的に整体に通ったり。
 
でも毎日ヨガをするようになり、別人の様に改善したこともあった。でもインドで3度の流産をして、さすがに最近は身体に負担が来てるかなーと。特に朝の寝起きは身体の柔軟性がなく、バリバリです。パソコンで仕事してたらそのまま腰が固まってたり。産後でも関節痛やリウマチになるって言うから、3度の流産も要注意だろうなぁ。
 
インドの家庭でも産後に食べていいもの、悪いものがあって、やはり身体を冷やすものはNG。ナッツとかミルクを多めに摂る様にとお義母さんが教えてくれた。4月でも最高38度になるけど、まだ多少冷えを感じる。もっと動かないと、この酷暑では持たないかなー。基本家にいるので運動量は朝晩のヨガでも全然足りてないかも。。
 
 
朝はストレッチと床でのアーサナを中心にじっくりと身体をほぐしてみる。ショルダースタンドも入れて目を覚ましつつ。今のところ、夫は参加ナシ。でもその間に大好きなじゃがいものパランタの朝食を作ってくれる。本当に久々の、理想的な朝かもしれない。
 
 
なかなか毎日は続かない自宅ヨガ、あって助かるのは私の場合、「姿見」だった。インドでもようやく探して買ってみて、使ってみると「集中力」が倍増。まだ自動的に身体が動く程ではないので、部屋で一人、視点も定まらないとつい違う事考えたり、その延長で休憩しちゃったり。鏡があると、もちろん姿勢も確認できるし、エネルギーの方向を定めてくれて、滞りが開放される感じがある。必須ではないけど、私には効果テキメン。
 
 
関節痛や首や肩のコリとか、もちろん年齢とか妊娠とか。そういう外的要因も然りなのだけど、並行して「ものの見方・考え方」にも要因があると思う。今朝気付いたのは、私はヨガでも普段でも、無意識に「〜するべき」思考を持ってること。しかもちょっと余計になってて、動きの邪魔になってるのが分かる。
 
 
「教わった通りに、バランス良く、均等に、負荷がかかるように、呼吸は深く、関節を保護して、上へと伸ばして…」等々、初心者は心掛けることも色々とあるのは事実。でもそうやって「頭」で考え過ぎると面白くなくなって「怖く」なったり「負担」になったり。つまんないし、続かない笑。過剰な「〜すべき」で、「真面目に」やってるつもりで自滅していく。。。
 
それよりフォーカスしたいのは感覚的な「気持ち良さ」だなぁと、素直に感じた。「ココ伸び伸びして気持ちいいー」とか、「お腹ってこんなに空気入るんだーー」とか、「頭がスッキリして冴えて来るー」とか、「上に引っ張られてシャキッとするわ〜」とか。とにかく、追求したいのは「快樂」の方(笑)。
 
 
ヨガのイメージって「修行」的なものだったけど、少なくとも入り口はそうじゃないかも。むしろ快樂、気持ち良さ、自己肯定!「〜しなければ」的アプローチで居ればいる程、自爆して行った自分を見て思う(ヨガに出会って20年。笑)「自分を認める」こと「身体感覚を楽しむ」こと、みんな許しちゃおう!と、よーーやく、思いました。せっかくこの身体を持って生まれたのだから、まだ感じたことのない感覚も感じてみたい、そして、あるがまま伸び伸びと生きて行きたーーい。笑
 
 
身体は時に、痛い怪我や病気にもなるし。その時に自分の心身の、無限の可能性を信じていられるだけで、大抵のことには向き合えると思いたい。年齢とか病気で、やりたい事を諦めるなんて、私には出来そうもないし、そんな潔くはない。でも後悔なんて格好悪いし笑。
 
「伸び伸びと」「思い切り」「自然体で」いても、いいんだよって自分に許して行こう。それがヨガなんだ、私にとって。
 
 
今朝感じたのは、この1年の体調不良のおかげだなぁって。流産して、省みることもいっぱいあったけど、感謝することもいっぱい。何もかも受け止めてくれた夫がいてくれて、ようやく私も安心して自分を許せる気がした。肉親にも感じたことのない、深い安堵の気持ち。
 
 
信じてくれて、待っていてくれる人がいるから、自分を変えられる力も湧いてくるのかもしれない。そういう感覚のない半生だったので、いい歳してワクワク。
 
私には出来ない、叶わないと思ってきた夢も、ひとつひとつ叶える力をもらってるのかも。ヨガと、色々あったインドと、いつもニコニコの夫に。だからゆる〜くでも、ずっと続けていたいのです。
 
 
暗い夜ほど、星がキレイに見えるもの流れ星
Amarana さんのチャネリングメッセージかな?がめっちゃ響いた。。。以下抜粋とリブログ〜。
 
「どれほど孤独を感じるかは
 
あなたがあなた以外の人との関係性において
 
あなたが求めていることを返して欲しいからで
 
 
それを手放してください。
 
あなたは与えているようで奪ってしまっているのかも知れないことによく目覚めていなければなりません。
 
 
教えているようでコントロールしていることを知っていなければなりません。
 
これは誰にでも例外なく言えることなのです。
 
だから目覚めて自分を誰よりも観察していなさいと言うのです。」
 
 

 
 
朝から夫の親戚に会いに行ってきたら、何かもう、ヒドかった(笑)もうねー何て言えばいいのか、共依存精神虐待一族。いいトコもあるんだけど、色んな妄想が砕け散ったかも。
 
お義母さんやっぱり、北インドで今も存在するという、黒魔術持ってるわ。ネガティブ・エナジー満載。そして親戚一同、お母さんのブラック・マジックに頭やられてる?
 
