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ここ最近、白州の話になる事が多く、そんな中、蒸溜所へ赴いたと言う報告をうけ、すっかり白州が気になって仕方なくなってしまった。

どちらかと言うと、インパクトに欠け、どうと言う事もない、そんな印象を初めて飲んできた時から持ち続けていたが、もしかしたらもっと別の顔があるのかもしれないと、どっしりと腰を据えて向き合って見た。


ノーマル白州

色がまず薄い。

匂い
新鮮な香気。軽度の森林浴をしているよう。

口の中でふわっとほのかに感じるのはフルーツとバターのような甘さ。だが、まったりもったりとはしていない。丸くて、それでいて後味のキレが抜群に良い。
シングルモルトは比較的穀物の燻したりした匂いが前面に出てきているが、もっと生っぽい。新緑、若葉、みずみずしさ。
春の若葉を集めて水に浸したらこんな味になるんじゃないかなと思わせる。



白州10年

今年の何月かに生産中止となり、あとは残ってるだけ。
それを知って急いで買ったが、意外とおいてる事が後ほど判明。

匂い
甘みが強く若葉の量が増えている感じ。ノーマル白州が散歩し始めだとしたら、少し緑の深いところに足を踏み入れた感じ。
全体の印象はさほどノーマルと変わらないが、確実に濃さが増してる。
林道の養分になった葉の土臭さが、歩を進めるたび、口に含むたびに立ち上ってくる。
ノーマルよりも林道全体の風景を感じられる。

チーズを食べてしまったのでそのせいかもしれないが、メロンっぽい甘さが加わった。

ノーマルだとやや物足りなさを感じる部分もあるが、10年になるとその物足りなさが洗練と感じるようになった。

余市は練磨、竹鶴は熟達、日本酒だったかお酒の用語で「磨く」と言う工程があったような気がするが、それとは全く別物だが、日本のウイスキーはそれぞれの磨き方に個性があるような気がする。




白州12年

どんどん香りが深くなる。
奥入瀬渓谷の風景が浮かぶ。
森と川。朽ちて倒れている大木に、苔がむし、見上げれば、深く、爽やかな新緑に囲まれている。
けれど、清潔さ、洗練さは変わらない。熟して益々若々しい。
いや、美しさに近いかもしれない。

ウイスキー界の吉永小百合。そんなイメージ。笑。
さて、ここで、残りに水を加えて見る。
ウイスキーを調合?配合?する職人をブレンダーと言うらしいが、彼らは味を見る為に一滴ずつ垂らして飲んでみたりもするらしい。
さらには、ウイスキーの香りが1番開くと言う事で、トワイスアップと言う1:1で割る飲み方もあるそうだ。

加水すると味が薄まると思って基本はストレートで飲むのだが、そう聞いたらやらずにいられない。どう化けるかなと期待しつつ……。


加水しました。



ガラリとまでは行かないけれど、木陰で休んでいたところに日が差し込んできたような感じ。
グラスから立ち上ってくる香りこそ薄くなれど、味わいはまた違った一面。
水をいれた状態で、ノーマル白州のみずみずしさを感じる。

こういう飲み方もやってみないとわからない。
アルコール度数が強い方がウイスキーを飲んでる!!と言う感じがするが、度数が強いだけにすぐに揮発してしまう。もっとゆっくりと味わうにはものによって多少の加水は充分「あり」なんだと思った。




白州なるウイスキーを飲み比べてみて、12年ともなると素直に美味しいと思える。
ここまできてようやく、白州の個性に触れたような気がする。
初めは、個性がないのが個性と思っていたが、そうじゃなかった。
こんなウイスキー他にないと言えるほど個性的。

振り返ってみるとウイスキーの好みは味の好み云々にかかわらず、飲み手の性格が出てるかもしれない。

その辺の話はもう少し語れるようになってからにしよう。


今度はハイボールで飲み比べするのも面白そうだ。少しもったいな気もするが10年、12年のハイボールがどうなるか楽しみだ。

うだるような暑い夜に、キンキンに冷やしたグラスで作るハイボール。
三杯ともなるとかなり時間が必要なので下手をすると夕方からウイスキーと向き合う事になるのかもしれない。



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今宵は蒸留場不明と言う些かハテナなウイスキー。

蒸留場不明と言ってもウイスキーに関心がなければ、
ふ~ん
で終わってしまう話。

が、蒸留場によって味が違うとしたらどうだろう?

