うるかみるく研究室

うるかみるく研究室

沖縄についてのメモ書き+映画エッセイをちょろちょろと
✳︎2016年10月に「何てことしてくれたんだ神様に謝れ」と某宣教師に怒鳴られて以来、神様不信に陥っています。暴言増えます。✳︎

 

 


私の友人であるHagaさんが、ミュージックビデオを撮影してます。
彼は本場ハリウッドで活躍する撮影カメラマンです。今回のビデオはアシスタントなしで照明さんが1人いるだけ、マスクしたまま必死でハードは振り付けについていったとのこと。是非ご覧くださいませ。

おひさです。簡単告知。
沖縄やーぐまい映画祭、というのをやっているようです。
https://project-nine.info/
おひまな方、覗いてみてください。

 

 

あけましておめでとうございます。今年はかなり暖冬のようですが、読者のみなさまいかがお過ごしでしょうか?
新春一発目の作品は、このブログ初登場の台湾映画です! しかもアニメ! ほんわかした、いい作品です。

 

台北の幸福路で新生活を始めた小学一年生のチー(声:グイ・ルンメイ)の生活は、将来へのキラキラした希望と妄想(笑)に満ちあふれています。お気に入りの番組はもちろんアニメ、それも「キャンディ・キャンディ」とか「ガッチャマン」。チーは妄想の中で王子様を夢見ながら小学校生活を始めますが、そこは台湾語を許されない北京語至上主義の世界でした。ですがチーは金髪のクラスメートであるベティーや、後ろの席のやんちゃ坊主とつるんで教育者たちの思惑からかなり外れた「山学校生活」を謳歌したのでした。
チーには優秀ないとこのウェン(ウェイ・ダーション)がいるのですが、ウェンは「思想がかっている」として当局に捉えられたことがあり、トラウマで色の見分けがつかなくなっていました。ウェンの影響もあってかチーは両親の希望に反して文系へ進学し、やがて学生運動へ身を投じます。新聞記者を経て、その後ウェンを頼って渡米した先でアメリカ人と巡り会い結婚します。

幸せそうに見えるチーですが、夫は子供を望んでいませんでした。妊娠したチーは途方に暮れ、自分をかわいがってくれた祖母の葬儀を通して、過去を回想しながら現実と向き合い、よりよい人生を選択しようとするのです。

 

深ーいアニメ。回想として繰り広げられる情景なのですが、学生運動や民主運動、台湾大地震、ニューヨーク911テロの様子が現在の中国本土や香港、日本そして沖縄の姿とも重なり合います。チー自身これらの出来事の中で大事な友人と死別も経験しています。「歴史は繰り返す」と言いますが、こんなにまで胸に迫ってくるとは思いも寄りませんでした。人はみな必死で生きている。夢を持って生きている。でも現実はなかなかうまく運ばないものです。正直に上を見上げて生きようと決意しても、その決意をくじく「大人になれよ!」という言葉に代表される出来事であふれかえっているのです。

 

よく勘違いされるのですが、クリスチャンになるとすべての悩み苦しみから解放されると信じている人々がいます(そういうキラキラ系クリスチャンがいるのも事実)。でも宗教がすべての人々の悩みを解決するなら世界はずいぶん平和なはずですよね? 宗教の対立が人類の和平を壊しているとお考えの方々も多いようですが、基本的に宗教の捉え方そのものが人それぞれで食い違っているように私には感じられます。

「兄弟姉妹」であり「仲間」であるはずのクリスチャンたちからの対応で私が一番つらかったのは、「お前は神様の声を聞いていない」「お前は間違っている、神様に謝れ!」と断罪されたことです。彼等は聖書のさまざまな箇所をさんざん引用して私がいかに神様の声を聞いていないかを問いただしました。そして「お前が苦しい思いをするのは神様の言葉に従わないからだ」と結論づけました。

はっきりいいます。彼等は間違っています。同じクリスチャンなら「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、(中略)そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。」(ガラテア6:1-2)という言葉を守るはずです。この世はサタンのものだからです。

 

今回、うるかみるくは怒り狂っています。「神様の言葉を聞いて実行した人」が最悪の結果にたどり着いた事例がなんと聖書にあります。旧約聖書『列王記』第13章の“神の人”がそうです。

