ガリレオ・ガリレイの宇宙観。
きょうは、ガリレオ・ガリレイのことを考えた。
ガリレオ・ガリレイといえば、近代科学の父とも呼ばれ、文字どおり、近代科学を生み出すうえで最大の貢献をしたひとりである。
彼は16世紀から17世紀にかけてイタリアで活躍した科学者である。彼が書いたもののなかでは「天文対話」(岩波文庫)という著書がいちばん知られているだろう。さいきんでは、「新科学対話」と翻訳されている。
当時は、コペルニクスの地動説が出てから80年以上もたっていたが、地動説は、まだ一般的には受け入れられず、大学でも教えられていなかったころだ。――というより、地動説は、キリスト教的信仰の上から、むしろ邪悪な思想と見られていた。が、今日みる《聖書》の解釈では、矛盾するものでないという説が多い。その手がかりのひとつを、ガリレオ自身の書いた文章のなかに求めることができるといわれている。
ほんとうだろうか?
さて、その部分を引用してみる。
哲学は、宇宙というこの壮大な書物のなかに書かれている。この書物は、いつもわれわれの目のまえに開かれている。しかし、まずそのことばを学び、それが書かれている文字が読めるようになるのでなければ、この書物を理解することができない。それは数学のことばで書かれているのであって、その文字は、3角形、円、その他の幾何学的図形である。これらなしには、人間はその1語たりとも理解することができない。これらなしには、人は暗い迷宮のなかをさまようばかりである。 (ガリレオ・ガリレイ「天文対話」より)
つまり、宇宙というものは、ひとつの書物であって、われわれはその知識を読み取ることができるというわけである。しかも、それは数学のことばで書かれた書物であるといっている。
まず数学を学んで、数学のことばで読み取るのでなければ、この宇宙という書物を理解することができないという。ガリレオは、そういうことをここでいおうとしているらしい。
「哲学は、宇宙という壮大な書物のなかに書かれている」と書きはじめている。ここでいう「哲学」ということばは、「知識一般」をさしているだろう。この場合は特に「自然科学」、つまり今日のことばでいえば宇宙をふくむ「自然科学」にあたるものを意味していると思われる。
その宇宙は書物であり、その自然科学的な知識を、人間は読み取ることができるのだといっている。まず、宇宙をこのように書物になぞらえていることは、いいかえれば、宇宙は、研究すればするほど、そこに確かな意味を読み取ることができるという考え方である。
ガリレオは、そのように宇宙を見ていた。
宇宙についてまだわかっていなかった時代に、あらかじめ宇宙を、または自然を読み取る書物であるというものの見方、そういうベクトルを持ったことは、とても大きな前進であったと思われる。それはガリレオにとって明らかだったからで、そういい得たのだろう。この見方なしに、近代科学は生まれなかったかも知れない。
もっとも、このような知的な活動は、近代になってはじめて開始されたのではなく、中世以来ずっと、ヨーロッパの学者たちは、この謎めいた宇宙という書物、また自然という書物を読み取ろうと努めてきた。
中世の学者たちは、アリストテレスの哲学にしたがって読み取ろうとしてきた。つまり、アリストテレスのいう「形相因」とか「目的因」とか、そういう考えにしたがってさまざまな諸現象を理解しようとしてきた。が、そこには間違いがあることを、だんだん知るようになった。
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ここでちょっと実例をあげてみる。物体の落下という現象では、重い物体が次第にスピードを増しながら下に落ちていくが、アリストテレスの哲学にしたがうと、重い物体の本来の場所は地球の中心部にあるので、そこに向かって物体が落下していく、と考えた。
つまり、本来の場所にもどっていくという考え方である。ちょうど、旅人が故郷に帰っていくように、急ぎ足で目的地に向かって落下していく、そう考えた。
これにたいしてガリレオは、おもしろいことに、まさに数学のことばで物体の落下を読み取ろうとしている。彼は、落ちはじめてから単位時間ごとに通過する距離を1、3、5、7、という比を用いて計算した。いずれも1にはじまる奇数の比になることを発見しているのである。