アイラ島にある蒸留場のどこかでは作られている。
それを予想して飲む楽しみ。

けれど、自分にはそんな事はわからない。

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アイラストーム

値段
2300円位


最近、飲み過ぎたせいか、味がわからなくなっている気がする。
なにせ、全部美味しく感じてしまう。

まず、香り。
爽やかさで、フルーティーな香り。この爽やかさは若さと言い換えても良いかもしれない。
だだっ広い草原。乾燥した空気と照りつける太陽。

商品名のストームとはどう言ったことかと、グラスに口を近づける。

一口含んで、舌先で転がすと、しゃばしゃばしてる。舌先に微かな酸味。ふどっぽい。そして、やはり若い。

そっと鼻から空気を吸い込むと、浅いスモーク臭。が、それもすぐに消えていく。
舌に残るのは少しの苦味と渋み。

飲むと言う過程で、コロコロと表情を変える。楽しいモルト。

印象としては、
靄がかった、早朝の蒸留場。
徐々に人が集まり、活気が満ちるその手前。
忘れた弁当を届けにきた少女。
弁当を受け取り、その子の頭をわしゃっと撫でる父。

頑張ってね。と少女。

気を付けて帰るんだぞ。と父。

娘の背中を見送り、
さぁ、やるか!と蒸留場へと戻って行く。

そんな一幕を想起させる、「過程」のモルト。

飲み足りないなと思うのは、恐らくそんな一幕の続きが見たいからだろうか。


名前に惹かれて強烈な味を期待したがそれほどでもなかった。
もしかしたら、嵐の前の静けさみたいなものなのかもしれない。
何と無く物足りなく感じるせいか、気付けば二杯目三杯目と進んでしまう。
が、そうしてしまうのは飲みやすいと言うことだろう。
つまみには負けてしまうし、タバコなんて以ての外。
何かをしながら飲むと、何も飲んでなかったかのような錯覚すら覚える。

ふと、この感じ、と思い当たった蒸留場があったが、恐らく外れているので、公表は控えよう。

次にあれを飲む時が少し楽しみになった。













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ここ最近、ウイスキーにはまり出し、ました。

個性あるウイスキーの備忘録として。

では、記念すべき一杯目。


ニッカ ピュアモルト ブラック

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かなり飲んでしまってますがあくまでも一杯目。



値段
1500円位

香り
蜂蜜、その蜂蜜に紛れてメープルシロップ臭、まばらに燻された樽、アルコールの匂いに混じって少し酸味を感じる。


まろやか、潮っけ、少しのスモーキーさ。
ニッカらしく、余市の味のキレがここでも健在。

口の中で暫く転がすと青りんごのような甘さを感じる。
その甘さを締めるように苦味。
そして、その苦味で一度、リフレッシュしてからの、青りんごの香り。

とてもフルーティーだが、決して主張し過ぎていない。
口に含んで、一息した時に拡がる香りに華やかさを感じる。


余韻
香りは残らず、口の中に甘みが微かに残る。しかし、意外と長い。


総評
恐らく今まで飲んだ中で最もコストパフォーマンスの良いウイスキー。
味よし、香りよし、値段よし。
常備しておきたいと思うほど、好み。

強いてあげるのであればタリスカーの甘さの種類に似ている気がする。が、全然違う気もする。

この燻されていない、白木のような雰囲気の香りがとても日本的なウイスキーだと感じる。


次に買うのは同じシリーズのホワイトかなと今から目星をつけてます。









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騙される快感。

推理小説と違う点は、なんだろう?

恐らく、信念。

トリックでもなく、スパイであると言う事に対するプライド。

過酷、孤独、無死、徹底。

その様がことごとく垣間見れる快感。
モラルを排除する憧れ。

自分に出来ないはずがない。
自分の他にこの任務をこなせる人間などいない。
そんな自尊心に裏付けされた孤独な戦い。
そこには焦燥もなければ愛惜もない。

ただ、ひたすらにスパイである事。

では、スパイである事とは何だろうか?

それは、このシリーズを読めばわかる。

それが本当のスパイの姿かどうかはわからない。
だが、その孤高の姿に胸打つものがあるのだけは確かだ。

劇画ではあるが、誰にも知られることのなかった男の人生。
本人にしてみれば不本意極まりないが、その貫徹した姿が本能のどこかしらに語りかけてくるのは事実だ。

自分には出来ないはずがない。
自分にしか出来ない。
自分だからできる。

私に最も?足りないものだからこそ響くのかもしれない。


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さて、なむあみだぶつについて。


五木親鸞の感想を書いた時に頂いたコメントで、少しだけ気づけた様な気がした。

そのコメントとは


南無阿弥陀仏は「音」に過ぎない。
テクニックで発声する南無阿弥陀仏も「儀式」に過ぎない。
口をついて出る、
口から溢れ出す、
「南無阿弥陀仏」を何回も聞いてきた。
心を込めてとも違う、信じて、でもない。
だだ ひたすらに溢れ出す「南無阿弥陀仏」。その嗚咽にも似た、震える声を聞く度に 阿弥陀仏の存在を感じる。


