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北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

インドから約1年ぶりに帰る日本は

便利さや楽しさ、美味しさに溢れていて

まるで誰も見たことのない未来世界。

 

水や空気が自然に流れるかのように

常に新鮮な情報、最新グッズ、旬の食材

その流れがとても、とても速い。

 

何が起こっているのかとても把握できなくて

果たしてどの現実が一番リアルなのか

 

みんなが、透明な繭に包まれた中にいて

本当には触れることも交わることも

速すぎて、完璧すぎて?

もう出来ない気がした。

 

一瞬で流れ去り遠くなる絆。

沢山の一期一会が地表を駆け巡り

何のアプリで繋がっていても

変わらないものはないと知るだけ。

 

 

今は1つ仕事を終えて、次に取り掛かる朝。

占いさえ、ズバリ言い当てて来る。

 

 

今週、運気は好調だけれど、あなたが期待していたもの、例えば「この人についていけば大丈夫」と感じていた人の変貌(へんぼう)に少し混乱するかもしれない。しかし、それは自分の意志で動くべき時期が訪れたということでもあるので、必要以上に心配をしないように。それよりも、今すでに動き出しているもの、うまく進んでいるものに注目して、力をそそいでみよう。忙しくなりそうだけど、プライベートの幸せについても忘れずに。

 

 

ジーニーさん、やるなぁ。笑

 

 

学生の頃からもう24年程

ご縁があると思って仕事をしてきた

先輩と、もう、限界が訪れている。笑

 

 

成果主義、実力主義、ワンマンであることで

周りにはよく知られた存在の女性。

 

それでも、育ててもらって来たから

どんなに感謝してもし切れないのだ。

けれど、やっぱりもう育ち過ぎたのかも。笑

 

私は私の考えで行動しか出来なくて

今回は彼女の縛りが強烈に感じた。

もっとも、慣れ親しんだはずの

日本のやり方ももう、馴染みが薄れて

 

縛り、速度、暗黙のルールを

遵守するだけの人にはとても戻れない。

 

20年来の親友とのご縁だけれど

一方で、なぁなぁなやり方ではもう

正直つまらないと感じて焦るのだ。

 

何もかもが思い通りになる世界、

そんなものは見たことはないけど

ただ、1つずつ少しずつ

目指すものに向かっていないと

他人のせいにし始めてしまう。

 

それがとても心地が悪いものだから

やっぱりもっともっと

自分を整理して行こうと思ったのだ。

 


私にとって本当に大切なものは何か。

そして今手放すべきものがあるのなら

十分に感謝して

最大限に活かす道を探りながら

 

悲しみや怒りや後悔や不甲斐なさ

積もり絡まった負の感情はもう

許して笑顔で別れるべきなんだろう。

 

精一杯やったのだから、もういい。笑

 

 

私の隣に寄り添ってくれた人たち

私を守り育んでくれた日本

 

今、私が変化して脱皮を繰り返す中で

必要な苦しみに負けてしまって

本当は大切なものを批判し責めてしまって

自分のするべき事に動けずにいることを

今は一度立ち止まってリフレクトしたい。

 


あの人が変わってしまったと感じる時

変わって行っているのは、私。

 


さみしくたって、進むしかない。

だって選んでいるのは自分だってこと

気がついて百人力で歩むのだ。

 

もう甘えられないのは寂しいけれど。笑

 

 

「私」が主導する人生を生きて

私にとっての大切なものを育み

周りに感謝で伝えて行く力を

私も持っているってことなんだ。

 

 

甘えず、八つ当たりせず

人のせいにせず

この感情によく気づきながら

留まることなく歩むだけ。

 

私の道は私にしか歩けない。

 

 

いつになくインドが、夫の笑顔が

やけに恋しくなったりして。笑


結婚式前なのでまだ入ったことのない夫の実家。。
1人帰った夫が写真を送ってくれました。のどか~😅

「断捨離」でもしてみようか、と

軽い気持ちで不用品を整理して

午前中はリサイクルショップへ。

 

ちょっとスッキリして午後からは、

ずっと手付かずだった

あの「箱」たちの整理を、と。

 

「箱」たちは年々増えて行く。

 

少しずつ、溜まって行って

どこにも片付けられないから

部屋の隅にひたすら追いやられる。

 

