努力は裏切らないなんて言葉がありますが、まあ裏切るよな、と思います。
というか、そもそも裏切る裏切らないという基準で見ること自体が違う気がする。
なにかをすれば、その結果が出る。何事にも因果関係があるのは当たり前であって、その結果が自分にとって望ましいものであるか、そうでないかはまた別の話。
だから、頑張った結果として期待通りになることもあれば、そうならないこともある。そりゃそうだ、という話です。
その上で思うのは、私の中では「努力」という言葉の定義が、「好きではないことを頑張ること」となっているということです。
辞書的な意味ではこうなっていないんですが、私にとっての「努力」のイメージはこうなっている。
あるいは、「苦しいけれど頑張ること」と言ったほうがより正確かもしれないし、両方合わせたほうがいいかもしれない。
まあなんにせよ、好きで続けていること、あるいは好きとまでは行かなくても、そんなに苦しいという感覚なしに続けられていることであれば、それは努力とは呼ばないんじゃないかなという気がするんです。
そして、続けるのであればそういうことのみにしておくのがいいだろうな、とも思う。
やってて苦しいことを続けても、ろくなことにはならない。
その苦しみが報われるということもあるとは思いますが、そうなったとしても、苦しみ続けたことによるダメージは心身に蓄積するだろうからなあ、と思うんです。
私が精神疾患になった理由を考えると、結局、そういう意味での努力をし続けたからじゃないか? となるんです。
その根本にはトラウマやら、最近挙げてる知能の問題やらがあるとは思うんですが、そういったものから派生した行動が、自分にとっては苦しいものであり、それでも必死に続けてきた結果、自分の心に大きなダメージを負ってしまったんじゃないかと。
たとえば、私は小説家になろうと頑張ってきた十数年の時間があった。
書き始めた最初の頃はどうだったのか覚えていませんが、基本的に私にとって、小説を書くということはそこまで楽しいことではなかった。
というより、楽しいと感じることはよくあったけれど、「でもこれじゃあプロとして通用する小説にはならない!」という思いから、楽しくない方向への頑張りを増やしてしまっていたように思うんです。
今思うのは、どうせ追求するのなら、自分が楽しんで書く方法をひたすら模索する、そして場合によっては「やーめた!」と小説家になろうという目的そのものをさっさと放り投げることだったんじゃないか? と。
書いてても楽しくないのに、書き続けなきゃいけないと自分に言い聞かせて、結果も出なければ自分自身の満足感や充足感もろくにないまま努力をし続けて、そして潰れた。
他の誰も楽しめないような作品であっても、ただ自己満足のためだけに書くことができていれば、また違ったんじゃないかな? とも思うんです。
けれど、プロの小説家を目指すのなら、そういう独りよがりなものを書くのはダメだ! という実にもっともな意見に毒されてしまった。
プロとして生きていく以前に、人間として幸せに生きていくほうがはるかに大事だと、今ならそうわかりきっていることを、当時の私はわかってなかったのかもしれない。
ただ同時に、当時の私もそんなことはちゃんとわかっていて、だけどじゃあ自分が幸せに生きていくにはどうすればいいのか、その道がそもそも見えてなかったんじゃないか? とも思うんです。
だからあがき続けて、心にダメージを負ってしまった。
そこらへんに関しては、今も100%の確信を持って言えることはないんですが、それでも思うところはあります。
努力は――すなわち、苦しいことを続けるというのは、なるべくしないほうが多分いいんだろうな、と。
そもそも私が無意識という世界に目を向けたのは、そういう思いが前提としてあり、けれどじゃあ自分が本当にしたいことってなに? というのが意識で考えてもさっぱりわからなかったから、というのがあります。
そして今思うのは、全ての「タブー」をいったん取り払って考えるのがきっと大事なんだろう、ということ。
たとえば「働かざる者食うべからず」なんてことも、実行するかどうかはさておき、自分が本当にしたいことというのを考える上では、いったん外して考えたほうがいい。
そうすると、少なくとも今は仕事なんかしたくないな! という自分の素直な気持ちが、案外簡単に見えてくるかもしれない。
「仕事はしなくちゃダメだろ!」「家族だけ働かせて自分は楽して生きるのか!」「多くの人が嫌だけど生きるために頑張って働いてるんだぞ!」みたいな常識論は、全部邪魔なので捨てていい。
自分の心に向き合うとき、常識などというのは敵にしかならない。
そうして自分の心ときちんと向き合った上で、じゃあその心に従って生きる上で、常識という敵とどうやり合うのか、という話になるんだろうなと思うんです。