でした。

以下はその文を受けての私の見解ですが、きっと、その見解は口から漏れてしまうものな切迫したものでは無いだろう。


そんな言葉を唱えたところで何も変わらない。
幸福の価値観を違えたところで、やはり、今ここで救われたいと願う。

その溺れ具合。

結局、阿弥陀如来の出番はそうそう多くない。

絶望し続ける事はあるだろうが、絶望が続く事はそんなにない。
それに、絶望だけが阿弥陀如来の登場を願うわけではない。

ならば、どんな状況が救いに至るのかと言えば、
既に在るものを見ようとする心ではないだろうか。

否定して、目をつぶり、暗闇こそが我が世界と声高に叫ぶ。
いや、そもそも、そこが暗闇であることすらどうでも良い。
ただ、気に入らないからと排除し、気に入ったからと奪う。

その心持ちでの南無阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏ではないのではないだろうか。

口から音出せばただの言葉。
気持ちを込めれば念仏。
その時漏れたのなら、救う救われるを越えた所に、つまり、浄土に。


先日、衝動的に表紙買いした本があった。
表紙にでかでかとZの文字が金文字で印刷されていたのだ。
TシャツやマグカップまでZで揃えてる自分としては問答無用で買わざるを得なかった。

読んでみれば自己啓発本に近かったが、これはホ・オポノポノという聞きなれないハワイの伝統的な人生?の処方について書かれているものらしいのだ。

それはとても簡単で、

ごめんなさい
許してください
ありがとう
愛しています

と言う言葉を唱えればそれで終わりらしい。

その時の自分からして見たら、南無阿弥陀仏と重なる事、このうえなかった。

ただ、違うのは目指している地点だ。

親鸞は救われる人を一人でも多く。
そちらは、過去の浄化を。

ただ、過去を浄化することで、現在無意識にかけているブレーキを外すのだと言う。となると、今としてしまう方が適切かもしれない。

この過去を浄化すると言う行為。
執着しない仏教の考え方に似ている気がする。

小説でしつこい位改心しない人物がいたがこの人物の改心する場面の描写は秀逸だった。

そこで、親鸞の全てが表現されているような気がする。

ここが浄土なのだ、と私には読めた。

現在も過去も未来もない。

この刹那だけが全てだと。
ならば、過去の過ちなどない。
罪がないならば改める必要もない。
今、ここ。
拙い言葉でしか言えないが、
ここが全て。

生まれ変わると言う言葉ならわかりやすいかもしれないが、生まれ変わったわけではなく、その時そこにいた自分が全て。

けれど、現実はそうもいかない。
超個人的なことだが、

唯一と言って良い連絡手段のメールが途絶えれば、その時間だけ気持ちは離れて行く。
こちらがなんやかんやと、理屈をこねた所で、過ぎてしまった時間は戻らない。
つまり、気持ちは戻らない。

そこで後悔しても遅い。
時間は過ぎたのだから。

上で言った事はあくまでも小説の感想でしかない。
それを学びとして受け取るれるのかはわからない。
ただ、過去は浄化も出来なければ、今が全てではない。


丁度、一年が経とうとする時、相手は大事で、自分は風邪をかなりこじらせていた。

薄い半透明の幕が貼ったような関係に陥ってしまい、その幕が拭えない。
拭う算段を試みるも結果は推して知るべしと言ったところだ。

けれど、今、その事で後悔仕切りかと言えばそうでもない。
なんだかんだと障害があり、それらを越えて行くには何もかも足りない。
その思いが、
まぁ、そんなもんだろう
と口をついて出る。

果たして、ここでの一種の諦めには内在する熱はあるのだろうか。

答えは、「ない」だ。

当然、親鸞のそれと比べればの話。
当たり前と言えば当たり前。
そうじゃないと言えばそうじゃない。

心の機微を読み取るのは難しい。
が、友人が同じ事をしていたら、ばかしゃねーの?と一蹴したに違いない。
けれど、幸いな事にそんなきつい言葉を吐く友人は持ち合わせていない。

と、ここで、親鸞に友がいたかどうかが気になった。

今まで読んだ中にそう言ったものは描かれていなかった。

よく、付き合いの浅い友人を沢山持つより心から付き合える友人を一人でも持っていた方がいい
と言うような言葉を聞く。

が、親鸞の、それも至って洗練されてしまったものでしか触れる事の出来ない現在では、
友人らしい友人はいなかった。
と、断言する事は出来ないが、
私はいなかったと思う。

