さて、なむあみだぶつについて。


五木親鸞の感想を書いた時に頂いたコメントで、少しだけ気づけた様な気がした。

そのコメントとは


南無阿弥陀仏は「音」に過ぎない。
テクニックで発声する南無阿弥陀仏も「儀式」に過ぎない。
口をついて出る、
口から溢れ出す、
「南無阿弥陀仏」を何回も聞いてきた。
心を込めてとも違う、信じて、でもない。
だだ ひたすらに溢れ出す「南無阿弥陀仏」。その嗚咽にも似た、震える声を聞く度に 阿弥陀仏の存在を感じる。


でした。

以下はその文を受けての私の見解ですが、きっと、その見解は口から漏れてしまうものな切迫したものでは無いだろう。


そんな言葉を唱えたところで何も変わらない。
幸福の価値観を違えたところで、やはり、今ここで救われたいと願う。

その溺れ具合。

結局、阿弥陀如来の出番はそうそう多くない。

絶望し続ける事はあるだろうが、絶望が続く事はそんなにない。
それに、絶望だけが阿弥陀如来の登場を願うわけではない。

ならば、どんな状況が救いに至るのかと言えば、
既に在るものを見ようとする心ではないだろうか。

否定して、目をつぶり、暗闇こそが我が世界と声高に叫ぶ。
いや、そもそも、そこが暗闇であることすらどうでも良い。
ただ、気に入らないからと排除し、気に入ったからと奪う。

その心持ちでの南無阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏ではないのではないだろうか。

口から音出せばただの言葉。
気持ちを込めれば念仏。
その時漏れたのなら、救う救われるを越えた所に、つまり、浄土に。


先日、衝動的に表紙買いした本があった。
表紙にでかでかとZの文字が金文字で印刷されていたのだ。
TシャツやマグカップまでZで揃えてる自分としては問答無用で買わざるを得なかった。

読んでみれば自己啓発本に近かったが、これはホ・オポノポノという聞きなれないハワイの伝統的な人生?の処方について書かれているものらしいのだ。

それはとても簡単で、

ごめんなさい
許してください
ありがとう
愛しています

と言う言葉を唱えればそれで終わりらしい。

その時の自分からして見たら、南無阿弥陀仏と重なる事、このうえなかった。

ただ、違うのは目指している地点だ。

親鸞は救われる人を一人でも多く。
そちらは、過去の浄化を。

ただ、過去を浄化することで、現在無意識にかけているブレーキを外すのだと言う。となると、今としてしまう方が適切かもしれない。

この過去を浄化すると言う行為。
執着しない仏教の考え方に似ている気がする。

小説でしつこい位改心しない人物がいたがこの人物の改心する場面の描写は秀逸だった。

そこで、親鸞の全てが表現されているような気がする。

ここが浄土なのだ、と私には読めた。

現在も過去も未来もない。

この刹那だけが全てだと。
ならば、過去の過ちなどない。
罪がないならば改める必要もない。
今、ここ。
拙い言葉でしか言えないが、
ここが全て。

生まれ変わると言う言葉ならわかりやすいかもしれないが、生まれ変わったわけではなく、その時そこにいた自分が全て。

けれど、現実はそうもいかない。
超個人的なことだが、

唯一と言って良い連絡手段のメールが途絶えれば、その時間だけ気持ちは離れて行く。
こちらがなんやかんやと、理屈をこねた所で、過ぎてしまった時間は戻らない。
つまり、気持ちは戻らない。

そこで後悔しても遅い。
時間は過ぎたのだから。

上で言った事はあくまでも小説の感想でしかない。
それを学びとして受け取るれるのかはわからない。
ただ、過去は浄化も出来なければ、今が全てではない。


丁度、一年が経とうとする時、相手は大事で、自分は風邪をかなりこじらせていた。

薄い半透明の幕が貼ったような関係に陥ってしまい、その幕が拭えない。
拭う算段を試みるも結果は推して知るべしと言ったところだ。

けれど、今、その事で後悔仕切りかと言えばそうでもない。
なんだかんだと障害があり、それらを越えて行くには何もかも足りない。
その思いが、
まぁ、そんなもんだろう
と口をついて出る。

果たして、ここでの一種の諦めには内在する熱はあるのだろうか。

答えは、「ない」だ。

当然、親鸞のそれと比べればの話。
当たり前と言えば当たり前。
そうじゃないと言えばそうじゃない。

心の機微を読み取るのは難しい。
が、友人が同じ事をしていたら、ばかしゃねーの?と一蹴したに違いない。
けれど、幸いな事にそんなきつい言葉を吐く友人は持ち合わせていない。

と、ここで、親鸞に友がいたかどうかが気になった。

今まで読んだ中にそう言ったものは描かれていなかった。

よく、付き合いの浅い友人を沢山持つより心から付き合える友人を一人でも持っていた方がいい
と言うような言葉を聞く。

が、親鸞の、それも至って洗練されてしまったものでしか触れる事の出来ない現在では、
友人らしい友人はいなかった。
と、断言する事は出来ないが、
私はいなかったと思う。

けれど、それは「友人」に限定した場合だ。

心の底から付き合えていた人間の数は数えられるものではないだろう。

そもそもなぜ、友人、隣人、恋人、上司、部下と区別する必要があるだろうか。

いや、社会的には区別しなければならない部分もあるだろう。
が、心は別。

この場合、博愛よりも、オープンハートと言う言葉がしっくりくる。
いや、日本語の方がしっくりくるが、オープンハートの適切な訳がわからないだけだ。

心を開く。
親鸞のそれは閉ざすものすら無かった事だろう。

まさしく、そこが浄土ではなかろうか。

分け隔てなく、ただ個がある。

繋がっては切れる縁もあるだろう。
しかし、縁は円。
言葉遊びがすぎるかもしれないが、
繋がりは切れる事は無い。

だからこそ、親鸞のあの場面での描写に全てを見た気がしたのかもしれない。

過激に言ってしまえば、
失恋こそが浄土。
焦がれる事も浄土。

ならば、やはり、全てが浄土になりうる。

そうならば、浅薄な思いだろうがなんだろうが、唱えよう、南無阿弥陀仏と。












iPhoneからの投稿