この方の名前は伝わっていません。ですが、かなり優れた預言者であったことは間違いないようです。彼はユダからイスラエルの悪い王様であるヤロブアの元へ行って(ベテルという場所だそうです)、偶像崇拝を行ったその罪を断罪し預言まで行います。腹を立てたヤロブアム王は“神の人”を捕まえようとしましたが、神が介入されたので伸ばしたその手が萎えてしまいました。ヤロブアム王は反省し、祈って手を元に戻してもらいます。王は“神の人”を食卓へ誘いますが、彼は「パンを食べてはならない。水も飲んではならない。また、もと来た道を通って帰ってはならない。(1列王記13:8,9)」と神様に言われたからと断って帰ります。

すると、帰り道の途上である老預言者が“神の人”を引き留め「私と一緒に食事をしてください」と申し出ました。“神の人”は先の言葉を発してその申し出を断ります。それなのに老預言者は言うのです。「 「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました。」彼はその人を欺いたのである。 」(1列王記13:18)

いいですか、聖書にハッキリ書いてますよ「(老預言者は“神の人”を)欺いた」って!

“神の人”は老預言者を信じました。老預言者と一緒に食卓についてパンを食べ水を飲みました。すると老預言者は突如、“神の人”に向かって大声で言ったんです。「主はこう言われる。『あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられない。』」(1列王記13:21-22)

 

考えてもみて下さい。ユダからベテルまで何kmあると思って? それを徒歩で行き来して、王様まで敵に回して預言を行って命を危険にさらし、しかも絶飲食ですと?? 第一、“神の人”はちゃんと老預言者の申し出を一度は辞退しているんですよ。欺いたのは老預言者です(聖書に書いてある)。神様が“神の人”をいたわる気持ちをおこされ、最初の言葉を翻されたと考えて、それが落ち度といえる? だって神様は『創世記』とかで何度もアブラハムの申し出に譲歩されてますよね? 『聖書』の言葉から学んだらそういった事例を勘案するのは普通ですよね?

でも、神様は“神の人”を叱りました。普通の叱り方ではなく、先祖の墓に入ることを拒絶しました。そして“神の人”は帰り道、ライオンに噛み殺されました。老預言者は“神の人”のなきがらを拾って自分の墓に入れたそうです。

 

この話が腑に落ちないのでしょう(そりゃそーだ)。あちこちのクリスチャンブログでこの話題が取り上げられていますが、たいてい「偽預言者に気をつけましょう」「自分が神様から言われたことを信じましょう」で終わっている気がします。

ひどい話です。「神様がこう仰せだ」と言って信じて行動すれば、きっと彼等は私が仲間からされたように「何てことをしてくれたんだ!」と聖書の箇所をあちこち引っ張って断罪するのでしょう。で、反対に何もしなければ「なぜ神様の言うことを聞かないのか!」とこれまた断罪すること間違いなしです。結局、してもしなくても断罪という結論は変わらない。そして、こちらがどれだけ傷ついたか弁明したら「祈っているからね!」といって逃げるのです。そう、彼等は逃げるのです。

「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。私が来たのは、羊が命を得るため、しかも豊かに得るためである。私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。それは、父が私を知っておられ、私が父を知っているのと同じである。私は羊のために命を捨てる。 」(ヨハネ10:10-15)

 

うるかみるくの結論はこうです。神様の声がどうこうとか、「信仰が足りない」などと口走る人々には注意して下さい。彼等は三位一体の主の言葉を聞いていません。みことばを乱用して自分の思うまま(イコール“悪魔”に直結するかもしれない思想)に操ろうとしているだけです。行動がもたらす結果も大事ですが、結果を受けて次どう動くかはもっと大事。行動した結果で傷ついたあなたに寄り添ってくれる人こそが「兄弟姉妹」であり「仲間」なのです。そんな仲間なら命を捨ててでもあなたを救ってくれるでしょう。

チーが選んだのは、離婚して両親や子供と共に暮らす台北での生活でした。小学生のときに思い描いた幸福とは全然違っていますが、考え抜いて起こした行動の結果に傷つきながらも、チーやその家族はなんとか自らを奮い立たせてまた前を向いて歩こうとします。そこに「幸福」があると信じて。

