人間の個人というのは、それ単体で存在していると考えるよりも、一つの共同体(コロニー)であると考えたほうがわかりやすいかも? と思います。
例えるならば、一軒の家のようなもの。
家の中には主人格である「自分」の他にも、いろんな同居人がいたりする。
それらの同居人は、現実には「過去の思い出」「世間の常識」「本や動画や音楽」等、「他人」のかけらによって作られているもの。
そしてそういった同居人が、それぞれの人格に応じてあれこれ主張してくる。
だからこそ人は葛藤というやつを起こすのだと思います。
自分が本当に自分一人だけで存在しているのなら、葛藤などは起きない。
けれど、「◯◯がしたい!」と思う自分と、「△△がしたい!」と主張する同居人とが「自分という家」の中に同時に存在して声を上げているがゆえに、その矛盾から葛藤が生じる。
そして同居人の性質次第では、この家での暮らしはずいぶんと窮屈だったり、苦しいものになったりもする。
主人格である自分がやることなすこと全てに対し、「そんなんじゃダメでしょ!」とダメ出ししてくる同居人もいるかもしれない。
そこまでハッキリ言葉には出さないけれど、じっと無言で、でもなにか言いたげな目でこちらを見つめてくるような不気味な同居人もいるかもしれない。
私は、知識が多いことが必ずしもいいとは思ってないんですが、この例えで言えば、知識を増やすというのは新たな同居人を家に招くことになるから、となります。
その同居人が家での生活をプラスにしてくれる存在ならいいんですが、ろくでもない存在だったら、むしろ招待しないほうがよかったよね! となる。
なまじ知識を得たことで、自分にダメ出しする存在が増えてしまった! となることもあるよな、と思うんです。
さて、この例えで話を続けるならば、家での生活を快適にすることが、自分の幸せというやつにつながります。
そのためには同居人とどう付き合うかが問題になる。
本当にろくでもない! という同居人には家を出ていってもらうのが一番いい、ともなるでしょう。
ただ、出ていけと言って、じゃあ出ていきますと素直に出ていってくれるのなら、なにも苦労はありません。
同居人のほうが出て行きたがらないというのもあるでしょうし、あるいは主人格である自分自身が、不快であってもそれでも一人でいるよりは同居人がいたほうが寂しくなくていい、と思っているかもしれません。
場合によっては同居人と話をしたり、改めてその言動や態度を観察したりして、悪影響を弱めたり、家の空気を良くしてくれるよう手を打てるかもしれない。
結局のところ、自分を幸せにするというのはそういうことをやるということであり、心理療法とかもそういう話だよな、と思うんです。
例えばトラウマと言うのは、過去に自分に対してものすごく嫌なことをした人間が、今でも同居人として一緒に家にいるというようなもの。
「同居人」と全部人で例えるのは無理があるのでは? と思うかもしれませんが、そこは擬人化という手法があります。
人ではなく事故がトラウマになっているのであれば、その事故を擬人化して、その人が同居していると考えればいい。
そんなことを考えていると、「世の中の全ての問題は結局のところ人間関係だ」という言葉が、実は正鵠を射ているのかも、とも思います。
自分という生命は一つの家のようなもので、その家で暮らしている人たちの人間関係によって、家の雰囲気、つまりは自分の幸不幸が決まる。
これはあくまで例えであり、一つのナラティブであると言えばそうなんですが、こう考えることで開ける道もあるんじゃないかなと思うんです。
例えば「過去は変えられない」という常識も、その過去が同居人という形で「今ここ」に存在しているのだと見れば、今の問題なら変えられるじゃん! となるんです。