けれど、それは「友人」に限定した場合だ。

心の底から付き合えていた人間の数は数えられるものではないだろう。

そもそもなぜ、友人、隣人、恋人、上司、部下と区別する必要があるだろうか。

いや、社会的には区別しなければならない部分もあるだろう。
が、心は別。

この場合、博愛よりも、オープンハートと言う言葉がしっくりくる。
いや、日本語の方がしっくりくるが、オープンハートの適切な訳がわからないだけだ。

心を開く。
親鸞のそれは閉ざすものすら無かった事だろう。

まさしく、そこが浄土ではなかろうか。

分け隔てなく、ただ個がある。

繋がっては切れる縁もあるだろう。
しかし、縁は円。
言葉遊びがすぎるかもしれないが、
繋がりは切れる事は無い。

だからこそ、親鸞のあの場面での描写に全てを見た気がしたのかもしれない。

過激に言ってしまえば、
失恋こそが浄土。
焦がれる事も浄土。

ならば、やはり、全てが浄土になりうる。

そうならば、浅薄な思いだろうがなんだろうが、唱えよう、南無阿弥陀仏と。












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漸く、読了。

殆どと言って歴史小説は読まないできたが、大河とはこういうものかと思った。

今までの親鸞のイメージが薄れて行く中、確固たる親鸞像がそこに息衝く。

歴史は流れるが親鸞は流れない。

ただ、岩のごとく、そこにある。

「そこにある」という言葉で思い出すのが、「まはさてあらん」。
臨終だったか、晩年床に伏せている時かは忘れたが、何を思ったか、
「まあ、そんなもんだろう」と呟いたのだ。

そこにある温度は、極めて平坦だ。

苛烈と言えば苛烈な人生を歩み、迫害すらされて、一仏教者として、一つの結論に達した彼をして、人生そんなもんだろうと。

いや、ここで、その呟きが何に向かって吐かれた言葉なのかは不明だが、この小説を読むと、素直に人生で良いのではないかと思う。

この小説では自分が気にしていた親鸞の念義や悪人正機について親鸞の口から語られる事は無かった。

読み始めて、弟の恋人が山賊に攫われるくだりがある。
が、攫われて終わり。親鸞がその山賊に対して抱いたであろう気持ちは語られない。

なんと、薄情なと吉川親鸞に魅力を見出せずにいた。

物語はたんたんと進む。
たまにその山賊が顔を出し、幼少から嫌がらせをして来た人間が憎悪むき出しに親鸞に向かってくる程度だ。

まぁ、親鸞の人生に激動を見出したいとは思わなかったが、主軸となる親鸞の生身に触れている気が全くしなかった。

ここで話は少しずれる。
昨日、一つの出会いが一つの形になった。円環とは言えないが、それでも、形にはなった。

小さな頃に遊んだ番号のついた黒丸を番号順に線をつなげて行くと何らかの絵になるものの様なものだと思う。

ヒントが書かれていて、そこには大好きな人とする事とでも書いてあったのだろう。

当然、大人の私はあたりをつける。
その間、邪魔が入ったり、霞目で次の番号がなかなか見つけられなかったりと、多少の紆余曲折はあったものの、何とか形になって来た。
しかし、何かが違う。
まぁ、それを表現する絵など、多数ある。
番号だけを見て、線だけをつないで行く。
すると最後の方の番号が見当たらない。
探しても見つからない。
未完成。

すると、裏面にいつの間にか書いてあった、同じテーマのものが殆どできかかっている。が、それもまた、いまいちピンとくる様な絵にはならない。

もしかして?と、その紙を日にかざす。
すると、裏と表が重なり合って一つの絵になった。

少しだけキョトンとする。

その絵が望み通りかと言われればそうではないけれど、まぁ、そんなもんだろうと思う。

ここで、改めて親鸞の平熱を考え直す。

仏に帰依するものでありながら、妻帯し、死別したのちに再婚。子も何人かもうけた。
そんな親鸞が平熱であるはずがない。思い返せば、最初の伴侶、玉日の事を思う若き日の親鸞は熱に浮かされていた。

ならば、平熱とはふさわしくない。
恐らく、内在している熱量が高すぎるのではないだろうか。

そのすべてを、人に念仏を伝える事に費やし,
瞬間瞬間で全てを出し切ろうとするような、しかし、それはとても静かで、穏やかな作業だ。

もしかすると、出し切ろうとすらしていないのかもしれない。

今日を精いっぱい生きようとか思っていないのかもしれない。

いや、恐らく思っていないだろう。

全ては仏の御心のままに。

つまりは『他力』

そこには我というものは存在しない。

だから生き死にすらも預けてしまっている。

それゆえの平静。


ならば、内在している熱量の行きどころはどこなのか?