「アシーシュは全然村に帰って来ない。いつも彼女(私)のことばかり。私は見捨てられるのね。実家の畑は誰が見るの。オヨヨヨ〜」(意訳)って、また始まった笑。私が妊娠と流産で体調悪かったの知ってるのは彼女だけ…それなのに。1月にも夫は帰郷してお義母さんと一緒に、弟のバイク事故の謝罪や示談交渉もしてる。。。忘れちゃった?(笑)
 
お義母さんのウソ泣きに触発されて、オラオラ系の親戚の年長者が、直接関係ないのにブイブイ威張ってお説教。でもお義母さんの言ってることに便乗して、個人的な鬱憤晴らししてるだけ。夫が目に涙を滲ませてても非建設的な罵倒を止めないし。ジャイアン?
 
本当に何とかしたいんだったら、無理な要求掲げて精神虐待してる時間、勿体ないよ。早くみんなで協力して畑仕事なり家の補修なり、問題意識のある人が先頭切ってやって見せてほしいわ。自分たちのやり方にこだわるなら、年長者から学ぶしかないし。
 
お義姉さんたち、インド人の女性らしく、ただ座って見てるだけ。実の弟がオラオラ夫にやり込められて、言うことないの?一家の長男虐待してどーすんのこの一家?それって自滅の道だし。家族を大事にしない家が続くワケなくないか?
 
私はオラオラ義兄には大概黙ってはいられない。あることないこと言われると、日本人でも怒りますヨ。今は嫁とか関係ないわ。何人とかも関係ない。ダメなもんはダメ笑。
 
「彼を信じて応援して下さい。彼は毎日真面目に働いて、いつかお義母さんのお世話ができるように頑張ってます。毎日電話もして気にかけてるし、お義母さんが大好きです。ここ数ヶ月は経済的にも厳しかったのですが、これからまた努力して行きます。」とは伝えたけど、オラオラ義兄さんほとんど聞いてないで、
 
「誰だって生活は大変なんだよ。」だって。
 
。。。そうかもね。
 
だとしたら、思い遣って助け合いましょうヨ。困ってるなら言って。こっちも言うわこれから。
 
お互いがお互いの正義を振り回してぶつかってるだけーの平行線。暑いのに寒ーい風が吹く。この白々しい空気に夫が耐えられず、会社に行く時間もあるし退席。私も立つと、お義母さんに腕とスカーフ引っ張られて戻される。
 
「マミジすみません。アシーシュと頑張ってお手伝いしますから。心配しないで下さいね。」
 
それだけ言ってアパートを後にした。途中に到着した実の弟は、事故の時の恩義も感じてるのだろう、しきりに夫を弁護してお義母さんをなだめてくれていた。結局まともなのって、実の息子たちじゃん。おムコさんたち、ホント口と図体だけ。
 
 
 
帰り道、公園の駐車場でちょっと一休み。一生懸命言い返してた夫だけど、まだちょっと悲しそう。一家で一番繊細で優しくて自由な魂の持ち主だからきっと、ブラック・シープになっちゃってる。実の母にやり込められて、傷付いて、怖れでいっぱい。
 
親の支配か。尾崎じゃないけど、「卒業」しなきゃなんない時が来る(古い?)。それはお互いに。一緒にいても分かり合えないのなら、もう寄りかかってばかりじゃダメだってサインだ。寂しくても、その先の皆の幸せのために、強くなんなきゃね。強くなって、もっと良い方法を見つけなきゃ。傷付いて傷付いて、きっとそれしかないって道が見つかるはずなんだ。
 
私も親とはある意味決別した。甘えを断たないと依存も断てなかった。お互いを尊重した上での関係じゃないと苦し過ぎると思う。
 
夫には夫のペースがあると思う。だけど私と結婚したことで、既存の枠から外れてしまったのは確かだ。だから余計に苦しいかもしれない。私と居ればいるほど、家族から疎外感を感じるのだとしたら、それは私の本意ではない。
 
インドでは、日本人みたいな「自立」の概念がないかもしれないと思う。日本のそれも、共依存社会が時代の波で大きく変化して、個が立つ時代になってきた流れ。家族中心の社会構造が変化してるから。インドとはまた別の流れだろう。
 
間を取ってみんな幸せに、と行きたいところだけれど、もう既に難しいのかな。まあ私もあの場でお義兄さんに言い返してる様じゃ平和もなにもない。ヒマチャル人のおしとやかなの見習わなきゃ。黒魔術は結構ですケド。
 
コントロールを手放す、か。
 
(手放した先に、Wifiとかあるんだろうか?笑)
 
Open your window 虹キラキラ
一時はどうなる事かと不安でしたが
外出もできる位になったので
昨日からヨガを再開。
 
でもそこは「ゆるヨガ」らしく
ストレッチと太陽礼拝3ラウンドから。
 
(それでも昨日は疲れが出たのか
夕方お昼寝してリラーックス)
 
インドに来る2年前の宣言を再宣誓して
毎日コツコツ続けて行きます。
 
 
 
