北インド☆ゆるヨガライフ -19ページ目

北インド☆ゆるヨガライフ

ヒマラヤで出会った夫と、北インドローカル暮らし8年目。
お見合いが主流のインドで年の差婚、3度の流産、文化や習慣の違いに奮闘中。
スラム支援のNGOで働いたり、子宮腺筋症と共存しながらゆるーくヨガを続けたり。
40代インド生活の気づきと学びです。

元々このブログで

自分の感覚の「全て」に

気付いて行く作業をしていた。

 

内向きな、奥向きな

プライベートな作業。

 

嫌な感情や否定的なあり方も

表現することで

ワンクッション置いて

徐々に赦しにつながって

少しずつ楽になって

この先強く生きられるように。

 

ブログという場のおかげで

三日坊主の私も向き合えて

インドにいても孤独にならず

自分を見失うことなく

続けられたんだと思う。

 

感謝という言葉では足りない程

ブログは私の大切な一部を

そのまま内包してくれた場です。

 

 

読んでくれる方には

その方々なりの

嫌な思いを

誘発してしまうかも、と

いつも心が揺れながら

 

 

ここが特別な場であるという

位置づけは変わらないと

今さらながらに思うのです。笑

 

私の心の寄り所になってた。

 

現実や生活が忙しく

充実する時期ほど

自分の内面に立ち返ることを忘れると

私はすぐに迷子になっちゃう。

 

 

今また

自分に戻って来たくて

ディワリの爆竹音の中で

心の空洞を見つめています。

 

 

初めてのこと

異文化の風習

お祭り騒ぎに

神事の祈り

来年のお嫁入り。

 

揺れてもいいんだって

思っていられなかったら

できなかった笑

 

 

3年目でもやっぱり

私は私なだけ

あたふた、いそいそ

流されまいとする程に

苦しくなるばかりで

 

 

 

楽しくて忙しく

皆がやけに上機嫌の

ディワリが終わりつつある。

 

これからが本番

これからが正念場

 

そんな気分になるのは

私だけだろうか

 

 

言って願うだけなら簡単なのに

実務と責任と現実は不確かだ

 

愛しているとか

全てうまく行くとか

幸せを願ってるとか

あなたなら大丈夫とか

 

信じてもらうのは嬉しいけど

正直ここでの生活は

まだ不確かな事だらけで

何も十分には出来なくて

悔しくて情けないし

今はまだまだ

 

 

母を村の結婚式に呼ぶこと

 

航空券も取ってしまったのに

まだまだ、決断が追いつかない。

 

 

嫌な思いをさせるんじゃないか

 

そんなことがまだ

怖くて仕方がない笑

 

 

 

老齢の母には申し訳ない事ばかり

 

出来れば

もっと良い思いをして欲しい

 

私が勝手な好奇心や冒険心や

身の程知らずに

家族の心配も省みずに

来てしまったことは

誰のせいでもなくて

 

分かってもらえないからと言って

苦しむのも苦しませるのも

もう終わりにしたいのに

 

私の勝手にはできないってこと

今までのツケなんだろうか笑

 

 

母とは

分かり合えないのが典型だった。

小さい頃から

「自分の事は自分で」と、

困って相談したくてもできず

尚更分からなくなるばかり笑

 

もう大抵の事はできるけど

インドの村の結婚式は

私だけの力では実現しない。

 

安心してもらえるお家に嫁ぐことも

目の届く範囲で堅実にやることも

なぜか私には出来なくて

母の思うような娘じゃないのは

仕方のないことだけど

 

 

嫁入り衣装も見て欲しかった。

 

でも電話でも具体的な話になると

母はとたんに関心のない口調になる

 

「あなたはどうしたいの?」って笑

 

 

私はただ

お母さんと

あーだこーだ

言いたいだけ笑

 

 

小さい頃や思春期に出来なかったこと

最後にやってみたかったのかもね

 

 

母の分からない国に嫁いでも

母の思うような娘になれなくても

遠く離れても自分勝手でも

ただ

幸せになりたいだけだよ

 

 

 

インドの新年、ディバリ(ディワリとも言う?)が近づいている。今年は11月7日。先月のドゥシャラ、カルバチョート、そしてディバリと、新年に向けたこの時期は本当に忙しない。皆がお土産を抱えて里帰りするので道路も混むし、プレゼントを贈り合うのでディバリ商戦も今が佳境。おかげでパソコンショップで働く我が夫はここ3週間お休みナシ泣(売り上げトップな本人は嬉々としてますが)。

 

ドゥシャラでは爆音爆風ススまみれになりながら広場で祭りを見物し、カルバチョートでは断食はやめたけどメヘンディしてお供物準備してのプージャ、ディバリでは家の物や服を新調し、ランゴーリという床絵を描いてラクシュミー女神をお迎えし、大晦日のカウントダウンにはアパートの屋上から、360度ノンストップ数時間!の打ち上げ花火合戦に参戦する。っていうのが去年からの我が家の流れ。

 

 

楽しみ。。。っていうのが半分

大丈夫なのか。。。?がもう半分

 

 

でも正直、めっちゃ疲れる!。。。笑

 

 

(きっと来年には慣れるのさ!)

