ここから親鸞ラッシュに入ります。多分。

ずっと気になっていた著者の作品。
道元と親鸞を軸においた仏教エッセイと言う感じだろうか。

ただ、この作者の面白いのは話が飛ぶ飛ぶ。
いつの間にか、シェイクスピアの話になっていたり、旅であったイスラム教徒に対する愚痴だったりと寄り道が多く飽きることがない。

吉川英治の五木寛之の親鸞がどのようなのかは知らなかったが、先ずこの本ありきで悪人正機と言うものを考えて見たい。

親鸞は他力を説き、道元は自力を説いた。

完全なる他力は、悪人正機とも言える。
悪人だからこそ救われると言うのは、
そもそも刹那の違いであると言えるだろう。

著者はこう例える。
善人も悪人も混じった大勢の人が溺れている。
まず、そこから救われるのは誰であろうか?
悪人である。と。


ここで、ようやくこの本の言う親鸞の説いた悪人正機の合点がゆく。

そもそもの発端は阿弥陀如来にある。
阿弥陀如来が自分に助けを求めたものは全て救うと誓いを立てた。

南無阿弥陀仏
その言葉だけで阿弥陀如来は救いを求めている人のもとへ駆けつける。

では、何度唱えれば良いのだろうか?
一度?それとも常に?
突き詰めていくと
思えば?

けれど、不安で不安で何度も唱えてしまうかもしれない。
それはそういうものだからだ。

自分の中に何度も唱えてしまうと言う業がなければ唱えるまでもない。
唱えたら唱えただけ効果が高まるのではない。

更に続ければ、その人はまだ救われない。いや、救われる事は決まっている。それがいつかはわからない。

続けるのかやめるのかどちらにせよ阿弥陀如来に預けた状態にある。

だからこそ、末法の時代であった当時、終わるはずの世界の手前で悪人と言われるものが南無阿弥陀仏と唱えれば救わなければならない。

それが、1人ならまだしも、大人数になってしまうと救うにも時差が生まれる。

ただその刹那を切り取るとあたかも悪人こそが救われてしまうように感じてしまう。

ただ、この読み取りには自信がない。

さて、道元。

仏教哲学の巨人もこの本で血肉が通う。

何がそうさせたのかといえば、
著者の感想だろう。

どれも聞いた事のあるエピソードだが、そう言われれば、

道元も人の子なんだな。

と思ってしかるべきと素直に読める。

正法眼蔵などと言う酷く難解な書物に何度も当たっては砕けている身としてはほんの少しだけ糸口が見えたような気がした。

もちろん、気のせいかもしれないが。


親鸞と道元。他力と自力。
この二人の何が違って、どこが同じなのか?

仏教と言う一つの教えから派生した真逆の思想がこうも手軽に読めてしまうという贅沢を味わえる一冊。









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