 
家事の日課も決めました。
 
今までは洗濯屋さんに出していた
夫のシャツやジーンズを手洗い。
慣れてきたし、洗濯代も浮かせたい。
 
あと基本3食手作りすることに。
ようやく冷蔵庫無し生活でも
ここまで来れました。
(夫が朝晩手伝ってくれるので)
 
もう1つは毎日外出すること。。
ですが治安もあるしできる範囲で。
 
ヒンディー語もやりたいな。
覚えたら書くようにして行こうかな。
友だちにメッセージするとか。
 
 
1年目は夫との時間が優先でしたが
今年はそれぞれの活動に力を入れて
基盤を強化して行きたいです。
 
ヨガも強さとバランス
両方ないとグラグラですね。
今日の私もプルプルしてます。
 
先は長い。。。笑
 
 
そういえば
ヴィパッサナー瞑想コースでは
「ヨガや他の瞑想法」は一切禁止。
一切を指導に従うつもりですが
そんなメールをいただきました。
 
物事をあるがままに見ることで
問いの答えが見えるのか、
問う必要性がなくなるのでしょうか。
 
どうして
何故
 
そんな気持ちがなくなるなら
どちらでもいいナ。
 
楽しみにして、
ゆるくコツコツ頑張ろう。
 
 
バケツでお洗濯も、暑い日には気持ち良いですウインクあせる
 

トラウマを残さないために、何ができるのか考えていた。

 

痛いこととか、良かれ悪しかれショックの大きなことは、強烈な記憶となる。寝付く前とか白昼夢などのフラッシュバックの自動再生で、更に強調されて繰り返し脳に刻まれる。思い出したくない事に限って!もう、仕方がないわ。人間の自己防衛機能とか本能なんだろう。フラッシュバックに関しては、必要なことだと思って、諦める笑。

 

「気を紛らわす」っていうのが苦手な私。直視して落ちてみて、あぁ、まだそんなものかと安心する。瞑想に似ている。そのまんまを、観るしかない。落っこちた先に何もないのは分かってるので、もう怖くもない。思えば、昔はこれが怖かった。「怖い」っていう衝動だけで、どっかから飛び降りちゃうんじゃないかとか。「未知」の恐怖。でも人間何でも見てみないと分からないものだ。見たら満足して、気が晴れて別のことし出すから。

 

ネットで検索もしてみた。流産後の心境とか、その乗り越え方とか。医療系のページにはあまり当たり障りのない事しか書かれないし、相談サイトではまぁ、厳しすぎる返信者の多いこと笑。自分のストレスぶつけてる?みたいな。日本社会ぽいと言うか、自分の物差しで他人を測りすぎな感じがビシビシと。命のことも性のこともタブー視してばかりでは、困っている人の具体策にはほど遠い。それぞれ答えは自分の中にしかないのだけど。

 

流産の後で困っている人の多いのが、「次の妊娠」のことと「セックス」のことだろうか。痛みと喪失感、自分の身体についても相当自信を失ってしまっているので、自然な悩みのように思われた。あ、やっぱり他人の経験談を読むのって大切かも、冷静に客観視できるので笑。そうじゃないと主観で「できない、どうしよう」の思考にぐるぐるはまってしまう。

 

自信がなくなって当然だと思ってしまった。流産のプロセスって、現実の移り変わりのギャップが激しすぎるんだもん。1億円当選したと思って受け取りに行ったら、借金だったくらい。身に覚えがない借金なんだけど、ギャンブルに負けたようなもので、責任がある。コツコツ返済して行くしかない。精神的に余裕があったり、経験値の豊かな人の方が返済がスムースかもしれない。何事もそう。若い人はトラウマになるだろうなぁ。「一生背負って行く」って言う人もいる。私も昔のトラウマは、そうやって自分で背負ったようなトコがあった。その時は、必要な学びだったのかもしれない。

 

背負うには背負うのだけど、もう自分を罰したりはしない。未熟な時期はもっと精進するという意味で、ネガティブ感情が役に立つこともある。それだけ向上心があるってことだ。厳密には過去は書き換えられない。それでも個人の記憶の中で美化されるのは日常のことだ。ある事実を自分の中でどう位置づけて行くかは、意識の力で大きく変容して行けるフロンティアだと思っていいと思う。

 

社会常識だとか、固定概念とか、条件反射みたいなもの。国を飛び出して、世界を見てまわり、異国に定住してみると、事実それらはあまり役に立たなくなる。ある地域だけの特殊な常識にのっとって、良かれと思って人を批判することなども、コメディに見えてくる。そんな風になってしまったので、はて、「流産」=悲しい、辛い、喪失、借金、タブー、トラウマ、弱さ、不徳etcという、今までの自分の固定概念にも、???と。

 

今までのネガティブ偏見に自分でビックリ。ネガティブさだけでなく、悲壮感、どこかロマンチックでもあるよ?私という人間は、パブロフの犬の様に1つの事柄にただ条件反射を繰り返して来ただけでなく、しかもそれに陶酔していた。ってことだ。

 

私が今探している問いへの答えは、既存の社会通念の中には見つかりそうもない。問い続けること自体に意味があるのかもしれないし、自分の殻を破って、生まれ変わって行くために必要なことだと感じる。もともと人間は細胞レベルでだって、常に生まれ変わっていると言う。流産に限らず、苦い経験を潜在意識に定着させ続けることは避けたいし、だからと言って紛らわせたりうやむやにしたくない。