 

主な中身は、紙と印刷物だ。

 

大きさや厚み、形もバラバラ。

デカいのや音の出るのや、

とにかく面倒なヤツばかり。

 

カサバル箱たち。

今年こそはやっつけてやる。

 

シューズボックス4箱分の

「面倒くさい」を紐解いて行った。

 

今日は果敢に攻めるのだ。

大きさで分け、要不要で分け

「分別不可」だけを箱に戻す。

 

あれ?また1箱作っちゃった。。

 

 

面倒くさい箱の中身は

アルバムにもファイルにも収まらない

デカいカードや写真たち。

主張して来るポップ式のやつ

めっちゃ幸せそうな顔した

結婚式の招待状。

 

私が地球のどこに居ようが

お構いなしに送り付けられた

母からのエアメール

妹からの色あせたファックス

父からの

ウザい格言入りの手紙。

 

祖母からのお餞別の袋。

伯母からのクリスマスカード。

義理で出してるんだと思ってた

沢山の沢山の年賀状。

 

今年はやっつけるって決めたから

それらを全て

大切にファイリングをした。

 

 

 

私、友だちが少ないと思ってた。

いじめられてたからだ、って。

 

大好きな母は仕事ばかりで

私はどうでもいいんだと。

 

だから好きに何処へでも行って

一人で生きて行くしかないんだと。

 

この孤独は誰にも分かってもらえないと

自分で、決めつけていた。

 

 

10代、20代、30代、

こんなにも気にかけてもらっていて

こんなにも愛を注いでもらっていて

 

1つも受け取らずに封印してた。

 

整理できなくて。

どこにしまって良いのか。

いつ見ればいいのかも

全然知らないフリで。

 

 

手早く仕分けていく間

体の中心から温かいものが

強烈に上がり始めていた。

 

喉がつかえた様に苦しい。

悲しみとも喜びともつかない

封印されたエネルギーが

どうしようもなく上がって来る。

 

私は孤独で寂しい奴なんかじゃなく

こんなにも認められ、愛されている。

 

箱を飛び出した紙たちが

今日は私に伝えに来ていた。

今まで拒否していた何かが

一気にダウンロードされる感覚。

 

もうあらがうのは止めにしようって

真っ直ぐに物事を見てごらんって。

 

全部受け取って全部与えて

大きな流れのままでいようって。

2年前にインドに旅立った頃より、今はもっともっと、ヨガが身近になって来ているんだなぁ〜。実家のある北海道の地方都市にいても、個人でヨガクラスを主催している先生たちが格段に増えていて、本当に身近になってきた。

 

これからは、自分のココロと身体に向き合うこと、もっともっと等身大で、ずっと楽にできる様になるんだろうなーー。

 

そんな風に感じて、嬉しくなる。お願い

 

一時帰国中も私は相変わらずのヨガジプシー。個人教室の単発レッスン、ヨガ教室やスポーツクラブの体験レッスン、イベントと渡り歩く予定。「十人十色」のシークエンスを堪能したい気分。

 

夫婦でリシケシのYTCを受けた友人が以前、

「教えたくないって言う人も多いよね、もったいなくて。」と言っていた。

 

その時は「ふぅ。。ん??」って感じだったけど、今は何となく分かるのだ。

 

 

国内外やリゾート等のヨガリトリートでは「ヨガ教師養成○○時間コース」というのが主流。受ける方も「折角行くなら、じゃあ、資格も」と思うのだけど、実際受けてみて思うのは、「実践する」ことと「教える」ことは全く別のこと。

 

「教える」ためには、目的が必要だと思う。どうしても、知って欲しい何か。オススメできる絶対的根拠。実体験に根ざしながら、お節介にも更に「広めたい・教えたい」とまで思う理由が。

 

 

それよりも、自分のペースで、できる範囲で、自分の心と身体と丁寧に密に向き合う時間、「自分を大切にする」手法としてヨガの実践者でいたいという思いが、日に日に腑に落ちて来ている。

 

 

私も2年前に北インドで講座を受けた時は、ヨガはまだ「運動や競争」の要素を含む「スポーツ」に近い感覚だった。

 