 

 

 

先月からスラム支援のNGOで働き始めたけど、この職場も今ちょうど忙しく、事務所を引越したり、怠慢な責任者を解雇したり、アメリカから創設者の老夫婦が事務所に1ヶ月滞在しに来たり、新たに支援する地域を設けたり。

 

おかげで引き継ぐ仕事が増えた同僚たちもテンテコ舞い。私は「急ぎ」で準備するレポートやプレゼン、告知の作成にアップアップしていた。引越し作業中にデスクに向かっても、パソコンが工事の埃まみれで仕事にならなかったり。笑

 

 

そんな中でも、入ったばかりの外国人の私に信頼して仕事を任せてくれたり、同僚は明るく元気な若者たちで、テンパる度にいつも助けられてる。

 

「ノー・テンション!(ストレスはだめよ!)」

「インスタント・リスポンス!(悩まず即決よ!)」

 

と、スピード感はあるけど、ほとんど吟味されないまま仕事が世に出て行く感じがスリリング!でもミスがあった時は、特に咎めなしに代表責任で静かに削除されてたり。。。なかなか面白い。

 

ヒンディー語がほとんど分からないので、混み合った事情にはノータッチでいられるというお得な部分と、刻々と変わる状況について行けずに一人遅れを取るダメな状況も多いけど、周りがカバーしてくれたり、事務局員は全員英語が堪能で大分助けられてる。

 

え?インドは英語話すでしょ?って思う方もいらっしゃるかもしれませんが、南インドの大都市ならともかく、ここは北インド。英語が流暢な人は少数派なので、とても有り難いです。

 

 

 

最初は自分の物差しだけで「ゆるい?」「いい加減?」と感じてたこちらの仕事のやり方にも、絶妙なバランスの元に成り立っている事も、少しだけ認識できるように。

 

まず、インドならでは、そしてNGOならではと感心するのが、スラムの住人である女性たちを医療や教育の専門分野でトレーニングして、スタッフとして起用して来たこと。人道支援で大切な原理の1つは、単なる外からの資金や物資による支援ではなく、地域住民「自ら」の自立とエンパワメントを促すこと。今ではスラムの「民生員」の様に活躍する15名程のスタッフたち。現場で働く彼女たちは皆、いつも活き活きとしていて、謙虚で一生懸命、そして一致団結している。

 

事務局のスタッフにも、スラム出身の女性、そしてろうあ者の男性がいる。仕事の成果次第で、出身や学歴、障害者の差別をしない所がとても自然で、爽快である。日本だったらわざわざ障害者枠を設けて審査したり、職場でも気を使いそうなイメージ(私の)だけど、全く大変な事もなく、逆に全員が器用に手話を使いこなして冗談を言い合うスマートさ。

 

心に仕切りが少ないと言うか、みんな素直で自然なのだ。その中にも人としての大切な摂理はきちんと守られている。荒んだ所がない。外国人の私にも、極めて対等に接してくる。日に日に、発見が驚きに変わって行くよう。

 

 

インドはカーストがあって、「差別」が。。。という私の中の勝手な思い込み。見事に年々崩れ落ちて来ている。そういえば国立病院のシステムも日本とは違って、今年の春に入院した時は、出産も流産も同じ手術室、入院も同じ部屋、赤ちゃんも産婦も流産婦もみんな一緒に語り合いながら幾晩かを乗り越えた。誰とでも自然と団結して助け合える人たちだと思う。

 

カーストや地域差などの「区別」は物理的に存在してるけど、心に「差別」の闇を抱えて生きられる程、多くのインド人は暗くない。明るくて切り替えが早くて、もう次の事に意識が向いてるのが私の出会ったインド人。学ぶことが多いし、そんな風になりたいとさえ思ったり。

 

 

一方で、うちのアパートの大家さんなどは、世話好きが高じて介入過多だったりして、一定の「距離」を置かないと付き合えなかった事を思うと、人との関わりの中で「区別」や「距離」は絶対に必要なもの。インドの「距離感」に慣れるまで、私たちは揺さぶられるのだろう。メイドや使用人を使う層も、男女の役割の明確さも、貧富の莫大な差も、スラムの貧民街も、決して「差別」が色濃いということもなく、それぞれの役割をこなしているだけ、というのがインド社会なのかなぁと。

 

 

まだまだ、分からないことだらけ。

 

 

そう思っておいた方が、逆に救われることが多いという、不思議な国だとつくづく思う。最悪の事件も最善の奇跡も、同時に起きているような両極を内包する、でっかい国なんだなぁと。

 

 

 

混沌の中にも、秩序がある。

喧騒の中に、良心がある。

冷たさの中に、優しさがある。

 

 

全てを許し受け入れながら、やるべき事を果たして、前へ進むしかないことを知っているかの様な、スピード感のあるインドの年末。ディバリが終わるまでは私も泳ぎ切るしかないけど、書きたい事が多すぎて追いつかない!笑

 

 

こんなに長くなったのに、また隙を見て書きたい。。。!という。

 

 

ディバリ当日には木星が蠍座から射手座へ。深い葛藤がクリアになって、前進していく空気を象徴してます。色々をスッキリさせて、新年を楽しみたいものです。

 

ディワリに向けて募金キャンペーンのデザインを担当しました。スラム発の草の根活動、その思いが広がりますように。。。!