おそらくそれが、親鸞が若い時から悩んでいた事なのだろう。

妻帯することで初めて我を捨てる事が出来たのではないだろうかとすら思える。

一見これは矛盾をはらんでいるように思える。

しかし、そうではない。これは断言できる。

自分ではどうしようもない我を突き通す事で彼は我を捨てたのだ。

禁じられている事、あり得ない事、あってはならない事。

そういった事を超えたからこそ、我が抜け落ちたのだ。




話は戻るが、

会話らしい会話をしたのは去年の事だ。

それからはメール。

そして、メールも尽きて、何がしかが起こり、そして、時間だけが過ぎて行った。

互いに我を突き通す力がなかったと思えない事もない。

突き通そうとして半端に終わり、それはどこにも届かない。

相手は落ちて行くその言葉達を受け止める事も出来ず、ただ、見つめるだけ。

けれど、それはそうでしかなりえなかったし、そういう類の行為だったのだと思う。

だから、我は抜け落ちない。

むしろ、届かない歯がゆさに同じことを繰り返す。

そして、さらに歯がゆさが増し、我が残り、歯がゆさが消え、行為も消えて、我だけが残った。

ここで『なむあみだぶつ』と唱えても、それは何にもならない。

なぜならば、残ってしまってだけいるその『我』の存在理由がないのだから。



吉川親鸞では良く周り、取り巻きの場面が描かれる。

それが自分には不満の一つでもあったのだけれど、

最後の最後でこれが利く。

調子の良い、お定まりの物語。

とある夫婦の物語。

そんなにうまくいくはずがないと鼻で笑うもよし。

その場に居合わせたように、かみしめるもよし。

兎に角、素晴らしい終わり方だった。

終わって初めて、この全三巻に綴られた物語が素晴らしいものだと
わかった。

つまり、親鸞の物語は市井の物語なのだと。



五木寛之の親鸞にも悪役が出てきたが、吉川親鸞の悪人っぷりはしつこかった。

どうせ最後は改心するのだろうと高をくくりながら読んでもなかなかそうはならない。

それにひねくれ者の読者としては、改心しない悪役でいてほしいとも思っていた。

親鸞が凶刃に倒れることは歴史的にない事なので、そういうどきどき感は全くないが、

親鸞の立ち振る舞いには痺れてしまった。

そして、それが腑に落ちる。

書かれない事で親鸞という人物を描きだし、そして、教義を表現したといっても過言ではないだろう。


さて、まだまだ、書き足りないが今日はこの辺で。

せめて、ここ位は『書きたい』という我を通していきます。









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親鸞とはどんな人だったのか?

なぜ、比叡山を下り、
街に繰り出したのか?

前回読んだ「親鸞と道元」によって少しは前知識がついたのでそれらを比較しながら読んで見た。


出だしでは幼少の親鸞が闘牛を見に行くところから始まる。

もっと仏教臭いものを想像していたが、のっけから俗くさい。

そして、その臭さの通り親鸞は町の人間達と交わるようになる。

そこで
「放埓の血」が流れている事を親鸞は自覚する。

ある意味これが親鸞の全てである。

だから、比叡山を下りたし、だからこそ、聖と俗の狭間で生きた。

この本を読むに当たって気にしていたのは、六角堂にて籠った95日目に親鸞が救世観音から告げられた言葉だ。

 行者宿報設女犯
 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳
 臨終引導生極楽

大まかに言えば、

行者が性行為を働いても私が女性となって犯されましょう。
一生、見守り、極楽へ導きます。

と言う感じだろう。

このはじめにある行者というものの解釈は二つある。

一つは親鸞自身

一つは仏道へ励むもの一般である。

昨晩、湯に浸かりながらパラパラと梅原猛の歎異抄を眺めていたら、彼はさも当然であるかのように、親鸞の意で解釈していた。

前回読んだ道元と親鸞では行者の意で。

さて、五木寛之はどちらを取るか?

ひろちさや氏によれば、親鸞の意で解釈する事が一般的らしいし、定説はないようだ。

浅薄な知識で作られつつある親鸞像にとって、この身近な問題は重大だろう。

はぁ~おなごにさわりたーい。
すっげー、手とかつなぎたいんですけど!
接吻かぁ…どんな感じなんだろうなー。

などと高校生如く性欲を抑えきれず悩んでいたのか?

もしくは、

少しでも性欲が「ある」という事に気づいてしまい悩み続けたのか?

後年には結婚もし、子ども出来た。

その結果から解釈すれば、前者であるような気がするし、他にも多くの資料が残されているのだろう。

実際、五木寛之氏、梅原猛氏の誰もが性欲は強かったと書いている。

だから、悩んだのだと。



が、悩み多き親鸞だったからこそ、在る事を知ってしまった性欲を無視するのではなく、捉え考え様としたのではないかと思えてならない。

道元は晩年にかけて峻烈になっていく。が親鸞はその逆、もしくは、生涯を通して峻烈だったのかもしれない。

仏道の解釈では、親鸞は馴染みやすい。
なにしろ、念仏となえりゃオッケー
なのだから。

こうも言えるかもしれない。
道元は不自由の中に自由を見出し、
親鸞は自由の中に不自由が在る事を見出したと。

しかし、それらは裏返る。
起点の違いだけで、円環であれ、螺旋であれ、連綿と続いている事には変わりは無いだろう。

さて、
この小説に話を戻そう。

放埓の血。その他にキーワードをあげるとしたら法然と黒面法師になるだろうか。

法然は親鸞の師であり、念仏義を広めた人物だ。
一方、黒面法師は架空の登場人物であろう。

この黒面法師は、絶対悪に近い存在かもしれない。

彼が最期に問う。
私の様な反省もしない悪も阿弥陀如来は救うのか?と。

業火の中で親鸞に向かって放たれたその言葉の返答はあったのかなかったのか明確には描かれていない。

その後の親鸞の描写にもその言葉を思い返す様子もない。

答えは
救われる
のだろう。

しかし、念仏を唱えなければ、阿弥陀如来を想いすらしなければそもそも救うも何もない。

その想いの強さはどの程度必要なのか?