こんなユル〜い性格の私ですら、同じコースの仲間と切磋琢磨して、少しでも結果が出る様に「頑張って」いたあせる

 

結果はと言うと、期待していたものがそもそも的外れだった事もあり、釈然としない思いも残った。確かに知識や実践は身に付くけれど、それ以前に「競う」相手やものなど「初めからなかった」ガーンことにジワジワと気づき、「目指す姿」さえ自分以外にいないと知って、「振り出し以前」に逆戻りした感覚を覚えた。

 

あの2ヶ月は、何だったんだろうか‥。

 

一体何を根拠に「講師」を名乗れるのか、と‥滝汗

 

 

「ヨガリトリート」へ抱くイメージはそれぞれだけど、私は結構な具合に、現実とかけ離れた妄想を抱いていた。それは、

 

・講師(インストラクター)になれる。

・教える「目的」が見える。

・実践は完璧に近くなる。

・自信が付く。

 

人にもよるだろうけど、こんな事↑は勝手には起こらない(でもコレ、リトリートの広告ではかなりの頻度で謳われてたりするゾ汗)。

 

で。

 

「自動的」「他動的」に成し得る事なんて一つもないんだと、やっぱり再認識しワケです。でも色んなスタイルの先生にお会いして思うのは、どんな教え方だったとしても、共通して「教えたい」という情熱があるということ。

 

本当の情熱の 灯は、周囲に必ず伝わるのだろう。。照れ

 

 

 

ヨガを知るほどに、それまでとは「真逆」の価値観の世界に足を踏み入れることになる人も多いのでは?。。。それは、

 

 

他と比べて「上手に」できるか

教えられたことを「正しく」できるか

瞬発力、持久力、柔軟性、筋力があるか

「上達」しているかどうか

「完璧」「健康」であるか、etc.

 

 

↑という事が、日に日に「ちゃうねん」びっくりてなって行くこと。それどころか「上手いかどうか」なんて事を気にしてたらケガのもと。ビックリマーク

 

 

その時の自分の身体と精神の状態に耳を済ませて、自分を感じるだけで良いし、「評価」なんてしなくていい。「感じる」ことの奥深さ、繊細さ、終わりのなさに日々委ねて行けばいい。

 

 

自信のない日も、がっかりしてる日も、イジケてる日も、無理だーって日も。

病の時も、試練の時も、我を忘れて忙しい日も、 感情がグチャ2な日も。

 

 

誰もがありのままの自分と向き合える。

 

それがヨガなんだろう。

 

 

確かに「教えるなんてもったいない」。そんな親密な関係になっちゃうラブラブスポーツでもエクササイズでも教科でもない、ヨガは生き方の「哲学」だからでしょう。

 

 

でもいつか、増えている仲間とともに、ヨガの良さ、「自分」という存在の素晴らしさを伝えられる日を夢見て、これからも向き合って行きたい。

 

 

しかし何を隠そう私、教員免許を持ちながらその後あーだこーだ悩み続け、結局10年も教壇に立てなかった実績の持ち主。ゆっくり、じーっくり向き合うのは大の得意技(あくまで長所)。

 

 

で。明日は「アロマ・リラックス・ヨガ」に潜入してきますラブ

昨日もインドの夫からメッセージの連投。。。何時だろうとお構いなしのビデオコールまで。

 

帰国して仕事して、実家に戻って1週間半。日常のリズムに戻りたい私は、やる事がいっぱい。実家には母一人なので、掃除も庭の手入れも間に合っておらず、年に一度私がいる間に大掃除と片付けを済ませたい。

 

正直、仕事中にスマホばっかり見てるインド人のペースとは、全く合わない!笑

 

言語化出来ないモヤモヤがどんどん積もって行くので、この機会に箇条書きにして検証!笑

 

① 3時間メッセージを返せずにいただけで「I miss you…」としょんぼりコメントが来る。← 罪悪感刺激レベル1真顔

 

② 自分の洗濯やアパートの部屋の掃除、自分の食べるものを作っただけで、いちいち「作ったよ」「掃除しといたよ」「洗っといたよ」的な写真と「I love you」「I miss you」って送られて来る。← 罪悪感刺激レベル2滝汗

 

③ 「今日は寝坊しちゃって朝ごはん食べられなかった」や「ジムに行こうと思ったけど6時に起きれなかった」だの、グダグダなエピソードが送られてくる。← 残念レベル3チーン

