昨日の夜、心が出してきた呪文は「フルパワーが一番楽」というものです。

 

普通に見ると「え?」となる言葉ですが、なんか私には納得行く気がしたんです。

 

なぜなら、自分はフルパワーを出さないようにするために、ものすごいエネルギーを使っているのかも? という自覚があるから。

 

フルパワーを出してしまうと、自分も周りも破壊してしまうのでは? という恐怖心が、私の中にある気がするんです。

 

その根っこにあるのは、本来の私という存在は社会不適合者だ、という思いなのかもしれない。

 

そんな私がありのままの自分を出したら、社会から弾かれて抹消されてしまう! という感覚があるんです。

 

だから、「フルパワーが一番楽」という呪文には納得行くところがあると同時に、本当にフルパワーを出しちゃって大丈夫なの? という恐れもある。

 

それを心に聞いたら、「異端と見なした相手に、人間が、社会が取る行動は二つや。排斥するか、崇めるか。崇められる存在になってしまえばええんよ」と言う。

 

いやいや、私が崇められる存在になろうだなんて、それはさすがにうぬぼれすぎでしょ! と心にツッコむ。

 

そしたら心は、「フルパワーを出してもそこまでの存在にならないのなら、そもそも排斥されるほどの存在でもないってことなんやから、気にせずフルパワーを出せるやろ」と言われ、確かに、と思う。

 

そもそも私がそんな大した存在でないのなら、フルパワーを出したら社会から排斥されてしまう! という恐れもただのうぬぼれということになるのだから、気にせずフルパワーを出してしまえばいい。

 

けど、もしそれがうぬぼれではなく、かつ周りから崇められるような存在にもなれなかったら、そのまま排斥されちゃうんじゃないの? という恐れはやっぱりあるんです。

 

それを心に聞くと、「異端の存在が排斥されるか、崇められるか、その違いはどこから生まれると思う?」と逆に聞かれました。

 

他者にとって利益になるか否か、か? と答えると、「半分正解」と言われます。

 

なら完全な正解は? と聞くと、「害にはならない、とみなされることや」だそうです。

 

なるほど、少なくともわざわざ排斥されるというのは、その存在が害だとみなされたからだよな、というのは納得できます。

 

じゃあフルパワーを出しつつ、他人から害にはならないとみなされるためにはどうすればええの? と聞いたら、「他人のために行動しないことや」と言ってくるんです。

 

それは、そもそも他人とかどうでもいい、自分のやりたいことだけやる! というスタンスでいれば、わざわざ他人を害する必要もなくなるから、他人からも無害な存在として見られるってこと?

 

「そういうこと。イネーブラーの話と同じや。他人のために自分の力を使おう! なんてやっちゃうのは、相手からすれば『自分の領域に干渉されてる!』となるから、排斥しようという心理が自然と働く。なので、それをしなければええ」

 

けど、私がしてるカウンセリングの仕事って、そもそも他人のために自分の力を使うってことちゃうの?

 

「常識的に考えればそうなるが、実際にはそれはNGなんよ。自分の力で他人を助けようという心理自体が、相手を自分より下だと考えてるってことになる。自分を見下している相手に助けられるのを喜ぶやつがいると思うか?」

 

偽りの快感としてはぶっちゃけあると思うけど、まあそれ抜きにすれば、ないわな。

 

「そう、人間は自分のことしか考えていない。だからカウンセリングを受けに来る側は、このカウンセラーは自分の利益になるか? を見ている。そしてカウンセラーの側は、自分にとって気持ちのいい仕事をする、それだけでいい。そのほうが実際、カウンセリングの効果自体も一番いい形になるんや」

 

ふむ。で、今日もそれを実践するための呪文はあんの? 「フルパワーが一番楽」のままでええの?

 

「それでもええが、『神輿の心は凪いでいる』やともっとええな」

 

 

 

 

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