Live a life.
時は矢の速度で過ぎていて、日本に来てから大分時間が経っています。
10年を過ごすと見えてなかったものが見えたり、経験できたりしてあまり外国暮らしという感覚も薄くなっています。
今だからこそ考えることだが。
なぜ、どうやって日本に来られたか?
最初から日本で在留しながら活動を決めた訳ではありません。そこまでの覚悟はなかったとおもいますが。
1>最初は日本でライブが出来ればと
日本への留学から色んなことを学んで、物足りなさを感じていました。
そこで日本でライブ活動を続けたいと思い、色んな会社と連絡を取っていましが中々うまくはいかず。
会社から求めてたのはグループの一員かアイドルコンセプトしかなく自分のスタイルが通れませんでした。
そもそも外国アーティストを日本まで呼んで活動させるには費用と手続きが大変なので相当な「何か」が見えない限り会社側からも判断が難しいことだと思います。
最初は日本でライブができることだけを考えていました。
2>韓国の活動が自分に合わないと
The Whiteを結成して韓国活動をスタートしたが、いわゆるバンドの形でそれもロックベースで韓国で売れるのは不可能に近いと判断しました。
当時もそうだが韓国ではアイドル一色でグループじゃないと厳しくまたソロの場合はバラードスタイルじゃないと出演のチャンスがほぼない状況で「新しいスタイル」というユニットというコンセプトでそれもJPOPの色を出すというのは当時の韓国では受け入れ辛い状況でした。
沢山のライブハウスでオーディションを受けたが微妙な反応が多く、「売れる音楽」と「マニア音楽」の真ん中の立場で苦労していました。
いくつかも番組に出演したり、事務所と契約もしたが考えていた活動は出来ず最終的に自分のスタイルを生かすなら韓国では厳しいという判断が出来ました。
3>受賞からの展開
曲制作・練習・ライブの繰り返し中に、薄い光が見えてきました。
日本の音楽コンテストに出した曲がなんとグランプリを受賞することに!
また続けて仕事のオファーが増えていて、フジテレビ「モノマネ紅白」にもいけるようになって少しずつ活動が広がっていて「四季の歌2012」のオーディションにも奇跡的にえらばれました。
ですが韓国国内での展開はうまくいかず海外からの良い反応が増えていました。
YouTubeが活性化されてない時からMySpaceなどに音源を公開していたが反応がよいのは海外。
ジャンルや活動の幅が広いのは日本。
何より、自分のスタイルをそのまま最大に認めてくれたのは日本でした。
4>占いからの一言
2011年ごろに原因不明の咳が止まらず、苦労をしていました。
その分野に一番有名な大学病院で精密検査をしててもはっきりした原因はわからず、ずっと眠れない+ライブが出来なくイライラの日々を過ごしていました。
そこで不安な気持ちを抑えるため占いにいきましたが、占いでは
‘あなたはこのまま国内にいると死ぬ‘
と言われました。それでどうすればよいかと聞いたら
‘近々に日本からのオファーが来ますので大丈夫‘
と言われまして実はそのまま実現されました。
また続きは別のエピソードで。
世の中、今の科学で説明できないことなんかいくらでもあると思います。
運命というのもその不思議な流れかと思いますがこんな凄い運と命があって今の活動があるかと。
まだまだ展開を作られてないが一日を大事にしていきます。
口だけとか、願いだけではなにも変わりません。
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U CAn
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