 

④ 「S君が毎日晩ご飯作ってくれてるから、君は心配しないで」って言われる。← 自分で自分の飯も作れんのかレベル4ゲッソリ

 

⑤ 「仕事が早く終わったから、同僚とチキンパーティーだよ。美味しそうでしょ?」っていう料理中の写真を送って来るが、背景がウチのキッチンなこと。← ワレに断りも入れんと勝手に飲み仲間連れ込んでパーティーすんな度マックス!!!ゲロー

 

 

。。。などなど、イライラ&モヤモヤポイントがいっぱい!

 

罪悪感を刺激されるのは、いちいち反応する私が地雷を抱えすぎなのも事実。。。

どう頑張っても出来ない事にまで責任感じちゃってるから、おかしくなるのだろう。

 

しかしアイラブユーミスユー言われ過ぎると私は落ちる。

 

ただの愛情表現を「何が言いたいんだ?どういう意味だ?何かしてほしいのか?」と、無意識に面倒な思考に変換しているっぽい。

 

正直口だけの愛情表現なんて、今は要らないのだ(一日中同じ言ってる暇があったら他にする事あるでしょーが?←と思う)。こっちの都合を汲んでくれたりとか、

気遣ってくれたりとか、自分の主張を優先する以外に何かないのか?と思ったり。

 

どうもロマンチックの欠片もない、悲しい状態になっている私。。。

 

昨日の夜中にビデオコールが来た時には、そんな状態を隠すことも出来ず。眠いので「早く寝たい」と顔に出ちゃうんだけど、時差の3時間半分テンションの高い夫は、

 

「そんな顔しないで。笑って〜!」と始まったチーン

「いつもポジティブでいて」「ハッピーでいて」「楽しそうにしててよ」「若々しくしてて」ともゲロー

 

 

それで久々に、何かが降臨。笑

 

 

。。。楽しい時は笑ってるよね。でも疲れた時は疲れてる。眠たい時は眠たいし、ネガティブな時はネガティブ。それが何かいけないんでしょうか?

 

庭仕事して身体が痛くて、それじゃなくても最近全身が謎に痛くて、言ってるのに全然聞いてないよね。。。それで夜中にアイラブユーって、一体何?

 

愛してくれている筈のあなたでさえ、私の事は分からないんだね。でもこの身体の痛みは私を分かってくれてる。私に休みなさい、自分を大切にしなさいって言ってくれてる。痛みは私を愛してくれてるよ。

 


。。。で、Pain loves me! と言っていた。笑

 

 

大体が夫への八つ当たり。本当はただ、自分を労わることを怠っていただけで、するべき事をしていないからイライラしていただけと、相手に言ってしまってから分かるんだけど。夫はそういう私に深入りしないので「OK。あなたは自分の事は一番良く分かってるんだから、ゆっくり休んで。おやすみ。」っとあっさり電話を切った。

 

痛みは私を愛している。

 

意味も分からず口にした言葉が、不思議としっくり来た。少なくとも痛みや不調だけは私を理解してくれる。取り方によってはちょっと危うい考えだけど。その後は安心して眠りに着いた。

 

体調不良や病気、怪我や痛みは、身体へのメッセージだと言われる。その事がよく分かる本が、数年前に読んだこの本だった。


身体と魂の密接な関わりを、ものすごく分かりやすく解説していて、色々な疑問が素直に腑に落ちる名著です。

 

実はここ1、2年、全身の筋肉の硬直と痛みの症状があるのだけれど、急性の症状ではなさそうだし、病院でも妊娠や流産のホルモン変化によるものだろうと言われただけで、そのままでいた。それが帰国の環境の変化でストレスに感じるようになっていたみたい。

 

きっとようやく、身体のメッセージに耳を澄ませる時間が来たんだと思う。安心出来る場所に帰って来て、ようやく心身のチューニングに専念できる。

 

それで夫からのラブコールさえも一旦置いておいて、今は自分に集中するチャンスだってこと、本能的に分かるのだろう(邪険にするつもりじゃなくて)。

 