誠実に生きる人々を神が見捨てることは決してありません。(そりゃ人々が神様の方を向いていることが望ましいのはいわずもがなです。)正直者がバカを見るような生きづらい時代になってきましたが、どうか平和な日々が読者のみなさまと共にありますように。明るく朗らかに前を向いて生きていけますように。病めるとき苦しいときに「重荷を負いあえる」仲間が与えられますように。イエスキリストの愛がずっと寄り添っておられますようにお祈りしています。

12月になってしまいました。

 

さきほど沖縄アーカイブ研究所さんのwebサイトをチェックしたら、北谷にあった米軍陸軍病院(のちに海軍移管)の動画を紹介していました。

 

うるかみるくが2005年に書いていた『サザン・ホスピタル』はもともと米軍第2海軍病院という設定でした。執筆当時うるかみるくの頭にあったのは、まさしくこの動画にみられた風景です。ようやく、みなさんにご紹介することができました。

 

すこしずつ、『サザン・ホスピタル』なんとか整えてAmazonあたりに公開できればと考えていますが、いつになるやら。

時間だけがめまぐるしく過ぎていきます。

 

 

映画の前にまず、首里城炎上の話をさせてください。

朝起きたらニュースが大々的に報じられていました。

 

Fire at Shuri Castle, a world heritage site

 

とてもショックで今も信じられません。終戦後から現在に至るまで沖縄復興のシンボルでした。自分の先生方を始め多くの友人が首里城復元や芸能活動や観光業界に携わっています。一日も早い復元を祈ります。

 

さて、夏休みに話題の映画「天気の子」をムスメと観に行きました。これです。ざっくりあらすじを書きますと。

東京の離島に住む高校生の帆高は家出して東京にたどり着き、そこで出会った同じ年ごろの姉弟たちと生活しようと試みます。姉の方は不思議な能力を持っていて、彼女が祈ると雨が止んで晴れ間が訪れるのですが、ある日姉は姿を消しました。彼女を探すべく帆高は奮闘しますが...。

 

クリスチャンとしては非常に困る映画。

まず主人公達が祈る対象はそもそも日本では「神様」と呼ばれますが、キリスト教など一神教にカテゴライズされる宗教では「偶像」とよばれるものにあたります。実際に形がある場合もあり、また空気のように感じることも難しいものが対象となる場合もあります。宗教学的にはこのような祈りの対象を「カミ」と記します。そしてキリスト教では、イエスキリストに代表される三位一体の神だけを拝みますから、偶像は避けるべきものとみなされます。うるかみるくとしてはあまり声高に非難したくもないし、まして拝んだりありがたく考える対象でもありません。

キリスト教では、偶像そのものは「なにもしない、できないもの」とされます。それがある不思議な力を持つように思えるのは「偶像を用いて悪魔が人間にささやくから」というのがキリスト教における一般的な理解です。

この映画の場合、「生活のためにお金を稼がねばならない」という切実な悩みを持つ姉を支配しようと試みる悪魔がいて、「晴れ女」を演じる彼女を通して実際に周囲にバリアを張るように晴天区域を作り出し、一見、良いことがなされたように思えることがあります。日本のみならず世界中にある「アミニズム信仰」の国々で同じような事が現在に至るまで起きています。
しかし、実際は悪魔なのですから、彼女は悪魔に連れ去られてしまう。日本各地では古来から「人身御供」の話が昔話などで伝えられてきました。悪魔をなだめるためにはなんらかの犠牲とか捧げ物が必要だとする考え方です。姉は悪魔に連れ去られ、帆高からもらったプレゼントを落としてしまう。帆高は彼女を連れ戻すために、彼女が指し示した神社を目指し、懸命に祈ります。

 

ハッピーエンドの結末はたいてい「愛の力」とするのが一般的な物語の解釈です。「千と千尋の神隠し」はハッピーエンドじゃないかもしれないけど。(この作品、偶像いっぱいいるなあ。もっともハクは偶像でなく精霊かもしれない。自然に宿る精霊でしたら、いたずらをする程度で害はほとんどありませんが、拝む対象ではありませんね。)

