今日はちょっと、遠い「母子分離」の記憶について。
こないだから母にスカイプで連絡したり、夫のお母さんからは毎日の電話が来たりしていて、何故だかふと「お義母さんって、私の両方の祖母を足して2で割った感じだー」と思った。彼女の「お祖母ちゃん感」が私には妙に落ち着くなぁと。
そこから、言葉にしたことのない感覚が蘇った。
それは幼少期の「手のぬくもり」の記憶だった。
私はいつも、温かなシワシワの手に包まれていた。
さみしい時も、細く筋張った腕で守られていた。
両親は共働き、お祖母ちゃん子で育ち、買い物や友だちの家もどこでも祖母に付いて回った。自転車の後ろに乗せられ、電柱を数えながら保育園に通った。お迎えの帰りは決まって駄菓子を買ってもらった。家では仏壇のお参りを欠かさない祖母の真似をしたり、祖母の部屋の窓から一緒に打ち上げ花火を見たり、初めて落雷を見た記憶も。母が仕事に出かける朝は、大泣きして祖母に抱きついた。ーそれは「記憶」として残っていたのだけれど。
あの「手のぬくもり」は、ぜんぶ祖母のもの。
ふと、そんな「感覚」がよみがえって来た。
母とは、スキンシップの記憶があまりないのだ。私がじっとしてない子だったのもあるけど、母に「よしよし」されたこととか、ほとんど覚えていない。母と私の関係はずっと私の「片思い」の様だった。お化粧する母が好きで「キレイね」と触れようとすると手を叩かれたっけ。私を置いて活き活きと働いていた母。夕食時の話題はいつも、彼女の生徒たちの活躍のこと。学校でいじめにあっても、彼女にはとても話せなかった。
でも今、「手のぬくもり」を思い出し、私は不思議な安心感に包まれた。確かに愛され、守られていた感覚。
私は「無力な」存在ではなかった。
そんな感覚が身体の中に蘇った。
同時に、私は幼いなりに
母ではなく祖母を「選んだ」ことも、
初めて分かってしまったのだと思う。
母は祖母に対して「一言では表せない」感情を持っていたと言う。母は私を妊娠して辞めた教職に戻るため、再度採用試験を受けてやっと復帰したらしい。幼い私を置いて出るのは辛かったけれど、仕事に生きがいを求めた。一度だけ「お祖母ちゃんにあなたを獲られそうで、すごく嫌だった。」と、こぼした事がある。
心理学では「母子分離」が、人の心の傷の始まりだと言われている。欠けがえのない、たった一人の保護者との愛着が絶たれることが、生まれたばかりの命にとっては「生命の危機」に値するからだ。
母親のお腹から出て、生まれ落ちた時に既にそれを感じているという説もある。さすがに私もそこまでの記憶は無いけど、いずれにせよ、幼少期に健全な愛着を育くむことがとても重要だと言われている。「傷つきやすい人」になるかどうか、この愛着期で決定づけられるらしい。
職業上、そしてさんざん読みあさった心理学の本で基礎知識はあり、「私って↑この愛着障害っぽい」と思っていた。思春期にはイジメ、高校はサボり気味、大学では性的暴行、逃げるように渡った留学先ではDVにあった。それから20年の間、ずっとその原因やルーツを探り立ち直ろうともがいて来た。
それが今、人生のパートナーと出会ったことや、彼のお義母さんとの交流を通して癒され、ようやく解消されて来ているのを感じる。
母に対する怒りの感情は、もうない。私の「片思い」だと思っていたのは、私の理解不足だったのだ。母は私を愛してくれて、仕事をしてまで支えてくれた。難しい選択を自分で選び、母自身も満足する生き方をして見せてくれた。
一方「無力」だとされる幼少期の私は、無力どころか、近くに頼れる大人をガッチリ捉まえて自分のニーズを満たしていた。母親からも祖母からも、いいとこ取りで構ってもらっていたのだろう。それが断片的な記憶をつなぎ合せるうちに、「母は冷たい・祖母は優しい」⇒「私は要らない子」と、勝手に自信を失って行った。
そして自分軸を失ったまま思春期に突入し、「~される、~られる」の被害者意識で生きていたら、色んな問題が現実化して表れたと言うだけ。
何だかそろそろ、全部赦せそうな気がする。。
と言うか、もうどうでも良くなっちゃった感。
愛情をもらうのは結局、母でも祖母でも、
どっちだって良かったってことだ。笑
「自分の現実は、すべて自分で創っている」
今は過去のすべてが、それを証明しているように思える。
いずれにしても、幼少期のスキンシップや、自我が形成される10歳頃までの親子のコミュニケーションがその人の原点になるのは確かなこと。それは「エネルギーの循環」であり、人間という生き物の生命線だから。
今考えてみると、読みあさった「心的外傷」「機能不全家庭」「アダルトチルドレン」「依存症」関連の書籍の多くが、『幼少期は無力だから』というのを前提にしているように感じるんだけど(「毒親」系のものとか。それはそれで、向けどころのない読者の感情の目を覚まして、流れと癒しを促しているのだけど)。
もしかして、幼少期はそれ程無力じゃないんじゃないかと思う(仮)。どんな命も絶大なエネルギーの結晶な訳だし。転生があるとすれば、子供は親や環境を「自ら」選んでこの世に来ている。そこで過去生からの課題に取り組み、解消することで魂はレベルアップして行く。
命は可能性に満ちたエネルギーの塊。私たち人間はもともと、無力であるはずのない存在。宇宙と繋がる生命エネルギーは、決して減ることも枯れることも、奪うこともできないものだと言う。
怒涛の負のカルマにメゲずに生きて、着々とクリアして行った先には一体どんな世界が見えるのか、私の興味もそっちの方にシフトして来た。うまく言語化できないけど、まるっと赦して前に進む時期が来たようだ。その1つが「母子分離」の頃の、愛着感覚の蘇りとして、私に知らせてくれてるんだろう。
とっとと安心して、自分の力で大海原を行け!と。笑