先に親鸞の本を読んでいたからか、ここに想いは不要と考えられる。

ならば、

南無阿弥陀仏

その言葉だけ。

音だけで良い。


緊急地震速報のあのブザー音に近いのかもしれない。

私達がその音を耳にすれば一瞬身を硬直させる様に、
阿弥陀如来はその音を聞けば反射的に救う。

つまり、南無阿弥陀仏という言葉を知った時点で救われる。

が、この救われると言うのは

自分の考える幸せとは違うと言う事だ。

自分の箱庭にあるものだけで決めつけた不幸が阿弥陀如来の考える不幸とは違う。

救われたと思う事すら出来ないかもしれない。
しかし、救われている。

そう思えた時に完全な「他力」に至る。

が、救われた実感がなければ救われたと感じるまで念仏を唱えるかもしれない。
隣の人は一回唱えただけで、金持ちになり、子供は神童ともてはやされ、権力者となっていくかもしれない。
一方、自分は旦那は逃げて子供は死産し、金もなく、汚いだの、醜いだのと罵られ生きて行かねばならない。
いっそ、こんな人生終わらせてしまおうか。
それでも、救われるのなら、もう一度唱えてみよう。
南無阿弥陀仏。
何も変わりゃしないじゃないか。
何のための仏さんなんだかわかりゃしない。
隣を妬み、嫉み、返って恨み、怒る。
あー、あー、私の人生って何だろう?
ちっとも救ってくれやしない。
隣とまではいかなくても、もう少し、
日干しされた布団で寝て、白米を食べて、一日に一回でも笑えればそれで良いのにねぇ。
はぁ…

こんな状況であっても彼女は救われている。
何とも無責任というか大らかというか歯痒いというか、兎に角、「救済」と言うものに特化した教義だ。

当の本人の実感はどうでもいい。
死ぬまで彼女は不幸だと思っているかもしれない。
救いは実感ではない。
決まり事なのだ。

ならばと、逆手にとって、彼女が犯罪に手を染める。

隣の人を殺害し、お金を盗み、逃亡生活を送りはじめる。

でも、私は念仏唱えてるんだから、救われるのさ。
と開き直る。

一見、理にかなっているが、道理から外れている。

これが、当時、法然の弟子たちやその教えを曲解した、本願ぼこりとなるのだろうか、ちょっと違うけれど、そんな風に誤解する人がいてもおかしくない。

これは人間性の問題だろう。
救う事は決まってる。
だから、悪に染まり、人も殺す。
その事に何の呵責も抱かないなら、それも仕方なかろう。
けれど、少しでも改善出来るのならばそこには救う救わない以前の問題があるだけだ。
人からは恨まれ、憎まれる。
結局、貧乏だった頃とたいして違わない。
彼女はそのうち気づくだろう。
こんなんでいいわけじゃないと。

と、横道を過ぎたところで、
本道に戻ろうかと思ったけれど、
次回に持ち越そう。

さて、次作は、吉川英治の親鸞。









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ここから親鸞ラッシュに入ります。多分。

ずっと気になっていた著者の作品。
道元と親鸞を軸においた仏教エッセイと言う感じだろうか。

ただ、この作者の面白いのは話が飛ぶ飛ぶ。
いつの間にか、シェイクスピアの話になっていたり、旅であったイスラム教徒に対する愚痴だったりと寄り道が多く飽きることがない。

吉川英治の五木寛之の親鸞がどのようなのかは知らなかったが、先ずこの本ありきで悪人正機と言うものを考えて見たい。

親鸞は他力を説き、道元は自力を説いた。

完全なる他力は、悪人正機とも言える。
悪人だからこそ救われると言うのは、
そもそも刹那の違いであると言えるだろう。

著者はこう例える。
善人も悪人も混じった大勢の人が溺れている。
まず、そこから救われるのは誰であろうか?
悪人である。と。


ここで、ようやくこの本の言う親鸞の説いた悪人正機の合点がゆく。

そもそもの発端は阿弥陀如来にある。
阿弥陀如来が自分に助けを求めたものは全て救うと誓いを立てた。

南無阿弥陀仏
その言葉だけで阿弥陀如来は救いを求めている人のもとへ駆けつける。

では、何度唱えれば良いのだろうか?
一度?それとも常に?
突き詰めていくと
思えば?