この2週間

期待、希望、夢が膨らんでいた。

 

もしかしたら、これまでよりもっと

ここにいる意味が見いだせるかもと。

 

私は、夫と一緒にいるためにインドにいる。そして、当初インドを訪れた目的でもある、ヨガや瞑想などの精神世界にもっと触れたいという欲もある。今は2人になった生活をもっと充実さなくてはという焦りも。

 

 

何とかしなくては。

 

 

気が付けばそんな焦燥感、フラストレーションをいつも抱えていた。

 

ここでは知らないことばかり。少し覚えて少し好きになる度に、新たな現実と、さらに何とかしなくちゃという思い、そして圧倒的な失望にさいなまれ、葛藤してしまう。

 

この土地の現実は、知れば知るほどに、私に選択を突きつけて来るようだった。慣習に服従したように見える人々。自由や快楽を恐れる風紀。責任を回避したがる風潮。異質なものに対する冷ややかさ。そんなものばかりが際立って、静かに心に積もっていたかもしれない。

 

本来の私が愛する表現の自由や、個人の持つ可能性や、多様性を認めてこその豊かさ、遊び、喜び、尽きない好奇心、オープンな議論から生み出される新しいアイデア、より良いやり方、夢を形にして行くこと、生きて成長し続ける実感。そういうものが滞って感じられたからかもしれない。

 

夫のことは大好きだけど、この広大な混沌の中、2人だけのアパートで向き合っていても、そこに意味を生み出せる限界があった。40過ぎまで社会の中で生かされてきた。急にインド人の様にも、専業主婦にもなれる訳もなく。

 

 

何か出来ることはないかと、外に外に求めて行くのは自然だったかもしれない。

 

 

窮屈なコロニーから少し外に出て、夫のバイクで40分の朝の通勤。2年も住んでいたのに見たことのなかった毎朝のインドの通勤ラッシュ。普段買い物のついでに見るのとはまた違った、エネルギーに満ちた風景が目に映る。

 

高級車の役人も、平均月収3万以下と言われるインドの労働者のバイクの群れも、物乞いのおばさまも、道路脇の露天も、みな一様に1日のスタートを切る。時に我先にと競り合い、時には順を譲り、これから始まる1日への期待と高揚の大きなうねりは、前へ前へと進んで行く。

 

昨夜見た、憐れみをまとってタクシーの窓をノックするはずの子供たちは、今朝は学校に行ったのだろう。母親の手伝いをしているかもしれない。市営バスにはメイクも凛々しい若い女性が目立つ。私の様に夫のバイクで勤務先に向かう働く女性もよく見られた。

 

スラムと呼ばれる集落にも、朝の活気が訪れる。リキシャも、馬車も、学生も、サリーのお母さんも、それぞれの生きる目的に向かって、朝の道路を闊歩する。この2週間、毎朝目にした風景はとても新鮮で、明日への希望と生きるエネルギーに満ちていた。

 

それで私は、もうインドの心配はしないことにした。笑

 

インドの心配より、自分の心配。

 

本当、そこに尽きる2週間の色々だった。

 

 

社会に対して「何かしなくては」という気持ちは、その人の個人的な経験や思いが背景にある。だからこそ強く突き動かされ、基盤があるから物事が成される。けれども、思いや経験が未消化で、未熟なままでは危ういものだ。社会や他者に対して影響を及ぼす行為が、未消化なストレス発散や私的な成長の実験場なのだとしたら。

 

まずいなぁ。と感じた。

 

例え求められたとしても

お互いに、履き違えちゃってる。笑

 

 

これはあくまで今の私の話。だって私も、自己実現と成長の過程でいくつかボランティア活動をして、その懐を借りて学ばせてもらって来た。何度も限界を見て、泣いて、もがいて、自分の居場所を見つけて来た。迷惑もいっぱいかけながら笑。だから「自分探し」をダサいと思う程冷めてはない。

 

 

でも今は、自分を見失ってる場合じゃない。

 

異文化の国で社会に出ること自体、それなりの難しさがあると思う。それはデフォルトとしても、この、毎朝見せつけられるインドの生きるエネルギーに私は叶うんだろうか。こんなに強烈に渦巻く息吹に、私なんかが出来ることがあるって、勘違いしてるだけなんじゃないか。

 

圧倒されていた。

 

どこか萎縮して行った。

 

そして開き直った。

 

自信なんてない!なくていい!笑

 

 

 

オフィスで気のいいインド人の仲間と働いてみると、案の定?噂通り?、何が出来なくても自信満々の受け答え、終わってなくても嬉々として帰路に着き、やってなくてもやったと喜ぶ摩訶不思議ワールド。

 

そして今回何より響いたのは、このご時世の北インドでは、慈善活動は立派な「事業」だってこと。当たり前のことですが、私自信の欲求不満が、ちょっとだけピュアな夢を見させてくれただけだったことに気づいて、びっくりして目が覚めた。笑

 

 

事業主がいて、事業があって、雇用者がいて、色々回る。

回るのは商品や、サービスを介した雇用や経済、

スラムの衛生、医療、栄養、教育の改善を目的とする

寄付金であったりもする。

 

そんなの当たり前なんだけど

何か腑に落ちなくて引っかかっちゃうのは

ここがインドだから?