北インドと違って、日本では好きな時間に外出できるし、一人で自由に行動できる。病院や治療の手段も沢山あって整っているし。これはもう、好きなだけ自分の身体と魂と向き合うしかない環境お願い

 

 

時間の許す限り、探求してみよう。

 

 

そう思えた今、ようやくワクワクしています音譜

中世日本で40歳は「不惑」の年齢と言われた。

当時の平均寿命は50歳に満たなかったと聞く。

周囲に惑わされずに腹を据えても、あと10年。

めちゃくちゃ、焦っただろうなーって思う。

 

占星術では前世からのカルマと強い繋がりのある

ドラゴンヘッド&ドラゴンテイルの影響を抜けるのが

人によっては40前後らしい(人によりけり)

 

思い込みやブロックが外れて行く時期なのだと思う。

楽にではなく、自らの力で七転八倒しながら。

なので、違う次元の情報が一気に流れ込んでくる。

 

それがあたかも「メッセージ」の様に感じたり、

周りの人との関係性がどんどん変化して行って

「自動操縦感」をかもし出すのだけれど、

多分、自分の内面の変化に追従しているに過ぎない。

 

 

人は、思い通りに、無限に変化して行けるのだ。

 

 

 

 

 

最愛の夫の目の中に、妻は真実を探している。

神々の前で愛を誓った2人だから、真実でいたいと。

 

妻が真実であり続ける限り、夫の瞳は輝いている。

妻が喜びで満ちる限り、夫は笑顔で応えてくれる。

 

夫の瞳は、静かで力強い神性を湛えながら

覗き込む妻の目に、永遠の輝きを放っていた。

 

見えてしまった、無限のループの中にいること。

分かってしまった、光の源は私の中に在る。

 

「新しい人生が始まるんだね」

 

そんなキザな事を言ってしまったよ。

だって本当にそう感じたから。笑

 

パートナーシップには神聖な意味がある。

相手の存在はまるで自分の中の神性を映す鏡だ。

知り得ない潜在意識まで、その存在で示してくれる。

 

 

私たちは、終わることなく呼応し続ける永遠の命。

その光源を知ったこの先は、

ただただ喜びの光を灯す旅に出るんだと思う。

 

 

 

 

「第2の人生」って言葉、

好きじゃないしよく分かんなかったけど

本当に来るんだなぁと。

 

今までの人生が終わり、成仏して行った。

生まれ変わって今、残りの時間が与えられている。
 

 

できなかった事、恐れと悔しさがひっくり返ったら、

やりたい事、愛と希望でいっぱいでしかない。

 

 

簡単なんだ、もっと。

小さなことなんだ、もっと。

楽なことばかりだし

思い通りなんだ、きっと。

 

 

スパイラルの向きが反転する様に

迷惑をかけまいと小さく縮まっていたのが、

拡大と循環へと方向転換したくなった、

それだけなんだ。

 

 

昨夜の夢でも、私の中に居座っていた

後悔や懺悔や罪や恥の塊みたいのが、

身体の中からスポンっと出て行った。

そやつを掴んでマジマジと見て、

流れてた小川にポイっと捨てたよね。

 

で、終了~~!みたいな笑。

 

 

どうして今頃!?って言うのは私には分からない。

ラフ&ケトゥのカルマが抜けたのかもしれないし

天王星の牡牛座移動のおかげかもしれないし

ひょっとしたら「そう思いたいだけ」なのかも。

 

ここ数年メッセージは来ていて、

「自身をゆるしなさ~い」ってヨガTTCの時、

「誰かのために生きなさい~」って巡礼の時。

なのにそれから音沙汰無くなって、流産×3。

 

もうダメだ、やっちゃったと思ったよね。

 

でも、それでやっと「内省」の時間が持てた。

(予約してたヴィパッサナーが必要なくなる位。)

「責める」のは一切やめて「内観」をした。

「吐き出し」からの→「肯定」をしただけ。

 

そうしたらもう、過去はどうでも良くなった。

 

でも今までの自分パターンの「通用しなさ」が

どどどーーっと見えてきて、逃げ場もなくなった。

だって「逆」をやってたんだもん、ずーっと。

逆のスパイラルに拍車をかけ続けてきた

あらゆる場面の自分の姿がまざまざと見えて来た。

 

ヤバかった。。。汗

 