物体の落下する距離は、「落下時間の2乗に比例する」という法則を発見したのである。
物を投げたとき、その物体がえがく曲線が数学的な放物線パラボラになるということがわかった。おなじ宇宙、あるいは自然という書物を読み取る場合、アリストテレス的な読み取り方と、ガリレオ的な数学のことばで読み取ろうとする方法とのあいだには、たいへん大きな違いがあり、それが近代科学を生み出すうえで決定的な違いになった。
宇宙を数学的に読み取るという考えは、じつはギリシャ時代のピュタゴラスやプラトンの思想に由来している。それは、中世初期のキリスト教とが結びついて生まれた。それまでは、アリストテレス的な考え方が支配的だったが、そんななかにあって、近代のはじめごろから、このピュタゴラスやプラトンの思想とキリスト教の思想が結びついて「新プラトン主義」という名前で呼ばれる考え方の人びとがあらわれ、コペルニクス、ケプラー、ニュートンという、あたらしい宇宙論を展開する人たちが出現した。
その根底には、この世界は神によって「数学的なものとして造られている」という考えがつよく働いていたからである。この新プラトン主義を標榜する人たちによって、従来のアリストテレス的な自然哲学を超えて、近代科学が生まれていったことは、たいへん興味ぶかい。
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自分がまず最初に考えたいのは、このガリレオの考え方である。
ガリレオのことば――宇宙は書物であって、それには数学のことばで書かれているという考えは、当時の人びとはもちろん、現代の人びともびっくりするくらい強いインパクトを持っている。
さて、ガリレオがここでいっている「書物」とは、いったい何だろうか。
自分は、おそらく「聖書」であったろうと思われる。この時代に書物のことを英語でいえば「book」といい、「聖書」を英語でいえば大文字で書いた「Book」といっている。「ザ・ブック」といえば、いまでも「聖書」を意味する。だから、ガリレオは「この書物はいつもわれわれの目のまえに開かれている」と書いたわけである。
教会に行くと、いまもむかしもわれわれの目のまえに大判の「聖書」が開かれている。
宇宙という書物もわれわれの目のまえに大きく開かれており、ガリレオは、聖書を見るとき、まさにそこには宇宙が広がっているように見えたのではないだろうか。しかも、教会にある「聖書」はラテン語で書かれ、まずラテン語を勉強してラテン語がわかるようにしなければ、宇宙を読み取ることができない、そういっているように見える。したがって、宇宙という書物もわれわれの目のまえに開かれてはいるけれど、数学のことばで書かれているために、数学のことばを勉強しなければならない、彼は、そういっているのだと思う。
ガリレオは、宇宙を「聖書」とのアナロジーで、いわば《第2の聖書》のように見えていたと思われる。
「聖書」が神のことばでできているように、この宇宙は、神の創造の業(ごう)をあらわしていて、そこにはわれわれは神の知恵を読み取ることができ、それを読み取って人びとに神の偉大さを示すことができる、そういうふうに考えたようだ。
こういう考えは、当時のキリスト者にさえも、なかなか理解されず、ガリレオを異端視する傾向があった。神に背く行為であるとして、彼を弾圧した。
ところが彼の書いた文章を仔細に読んでいくと、上のようにちゃんと神の存在を大きくとらえ、神のことばを知るために宇宙を考えていたことがわかる。これは、すばらしい発見である。ガリレオにかぎらず、ケプラーやニュートン、パスカルにもしばしば認められ、アインシュタインやボーアにすら見られる。
科学とキリスト教について書かれた書物も、じつにたくさんあるが、数学や物理学――さいきんの学問でいえば、量子力学においてもアインシュタイン、ボーア、ゲーデルなどによって、神への信仰の証のひとつとして、神のことばを使っていろいろ発見していったことがわかっている。
特に「超数学」と呼ばれる最先端の数学においても、キリスト教の神に触れられている。
