一般的に言われている知能とは別に、「心に聞く」をやることによって出てくる知能の話を、過去何度か書きました。
まあこれは知能というより、「無意識の領域をどれだけ意識できるかの感受性の高さ」みたいな話らしいです。
だったら知能という表現自体が紛らわしいから、なんか適当な造語を作っちゃっていいかね? と心に聞いたら「ええでー」と言ったので、作っちゃいます。
それで思いついたのが、シンプルな「無意識力」という言葉。
てことでうちのブログでは、今後はこの表現を使うことにします、多分。
さて、前に心が言ってきたことで面白かったのは、「特定の分野に関する知識が増えれば増えるほど、その分野に関する無意識力は下がる」というもの。
以前は無意識力という言葉ではなく「知能」と表現していたため、そうなの? と半信半疑な感があったんですが、無意識力と言い換えれば、そりゃそうだよねとわかりやすい。
だって知識を増やすというのは、言ってしまえば「決めつけられること」を増やすということだから。
無意識力というのは、そもそもよくわからない無意識というものを「でもなんかあるよね」と感じる力なのだけど、知識というのは「よくわからない」をなくしてしまい、「わかった!」にしてしまうこと。
本当にわかっているかはまた別なんですが、少なくともそうやってわかったつもりになればなるほど、無意識という未知の領域が減っていくのは、そりゃそうだ、となります。
例えばなにかのゲームをやる際、将棋でもチェスでもなんでもいいですが、勝ち負けの基準がわからない! 駒の動かし方もわからない! では、そもそもゲームになりません。
でもそういうことを一つ一つ知っていけば、なんか板の上にいろんな小物が乗ってるよくわからない空間が、一つのゲーム盤に変わります。
さらに将棋なんかには定石というものがあって、それを知ることで「こういうふうに打てば勝てる!」、というか「こういうふうに打っちゃうと負ける!」になるのかな? まあそんな感じの知識も増えていきます。
将棋の駒なんかどう動かしたっていいと言えばいいんですが、そういう定石を知ると、「ここではこの駒をこう動かすべし」と言った感じに決まっていって、選択肢がどんどん狭まっていく。
そんなに選択肢が狭まって楽しいの? というと、狭まってもなお人間の頭脳では読みきれないレベルの状況が将棋においては展開されるので、問題なし! となるのでしょう。
(私はそんなに将棋に詳しいわけではないので、なんとなくで書いています)
なお、そういう「読み」のレベルにおいては人間と比べ物にならない計算能力を持つコンピューターの棋力は、もうとっくの昔に人間のトッププロを上回っちゃってるそうです。
とはいえ、じゃあ人間同士の将棋なんてレベルが低いから見ててもつまらない! となるかというと、多分ほとんどの将棋ファンは、そうはなってないんだと思います。
理由はいくつかある気がしますが、一つには、あんまりレベルの高すぎることをやられても、「わけがわからない!」となって楽しさを感じられないからじゃないかと思うんです。
コンピューターの打つ手というのは、人間のトッププロでも「なにこれ?」とわけがわからなくなることがしばしばあるらしく、まあそんなレベルの勝負を見てても、あまり面白くはなさそうですね。
そういうこともあるので、知識が増えることで無意識力が下がるというのは、必ずしも悪いことではないのでしょう。
だって、わけがわからなかったものが、わけのわかるものになって、それによって楽しめるようになったり、安心できたりするのだから。
自分の体調不良が「原因不明!」だと不安でしょうがないけど、病院で診断してもらって病名がつくと安心する、というのは実際によくある話です。
わけがわからないのは怖くて、それがわけのわかるものになると安心する。
……というのは確かにあるものの、一方で、それって絶対の法則とまで言えるのかな? という疑問もあるんです。
実際、わけがわからないまま放置してるけど、多くの人が問題なく過ごしてることっていうのもあるよね、とも思う。
例えば、「人間ってなんのために生きているの?」という問いとか。
この問いに対しては、それを探すために生きているんだよ、という返しも昔からあったりしますが、そういうのを聞くと、結局どうでもいいのかもなとも思います。
けれど人間全般の話はさておき、「『自分は』なんのために生きているんだ?」という範囲の話になると、途端に多くの人が不安になる気もする。
そこで自分なりの答えを出せてる人はいいんですが、答えを出せているというのはつまり、さっき書いた「わからない!」を「わかる!」にしているということになる。
でも、その自分なりの答えというやつが、なにかのきっかけでグラついてしまう、というのもまたよくある話です。
てことで、なんかそういうのじゃなくて、本当にわからないんだけど、わからないままでもいいや、とはならないのかな? と思うんです。
「わからないことをわかっている」という、結局わかっちゃってる形ではなく、本当にわからないんだけれど、そのわからない状態をなんか楽しく感じたり、わからなさの中で安心したりする、そういうのってできないのかな? と。
心に聞くと、「意識にはできない。無意識は常にそれをやってる」とのこと。
てことは、人間は意識と無縁に生きることなどおそらく不可能でしょうから、「わからない」をそのまま受け入れることは無理なのかもしれない。
けれど同時に、無意識と無縁に生きている人間もまた存在しないので、実は誰もが「わからない」をそのまま受け入れるということをやっているとも言える。
あれ? 結局どっちなの? 分野によってできてたりできてなかったりするとか、そういう話なの? とよくわからなくなる。
そして結局、まあいいか、というある意味いつもと同じ結論になるんです。