 

インドでは慈善事業はお金持ちの仕事。。っぽい。から?

元々資金のある限られた一部の人が

その生活水準を崩さずに

「非営利」で運営できて

寄付者も税金対策のお金持ち。

 

おじさん、おばさんばっか。笑

 

この時点でもう、私の知る日本の草の根学生ボランティアとか非営利フリースクールとのギャップが。いわゆる人民による人民のためのじゃない感じ???

 

当然インドは歴史的文化的背景が日本と全く異なるので、そう思うと飲み込まざるを得ないけど。カーストではっきりと職業区別があり、元々マハラジャの国だし、英国植民地時代の影響のヒエラルキーもバリバリ。

 

民主主義にはほど遠い。。。。

 

 

のか、どうなのか?

 

 

スラムに雇用を産んでるのは偉業だし、乳幼児死亡率も劇的に下がって地域をようやくまともな暮らしに立て直した業績は素晴らしいし、確かに誰もやらなかったら何も変わってないだろうし、とにかくやっている事は変化を産んでる。

 

地域貢献。

 

 

でも何となーく、例えばだけど、実家の北海道の田舎の事業所とかと同じ臭いがする。。。笑。謳ってるんだけど、さほど大きな理念はまだ感じられない。

 

 

私に向いてないだけかもなぁ、こういうの。笑

 

なるようになるとは思うけど。

偶然に見えることほど

 

年月や経験

自分や誰かの欠けがいのない思い

様々な奇跡の結晶かもしれない。

 

巡り合わせもあるし

努力の結果でもあるし

 

でもその偶然に何を傾けられるかは

その時の覚悟次第でもある。

 

情熱があっても恵まれない時も

機が熟さない時も

踏み出せない時もある。

 

努力や下積みの苦悩、決死の覚悟や

そんな紆余曲折の価値なんて

人からは見えないと思ってた。

 

見えなくてもいいし

見えっこないって。

 

そう思うことで

自分の人生や

価値を軽く見積もっていた。

失敗した時の防御線みたいに。

 

 

 

誰もがその生を

長年かけて積み上げて行く。

生まれた時から見守られ

慈しまれ

大切に育てられた価値を

 

その心に小さな情熱を灯して

時に色々なものを諦め

成長の苦しみの中で

人並みなものを切り捨て

それでも

どうしても捨てられずに

求めてきた価値

 

それが偶然の正体かもしれない。

 

 

 

最愛の夫は分かってくれていた。

私自身が価値を見失いそうになる時も

何を言わずとも

すべて汲み取ってくれた。

 

突然に見えた仕事のお誘い

 

でもその背後には

夫の海よりも深い愛がある。

 

2年間、私がインドで苦しむ姿も

葛藤も、成長も、

全てを見ていてくれてた。

 

私が私らしくいられるように

ありったけの手を尽くし

いっときも忘れることなく

ずっとその機会を探しながら

周りに声をかけ続けてくれてた。

 

何度も流産をして

ボロボロで

ひとりでは立ち上がれさえしなかった

こんな私を諦めずに

ずっとずっと見ていてくれた。

 

子供を亡くす哀しみ

命がある限り

誰の生にも機会があると

希望を見い出して

生きて行きたいってことも

全部分かってくれていた

 

 

外国人の私と一緒にいるために彼は

幾度もの困難を乗り越えてくれた

 

外国の事など何も知らなかった

村出身の青年なのに。

 

婚姻手続きのために

どれだけ準備に奔走したか。

親戚の心配の声を押し切って

孤独の中で

自分たちを信じて。

 

何事にも誠実に向かってくれた。

いつも私を一番に思ってくれていた。

多分、自分自身よりも。

 

その価値を

私は分かっているだろうか。

 

 

 

何もかもが違うインドの下町に暮らして

苦しい時も、幸せな時も

笑顔を絶やさず側にいてくれた。

 

こんな面倒臭くて

弱くて、わがままなのに。

 

 

 

私にはあげられるものも

してあげられることも

ないと思ってた。

 

もうそんな風には思えない。

自分に価値がないなんて言ってたら

2人で作って来た生き方には見合わない。

 

そのことをもっと大切にして、

もっと大切に育てて行きたい。

 

私たちの人生の価値を

もう軽んじることなく

見誤ることなく

私も

真剣に作って行きたいんだ。

 

 

これからもインドで生きて行く。

何がなくても切り開いて行く。

生き残っていくし

もっと活かされて根付きたい。

 

強くならなくては

与えられる愛に報いない。

幸せになろう、もっと。

困難でも進んで行こう。

 

 

偶然なんてない。

 

全ての出来事は

誰かの思いや行動の結晶だから。

 

だから私たちは

自分の価値を軽んじることなく

心に灯る情熱を

譲る事なく形にしなくちゃいけない。

そうすることで

思いと行動が巡り繋がる。

 

生きるって

そういうこと

 

感謝って

そうやって現して行く

 

謙遜してもいい、下手に出てもいい

そうすることが必要とされるけど

生きる価値は見誤らずにいたい。

 

だって、知らないだけだった。

知らないフリして、忘れてた。

 

自分だけの情熱に向かって

この生を生き切ること。

 