 

ちゃんとしよう。以前のように、できるようになろう。立ち直ろう。自信を持とう。。。そんな風に思えば思うほど、そうはならない。だってもう過去の私とは違うのだから。「ちゃんと」の意味づけにもよるけど、どうも無理が出てしまう。だったら、全く違うやり方を模索してみよう。そう思うと、大分気が楽になる。

 

確かに次の妊娠のことは気になるし、今は全く受け付けなくなってしまった夫との仲良しのことも心配になる。命のことと性のこと。タブーなだけあって、世の中ではああするべき、こうするべきの不毛なやりとりが絶えない。何するべきなんてなくても、そのままで手一杯だよと思ってしまう。本人が一番心配なんだけど、心配したところでどうなるものでもない。自然のままでいいんだろう。そうじゃない時が来たら、きっと何とかなるんだし。

 

無理に立ち直ろうとしないで、良しとすることにする。笑

 

 

心の闇を受け入れて、温かく抱きしめてみようと思う。人から受け取って本当に心に染みるのも、そんな優しさだったりするものだ。今はそんな機会が与えられたと思って、満喫したらいい。あとは、出来ることを出来る限り一歩ずつ。認知行動療法と同じ。安心し切って満足したら、子供だって一歩踏み出して行くように。

 

 

インドのニュースも度肝を抜かれるものばかりだけど、漏れ聞く日本のニュースにはハートが潰れそうになる。家族をみんな殺めてしまった引きこもり青年のこと。色々な要因があっての結果なのだけど、やっぱり辛すぎる。どこかで優しさ、温かさがすれ違い、はき違えてしまったのだろう。人間みんな弱さはある。でも自分の正義を押し付け合っても、同じ幸せは二度と味わえない。弱くたっていいのに。色んな意味でそう思ってしまう。

 

 

自分の弱さ、脆さ、闇を知ればこそ、怖れるものはなくなるような気がする。不安も心配も、その時になってみないと結局は分からない。何かが起こってトラウマが残ったところで、数十年間必要な教訓だったってこともある。建設的じゃなくてもポジティブじゃなくても、闇を知れば無限な見方ができるかもしれない。個人的には無理はもう、やめとこうと思った。

 

 

「命の誕生と再々手術」からの続きです。

 

3月27日(火)

誰かに身体を起こされて、目を覚ますとまだオペ台の上。私の腕を掴んでいるのは見慣れない若い看護師さん。ドクターも来て、病室に移る様にと言った。時計は0時を廻っていた。
 

病室は、廊下の向かい側の目と鼻の先なのに、何故か車椅子に乗せられた。着いて立ち上がると、すかさず夫が支えてくれた。今回は昼間のベッドからは向かい側のベッドで、やはりもう一人の患者さんとシェアすることに。病室にベッドは8台あって、全員がシェアして使っていた。
 

ひと通り、夫とこれまでの経過を話し合った。私がオペ室にいた間、夫はまた薬剤の買い出しで何度も一階の薬局を往復したらしい。夫がサブウェイの袋を差し出したけれど、食欲が湧かずに眺めていた。深夜を廻り夫の帰路が心配だった。バイクは置いてタクシーで帰るよう、しきりに夫に言っていた。
 

すると同じベッドの患者さんの付添いの女性が、優しい笑顔でダルとチャパティーを勧めてくれた。夫は断ったけど、私は無性に食べたくなって、下さいと言った。手作りの温かい食事。無言で夢中で頬張った。とっても優しい味だった。
 

帰り際に夫が、周りの皆さんに私のことをお願いしてくれて、そのまま私は眠りに着いた。もう一人の患者さんは大柄だったけど、明るい笑顔で快く半分場所を開けてくれ、何の問題もなく仲良く互い違いに眠った。そのまま朝まで熟睡だった。
 

インドの病院の朝は早い。何しろお祖母ちゃんたちも看病に来ているので、早朝5時にはサワサワと人の動く気配が。何とか眠ろうとねばってみたが、ギブアップ。5時半に起きてみると、ほぼ全員が起床していて、患者さんのお世話を始めるところ。目が合うとニコニコと朝の挨拶をしてくれて、とっても気持ちの良い朝。
 

点滴は一旦外れていたので、起き上がってトイレへ。水分が足りないせいかあまり出ず、まだ少し熱っぽく脱水ぽかった。部屋に帰ると、同じベッドの患者さんのお義姉さんが私にピッタリ付き添ってくれ、点滴針の残る手では難しいバナナの皮をむいて手渡してくれる。多分パンジャービ語で「心配しないで何でも言ってね」と言い聞かせてくれていた。
 

同じベッドの大柄な患者さんもトイレから戻って来て一緒に座った。義理のご姉妹だとかで、見かけは全然似ていない二人だけど、二人共、穏やかで優しい雰囲気。ウチの大家さんみたいに、少し押し付け気味?の優しさじゃなくて、自然で控え目な優しさ。
 