 

 

帆高が祈った対象が偶像だったのか、ひょっとして三位一体の神だったのか。

「祈り」そのものについては心理学での統計があるらしいです。ノンクリスチャンであっても、無神論者であったとしても、「祈る」ことでエネルギーの波動があって、具体的な祈りの対象に良い効果をもたらすことがあるようです。具体的には病気から回復したり、危険から遠ざかったりすることがあります。沖縄では琉球舞踊の「こねり手」「なより手」を行うと、茫然自失な状態にある人々が正気に返ったりします。なにかしらの力が働いているのは間違いなさそうです。

古来から人々は災いから身を守るために、「祈り」を通して生活してきました。日本神道に基づく様々な行事などにその痕跡をみることができるでしょう。最近では「即位の礼」で天皇陛下が神器を用いて祈られ、まるで「天気の子」みたいに晴れ間が広がりました。

うるかみるくは「祈り」そのものを否定したくはないのです。問題は、「祈る」者を利用する悪魔がそばにいることなのです。そして、悪魔は偶像が大好きらしいのです。なにもできないものに力を与えて人々を喜ばせたり恐怖を与えたりして、悪魔は巧みに人々の心を支配します。クリスチャンも人なので悪魔に利用されることがあり、その力の前になすすべを失うこともあります。

「神様を信じているのに、どうして神様はこたえてくれないんだ」

いや、すでに答えは出ている。その結果が望むものではなかったとしても。この世は悪魔が勝つようにできていて、神様の力が及ばないように悪魔は幾重にも支配のバリアを張り巡らせ続けているからです。ですが聖書では最後に三位一体の神様が勝つことになっています。久々に『聖書』を開きましょう。新約聖書「テサロニケの信徒への手紙2 第2章8節-10節:

 

その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。 不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、 そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。

似たような表現が『聖書』のあちこちにあります。よく誤解されるのですが「一神教の神は多神教を否定している」と捉える向きが多いです。「否定」というととても強い言葉で存在価値全てを頭ごなしに認めない、そう考えられてしまいがちですし、そういった一神教カテゴライズ宗教の信仰者も残念ながら存在するのは確かです。そういった方々の一部が暴走して「原理主義者」となり、今も世界各地で一般民衆を戦闘に巻き込んでいます。とても悲しむべき事件があちこちで起きています。

ですが、何度も書きます。問題は「悪魔」がそばにいることなのです。日本人は一般的に「寛大な」宗教観を持つ民族とされています。その宗教的特性ゆえに、特に中東各国と良い外交関係を保っていると言っても言い過ぎではないでしょう。そして日本人が一般的に誠実で礼儀正しく秩序を重んじる存在であることが、世界中の人々から好印象を持たれる要素となっています。

どうか、耳を傾けてください。目を開いてください。日本人の誠実さ、礼儀正しさを、その宗教的特性から利用しようとする悪魔が目を光らせています。「祈りの対象」を常に念頭に置いて愛を行い、慎み深く身を清めてください。この世では悲しみ苦しみが常にありますが、どうか皆さんが「愛」と「光」とを友として一日一日を過ごしていけますように。主にあってお祈りします。

 

やがて宗教改革記念日(ハロウィンとは言わないゾ)になりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

「見た映画」とかいうカテゴリーなのに今回ご紹介する映画は未見なので(笑)、簡単に書きます。

僕はイエス様が嫌い

東京からとあるキリスト教系の学校へ転校した小学生の話らしいです。

この小学生がお祈りをするとイエスキリストが降りてきて、願い事を次々叶えてくれるのですが、肝心な時にはちっとも答えてくれなかったようです。そこでこの小学生はもうイエスキリストが嫌いになったという話みたいです。

 

この映画について大阪・釜ヶ崎にある「喜望の家」が発行する機関誌「きぼう」第192号に牧師さんの感想が掲載されています。機関誌はWeb掲載されてなくて残念ですが、連絡方法などが書かれてますので、ご希望の方はぜひアクセスしてみてください。

なお、この映画は『信徒の友 2019年6月号』でも紹介された模様です。

 

 

 

 

