ここ数日、「自分という家の同居人」について書いてたわけですが、さっきふと思ったのです。

 

別に不快な同居人がいたとしても、なんの声も聞こえず、姿も見えず、その同居人が物理的にも精神的にもあらゆる物になんも干渉できなかったとしたら、別に同居したままでもいいかもね、と。

 

それはもう存在しないのと同じじゃねーかというツッコミは浮かぶわけですが、でもこの思いつきにはなにかがある気がしたので、心に聞いてみます。

 

「基本にして奥義やな」とか心は返してきました。

 

それは、精神的に同居人を追い出すっていうのは、結局それをするってこと?

 

「そういうことや。そして、その声が聞こえなくなり、姿を認識しなくなり、なんにも干渉できないよう無力化するということが、他人の支配から脱して自由に生きるという、まさにそれそのものになる」

 

そう、なんか、いい加減なのっていいよな、やっぱ大事だよなとも思ったんです。

 

黒か白かで潔癖でありすぎるとか、立派かダメかの二極で判断するとか、そういうのは疲れるし、もっといい加減なほうが多分もっと豊かというか、いろんなものを含んでいるし、ちょうどいいんじゃないかな、と。

 

尖った魅力という言葉がありますが、それでもただ尖ってるだけなら、その尖りに飽きたらそれで終わっちゃうもんなあ、と思う。

 

「うまく説明できる」っていうのもそこが問題で、うまく説明できちゃうと、そこで終わっちゃうんですよね。

 

全部説明できた、それ以外の要素はない! となっちゃうと、それってものすごく小さくてつまんなくない? と感じる。

 

だから私は、ブログでも動画でも、わかりやすくきっちり話をまとめるというのをあまり、あるいは全然やらないのかもしれない。

(自覚してないだけで実はやってるのかもしれませんが)

 

なので、精神的な同居人という存在についても、追い出すか追い出さないかという二択ももちろんあるけれど、そこをもっとゆるく適当な感じで処理して、気づけばそういやあいついないな、まあいいか、ぐらいで済ませられたらそれは結構面白いというか、そのほうが楽なのかも? とも思うんです。

 

だって、追い出そうとしたら「追い出されてたまるか!」と抵抗されそうだし、無理やり追い出したら「中に入れろ!」と窓とか扉とかをドンドン叩いてうっとうしそうだし、それは疲れるだろうなあと感じる。

 

心理療法にしてもしかりで、私は自分や他人が良いように変わるにしても、その過程で一時的にせよ苦しみは避けられない、というのはなしにできないかなあと思ってるんです。

 

心の深い部分を扱えば、必然的にトラウマとかにも触れることになるから、どうしても一時的な苦しみは生まれてしまう、というのは現状あるんですが、でもそれって絶対に避けられないことなのか? というと、そんなことはない気がする。

 

そういう意味では、トラウマとかと「戦う」という姿勢がその手の苦しみを生む、という主張も一理あるのかもしれない。

 

とはいえ、トラウマやら病気やらと、戦うのではなく和解する、共存するというのも、いやそれもちょっと違うんだよなという感じがするんです。

 

和解できないもの、共存できないもの――少なくとも幸せな形では無理! というものは、やっぱり存在していると思う。

 

だからそこらへんの処理を曖昧な感じで、でもうまいこと済ませることで、苦しい思いをすることなく気づいたら楽になれてたわー、という変化が起きたり起こせたりするんじゃないかな、という気がするんです。

 

 

 

このブログの記事は全て、大嶋信頼先生が開発された「心に聞く」を用いて書いています。

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