夫が来るまで、勧められるままにチャイとビスケットをいただき、片言のコトバで談笑した。小柄で天使の様な優しい笑顔のお姉さんは、しきりに私に話しかけてくる。
 

「私たちと一緒に村に来なさい。マッキーロティ(とうもろこしのチャパティ)とサーグカレーをご馳走するわ。旦那さんにことわって、一緒に来なさいな。」
 

半分本気で言ってくれているらしかった。気の良い妹さんも、ニコニコ笑って見ている。二人を見ていると、映画で見たような古き良きパンジャーブの村の、平和でのどかな様子が思い描かれて、何だか本当に行きたくなってしまった。。
 

きっとそう言って下さるのが、彼らのホスピタリティーなんだろう。
 

それから少し横になった。7時頃に看護師が来て、点滴を付けてくれる。8時頃、友達の家に泊まっている夫を電話で起こす。9時頃には着替えや洗面道具など、一式持って来てくれた。普段から特に何も言ってないのに、必要な物がよく分かっていて、探して全部揃えてくれていた。いつの間に見ていてくれたんだろ。。フレッシュジュースの差し入れも。
 

夫が状況を聞きに詰め所に行った。その間、私はお喋りが楽しくなっていた。みんな近隣のベッドの人とも屈託なく話している。お祖母ちゃんたちは恒例?井戸端会議。隣のベッドに英語の話せる女子がいて、看護師の指示を完璧に通訳してくれた。昨日はまだ辛そうだったけど、今日は大丈夫そう。
 

ふと見ると、昨夜の超難産?から無事出産した若いお母さんも、2つ隣のベッドにいた。断末魔の雄叫びを上げていた同じ女性とは思えない程、穏やかで慈愛に満ちた眼差しで小さな我が子を見つめている。この子、生まれた直後から「キャッキャキャ〜」と可愛い笑い声?のような声を出すので、一緒だったオペ室でも癒やされること何の。「ムンニ(女の子)?」と聞くと、すかさずお祖母ちゃん「ムンナ(男の子)よ!」と、誇らしげなこと。(やっぱり男児が好まれるのか。)
 

そういえば、日本の様に流産とか中絶の患者と、産後の患者&ベビーを分けることもここではしていない。こうして一緒にいると、それがごく自然なのだと肌で感じた。女性が人生で味わう喜びも悲しみも、これからの苦労も、ここでは共有されて繋がっている。集団主義社会なのだろう。エゴは目立たないけど、安定した自尊心もあるように見受けられる。人との繋がりと信頼があればこそだ。

 

同じベッドの大柄のマンジートは、この朝の退院が決まったらしい。まだ本調子ではなくとも、笑顔が晴れ晴れとしている。そのお義姉さんのチャランジートは、帰る支度をしながらも私に「私はまだいるからね。」と朝食のパンとホットミルクを持って来てくれた。
 

食べながら、窓際の英語の堪能なニーシャとお喋り。彼女は博士課程で癌の薬の研究をしていると言う。退院の許可が降りたのでホッとした様子だ。旦那さんの到着を待つ間、スマホのアプリで自撮り写真を撮ってくれる。緊張も解け、と今どきのインド女子の素顔だった。長く辛い夜を越えて、一人ずつ、本来の笑顔を取り戻した朝だった。
 

夫がようやく戻って来て「診察後に退院だって!」と言った。ああ、夜が明けたんだと思った。一昨晩、昨晩と、辛く悲しく痛く惨めで、怖ろしさに心が砕けそうだった時、こんなにも皆が笑顔になる明るい朝が来るとは思ってもみなかった。人目もはばからず喜んでいた。アンティもディーディーも、皆が良かったねと笑っていた。
 

昨日1人ぼっちで寝ていた時に「あなたはbeautifulね!」と親切に話しかけてくれたラマンディープは、別れ際「次に会うときは、お互い5人の子持ちよ!」と言って、満面の笑顔でぎゅーっと抱きしめてくれた。彼女の白髪のマミジも一緒に笑。約束ね!と返したけど、5人ってーーっ?笑
 

最初は入って行くのも躊躇した病室を、名残惜しい気持ちで後にした。振り返って手を振ると、昨日明け渡した向かえのベッドの家族も、その隣の家族も、最初のベッドの家族も、新しく入ったネパール系の家族も、みーんながこっちを見てニコニコ笑って見送ってくれていた。(;_;)

 

すべてが、奇跡だった。そう感じた。インドに来て2年目で、初めてこんなに沢山の笑顔を見たのが、救急病棟の病室だったなんて全く不思議な感覚だった。ということは、病気だって痛みだって、奇跡に違いないのだ。ただただ、涙が溢れた。確信があふれていた。怖れることは何もないのだ。全ては、恵みなのだ。
 

この朝、私に注がれた無限の恵みと優しさ、はにかむような女性たちの笑顔を、私は一生忘れない。

 

で、ヒンディー語、もっと話そう!笑



忘れずに頑張ります。ありがとう💖

インド人の半数以上が、月収3万円以下で暮らしていると聞いたことがある。私が2016年にインドに来た当時、大手プロバイダーの出現で、高速インターネットが急速に普及し始めた。月収3万円でも何とか手の届く低価格で、それまで考えられなかった農村でも電波が入る。インドの消費生活がまた一段階、変わろうとしているのを感じる。

 

「庶民」にはまだ、収入の変化は感じられないだろう。どこまでを庶民と呼ぶかは曖昧だけど、先ほどの平均的な月収でサバイバルしている大多数の層。貧困人口も莫大なので、「平均的」な人なんて多くないのかもしれないけど。