それに優る価値は

この世界には他にないと思う。

夫はパソコンショップで働いている。

 
夫の働く店の話は面白い。メーカーのプロモーションでクリケット選手が来たり、○ャノンの視察で日本人の役員の方が見えたり。
 
ここぞとばかりに、「コンニチハ!って挨拶したよ!喜んでたよ〜。」って電話をくれる夫。楽しそうで良かったね〜と思う。笑
 
店のオーナーはシーク教徒のおじいさん。長年の付き合いで顔が広い様で、あのボリウッドスター、サルマン・カーンと「友だち」で、電話をかけることもあると言う(毎回は電話に出ないみたいだけど)。
 
そいえば私たちがインドの婚姻登録をした頃、婚姻登録所の窓口の人がパソコンを買いに来て「いっぱいオマケしといたよ!これで早く登録が済むといいね!」と夫が言ってたけど、確かに登録自体は問題なく済んだっけ(警察に賄賂要求された以外は)。
 
インドはかなりの癒着社会。
 
多くの事が、知り合いやその知り合いを介して成されていく度合いも、日本とは違ってる。
 
袖の下
根回し
融通する
施す、、
 
 
等という、日本ではもうあまり使わない概念が、日常的に行き交う。
 
 
私は「なぁなぁ」な感覚が苦手な人。家族だから特別とか、この子だけとか、そういうのが苦手。私が区別しなくてもご縁やタイミングが繋がる時は自然にあると思ってる。誠意はあるけど忠誠心は特にないかも。
 
だから実家のある田舎の組織はそんなに合わず、お局さまの言ってることの意味さえ汲めず、流行りの社畜にもなれなかった。。w
 
 
で。
 
 
夫が先日突然、「アンティーが学校見に来てって言ってたよ!」と言い出した。突然なので、どこのアンティ?何の学校?と???となる。
 
 
どうも夫は、私が日本の幼稚園で英語を教えていたことを知ってるので、こっちでもそんな仕事がないか気にかけてくれてたらしい。それで、知り合いでパソコン店の常連さんが学校を運営してると聞いて、「日本人の妻が、お宅で働きたいと思います!伺ってもいいですか?」と、話を進め(てくれ)たらしい。
 
 
こういう時のインド人の話の速さは、日本の何倍速だろう?「スラムの貧しい子供たちに英語を教えて欲しいんだって」と夫。「とにかく明日の朝来てほしいって言うから準備してね」と。
 
確かに私、子供は好き。そして英語も好き(E○CジュニアのCM?笑)。スラムの事も気にならないこともない。そして何より、暇で死にそーでもある。。。いや、でも。。。?
 
グルグル考えそうになったけど、そんなスキもなく「アンティ」から夫に電話が。
 
「ヘロー?アシーシの奥さん?名前は何て言うの?明日、楽しみにしてるわよ〜!きっと気に入ると思うわ。じゃ10時にね!住所送っておくわ。」
 
イマイチ状況が飲み込めず、適当な相づちを返す位しか出来ていなかった私。。。気が付くと明日の朝に、非営利の慈善団体が主催する、スラムの子供たちが対象の幼稚園を見学することになってた。
 
何でも前日に決まるインド。笑
 
そろそろ慣れて来たけど、情緒的にはまだ何拍子も遅れるわ。
 
 
見方を変えると、明日のことなんて決まってはいないということ。うまく行かない日々が続いていても、どこか自信をなくしてたって、明日は突然!やって来る。笑
 
 
だから、どんな自分であってもいいって、特にここインドでは、自分に優しくおおらかでいたい。
 
自己実現って、必ずしも狙ったことばかり実現するかと言うと、うーん、そう思ってた頃は大抵バーンアウトしてた。日本では私、何でも独りでこなせるようになるのが自立と思ってて。
 
周りに感謝しながらも、もっと委ねて、もっと手放して、もっと信じて任せて良かったのかもしれないって、インドに来て思った。
 
 
そもそも、1つの仕事を最初から最後まで自分でやるインド人とか、まだ見たことがないのよ。。その分周りに干渉されるけど、夫を見てるとどうも、
 
人の話は半分くらいしか聞いてないし。笑
 
 
正直戸惑う気持ちもあるけど、全部自分で背負わなくてもいいなら(笑)インドの人たちと一緒にお仕事、出来るだろうか。。。w
 
 
。。。、と、半分運を天に任せる気分で、明くる朝、スラムの学校へと向かったのでした。まだ見ぬ世界と、インドですっかり自信を失くしてる私にも、まだ何か出来ることがあることを祈って。
 

近所に住む夫の親友、S君。夫の田舎でも、家同士が割と近所らしい。

 

S君は以前にもブログで何度か登場していて、去年の私たちの宗教婚で証人になってくれたり、まだ私が来たばかりの頃はよく部屋に遊びに行ったり。

 

夫が駆け落ちするものと親戚が誤解して、夫を村に連れ戻そうと暴力を奮った時も、いち早く私に連絡をくれたのはS君だった。血相を変えて「大変な事になった」と。あの時は一瞬、交通事故にでも遭ったかと思って心臓が凍りついたっけ(かすり傷で済みました)。


夫より3才年上のS君は責任感が強く、真面目で堅実。

 