ガリレオの「天文対話」はめずらしくラテン語では書かれていない。イタリア語の方言で書かれている。それは、多くの人びとに読んでほしいと思ったからだろう。教会ではラテン語が使われていたが、信仰を持たない人びとにも知ってほしいと思ったに違いない。したがって彼は、イタリア語で書いたために、この「天文対話」は、今日イタリア文学の古典の1冊として、高い地位を得ている。
彼にとって、「聖書」は文字どおり《第1の聖書》であり、彼の「天文対話」は、目のまえに開かれている《第2の聖書》を忠実に再現した書物、そういえるかもしれない。
その後、ラテン語の「聖書」は、イギリスではジェームズ1世によって、ドイツではルターによって、それぞれ英語とドイツ語に翻訳された。これもガリレオの《第2の聖書》をつくっていったこととどこかで関連しているのかもしれない。
小説を書いていて、ときどき人間の人体について思いをめぐらすことがある。「万物の尺度は、人間である」といったのは、プロタゴラスである。人間がすべての尺度になっていることを、自分は高校生のときに知った。生まれたままの人体がいつまでもそのかたちをとどめているのは、幸せなことである。
自分はそのとき思った。万物の尺度は人間である、と。
日本では、1尋(ひろ)が単位となって、家を設計するときの基礎的な単位である90センチ=「間(けん)」という単位ができ、たたみや、窓枠・サッシ枠の寸法になっている。
西洋もおなじである。
ギリシャのパルティノン神殿がその規準となり、カノンがつくられた。ギリシャでは人間を8頭分して、美しさは人間の頭が身体の「8分の1」に近づけば近づくほど美しい、均整のとれた人体美をかたちづくると考えた。
これは数学でいう幾何学である。比を使って表現したところがたいへんすばらしいと思う。やがて幾何学は宇宙の物差しになった。アインシュタインの「相対性理論」のなかに、なんと古典幾何学を持ち込んでいるところなどは、数学的にいっても、ひじょうに美しい計算法であると思う。
人間とはいったい何だろうかと、いつもごくごく自然に考えてしまう。人間の内面というのは、数学的な解(かい)はなかなか得られないもののようである。10人10色でまちまちである。つまり解がいろいろある。
ゲーデルの「不完全定理」でいうとおりである。
美は絵画にもなり、音楽にもなり、いずれも数学から出発している。音楽と数学がかつてはいっしょだったなどといっても、いまはだれも信じないだろう。
しかし古代ギリシャ時代には、いっしょだった。音楽は7進法の言語だ。8で位があがる。音楽は教会音楽として発達してきた。
オラトリオ、コラールなど、バッハ音楽はキリスト教を中心にして、神に近づくための祈りのための音楽として作曲されてきた。「マタイ受難曲」はその代表作だろう。2進法のことばを最初に使ったのは、おそらくニュートンとライプニッツだろう。彼らは手紙でやりとりしているが、秘密に属する内容だったこともあって、見てもだれにもわからないことばをつくった。2進法でできたことばである。数字とアルファベットでできていて、これはやがて、コンピュータ言語となる。
コンピュータの青写真をつくったのは、イギリスの数学者アラン・チューリングだった。この人の名前があまり知られていないのには、理由がある。1975年くらいまで、イギリス政府によって、国家最高機密としてずっと隠されていたからである。
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さて、もとにもどって、このような理由から、キリスト教的世界観は、近代科学が成長していく上で欠くことのできないものだったことがわかる。
ヨハネス・ケプラーは、とりわけ重要な位置を占めている。もちろんガリレオやニュートンも、きわめて重要な存在だが、しかし彼らがもしあらわれなかったとしても、早晩だれかが彼らがやったような仕事をやり遂げただろうと思われる。しかし、ケプラー以外の人に、ケプラーのような仕事ができたかといえば、決してできなかっただろうと思う。ふしぎなことだ。
とりわけ、ケプラーが発見した惑星の運動にかんする3つの法則は、当時おそらくだれにも発見することはできなかったに違いない。