 

先進国で言うところの「ワーキングプアー」とも重なる。年収が少なければ税金を支払う義務もなく、インドの狭い社会福祉の対象にもならない層。地方出身者で、都市部に出てサービス業に雇われている人たち等。大卒でも、ずっとお給料が上がらない人もいるという。

 


市場の店員さんたちは、暇な時は暇だ。日本の店員さんたちも暇はあるけど、ここぞとばかりにお掃除したり、営業したり、何かしら戦略を練って次への一手を打っていて、かえって気忙しい。私もバイト時代はそんなだった。インドでは商売が暇な時、店員さんはチャイ飲んで、談笑してる。オーナーでもなければ、日本ほど先の事を気に病む人もいないと思う(大都市とか繁盛店は別かな)。

 

うちの夫が、その口だ。商品も仕入れられないパソコン店、お客さんが来ても帰ってしまう(笑)。名刺交換とかネットワーク作りは盛んにしてて、町中に「知り合い」が増えて行く。何かの時に都合してもらおうという、助け合いの精神がすごい。店内の掃除は「お掃除の人」がいるから、しない。お茶も「チャイの人」がいるから、勝手に出てくる。暇な時は新型のデモ用ノートブックで、ゲームしてるか映画見てるか、クリケット見てるか。

 

そんな「自堕落な」と、日本人としては?思っていた。「バチ」が当たるんじゃないかと。でも市場に買い物に行っても、お茶に行っても、よく見るとこの町、「バチが当たってる人」だらけ笑。そして、何か皆仲が良く、楽しそうでもある。店の前で並んで人間観察してる店員さんたちもいる(めっちゃ入りづらい)。月曜だろうが週末だろうが、公園の木陰には昼寝をする大人は必ずいるし。

 

彼らが自堕落で罰当たりなんだとしたら、インドの半数が堕落してるってことになる。必然的に、自分のロジックの可笑しさに気付く。ふと日本のスタンダードで育ち生きてきた、このガチガチの価値観を思った。そんなに頑張らなくても、地球上の半数は笑って生きてる。貧困とか紛争とか病とかの困難が必ずあるから、わざわざ心配もしないのだろうか。

 

人が取らなくてもマンゴーは実るのかなぁ。。自然の豊かさは人間の物差しで測れる?


日本では時間単位で生きていた気がする。バイトから正社員になっても、残業とかシフト管理とか。非正規雇用、臨時職員、非常勤、派遣、色んな名前の切り売りがある。身を削る中でも競争もある。インド人みたいに小銭を貸し借りしたり、お互いに助け合うのなんて、日本では「だらしなくて管理能力のない人」とか言われるのがオチだった。「依存」は悪だと。何でも「自立」「自己責任」「お一人さま」って、一人よがりの方向への流れが強い。

 

今回私が急に入院することになった時、痛いとか辛いとかもあったけど、心の負担の半分は、夫が会社を休んでずっと付き添ってくれることだった。夫はそんなこと大丈夫だし、それより私の健康が大事だと言ってくれたけど、それは正論でしょ?とまだ思っていた。私の取り越し苦労をよそに、会社の方々は2日間のお休みを快くくれ、その後の1週間も、夫を毎日昼食を届けに家に帰らせてくれた。

 


自分の「ネガティブ思考」の正体に、大きく気付かされてつつもあった。~ねばならない、~しないと~になる、~したら~ダメだ。そういう「条件付け」が、私の中に多すぎた。お弁当箱に納まるような日本の生活でそれらは有効でも、インドでは小っさすぎるのだ。もっと大きく構えて、、、いや、自分史上最大限に自分を解放して行かないと、やって行けなくなると思った。国立病院の手術台で、何かがロック解除した。笑

 

単純に「インドの人は暇で気楽よね」という話ではない。こうも病院にお世話になることが多いと、ようやく気が付いたか?と何度も言われてるようだ。病棟でもそうだったけど、インドの村の人たちはとにかく助け合う。そうしないと生きていけないのだろうと思う一方、私が今まであまり感じたことのない心の触れ合いを通じて、何かが呼び覚まされていた。

 

人間ってこんなに弱くてもいいんだ、と。こんなに無力でも、助けてもらえること。外国人でも、お金がなくても。何もできなくても愛されること。生きていてもいいんだ、と。夫の寛大さ。言葉も文化も人種も服装も違うけど、私を気にかけてくれた病棟の女性たちの、愛と慈悲と心の広さ。

 

~なければならない、~しなければ~になる、っていう条件付けの中に生きていたら、そういう慈愛はとっさには出ないだろう。私がインド庶民の夫との生活で、手も足も出ない気がしているのは、そんな所に答えがあったのかもしれない。価値観の違いからの衝突で、近所付き合いもままならなくなり、外出も好んではしない。

 

そんな私は、病院で出会ったインド女性たちのような、無条件の愛や親切とはほど遠い。巡り巡って支えあう輪の中から、切り離されている。仕事を紹介されても(ビザがない・微々たる報酬で)断わらざるを得なかったし、結婚式やお呼ばれをしても、気疲れしたり、考えるだけで調子が悪くて行けなかったり。海外居住者の社会不適応って、まさにこのこと。

 


