2年前にインドに旅立った頃より、今はもっともっと、ヨガが身近になって来ているんだなぁ〜。実家のある北海道の地方都市にいても、個人でヨガクラスを主催している先生たちが格段に増えていて、本当に身近になってきた。
これからは、自分のココロと身体に向き合うこと、もっともっと等身大で、ずっと楽にできる様になるんだろうなーー。
そんな風に感じて、嬉しくなる。
一時帰国中も私は相変わらずのヨガジプシー。個人教室の単発レッスン、ヨガ教室やスポーツクラブの体験レッスン、イベントと渡り歩く予定。「十人十色」のシークエンスを堪能したい気分。
夫婦でリシケシのYTCを受けた友人が以前、
「教えたくないって言う人も多いよね、もったいなくて。」と言っていた。
その時は「ふぅ。。ん??」って感じだったけど、今は何となく分かるのだ。
国内外やリゾート等のヨガリトリートでは「ヨガ教師養成○○時間コース」というのが主流。受ける方も「折角行くなら、じゃあ、資格も」と思うのだけど、実際受けてみて思うのは、「実践する」ことと「教える」ことは全く別のこと。
「教える」ためには、目的が必要だと思う。どうしても、知って欲しい何か。オススメできる絶対的根拠。実体験に根ざしながら、お節介にも更に「広めたい・教えたい」とまで思う理由が。
それよりも、自分のペースで、できる範囲で、自分の心と身体と丁寧に密に向き合う時間、「自分を大切にする」手法としてヨガの実践者でいたいという思いが、日に日に腑に落ちて来ている。
私も2年前に北インドで講座を受けた時は、ヨガはまだ「運動や競争」の要素を含む「スポーツ」に近い感覚だった。
こんなユル〜い性格の私ですら、同じコースの仲間と切磋琢磨して、少しでも結果が出る様に「頑張って」いた
結果はと言うと、期待していたものがそもそも的外れだった事もあり、釈然としない思いも残った。確かに知識や実践は身に付くけれど、それ以前に「競う」相手やものなど「初めからなかった」ことにジワジワと気づき、「目指す姿」さえ自分以外にいないと知って、「振り出し以前」に逆戻りした感覚を覚えた。
あの2ヶ月は、何だったんだろうか‥。
一体何を根拠に「講師」を名乗れるのか、と‥
「ヨガリトリート」へ抱くイメージはそれぞれだけど、私は結構な具合に、現実とかけ離れた妄想を抱いていた。それは、
・講師(インストラクター)になれる。
・教える「目的」が見える。
・実践は完璧に近くなる。
・自信が付く。
人にもよるだろうけど、こんな事↑は勝手には起こらない(でもコレ、リトリートの広告ではかなりの頻度で謳われてたりするゾ汗)。
で。
「自動的」「他動的」に成し得る事なんて一つもないんだと、やっぱり再認識しワケです。でも色んなスタイルの先生にお会いして思うのは、どんな教え方だったとしても、共通して「教えたい」という情熱があるということ。
本当の情熱の 灯は、周囲に必ず伝わるのだろう。。
ヨガを知るほどに、それまでとは「真逆」の価値観の世界に足を踏み入れることになる人も多いのでは?。。。それは、
他と比べて「上手に」できるか
教えられたことを「正しく」できるか
瞬発力、持久力、柔軟性、筋力があるか
「上達」しているかどうか
「完璧」「健康」であるか、etc.
↑という事が、日に日に「ちゃうねん」てなって行くこと。それどころか「上手いかどうか」なんて事を気にしてたらケガのもと。
その時の自分の身体と精神の状態に耳を済ませて、自分を感じるだけで良いし、「評価」なんてしなくていい。「感じる」ことの奥深さ、繊細さ、終わりのなさに日々委ねて行けばいい。
自信のない日も、がっかりしてる日も、イジケてる日も、無理だーって日も。
病の時も、試練の時も、我を忘れて忙しい日も、 感情がグチャ2な日も。
誰もがありのままの自分と向き合える。
それがヨガなんだろう。
確かに「教えるなんてもったいない」。そんな親密な関係になっちゃうスポーツでもエクササイズでも教科でもない、ヨガは生き方の「哲学」だからでしょう。
でもいつか、増えている仲間とともに、ヨガの良さ、「自分」という存在の素晴らしさを伝えられる日を夢見て、これからも向き合って行きたい。
しかし何を隠そう私、教員免許を持ちながらその後あーだこーだ悩み続け、結局10年も教壇に立てなかった実績の持ち主。ゆっくり、じーっくり向き合うのは大の得意技(あくまで長所)。
で。明日は「アロマ・リラックス・ヨガ」に潜入してきます