その一方で、自分を曲げない頑固さもピカイチ。自分の価値観が絶対だって思いたいタイプ。でもまだ自信がないのか、外国人の私を見ると自分の正しさを確かめたいかの様に、色々とふっかけてくる。

 

前回ブログでS君が登場したのは、S君が私に「インド料理を作って見せてごらんよ」的な事を言った時かな。それも、私の家のキッチンで。

 

インドの人って、「インドはNo.1である」(仮)っていう幻想に取り付かれてる人も多い。それは教育なのか、健全な競争心からなのか、劣等感の塊なのかは良く知らない。笑

 

具体的な#1記録を提示する訳でもなく、事実無根の思い込みで「だからインドって凄いんだ。ジャイヒンドゥ。」とか言われても、共通概念のない外国人にはポッカーンて感じ。

 

例えば私が「インド料理好きだし、日本でもよく食べてたよー」って、会話の流れで言ったとする。それをジャイヒンドゥーな彼らは、おそらく拡大解釈してしまうらしい。

 

私がインド人と結婚してインドに住んでるって事実でさえ、彼らの都合の良い様に解釈されてる感じさえするし(=そんなにインドが好きなのは、インドがスゴイ国だからか!ジャイヒンドゥ!みたいな。笑)

 

 

違うから。笑笑笑

 

 

真面目なのはよく分かる。一生懸命なのも。熱いヤツだってことも。でもねー、自分の価値観だけを押し付けて(こっちの話とか全く聞かないで)、順位も何もはかれますか?

 

 

まずは、お互いを知ること。

 

健全な国際競争も、そこからなんじゃないの???

 

 

って、日本のおばさんは思っちゃう。だから「インド料理作れ」事件以来、S君とは適度な距離を置いてきた。笑

 

 

教え込まれた価値観も良いけど、それを一旦取り払って、自由意志で深く思考出来るようになって始めて、集団の中で抜きん出ることも、結果を残すことも出来るんじゃないのか。ま日本もインドも集団思考が強いから、出る釘は変わり者で終わるのかもしれないが(私ー!笑)。

 

 

先日のこと。久々にラジャスタン州から帰郷した友人のための飲み会で、S君宅に行って来た夫が、

 

「S、明日ついに駆け落ち婚実行だって!」

 

と、半ば興奮気味に、嬉しそうに教えてくれた。3年越しの付き合いの大学生の彼女と、いよいよ作戦実行に移るらしい。

 

彼女の両親からずーっと反対されていて、何度も直接会いに行っても却下。ついには出禁にまでなってしまい、S君の両親も兄弟も困り果てていた。彼女の父親は軍の幹部で厳しい人らしい。拒否する理由は、彼女の家のカーストがS君の家よりも上だからと言うもの。

 

いまだにインドでは結婚はお見合いがほとんど。その理由は、カーストっていうその家の地位を守ったり、経済状況だったり。まだ「恋愛」が結婚理由になるほど、甘い状況ではないのだろう。それこそ古い価値観を、よく考えもせずに守り通したいのかもしれない。

 

それって自分を正当化して、相手を認めないことにも通じる。

 

 

法律ではカーストで結婚や進学、身分の差別をすることはとっくに禁止になっている。時代の流れはインドだって避けられない。人の思いを尊重してこそ、自分も尊重される流れが出来て行くのだろう。

 

彼女には何度か会ったことがある。まだ大学4年生、今どきの女の子だけど、しっかりしてそうに見えた。でも私はちょっとだけ、心配で仕方ない。

 

 

何しろ私たち自身も「駆け落ち」すると誤解され、彼の家族やアパートの大家さんから言われのない仕打ちを受けたので、本当に駆け落ちしちゃったら、どんなトラブルが起こるかも分からない。

 

何度も書くけどインド社会って、日本のように価値観が多様でも、寛容な訳でもないから尚更。宗教婚をして婚姻証明書を取ることは出来るけど、そこからが長い道のりのような。。。

 

 

そして昨日。夫が「見て!S君たち、無事に結婚式(宗教婚)出来たみたいだよ」って、彼の携帯に送られて来た、S君と彼女の婚礼衣装姿のツーショットを見せてくれた。

 

S君、幸せそう。。。

Mちゃんも、いい笑顔。。!

 

3年越しの純愛を実らせて、とうとう宗教婚を挙げた2人の姿を見て、少しホッとするやら、さぁいよいよ色々始まるぞー(周りがね)って感じるやら。どうかこの先暴力沙汰とか、彼らの意志を無理やり捻じ曲げる様な暴挙が働かれませんように。。。!

