親鸞とはどんな人だったのか?

なぜ、比叡山を下り、
街に繰り出したのか?

前回読んだ「親鸞と道元」によって少しは前知識がついたのでそれらを比較しながら読んで見た。


出だしでは幼少の親鸞が闘牛を見に行くところから始まる。

もっと仏教臭いものを想像していたが、のっけから俗くさい。

そして、その臭さの通り親鸞は町の人間達と交わるようになる。

そこで
「放埓の血」が流れている事を親鸞は自覚する。

ある意味これが親鸞の全てである。

だから、比叡山を下りたし、だからこそ、聖と俗の狭間で生きた。

この本を読むに当たって気にしていたのは、六角堂にて籠った95日目に親鸞が救世観音から告げられた言葉だ。

 行者宿報設女犯
 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳
 臨終引導生極楽

大まかに言えば、

行者が性行為を働いても私が女性となって犯されましょう。
一生、見守り、極楽へ導きます。

と言う感じだろう。

このはじめにある行者というものの解釈は二つある。

一つは親鸞自身

一つは仏道へ励むもの一般である。

昨晩、湯に浸かりながらパラパラと梅原猛の歎異抄を眺めていたら、彼はさも当然であるかのように、親鸞の意で解釈していた。

前回読んだ道元と親鸞では行者の意で。

さて、五木寛之はどちらを取るか?

ひろちさや氏によれば、親鸞の意で解釈する事が一般的らしいし、定説はないようだ。

浅薄な知識で作られつつある親鸞像にとって、この身近な問題は重大だろう。

はぁ~おなごにさわりたーい。
すっげー、手とかつなぎたいんですけど!
接吻かぁ…どんな感じなんだろうなー。

などと高校生如く性欲を抑えきれず悩んでいたのか?

もしくは、

少しでも性欲が「ある」という事に気づいてしまい悩み続けたのか?

後年には結婚もし、子ども出来た。

その結果から解釈すれば、前者であるような気がするし、他にも多くの資料が残されているのだろう。

実際、五木寛之氏、梅原猛氏の誰もが性欲は強かったと書いている。

だから、悩んだのだと。



が、悩み多き親鸞だったからこそ、在る事を知ってしまった性欲を無視するのではなく、捉え考え様としたのではないかと思えてならない。

道元は晩年にかけて峻烈になっていく。が親鸞はその逆、もしくは、生涯を通して峻烈だったのかもしれない。

仏道の解釈では、親鸞は馴染みやすい。
なにしろ、念仏となえりゃオッケー
なのだから。

こうも言えるかもしれない。
道元は不自由の中に自由を見出し、
親鸞は自由の中に不自由が在る事を見出したと。

しかし、それらは裏返る。
起点の違いだけで、円環であれ、螺旋であれ、連綿と続いている事には変わりは無いだろう。

さて、
この小説に話を戻そう。

放埓の血。その他にキーワードをあげるとしたら法然と黒面法師になるだろうか。

法然は親鸞の師であり、念仏義を広めた人物だ。
一方、黒面法師は架空の登場人物であろう。

この黒面法師は、絶対悪に近い存在かもしれない。

彼が最期に問う。
私の様な反省もしない悪も阿弥陀如来は救うのか?と。

業火の中で親鸞に向かって放たれたその言葉の返答はあったのかなかったのか明確には描かれていない。

その後の親鸞の描写にもその言葉を思い返す様子もない。

答えは
救われる
のだろう。

しかし、念仏を唱えなければ、阿弥陀如来を想いすらしなければそもそも救うも何もない。

その想いの強さはどの程度必要なのか?

先に親鸞の本を読んでいたからか、ここに想いは不要と考えられる。

ならば、

南無阿弥陀仏

その言葉だけ。

音だけで良い。


緊急地震速報のあのブザー音に近いのかもしれない。

私達がその音を耳にすれば一瞬身を硬直させる様に、
阿弥陀如来はその音を聞けば反射的に救う。

つまり、南無阿弥陀仏という言葉を知った時点で救われる。

が、この救われると言うのは

自分の考える幸せとは違うと言う事だ。

自分の箱庭にあるものだけで決めつけた不幸が阿弥陀如来の考える不幸とは違う。

救われたと思う事すら出来ないかもしれない。
しかし、救われている。

そう思えた時に完全な「他力」に至る。

が、救われた実感がなければ救われたと感じるまで念仏を唱えるかもしれない。
隣の人は一回唱えただけで、金持ちになり、子供は神童ともてはやされ、権力者となっていくかもしれない。
一方、自分は旦那は逃げて子供は死産し、金もなく、汚いだの、醜いだのと罵られ生きて行かねばならない。
いっそ、こんな人生終わらせてしまおうか。
それでも、救われるのなら、もう一度唱えてみよう。
南無阿弥陀仏。
何も変わりゃしないじゃないか。
何のための仏さんなんだかわかりゃしない。
隣を妬み、嫉み、返って恨み、怒る。
あー、あー、私の人生って何だろう?
ちっとも救ってくれやしない。
隣とまではいかなくても、もう少し、
日干しされた布団で寝て、白米を食べて、一日に一回でも笑えればそれで良いのにねぇ。
はぁ…

こんな状況であっても彼女は救われている。
何とも無責任というか大らかというか歯痒いというか、兎に角、「救済」と言うものに特化した教義だ。

当の本人の実感はどうでもいい。
死ぬまで彼女は不幸だと思っているかもしれない。
救いは実感ではない。
決まり事なのだ。

ならばと、逆手にとって、彼女が犯罪に手を染める。

隣の人を殺害し、お金を盗み、逃亡生活を送りはじめる。

でも、私は念仏唱えてるんだから、救われるのさ。
と開き直る。

一見、理にかなっているが、道理から外れている。

これが、当時、法然の弟子たちやその教えを曲解した、本願ぼこりとなるのだろうか、ちょっと違うけれど、そんな風に誤解する人がいてもおかしくない。

これは人間性の問題だろう。
救う事は決まってる。
だから、悪に染まり、人も殺す。
その事に何の呵責も抱かないなら、それも仕方なかろう。
けれど、少しでも改善出来るのならばそこには救う救わない以前の問題があるだけだ。
人からは恨まれ、憎まれる。
結局、貧乏だった頃とたいして違わない。
彼女はそのうち気づくだろう。
こんなんでいいわけじゃないと。

と、横道を過ぎたところで、
本道に戻ろうかと思ったけれど、
次回に持ち越そう。

さて、次作は、吉川英治の親鸞。









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