けれど、不安で不安で何度も唱えてしまうかもしれない。
それはそういうものだからだ。

自分の中に何度も唱えてしまうと言う業がなければ唱えるまでもない。
唱えたら唱えただけ効果が高まるのではない。

更に続ければ、その人はまだ救われない。いや、救われる事は決まっている。それがいつかはわからない。

続けるのかやめるのかどちらにせよ阿弥陀如来に預けた状態にある。

だからこそ、末法の時代であった当時、終わるはずの世界の手前で悪人と言われるものが南無阿弥陀仏と唱えれば救わなければならない。

それが、1人ならまだしも、大人数になってしまうと救うにも時差が生まれる。

ただその刹那を切り取るとあたかも悪人こそが救われてしまうように感じてしまう。

ただ、この読み取りには自信がない。

さて、道元。

仏教哲学の巨人もこの本で血肉が通う。

何がそうさせたのかといえば、
著者の感想だろう。

どれも聞いた事のあるエピソードだが、そう言われれば、

道元も人の子なんだな。

と思ってしかるべきと素直に読める。

正法眼蔵などと言う酷く難解な書物に何度も当たっては砕けている身としてはほんの少しだけ糸口が見えたような気がした。

もちろん、気のせいかもしれないが。


親鸞と道元。他力と自力。
この二人の何が違って、どこが同じなのか?

仏教と言う一つの教えから派生した真逆の思想がこうも手軽に読めてしまうという贅沢を味わえる一冊。









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遂に完結。

長きに渡り読み続けてきた漫画の一つが遂に最終回を迎えました。

出会いは確か朝日新聞で紹介されていた記事だったと思います。

面白そうだなと手を出して、気付けば10年以上連載されていたことになります。

大人になったら漫画なんて読まないと思っていましたが、現在ですら真っ最中と言っても過言ではありません。


さて、感慨を含めてあらすじを思い返して見ます。

時代は江戸時代。

親の敵討ちを誓った少女が一人の用心棒と出会います。

その用心棒の名は万次。
チベットか何処かの秘術、血栓蟲なるものを埋め込まれた不死者。

この2人が仇を探し、次々と敵を倒して行きます。

その敵は、逸刀流なる剣の流派。
彼らは衰退して行く剣術を復興するべく江戸じゅうの道場を次々と壊滅していきます。

その中で少女、凛の親がやっていた道場も潰されてしまいます。

目の前で親が殺されて行くのを目の当たりにし、仇の頭目を眼に焼き付け、父に直接手をかけた相手を、母を陵辱した相手を恨みます。

と、こう書いてしまうと何やらおどろおどろしい物語に聞こえますし、実際おどろおどろしいのですが、そこが読みどころではなく、セリフの言い回しと敵の変態さ加減でしょうか。

仇を追う中で、関所を超える難しさや、幕府による刺客なども出てきて、物語の後半では混戦を極めます。

互いの主義主張を認めながらも恨みは消えず、その中で少女もまた他から恨まれ復讐の対象になったりもします。


この復讐と言うテーマの決着はとても難しい。
1、復讐を果たす。
2、復讐を諦める。
この二つの選択肢から選ぶより他はなく、どちらにせよ物語として成立するには主人公の精神的な成長が必須となります。

なぜならば、復讐に燃え、何の葛藤もせず、感情に任せるまま本願を成就させたとしても、読んでいる側には何も残らない。

ここで思い出すのが、手塚治虫の「鉄の旋律」です。

元々は親友だったはずの男の裏切りに会い、妹を失い、自身の両腕さえも失ってしまう。
その治療に当たった医師は超能力を研究しており、そこで苦しい実験を乗り越え主人公は鉄の腕を操る超能力を得ます。

のうのうと生きている仇を追い詰め、そして…。


私としてはこの結論に勝るものはないような気がします。
詳細は伏せますが、
「こうする他ない」、
でも、
だけど…。

その辺りで言葉が詰まり、物語を受け入れようとします。

それでも、やはり、
でも、
でも、
やっぱり、
でも、まぁ…

と引きずられていきます。


では、話を戻して、この10年以上に渡る復讐譚を終わらせるにはどうするべきなのか?

