おひさです。
近畿大学でスクーリング集中講義の帰りに司馬遼太郎記念館寄りましてこの冊子を買い求めました。
「雪の砂漠の地 青森」という長部日出雄さんと司馬遼太郎さんの対談(『小説新潮』1996年1月号からの再録)が収められています。ここで司馬さんがこんな発言なさってる。
「西洋の近代文学というのは神学が終わるころに出てきまして(略)ありもしない神を、神はある、神はある……と言って、神という絶対の虚構に糸巻に糸を巻きつけるようにして、論理と修辞を、あるいはギリシャ哲学を援用して巻きつけてきて、ほぼ終わったときに近代文学が始まる。そのとき作家にとってフィクションは神と同じで、もう大文字で書かなきゃいけない存在ですね」(7-8pp.)
宗教と切り離されて近代文学が成立した、というのはすでに学会の通論です。なおドイツ文学の近代化が遅れたのはルターの功罪ってことになっとります。
夏目漱石はイギリスへ留学してなんとか文学を日本へ取り込もうとしました。そのあといろんな小説家が出てきて結局のところ「古代との対話」を重視する方向で現代文学は舵を切った印象を受けます。このあたり辺境である沖縄と東北・北海道、その他の日本の過疎化地域が優勢に立っていると言っていいんじゃないかな。
司馬さんは、西洋文学は「G」(キリスト教の神)であり、対する日本その他の地域の文学をフィクション「F」と表しました(小文字の「f」=現代よく読まれているファンタジー小説の類ではないのよ)。
文学は呪術からの発展です。西洋においてもそうだった。その片鱗はアイルランド文学などにもみられるし現代においても中央~西アジア文学はそのはずです。
キリスト教はそれを破壊した。自分が正しいって言って破壊した。
そこのところは言い訳できないし、すべきでもない。
第一クリスチャンが言い訳なんてすっげー見苦しいよ。宗教そのものについて「対話」する時代になったのですから、ここは自らの襟を正しましょう。日本の文学の方向性が間違っている、などと説教垂れるなんてもってのほかです。
この対談、太宰治なども取り上げてましてすんごい面白い。
興味お持ちの方は司馬遼太郎記念館へぜひぜひお問い合わせください。