 

そのために、私が出来ることはあるのか、ないのか。笑

 

 

発覚を避けて別の町で婚姻登録をするという2人は、これから1週間ほど新婚旅行の予定。近所のS君のアパートに帰って来るのか、どうなのか。もし帰って来て新婚生活を始めるのだとしたら、心細いであろう彼女のために、何か出来ることをしてあげたいなぁとか。

 

これが日本だったら、全力で止めてただろうけど!笑

 

 

S君がよく冗談半分で「This is INDIA!」って言うのだけど、そうだよね。これがインドの現実なのだろう。だから今回は何も言わずに、そっと応援出来たらと思う。

 

私たちも国際結婚だったとは言え、彼の家族が全部を納得するまで待つことは出来なかった。結婚は本人同士の一大事。インドもこうやって、個人レベルから少しずつ変わって行くんだろう。

 

価値観は、移り変わる。

 

 

まるで生き物のように、どんどん新しい技術や知識を取り入れて、インド社会も変容しているのを感じる。

 

人道的な良し悪し、社会的な利益不利益、個人の嗜好に合う合わない、色々なレベルの価値観があって、この地に足を踏み入れたばかりの私は、目が回りそうになるほど気持ちが揺れることもある。

 

でも自分の価値観を大切にするってことは、ずっと頑固に変わらずにいることではない。日本バンザイって主張することでもない。ジャイヒンドゥーになることでもない。自分の芯の部分は大切にしながら、しなやかに、感謝してこの場所で生きて行きたい。

 

 

S君がちょっと前まで「彼女の両親が許せない。僕たちの結婚を受け入れてくれても良いのに。」って、怒ってたのを思い出す。その時は、それはちょっと違うよ〜。お互いに許せないんじゃ、ずっと平行線じゃない?なんて思ったものだけど。

 

でもま、まずは実力行使できっかけを作っておいて、その後全面的に向き合う覚悟があれば、それはそれで、収まるところに収まるものだろう。

 

 

きっとお互いが少しだけ心を緩めて、お互いの良さ、巡り会えた幸せが見えるようになったら、魔法の扉が開くんだろうな(妄想が止まらない)。

 

 

偶然はすべて必然だと、ヨガの先生が教えてくれた。

 

 

そう思うだけで、どんな出会いもキラキラ輝き出す気がする。

 

義姉1の新築のお宅にて私たちの婚約式が始まったのは、日も暮れた夜8時頃。キレイに片付けられた居間の壁際に椅子が2つ並べられており、そこが高砂席らしい。夫と私は言われるままに着席。

 

すると義姉1、2、3の子供たちが大人たちのスマホを持って私たちをとり囲み、撮影会の始まり。今まで停電してて電気が戻ったばかりの部屋は、何故か青色のLEDが灯っているけど薄暗い。後で写真を見せてもらうと見事に青い写真ばかりで面白かった。

 

その頃隣のキッチンでは目下、マサラを炒めている最中の様で、笑顔を作ろうにもスパイスが目に沁みて、目を開けているのがやっとの状況。思わず隣に座った夫と顔を見合わせて笑ってしまう。すでに色々なハプニング満載の、手作りの婚約式。インドらしくて、気さくな夫の家族らしくて、心の緊張はあっと言う間にほぐれて行った。

 

その後は私だけ横の寝室に呼ばれ、ベッドの上に座って待つ様に言われた。これまた言われた通りにちょこんと座っていると、いつも厳し目の義兄1が来て、

 

「もう家族なんだから、ここは君の家だからね。今晩は泊まって行きなさい。」と言ってくれた。泊まる準備はしてないけど、めずしく優しくて上機嫌な義兄に丁寧にお礼を言う。これからまだ親戚や近所の人が集まる予定らしく、到着を待つ間、私は子供たちとセルフィー大会、スマホのゲームで盛り上がる。

 

近所に住む姉3と家族は一旦自分の家に戻り、夫は彼女たちを「招待」するためにわざわざ出向いて行った。きっと正式にはもっと色々な手順と役割があるんだろう。私も外国人で家族も近くにいないので、きっと簡易バージョンでやってくれていた。でも出来る限りは正式な手順を踏む様にと、現場監督の義母が皆を促していた。

 

しばらくすると義姉3と夫が到着。寝室にお義姉さんたち3人とお義母さんが勢揃いして、私の上に乗っかってる子供たちをどかし始めた。義姉1が「ビューティーセット」と書かれた箱を持って来て、私の隣に。ビューティーセットの中身は新品の口紅とマニキュア、既婚女性が額に貼るビンディー、手に模様を描くためのメヘンディ、額の髪の生え際に塗るシンドゥール。

 

私のために一式用意してくれたことを思って、ちょっとジンと来る。女性陣に見守られながら、義姉1はそれら1つ1つを取り出して、私にお化粧を施してくれた。小麦色のインド女性の肌に映えるであろう極彩色のお化粧に私はクラクラ笑。夫が冷やかしに入って来ると、すぐに義母に追い払われて退散して行った。

 

最後に両手に真っ赤なバングルを何重にも装着し、真っ赤な布に金糸の縁取りがされたドゥパタを被って準備完了。初めて会う親戚のおばさんやおじさん、その子供たちに挨拶をしながら、再び居間の高砂席に座った。夫も再び隣に座り、緊張して半分固まるやら、こっちを見てニヤニヤするやら。笑

 

すると女性たちが居間の片隅に集まって座り、誰からともなく「結婚の歌」を口ずさみ始める。以前彼の田舎の村で、彼の親友の結婚式で聞いたのと同じ歌の様だった。日本の昔の数え歌の様な、農作業の時に女性が歌う歌の様な、素朴で可愛らしい節だった。

 

歌を歌ってもらいながら、集まった人たちから順番にお祝いの品や現金を受け取る。ゴロンと手の中に何か渡されて見ると小さなココナッツも。何故か白いハンカチを何枚も頂いた。これで夫がキチンとハンカチを使ってくれる日が来るだろうか?

