意識というのは、氷山の一角に過ぎない。
という例えで言えば、人間の精神というものを巨大な氷山と見た場合、その中でも海上に出ていて目で見ることができる部分を「意識」、それ以外を「無意識」と呼んでいる、となります。
ただ例えは良くも悪くも例えなので、これだとちょっと問題があるのかも? という気がする。
なぜなら、無意識をどこまで認識できるか、つまりどれだけ意識できるかというのは、個人差があるから。
以前も紹介したと思いますが、この対談記事の以下の箇所について。
すぎやま
堀井さんはゲーマーだから、ゲーム大好き人間だから。
やっぱり理屈ではなくって、感覚的に面白いもの、
楽しいもの、それを感性で判断してるんですよね。
岩田
変な話、生理的に気持ちいいか、よくないかということは
すごく大事じゃないですか。
「うーん、なんか気持ち悪いなあ」とか。
堀井
ありますあります。
実際に触ってみると、
なんとなく触り心地が悪かったりとかして
それがすごくイヤだったりするんですね。
岩田
それこそ延々と何十時間もつきあうものが、
生理的に気持ち悪いと、いい記憶になるはずがないんですよね。
だけど、その感触の違いを感じる人と感じない人の差は格段に大きくて、
ちょっと触って一発で「あ、これダメ」と判断できる人と、
「え? どこが悪いんですか?」という人が
ハッキリ分かれるんですよね。
こういったことは残念ながら、
なかなか教えられないような気がするんですが。
これがつまるところ、無意識をどこまで意識できるか、という話になります。
そして人はそれぞれ、見えるもの、見えないものが異なっている。
見える見えないと書きましたが、これもまた例えであり、実際にはありとあらゆる感覚について個人差がある。
その違いはすなわち、世界の違いになります。
同じ場所にいて同じ言語でしゃべってるんなら、同じ人間として同じことを感じてるでしょ! とつい思いがちになりますが、おそらく私をふくめ、誰の想像でも追いつかないレベルで、個々人が生きている世界というのは違うんだと思います。
「人間も動物である」てなことを最近書いていますが、この認識をさらに深める上で、ここが大事になる。
つまり、人間というのは一人一人がもう種から違う動物である、とすら言えるかもしれないということ。
ライオンとネズミはそりゃ違う動物だよね! というのはわかりやすいですが、人間もまた個人個人でそういうレベルの、あるいはもっととんでもないレベルでの違いが必ずある、と仮定すると、そりゃ大変だ! となるんです。
そして、そりゃ「孤独」が実は一番楽だってなるよね、というのもわかる。
実は全然別種の動物たちと、そうと気づかないままに一緒に居続けるなんて、ストレスがたまって仕方ないだろうから。