「人間も動物である」という認識はすごく重要だし、いろいろと便利なんじゃないかなと最近思っています。
とかく、人間は人間というものを他の動物とは違う、なんか高尚なものだと考えがちなんですが、いや別にそんなことないでしょ、と思っておいたほうが楽になれるような気がする。
動物がやることは基本的には人間もやる、と考えるだけでもいろいろと違うんじゃないかなと思うんです。
例えば、性的なアピール。
オスの孔雀が羽をバッと広げるとかが有名ですが、結局人間がやってる「俺は私はすごいアピール」も同じだよね! と思うとわかりやすい。
ところで多くの動物の場合、求愛行動はオスの側から行い、メスはそれを受け入れるかどうか選ぶ側になると言います。
これに絡む話かもしれませんが、いわゆる「子殺し」というケースにおいても、オスの動物が自分以外のオスの子どもを殺す、というのはよくあるそうです。
ただし一妻多夫制のレンカクという鳥の場合は、メスが自分以外のメスの子どもを殺すのだとか。
なので、単純にオスかメスかという話ではなく、その社会の構造によってそこらへんの心理は決まるのかもしれません。
人間の歴史を見てみても、権力者の跡を継いだ人間が対抗馬となり得る兄弟たちを皆殺しにしたり出家させたり、皇帝の妻が側室やその子どもを殺したりイビったり、なんて話はちょくちょくあります。
別に権力者に限定しなければ、それこそ巷にもあふれかえっている話ですね。
もっとも、じゃあ他人じゃなくて自分の子どもを殺すとか虐待するとかってなんなの? という疑問が生まれます。
これについての仮説としては、今の子どもを育てるより、殺して次の子どもに賭けたほうが良さそうという判断が働くんじゃないかというのがあるそうです。
それ以外にも、人間ならではの子殺しとしては、文化的な背景も関わっているのでは? という説もあります。
ただ文化というのはつまりは「その社会において守られるべきルール」とも言え、それに反する者は社会的制裁を受けがちであるということから、結局は生存競争の法則の一部だよね、とも言えます。
ところで心に聞くと、「人間以外の動物ってのは全部支配者みたいなもんや」とか言っています。
要するに言い換えると、人間の支配者というのは、動物的本能がより強く残っている人間である、ということらしいです。
そして心は、「人間の、中でも虚無が感じる苦しみっていうのは全て支配者による支配から生まれている」とも言います。
てことはつまり、上に挙げたような動物的なアレコレが、人間の(虚無の)苦しみにもそのまま当てはまってるってこと? と聞くと、「その通り」と心。
となると、盲点になりがちで、ゆえに注目したほうが良さそうなのは「文化」の面かもしれません。
なんで実の父親や母親から面倒くさい感情を向けられなきゃいけないの? という疑問について考えるとき、この「文化」の要素がものすごく大きく関わっている、という認識を持っておくと大事なのかも。
親が子どもの意志に関係なく、子どもを偏差値の高い学校に入れたがり、それに対して子どもが反発する、なんていうのはよくある話です。
「あなたのためを思って」と親は言うけれど、「自分の面子のためでしょ!」と子どもが言い返す、なんていうのもまた定番。
まあでも、そりゃそうだよなとも思うんです。
人間という生き物が「社会の中における自分の立ち位置」というものを考えずにはいられない生き物である以上、そしてその社会において「優れた親は子どもを立派に育てられるもの」という価値観がある以上、そりゃ子どもの教育にこだわりもするし、それを自分の面子のためにやるっていうのも当然だよね、となる。
むしろ私なんかは、そういうのを抜きにした、子どもに対する親の無償の愛なんていう話のほうを「胡散臭い!」と感じます。
全ての親が子どもを偏差値の高い学校に入れたいとは思わないでしょうが、それは別に社会的な規範から自由である証というわけじゃなくて、単純にその親にとっての「立派な人間(親)の在り方」という基準が違っているだけでしょ? となる。
そして子どもの側もまた、「社会的に立派な子どもとはなにか?」ということを自然と考えているのでは、と思ってみるとまた面白い。
子どもが親の愛を求めるのは、「立派な子どもとは親から愛されているものだ」という社会的な価値観があり、そこから外れてしまうと社会的に、つまり人間同士の生存競争において劣った子どもになってしまう! という恐怖が働くからなのでは? なんてことを思うんです。
そう、愛というものをなにか温かいものだとか美しいものだとかに限定せず、人間社会におけるステータスであると見ると、いろんなものの見方が変わってくるような気がする。
そしてそれが、むしろ自分を本当の意味で幸せにすることにつながるんじゃないかなと思うんです。