 

那覇市民ギャラリーで沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事件関連展示が行われています。

たまたま近隣で用事があり行ってきました。

 

なつかしいな。14年前(つまり墜落から1年後)、沖縄国際大学の学生さんとWebでコラボさせていただきました。

学生のKatsuyaさんがブログに当時の模様を綴っていらっしゃったので、私がお声がけして自分の小説にリンク張らせてもらいました。

ライトノベルの登場人物に警官の矢上くんがいたので。ちなみに通信制高校卒、沖国大出身という設定です。

彼がKatsuyaさんの日記に描かれているかのように細工して出していました。

 

その後Katsuyaさんは就職なさって東京へ戻られましたが、こちらが子育てでそれどころではなくなってしまった。

いまお元気でおられるのかどうか。こちらごらんになっておられるなら、コメントくださいませ。

 

沖縄をめぐる状況はあれからちっとも変わっていません。

 

 
以下、引用。
 
最近やっとわかったことがあります。
きっとこれは、恵みなのです。
 
「主が散らかしてやっているのだ」
「主がお前に仕事をくださっているのだ」
「お金は支払われないが主はお前を養ってくださっているのだ」
「イエスキリストにならってゴミ屋敷の主を諭しニコニコすべきであり、お前が不平不満をいうのはおかしい」
「それで十分の一献金ができないのはおかしいではないか。主に感謝するならお前は是非献金しなくては」
「ゴミ屋敷の主が変わらないのはお前の祈りの力が弱いからだ。つまりはお前が悪いのだ」
 
そうでした。
私がひとかどの者だと私は思い込んでいました。
そんなことは決して無かったのに。
 
「お前がしたたからどうだというのだ」
「報酬を要求するとは何事だ。主が仕事をくださった。それで十分ではないか」
「お前が良いのではない。主がなさってくださったことを自分の手柄にするとはとんでもない」
「主は石ころからもアブラハムの子孫を作り出せるのだ。お前がしなくてもどうでもよいのだ」
「まさか、なにもせずにいて主を褒め称えますなどと暴言をお前は吐くのか」
 
そうなのです。
全ては主の恵みで、私は掃除をして、しないで、して、しないで、すべて主の御言葉通り従わなければならなかった。
主のお言葉にしたがって神社巡りをして聖書の言葉をつぶやく、つぶやかない、つぶやく、つぶやかない、すべて主の御言葉通り従わなければならなかった。
やったらやったで「なんてことをしてくれたのだ主に謝れ」と言われるのです。
やらなかったらやらなかったで「とんでもないことになっているではないか、主に謝れ」と言われるのです。
そして主の御言葉は永遠なのです。
 
私が報われるなどと思ってはならない。
私が幸せを感じることが将来あるなどと思ってはならない。
この恵みを感謝して感謝して感謝して、やって、やらないで、やって、やらないで、すべて主の御言葉通り従わなければならない。
そして全てがきれいになったとき、「なんて事をしてくれたんだ主に謝れ」と私は言われるのだろう。
 
 


現在、某所にて入院してます。
あ、明日には退院予定です。
日常に戻れるのかちょっぴり不安。

アジアンテイストなホテルは換気扇の音が大きく眠れないことを学びました(なんだそれ)。
皆さまもご旅行の際は耳栓を忘れずに。

それから、Facebook にてわたしに友人申請されている方へ。
リアルなお知り合い以外は基本的にお断りしております。以前お友達であった方はメッセージをください。Facebook は詐欺が横行しているため、メッセージを伴わない友人申請は、たとえお知り合いでもスルーです。(以前は公開設定でなければメッセージできなかったようですが、現在はそうでもないらしいですよ)

あと、Facebook には書いていますが、現在神さまに対して不信感アリアリな状況です。
とある教会で「なんてことしてくれたんだ神様に謝れ!」と怒鳴られ、しかもその教会で「(お嬢様を殺して)幸せになってね! 祝福します!」と祈られたら、たまったものではありません。
あとから謝ってきたけど、わたしは許す気にならない。
(つまり「貴方を傷つけてごめんなさい、でも私達が正しいの。だって私達は神様の声を聞いてるから」みたいにみえる)

では、また。