でも私にも、少しずつ見えて来ているんだと思う。美化しているのかもしれないし、物事には両極がつきものだけど、それでも、温かい人たちがいること。生まれ育った親兄弟よりも、自然に愛をくれること。日本では知らなかった「暇」が持て余せること笑。タライで洗濯したり、繕い物をする愛のこと。私がどんなに具合が悪くても、グレてても、顔洗ってなくても、変わらず愛してくれる人がいること。心配してもしなくても、その時になってみないと分かんないっていうこと。

 

北インドに暮らして2年目。何もできなかったけど、心にいっぱいの宝物をもらった。だからガラクタで溢れ返ってた自分を整理して、沢山の鍵を外して行こうと思う。もっと大きく、空っぽになろうと思う。一時帰国&ヴィパッサナー瞑想まで、あと一ヵ月半。

※私自身の主観で記した闘病の手記です。
闘病を完了する上で、大事な意味があり記しています。事実の記録として公開もしています。手術や痛みに関する表現を詳細にしています。苦手な方はスルーしてね♪

※現在は退院して経過は良好です!















3月26日(月)

エコーの受診を待つこと1時間。幸い小さな待合室があったので、夫は仮眠を取っていた。3名が呼ばれて診察室内へ。

オペ室もだけれど、国立病院の設備ってプライバシーとかほとんどない。エコー室には仕切りのカーテンはあるけど、小さな部屋に患者さんも複数名入って来るから、丸見え。確かに救急の患者ばかりなのでそれどころじゃないけれど。

私の番が来て、診察台に横になる。1番えらい中年の女医さんが担当。昨夜の救急からのオペで、子宮内に取り残しがないか見てくれる。モニターを見ながら若手の女医と看護師に、ヒンディー語でテキパキと説明している。私も、雰囲気で分かってしまった。まだ組織が残っているらしい。

覚悟はしていたけど、何だろう、泣きっ面に蜂ってこのことか、と思っていた。OKなら退院出来ると期待してた夫にも申し訳ない。また時間がかかるなら、も少し昼寝してくれればなぁとも。

すぐに病棟に戻り、医師からの指示。「あなたはもう一度、オペします。」ガーン。タロットカードでタワーと死神がいっぺんに出た感じ。落ち込もうと泣こうと結果は変わらないので、意を決してオペ室に戻る。夫もガーンって顔してた。行ってくるねと、最後に握手。

と思ったら、ここからが長かった。オペ室入りが午後5時頃。実際のオペが午後11時頃だったか。

6時頃にひどく熱が上がっているのを感じ、看護師に言って計測。華氏104度の数字が見えた。この時は分かってなかったけど、摂氏40度じゃんね?看護師が慌て気味に出て行って、点滴を持って戻って来て付けてくれた。熱冷ますやつー?

昨夜から叫んだり唸ったりしているお向かえの若い妊婦さん、この時は痛みも最高潮らしく、病棟中に響き渡る断末魔の叫び。あまりの凄まじさに、誰も何も言わずに目をそらしてうつむく感じ。この中で、同室していた3名のオペが進行した。。。

私はと言うと、こんな熱出てオペなんて出来るものかいなーと疑問に。看護師に聞くと、問題ないからすると言う。ええー。ガッガリ。(笑)ついでに私、一体いつ退院できるのと聞いてみた。オペが終わって出血が収まったら、と。そりゃそうだ。今晩中は無理そうだった。

昨晩のオペと違って、意識はハッキリとある。痛み止めは打って下さいと伝えてOKは出ていたけど、長い長ーい待ち時間、恐怖に負けじと必死であった。1メートルも離れていない隣のオペ台では、先ほどから3人目のオペが進行中。痛いの見えるし聞こえるし。

もう寝てしまおう!と、目を閉じてしばらくしたら、黒いベールで全身を被ったムスリムの若い女子が来て、私に病院食のキチョリをくれた。よく分からないながら食べ始めて、びっくり。こんなに美味しいキチョリ(ダルとお米のお粥)は初めてだった。同じ料理とは思えない程!

5人も6人もが、下半身裸でオペ台に横たわる手術室で、唐突に差入れられたお粥が思いがけず絶品で、それを手づかみで夢中になって食べているなんて、何てシュールな絵なんだろう。。そんな風に思いながらも、手が止まらない。トマトが効いてるのか、ガーリックの風味なのか。笑

すると今度は、誰か付添いのおばさまらしき人が来て、自分の携帯電話を私に差し出して来た。出ると、うちの夫から。「オペ室男子禁制だからアンティに頼んじゃった。サブウェイのデリバリー頼んだから、もうすぐ来るからね。オペ頑張って。」と…。う、うん。。。頑張るヨと言ったけど、今お粥食べたばかりだし。サブウェイ好きだし嬉しいはずが、緊張感が勝ってた。

すでに午後9時くらい。同胞?がバッサバッサとやられて行くのを横目に見ながら腹ごしらえをし、気合十分、準備万端か(戦国武将?)と思いきや、何だかもよおしてきた。許可を貰って「最後の」おトイレへ。廊下に出ると、使ってない車椅子に座り、楽しそうにゲームに勤しむ夫の姿が。何だろう、もの凄く心が和んだ、この時。

「まだオペの順番来ないよー」と知らせると、トイレまで付き添ってくれた。二人でオペ室に戻るとドクターが、「あなた、15分位外で待ってて」と。入口のドアも閉められた。言われた通りに詰め所の椅子に腰掛けて待つ。すると中から、私の向かえのベッドでずーっと悶絶していた若い妊婦さん、その絶叫が更に高まり、医師たちの動きも激しくなった。

