トラウマに触れるのを嫌がったり、記憶そのものから抹消したりするのは、防衛機制の働きであるということになるかと思います。

 

簡単に言えば、自分の心を守るためにやっていることである、と。

 

しかし、自分を守るためのはずのそれが、かえって問題を根深いものにしたりする、と心理学的にはなっているみたいです。

 

 

私はここらへんの理論に詳しいわけでは全くないんですが、自分自身にトラウマ(だと思われる)の記憶がくっきり抜けていたり、舌の痛み等の形での身体化が起きて苦しんでいる経験でいうと、これってそもそも防衛になってるの? という疑問がわくんです。

 

ここに支配者理論を持ち込むと、虚無である私の場合、全ての苦痛は支配者によって生み出されているものとなるから、これらの「防衛機制によって生まれる苦しみ」も、そもそもが防衛でもなんでもなく、支配者による支配だということになる。

 

心が言うには、支配とは「支配者自身の恐怖をこちらに投影し、罪悪感で罰してくることによって、支配者が恐怖から逃れようとする行為」となります。

 

こうして書くと面白いのは、この理屈はまさに防衛機制の理屈がそのまま当てはまりそうな話であり、支配者に関しては防衛機制の理屈は合ってるのかも? となることです。

 

まあ、そもそもの支配者理論も「そういう屁理屈で防衛しようとしているだけ!」と取ることもできますし、そもそも防衛機制自体が必ず問題を起こすというものでもないようですが、そこらへんの話はさておいて、とりあえずは支配者理論という仮説を前提に進めていきます。

 

 

気になったのは、この支配者理論で考えた場合、虚無がトラウマに対する「回避」や「否認」を行い、そのせいでますます苦しくなるというのも、それ自体が支配になるわけだよな、ということです。

 

つまり、トラウマという苦痛が支配者によって作られただけでなく、それに対する回避や否認もまた支配者によるもの、となる。

 

見方を変えると、虚無は本来「無」であり、苦痛とかはそもそもないから、本来の状態であれば回避だの否認だのをするはずもない、という理屈になるわけです。

 

さて、「虚無の場合、回避や否認の正体も支配になる」というのは、「支配から解放されて楽になるためにはすげー重要な視点」だと心は言うんです。

 

楽になるために重要な手段である内省とは、この回避や否認をせず、自分の中の認めたくない部分を認めること。

 

でも支配者理論で考えると、そもそも虚無の場合、「認めたくない部分」なんてものも本来は存在しないってことになるよね? となる。

 

まあだからこそ、内省によって支配者から投影されているものの正体を明らかにすることで、投影をやってきている支配者に対してその内容をまざまざと見せつけて追い払う、というのが内省の意味であると心は言います。

 

ただ、そんなまだるっこしいことをしなくても、そもそもが支配者による幻想だったら、「これは幻想」と認める方向のほうが早くない? とも思うわけです。

 

てなことを心に聞くと、「まあそれはいわゆる悟りの世界に突入するという話で、それよりはまだ内省のほうが難易度低いからなー」とのこと。

 

だったら、「これは幻想!」で片付けるのは現実的ではないってこと? と聞くと、「それを現実的な話にするにはどうすればええかを考えてみよう」と心は言います。

 

 

そもそもの支配者理論だと、支配に対してどう接すればいいかというと、「拒絶!」の一言になるわけです。

 

支配者の間違いを論破しようだとか、その行動の理由を分析して意味づけしようとかせず、ただ「拒絶!」で片付けるのが一番、となるらしい。

 

私が勝手にこっそり命名しているので言えば、「マーラよ去れ理論」になります。

 

悟りを開こうとしたブッダは、それを妨害しようといろんな幻想を見せてくるマーラに対して、「なにもしない!」のみを貫いた。

(マーラよ去れ、って言っちゃてるじゃん! という気もしますが、まあそこは気にしないことにします)

 

この「なにもしない!」こそが「拒絶!」になるわけです。

 

それで考えれば、自分の中に認めたくない醜い部分というものを見つけたときも、それは結局支配者(上の例えで言うマーラと同義)が見せてくる幻想に過ぎないので、否認や投影はもちろん内省すらしない、「なにもしない!」がいいんじゃないか、と思います。

 

とはいえ、「なにもしない!」って言うのは簡単だけど、実行するのは難しいよなとも思うんです。

 

特に、トラウマの記憶自体が消えちゃっていたり、感情の抑圧が起きていてどんなことを感じているのかが実感すらできなくなっているような状態だと、もうその時点で「なにかしちゃってる」ことになるけど、それは自分が意識的にやっていることではないから、「なにもしない!」では対応しようがないのでは? という気になります。

 

そこんとこはどうすんの? と心に聞くと、「言葉が現実を作る、ということで、『なにもしない』を呪文として唱えるとかも一つの方法やな。ただ今回は、もっと強力な方法を考えてみよか」と言います。

 

目的は「なにもしない(=拒絶)」であることには違いないけど、それを「なにもしない」という呪文以上に効果的な方法でやるってこと? と聞くと、「そう」と。

 

ところで、言葉が現実を作るという話だけど、それ以上に強力に現実を作る方法ってあんの? と聞いたら、「ないな」と心は言います。

 

てことは、「なにもしない」よりも強力な言葉、つまりは呪文を作ろうって話? と聞くと、「そういうこと」だそうです。

 

 

それで出てきたのが、「支配は世界の外にある」という呪文にあります。

 

私たちが現実だと思っている世界は、支配者理論で言えば、虚無・支配者・光の人の3タイプの真実が重なっている世界ということになる。

 

そして、自分とは違うタイプの真実を重視しちゃうと、魚が陸で呼吸しようとするような状態になり、苦しい! となるわけです。

 

つまり、虚無が虚無の世界を純粋に生きるのであれば、支配者の真実、すなわち支配は必然的に、虚無の世界からは消滅することになります。

 

そう、「支配は世界の外にある」。

 

「なにもしない」という言葉(呪文)の背景には、全ての苦痛は幻想だから、いじったりせずになにもせず放置するだけ、というのがあります。

 

それに対して、「支配は世界の外にある」だと、そもそも苦痛という幻想の存在すら、世界の外にほっぽっちゃえ! となるわけです。

 

んなこと言っても、例え幻想だとしても苦痛を感じてるのは事実じゃん! と反論したくなるわけですが、「だからこそ、その幻想という事実を世界の外にお帰りいただくんや」と心は言います。

 

確かに、言葉が現実を作る、という言葉をどストレートに解釈すれば、「支配は世界の外にある」と言葉にしてしまえば、支配を自分の世界から追い出すことができるということになります。

 

ただ、実際にこの呪文を唱えてみると感じるのは、これって今まで自分が「世界」だと信じていたもの自体の認識を変えるわけだから、その変化への恐怖が出るよな、ということです。

 

である以上、実際に変化させるのは抵抗が生じて難しいんじゃない? と心に聞くと、「その『変化への恐怖』もまた支配やから、世界の外にお帰りいただくんや」と。

 

なるほど、もしも本当に言葉が現実を作るのであれば、こちらが恐怖を感じようが感じまいが、ただ言葉を積み重ねていくだけで、現実というものは勝手に変わるのかもしれない。

 

そう思うと、世界を自分の思うように作っていくタイプのゲームをやっているようで、ちょっと面白いかも、という気配をうっすらと感じたんです。