 

お祝いをもらっている最中から、夫は小声で「このお金は受け取れないよね」と私に言って来る。「僕たちのために全部準備してもらったから、このお金はみんな、後で母に渡そうね」と。私は「そうだね」と言って、親の苦労を見て育った彼の心境を思い、心優しい旦那さんで良かったなと思った。

 

 

義姉1の長男サチンが、私と夫のために作られた指輪を持って来てくれた。初めて見るシルバーの指輪。不器用な夫がテキトーに私の中指に指輪をはめようとしたので、笑ってかわして薬指へ誘導。笑。私も夫の左の薬指に指輪をぐいっとはめ入れた。キーチェーンでも鍵でもイジってすぐ壊す夫だけど、この指輪だけは、どうか末長く大切に出来ますように。。。

 

 

時刻は既に10時半を回っていたけれど、誰も食事を口にする気配はない。それどころか、就寝時間も過ぎた筈の子供たちがやけに活気付き、「マーミ!ダンス!ジャパニーダンス!」と、唐突に私に踊るようにせっついて来る。日本のダンス?盆踊りしか知らないって。。。

 

 

私がもじもじしていると、誰かが大音量でパンジャービ・ソングを流し始める。と同時に、普段は大和撫子ばりにおしとやかなこの家の主、義姉1が見事なステップと腰さばきでダンスフロアーへ繰り出した!笑。子供たちも大盛り上がりで後に続き、踊らずにはいられないインド人の血が騒ぐのか、何とこの後義母までが見事なダンスで参戦。。。!(おととい電話で「糖尿病が悪化したかもしれないから病院に連れてっておくれ~」って夫に訴えていたのは誰?っていう機敏な動き!!)

 

本当に高血圧で大変な義姉2は座ってニコニコ皆を眺めている。子供も大人も、一体いつ練習してるの?って思うほど、時に激しく、時に優雅に華麗なステップを踏んでいた。そして夫の地元、ヒマチャル州の曲がかかると皆、大興奮。どんなに拒んでも輪の中に引きずり出されてしまう。でもヒマチャルの曲はちょっとスローテンポで踊りやすい。阿波踊りか琉球の踊りの様に手を上に上げてひらひらさせたり、クルクル回ったり。

 

すると屋上で祝杯を交わしていた男性たちが降りて来てダンスに加わった。ほろ酔いで半分前後不覚。。。!途中おじさん同士で相撲大会の様になり、子供たちも大盛り上がり!更にふざけて誰かがボリウッドのディスコナンバーをかけ始め、普段クールな義姉3までもがボリウッド女優並みに激しいナンバーを踊りこなすのを見て、私は涙が出るまで笑転げてしまった。。。w

 

あーーーー、こんなに笑ったの、いつぶりだろう?笑笑笑

 

 

私の小さかった頃の思い出が蘇えるようだった。あの頃はお正月やお盆と言えば決まって親戚が集まって、一緒に鍋を囲んだり、ゲームをしたり、大人たちはベロンベロンになるまで酔っ払って、思いっきり笑って、いっぱい食べて。今はそんなこと、誰もしなくなっていた。そんな懐かしい家族の居場所が(80年代w)が、ここインドにあったなんて。

 

 

いっぱい踊って、いっぱい笑って、言葉は通じなくても、一気に距離が縮まった気がした。こんな面白家族が、ずっと一人ぼっちだった私を、インドで待ってくれてたなんて。

 

お酒に弱いのに調子に乗ってウィスキーの入った夫と、最後に何の曲とも分からないダンスを踊った。もう自分の夫だと言うのに、何を言っているのかも分からなかったけど、やけくそに幸せそうで、私もとっても満足だった。その後も宴は延々と続くかのようだったけど、緊張も解けて疲れが出た私は一足先にご飯を頂いて、隣の寝室で休むことに。

 

 

翌朝目覚めるとベッドには、夫と義姉3の双子の息子1ラウル9才がまだ熟睡中だった。義姉1と義母だけは早々の目覚めて台所の片付けをしていたので、慌ててちょっとだけ手伝ってみたりw。昨夜私が寝る頃には余興も頂点で、「酔拳」ダンス?を踊っていた義兄1も起きてきて恥ずかしそうにグッドモーニング笑。

 

何でもダンス大会は朝の3時過ぎまで続き、その後全員で食事をして、早朝4時にお開きになったらしい。さっさと寝といて良かったー!その後もぞもぞ起きてきた夫と、引き止める義母に丁重にお礼を言って、義姉の家を後にした。

 

夫のバイクが置いてある近所の義姉3の住宅まで、夫の実弟サニーのバイクで田んぼの中を3人乗り。トラクターが畑を耕こすその後から、白サギやカラスが虫を探してつついて回ってる。朝ののどかな風景。ふと見ると、遠くの木陰にクジャクが一羽、優雅にお散歩中だった。

 

 

夫のバイクに乗り換えて、再び喧騒と大気汚染と凸凹道の帰路に就く。不思議とどんな悪路も今度は何なく乗りこなせる気がした。私たちにはインドの家族がいてくれる。ようやく出会えた安心と自信を胸に、2人で未来に漕ぎ出すのだから。笑