主要人物たちによる対決も佳境を迎え、結末へ向けて花を添えます。

が、少女は精魂尽き果て意識を失い、
頭目は船で中国へ逃げようとし、用心棒は復讐は遂げたと少女に嘘をつくことで本質的に少女には復讐を遂げさせない形を選びます。

結局、物理的に仇が死ぬ事よりも大事なのは、敵討ちが果たされたと思う事であり、子供騙しではあるが、真っ当な解決策ではあると思いました。

が、船が港を離れるその瞬間に、少女は仇の胸に刀を立てます。

その時、仇は諦めた様な、当然だと思う様に、うっすらと笑みを浮かべて抵抗する事なくその刃をその身に受け入れました。

その瞬間の少女の描写は特にありません。腕と刀と海に落ちる仇の姿。

その時、彼女を突き動かしたのは、恨みつらみではなかったのではないかと思っています。

衝動よりも、反応。

食べ物が置かれればそれを平らげる様に、仇がいればそれを討つという親を殺されてから刻まれた身体の反射。

その時始めて、少女の復讐心が本物だったと合点がいきました。

なんだかんだと言っても、復讐を果たせないのではないか?
そう思っていました。

若さ故の純粋な感情と言ってしまえば、簡単ですが、
それを最後の最後で漫画としてベストな表現を描き切ったと思います。

にしても、長かった。

因みにこの漫画には悪役として最低な人間が出てきます。
世には色んな悪役がありますが、私の中ではこの男が最高の悪役ではないかと思っています。

次に漫画の最終巻で感想を書くのは、「サイコ」でしょうか?
にしても、恐らく5年位はかかるのではないかと予想しています。

蛇足に次ぐ蛇足ですが、
かのワンピースの最終回はこのまま行けば社会現象になるんじゃないかなって楽しみにしています。
あれもどうやって終わるんだろうなぁ。










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とある会話での覚書。


男と言うものは浮気をする生物である、という意見がある。

そもそも『浮気は文化』と言ってのける人間もいるほどだ。

なら、浮気と言うのはどの程度一般的に行われているのだろうか。

周りを見渡して浮気した事があるという人間はそれほどいない。

風俗しかり。

ここで、風俗と浮気どちらが悪であるか?


個人的には浮気であるという意見だった。


どちらも裏切りの行為である事は間違ないないが、
家庭と言う唯一無二の存在に背を向ける行為には違いないので、
完全な裏切り行為になるからだ。

しかし、風俗は違う。
需要と供給が成り立っており、
そこには『行為』しかない。

その行為そのものが裏切り行為であるのだけれども、
抑えられない性欲をお金を出して処理する。
家庭の事情で、SEXが出来ない事もあるだろう。
そこで産まれるストレスは抱いてしまうとかなりのものになると思う。
そのストレスと発散する為、
または、浮気に走る前にその欲求を抑える為に、
はたまた、犯罪に走る前に・・・。

だから、風俗に行く。
もちろん、そちらの方が好きだからという理由で
浮気には目もくれず風俗に走る人もいるだろう。

が、後腐れはないし、セックスレスの不満は解消できるし、
そうすることで家庭が円満に行く事も十分考えられるだろう。

『必要悪』とまでは言わないが、
毒を持って毒を制す感覚に近い気がする。

が、
それは違う。

世界最古の職業は売春婦だという。
それほどまでに人類は性欲の処理をどうすべきか真剣に
悩み、解決したのだろう。

そして、この問題はさして多くを語られない。
店舗経営が法律に抵触しているという部分で
摘発される事はあっても、
そもそもの『他人に性欲を処理してもらう』という商品自体は摘発されていない。

それらの理由は今ここで考える事ではないので、ここで止めておく。

『売春行為』は禁止されているけれど、
それに似たサービスはあるし、
実際売春は行われている。

そして、それは驚いたことに、
世界最古の職業であると同時に、
性欲を処理する悩みの解決策として完成されてしまっている。

つまり、
古代から現代まで、
『性欲を処理するお店』はあり続けている。


人類はそれよりも良い方法を見つける事が出来ないでいると言う事だ。

人類は間違いなく進歩してきている。

その進歩をなにと比較して進歩と呼ぶかはまた難しいところだが、

食料の保存にしても戦争にしても昔ほど原始的ではなくなっている。

むろん、世界全般に言えることではないが、
それらが『教育』による成果である事は間違いないだろう。

人類が選んだのはその教育によって進歩していくという道だ。

もちろん、教育を受けず、知能を発達させることがなくとも
無秩序にはならないだろうし、
例えなったとしても、どこかで落ち付く。
種は存続させなければならないとプログラムされているから
全滅する事はないだろう。

オスは種を残せるだけ残そうとする。
メスは頼抜きの種を残そうと吟味する。

その違いが、風俗と言うものを廃れさせていないことはわかる。

けれど、風俗嬢は『好き嫌い』という本能を押し殺して、
行為を売る。
それは自身の原始的な感情を殺している事に他ならない。

それを買う男性はとやかく言い訳をするかもしれないが
簡単にいえば自分の性欲をコントロールすることが出来ない。

ここには矛盾があるようにみえるがそれは違う。

性欲のコントロールは出来てしかるべきなのではないだろうか?
という男性サイドへの問題提起と
自身の原始的な感情を押し殺せば出来てしまう性の根本的な倫理観の欠乏を
女性サイドへの問題として提起しているのだ。
もちろん、男性自身にも当てはまるだろうが。

これはよくよく考えれば、
議論されにくい問題なのかもしれない。

風俗を禁止することで犯罪が増加するかもしれない、
けれど、性欲のコントロールを教育する事はできないかと考え続けることこそが
これからの人類にとって一つの進歩ではないかと思う。


もう少し、ちゃんと書きたかったけれど、まぁいいや。

また、すこししたら読み返してみよう。