でも幸いなことに、それも過去の幻影。

今はもう存在すらしないもの。

 

私が創って行けるのは「今」だけなのだ。

そしてその積み重ねが、未来の夢に繋がっている。

 

「。。。かもしれない」じゃなくって、

本当に、絶対的に、確実に繋がっている。

 

「自信のなさ」を選んでいたら

ずっとお茶を濁して終わっちゃうんだけど

それが嫌だから、もうやめる。

 

 

「今」の「小さな」行動が未来を絶大に左右する。

 

ぱぱぱぁーっと、ヴィジョンが繋がって見えた。

 

(それって「当然」だけど、私、見えてなかった汗)

 

だから早くゾンビ状態から目覚めないと、

私の未来はやる事いっぱいなのだし

さっさと始めないと間に合わない。笑



だから自分の魂と絆を結ぶんだ。

そして2度と裏切らないと誓おう。

何があっても自分の味方でいよう。


 

夫と2人新しい人生のスタートを切る。

まずは帰国の前に、入籍します(日本側)。

 

 

これももぉ、よ~やく、腹が決まった。

悲劇ばっかでどうやって決めるんだ?って思ってた。

でも、そうじゃない見方を採用した。

「私が」決めた通りになるだけ、それだけだった。



 

脱・ゾンビ(幻想)、祝・結婚(現実)。笑

 

今日はちょっと、遠い「母子分離」の記憶について。

 

こないだから母にスカイプで連絡したり、夫のお母さんからは毎日の電話が来たりしていて、何故だかふと「お義母さんって、私の両方の祖母を足して2で割った感じだー」と思った。彼女の「お祖母ちゃん感」が私には妙に落ち着くなぁと。

 

 

そこから、言葉にしたことのない感覚が蘇った。

 

それは幼少期の「手のぬくもり」の記憶だった。

 

 

私はいつも、温かなシワシワの手に包まれていた。

さみしい時も、細く筋張った腕で守られていた。

 

 

両親は共働き、お祖母ちゃん子で育ち、買い物や友だちの家もどこでも祖母に付いて回った。自転車の後ろに乗せられ、電柱を数えながら保育園に通った。お迎えの帰りは決まって駄菓子を買ってもらった。家では仏壇のお参りを欠かさない祖母の真似をしたり、祖母の部屋の窓から一緒に打ち上げ花火を見たり、初めて落雷を見た記憶も。母が仕事に出かける朝は、大泣きして祖母に抱きついた。ーそれは「記憶」として残っていたのだけれど。

 

 

あの「手のぬくもり」は、ぜんぶ祖母のもの。

ふと、そんな「感覚」がよみがえって来た。

 

 

母とは、スキンシップの記憶があまりないのだ。私がじっとしてない子だったのもあるけど、母に「よしよし」されたこととか、ほとんど覚えていない。母と私の関係はずっと私の「片思い」の様だった。お化粧する母が好きで「キレイね」と触れようとすると手を叩かれたっけ。私を置いて活き活きと働いていた母。夕食時の話題はいつも、彼女の生徒たちの活躍のこと。学校でいじめにあっても、彼女にはとても話せなかった。

 

 

でも今、「手のぬくもり」を思い出し、私は不思議な安心感に包まれた。確かに愛され、守られていた感覚。

 

 

私は「無力な」存在ではなかった。

そんな感覚が身体の中に蘇った。

 

同時に、私は幼いなりに

母ではなく祖母を「選んだ」ことも、

初めて分かってしまったのだと思う。

 

 

母は祖母に対して「一言では表せない」感情を持っていたと言う。母は私を妊娠して辞めた教職に戻るため、再度採用試験を受けてやっと復帰したらしい。幼い私を置いて出るのは辛かったけれど、仕事に生きがいを求めた。一度だけ「お祖母ちゃんにあなたを獲られそうで、すごく嫌だった。」と、こぼした事がある。

 

 

 

心理学では「母子分離」が、人の心の傷の始まりだと言われている。欠けがえのない、たった一人の保護者との愛着が絶たれることが、生まれたばかりの命にとっては「生命の危機」に値するからだ。

 

 