あの妊婦さん、心配だった。ずっとモニターを付けられて、心音がしていたから赤ちゃんは居ると思われたけど、昨夜から唸り声が尋常じゃなくて、相当苦しんでいると思われたから。付添いの母親でさえ、会話も成立しない程。

叫び声が響く中、詰め所にいた看護師も患者も一切の動きを止めてうつむいていた。状況は分からないながら私も、頑張れ、どうか無事でと祈らずにはいられなかった。そして一瞬、お母さんの叫びが途絶えた。。と、思うと間もなく、「ウンギャ~!」と、この上なく力強い赤ちゃんの産声が!う、産まれたーー!!

病棟中に響き渡る声で唸っていたお母さんの子だけに?その声も大きいこと!よく分からないけど、涙がこぼれた。良かった〜!こんなに何人もが赤ちゃんを失って、取っ替え引っ替え手術を受ける中で、生まれる命は奇跡だった。みんなの願いで、宝ものだった。

よっしゃ~私もやったろう、と、ムクムクやる気?が湧いてきた。恐怖が何だ、痛みが何だ、あんな困難な出産を乗り越えるお母さんもいる。悪いけど、助からないんじゃないか?と多くが思ってたかもしれない位、壮絶だったのに、ちゃんと命は元気に生まれた。女性はきっと強いはず、命って強いんだ、私にもきっと越えられる。。!

大げさなようだけど、それ位、気持ちを鼓舞してから手術台に上がった。オペが始まると同時に、左側から筋肉注射が打たれ、両手でベッドの手すりを掴みながら、全力で痛みに耐えた。周りには悪かったけど、何度も叫んだと思う。涙も出た。時間にして5分強くらいだった。終わったのと同時に、力尽きて眠りに落ちていた。




続きます。


果物の豊富なインドではザクロが、婦人科系の疾患や妊婦にいいと言われます。確かにこの色効きそう〜。

さっすが水星逆行中。停電してる時に限って、急ぎの仕事がいただけるとは。休んでばかりいても退屈なので、せめて頭くらい使いなさいってことかと、内心とっても有難い。

水星の逆行と言えば、内観の時。週末から「戦地」に赴いて生還した?心境の今、色々なものが心に引っ掛かり、絡まり合ってショートしそうだった。


キツイことはキツイって、ちゃんと言えるように、正気を保ってたかったのもある。これが書かずにいられるかチキショー!な気分笑。体力が追いつかず後編はまだだけど。


先日亡くなった、ホーキング博士の言葉を思い出した。


"人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに、成長しなくてはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで最善をつくすべきだ。"



平等ではないのだ。いくらそれを望もうと、叶わぬ現実が存在している。目をそらさずに、それをを見なさいと言われたかの様だった。私は今まで、チキンで偽善的でお膳立てされたボランティアとかにも行けないビビリーだったから、きっと丁度いいのだろう。

グロくてもヒドくても、これが私の人生。唯一無二の経験を隠さず、これを学びに換えて生きずにどうするんだろう。転んでもタダでは起きない精神、健在。笑


弱る時もあり、強い時もあり、無力に助けを請う日が来て、誰かを助ける意味を知るんだろう。すべてを、受け入れるしか他に何もないのだと思った。

救急に運び込まれる前日だったか、初めてヴィパッサナー瞑想のコースに申し込みをした。受かるといいな、と。その頃には体力も気力もばっちりで、絡まり合ってこんがらがって、もう誰かもよく分からないものを、ちゃんと見てみたい。

私は思考ではない。突発的な感情でもない。身体に受ける傷でもないし、あの耐え難い痛みでもない。私は、それだけの存在ではないから、どんな経験もトラウマとして取り込んでしまうのは、本当に勿体ないこと。

でも今は眠ろうとして目をつむると、痛みが蘇ってきて、何度も再現されてしまう。眠るのが怖くなる。トラウマのループに、まんまと取り込まれそうになる。


20年以上、無意識にトラウマを抱えてきて、出来る限りの治療と癒しを受けてきて、最終的には、自らの中にしか乗り越える力がないこと、持ってるのならば使ってみようと思った。それでようやく、ヨガに辿り着いた。


今また新たなトラウマの芽が訪れて、これを冷静に対処しない手はないと、どこかで覚めた意識がしきりに言っている。ピンチを、チャンスにしないでどうするんだろう。再びトラウマの被害者意識に戻るだけだろうと。また、そうやって保っていないと崩れそうでもある。


薬剤の作用かホルモン値の変化か、はたまた、泣きたい時には泣けってことなのか、いちいち涙が出る。母親に事務連絡もままならない。夫はもう泣かないでと言うけど、四十路にそんな無茶は通じないわ。自由だもん。自然な浄化。後で泣かないように、上手く出来てるのさ。

仕事が片付いたら、もうこんなケチケチもやめて、美味しいものでも食べて、洋服でも買って、好きにしよう。後で円を稼げば何とでもなる(笑)夫にも何か買ってあげよう。そもそも我慢し過ぎたのがダメージの元でもある。元気出そう!


※またモノローグになってますが、私は結局元気です。順調、順調。


闇と潜在意識の探検隊も、いい加減にしよう。