ガリレオがイタリア人であるのにたいして、ケプラーはドイツ人であり、ガリレオがカトリックであるのにたいして、ケプラーはプロテスタントだった。このふたりはまったく同時代の人で、お互いに著書を送ったり、手紙をやり取りしたりしている。
ケプラーは、もともと牧師になろうとしてチューリンゲン大学に入り、神学と哲学を勉強している。当時は大学を出ると、聖職者になるか、それとも法律家や医者になるか、そのどちらかだった。ケプラーは牧師の道を選んだ。
ところが、チューリンゲン大学でコペルニクスの「地動説」を教えられて以来、天文学に一生をささげることを決心する。コペルニクスの書いた「天球の回転について」(1543年)が出版されてからすでに50年ちかくたっていた。
しかし地動説はかんたんには受け入れられてはいない。ケプラーは、教授からこの地動説を教わったのだろう、すると彼は、この説のすばらしさにすっかり魅了されてしまう。
従来の地球中心説では、惑星の逆行のような複雑な動きを説明するために、地球を中心とする円運動のうえに周転運動を重ねるという複雑な体系を考えなければならなかったのだが、もしも惑星が太陽を中心に円運動し、地球も惑星のひとつとして太陽のまわりを円運動しているのだとしたら、地球から見る惑星の複雑な動きが、この単純で美しい構造になってみごとに説明されてしまうからだ。
――つまり、宇宙という書物が、まさに数学のことばでみごとに読み取ってしまった瞬間だったといえる。
むかしから、惑星は目に見えないそれぞれの「天球」と呼ばれる球のうえに乗っかっていて、その「天球」が回転しているから惑星が回転するのだと考えられてきた。これとちょうど反対の考えをもつコペルニクスの理論的な説を、学生だったケプラーが読んで、今日のような太陽系という概念に近い考えに到達していったわけである。ニュートンについては、あらためていうまでもなく、恐らくこんにちだれでも知っていることだから、謎めいたものは何もない。
が、ニュートンと神の出会いについては、あまり知られていないのではないかと思われる。アイザック・ニュートンは、1642年のクリスマスの夜、ケンブリッジ北方80キロメートルほどのところにあるリンカンシャー郡ウールズソープ村で生まれている。1クォート(約1・14リットル)の木桶に入るほどの未熟児だったといわれる。自営農の父親は3ヶ月まえに死亡していて、上流階級のジェントリー出身で聡明な母親(ハナ)は、半年間の新婚生活を送っただけで、乳飲み子を抱えたまま未亡人となった。ニュートンの生まれた1年まえに力学の基礎づくりに貢献したガリレオ・ガリレイが死んでいる。
また5年まえに「方法序説」を著し、座標幾何学を創始したデカルトは、移住先のオランダで「哲学原理」を執筆中だった。
3年まえには「円錐曲線試論」を16歳で著した神童の名をほしいままにしたパスカルは、フランスで史上初の計算機を製作中だった。
ライプニッツは4年後に、ドイツのライプチヒで生まれている。レンブラントの「夜警」がニュートン誕生の年に描かれている。
イギリス国内では、ピューリタン革命の内乱がちょうどニュートンが生まれた年からはじまり、国を王党派と議会派に2分する混乱が数年間つづく。ジェームズ1世およびその息子チャールズ1世の王権神授説を盾にした権力濫用に、国民が怒りだす。表面的にはイギリス国教会対ピューリタンだったが、国教会を代表する王党派は貴族だった。ピューリタンを代表する議会派は、ジェントリーを中心とする新興市民層の利害を代表していた。ケンブリッジ選出の国会議員オリバー・クロムウェルが議会派の主導権を掌握すると、戦況は一変し、クロムウェルはみずからの鉄騎隊を率い、ネーズビーの戦いで王党軍を壊滅させ、1649年にはチャールズ国王の首をはねている。
イギリス史上ただ一度の牙城であったけれど、それでも両派の小競り合いや民衆にたいする略奪が、ニュートンの周囲に絶えなかった。
それから15年ほどのちに、ニュートンは神のことばを研究し、神のことば、すなわち数学で月の引力を発見した。それが1666年の奇蹟の年である。デカルトは若いころ、典型的なルネサンスの思想に浸っていた。ヘルメス主義、カバラ主義の影響下に成立した「薔薇十字会」はイギリスではR・フラッドを中心に展開していったが、この一種秘密結社に共鳴し、何かとこの一員に加わろうとした形跡がある。