母親のお腹から出て、生まれ落ちた時に既にそれを感じているという説もある。さすがに私もそこまでの記憶は無いけど、いずれにせよ、幼少期に健全な愛着を育くむことがとても重要だと言われている。「傷つきやすい人」になるかどうか、この愛着期で決定づけられるらしい。

 

 

職業上、そしてさんざん読みあさった心理学の本で基礎知識はあり、「私って↑この愛着障害っぽい」と思っていた。思春期にはイジメ、高校はサボり気味、大学では性的暴行、逃げるように渡った留学先ではDVにあった。それから20年の間、ずっとその原因やルーツを探り立ち直ろうともがいて来た。

 

 

それが今、人生のパートナーと出会ったことや、彼のお義母さんとの交流を通して癒され、ようやく解消されて来ているのを感じる。

 

 

母に対する怒りの感情は、もうない。私の「片思い」だと思っていたのは、私の理解不足だったのだ。母は私を愛してくれて、仕事をしてまで支えてくれた。難しい選択を自分で選び、母自身も満足する生き方をして見せてくれた。

 

 

一方「無力」だとされる幼少期の私は、無力どころか、近くに頼れる大人をガッチリ捉まえて自分のニーズを満たしていた。母親からも祖母からも、いいとこ取りで構ってもらっていたのだろう。それが断片的な記憶をつなぎ合せるうちに、「母は冷たい・祖母は優しい」⇒「私は要らない子」と、勝手に自信を失って行った。

 

そして自分軸を失ったまま思春期に突入し、「~される、~られる」の被害者意識で生きていたら、色んな問題が現実化して表れたと言うだけ。

 

 

何だかそろそろ、全部赦せそうな気がする。。

と言うか、もうどうでも良くなっちゃった感。

愛情をもらうのは結局、母でも祖母でも、

どっちだって良かったってことだ。笑


 

 

「自分の現実は、すべて自分で創っている」

今は過去のすべてが、それを証明しているように思える。

 


 

いずれにしても、幼少期のスキンシップや、自我が形成される10歳頃までの親子のコミュニケーションがその人の原点になるのは確かなこと。それは「エネルギーの循環」であり、人間という生き物の生命線だから。

 

 

今考えてみると、読みあさった「心的外傷」「機能不全家庭」「アダルトチルドレン」「依存症」関連の書籍の多くが、『幼少期は無力だから』というのを前提にしているように感じるんだけど(「毒親」系のものとか。それはそれで、向けどころのない読者の感情の目を覚まして、流れと癒しを促しているのだけど)。

 

もしかして、幼少期はそれ程無力じゃないんじゃないかと思う(仮)。どんな命も絶大なエネルギーの結晶な訳だし。転生があるとすれば、子供は親や環境を「自ら」選んでこの世に来ている。そこで過去生からの課題に取り組み、解消することで魂はレベルアップして行く。



命は可能性に満ちたエネルギーの塊。私たち人間はもともと、無力であるはずのない存在。宇宙と繋がる生命エネルギーは、決して減ることも枯れることも、奪うこともできないものだと言う。

 

 

怒涛の負のカルマにメゲずに生きて、着々とクリアして行った先には一体どんな世界が見えるのか、私の興味もそっちの方にシフトして来た。うまく言語化できないけど、まるっと赦して前に進む時期が来たようだ。その1つが「母子分離」の頃の、愛着感覚の蘇りとして、私に知らせてくれてるんだろう。

 

 

とっとと安心して、自分の力で大海原を行け!と。笑

 

 

 

 

数々の心の名著を日本に紹介してくれた
山川先生の言葉が染みたのでリブログ〜。


(&以下、一部を引用)


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人はそのままでいい、と言われるとほっとします。

 

何かにならなくてはいけない、

 

瞑想しなくてはいけない、

 

さとらなければいけない、

 

一生懸命働かなければいけない、

 

と僕達は、いけない、いけない、づくしで忙しく生きています。

 

力を抜いて、そのままぼんやり、休みたいとおもうこともあります。

 

好きな事をして良いのです。十分に休んで良いのです。

 

怠け者で、けっこうです。

 

人から良く思われる必要もない。

 

自分自身でいればよい。

 

なにかほっとしますね。

 

そして、ゆったりと、十分に休養がとれると、

 

自然に身体が動くようになります。

 

そうしたら、自然に好きなことをやりはじめますよね。