最近のネットやらなんやらの発展について、昔に比べると確かに便利になったけど、でも弊害もあるよね、的なことは何度か書いてきてます。

 

けれど先日、ふと思ったんです。

 

もしかして、そもそも別に便利になってないんじゃない? むしろ不便になってるんじゃない? と。

 

まあ、なにかをする上での手間や時間を減らすことを便利と定義するのなら、便利にはなってきていると言える。

 

だけど便利さというものを、幸福度が増しているかどうかという尺度で見た場合、ネットの普及がそこまで幸福度の増加につながってるか? そうでもなくね? てことは、実は便利になってるんじゃなくて、むしろ不便になってるんじゃね? とか思ったわけです。

 

ここの思考の前提として、手間や時間が減るのはいいこと、という絶対的な了解がある。

 

たとえばなにかを調べる際も、昔は図書館や本屋に行って調べたいことに関する本を読むというのが基本だった。

 

それに比べれば、今はパソコンやスマホでちょちょっと検索すればいろいろわかる! 便利! というのが、まさに「今は昔に比べると便利になった」という主張の根拠になるわけです。

 

ただ、それは言い換えると、なんでもかんでもちょっと調べれば調べられるんだから、だったら調べないといけないよね、という強迫観念につながったりもする。

 

昔だったら「わかんないけど、まあいいか!」で流せたことは、今だと「調べなきゃ!」でなんでもかんでも調べないと! と焦燥感に駆られたりする。

 

そうしていろんな知識をガンガン増やしても、じゃあそれが自分自身の幸せにつながっているか? 自分の生活を豊かにしたか? というのを思うと、大抵の場合は別にそうでもないかも? となったりする。

 

私はずいぶん前から、ニュースというものをあまり見なくなっています。

 

きっかけは精神疾患で恐怖症が強く出たとき、怖いニュースに触れるのが嫌だったということなんですが、そうしてニュースというものから離れてみると、ニュースで得る知識ってほぼいらなくね? と思ったんです。

 

この前、薬局で待っている間にテレビのニュースをなんとなく見てみたら、法務省の看板にスプレーで落書きがされていたとか、フィンランドの学校で銃撃が行われたといったニュースが流れていた。

 

特に後者については痛ましい話ではありますが、そんな事件のことを知ったところで、自分の生活になんの関係があるの? と言えば、おそらくはないんです。

 

そこらへんはもちろん人によるので、そういう情報を得ることが自身の生活や人生をよくすることに直結している人もいるから、そういう人はそれでいい。

 

でもそうじゃないなら、ニュースって基本的にどうでもいい情報ばっかだよね、と感じる。

 

有名人や芸能人のスキャンダルも、自分の生活圏以外の場所で起こった事件や事故も、フィクションの物語に触れて心が動くというのと同レベルの話にしかならないのであれば、つまりはエンターテイメントとして消費する情報でしかない。

 

そこに「自分」はいるのか? 「自分の心」はどこまで関わっているのか? ということを思うと、知識や情報というものについても、本当に必要なものってすごく限られているんじゃないか、てなことを思う。

 

というより、不要な知識や情報はむしろストレスの源、自分の言動を無意識に縛る支配にすらなる。

 

最近の私は、よそから情報を仕入れる前に、まず自分自身と対話しないとな、てなことをよく思います。

 

対話といってもことさら自分を深く掘り下げようとかいうわけではなく、もっと単純に、自分がなにを感じているかをなるべく見失わないようにしよう、と思っている。

 

そして、その自分の感覚をまず基本にした上で、必要なものを、欲しいものを欲するというのが大事なんだろうなと思うんです。

 

 

 

このブログの記事は全て、大嶋信頼先生が開発された「心に聞く」を用いて書いています。

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