気が付けば、新年が明け、半月が過ぎようとしています。

早いもので、禁煙から既に50日位が過ぎています。

自分でも驚きですし、自分を知ってる人間からしても驚きでしょう。

今でも、イライラするから、ニコチンが切れたから、美味しいから、そういった理由ではなく、単に暇つぶしに吸いたくなることがあります。

まぁ、この辺の禁煙についてもおいおい書いて行きましょう。

2014年最初のブログは禁煙の一番の理由ともなったウイスキーから。

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この余市原酒シリーズ。
5年から20年まであり、
更には、特別なフレーバーの余市も何種類かある。

それは今年の良いタイミングでお披露目するとしよう。

では、

余市 原酒 10年

香り

華やかさ、甘い匂い、駄菓子屋で売ってるこねて、ストローで膨らます風船の匂い(ポリバルーンと言うらしい)、ぶどうの爽やかさ、レンガっぽい、土っぽさに、香ばしさを感じる。



口の中をカミソリで薄く切りつけるような鋭さ、滋味深く、淡麗。
きりり引き締まった味はあとをひかず、すっきり。
この年数にしては不思議なほど荒々しい。
が、すぐに馴染む。

体にすっと入っていく。

これがシングルカスクの面白さだと気付けた一杯。

前回、5年でかなりのまろやかさを感じていたものの、今回の10年では倍の年数が経っているとは思えないほどとんがっていた。

が、それが樽の個性なのだと思うと途端に愛おしさすら感じてしまう。
10年でまだ、この樽はきつさを隠そうとしない。
周りは丸くなってきているのに自分だけはまだまだと何に対してかは知らないが踏ん張っている。
反骨というほどかっこいいものではないが、豊かな個性を味わえた。

また、驚くのが、
この度数でも、水入らず。
それほど、味があとをひかず、口が乾かない。

当然、美味いと思う。
だが、それ以上に好きなウイスキーだと言える。

余市を飲めば、北海道に想いを馳せ、ジンギスカンの匂いが鼻をかすめれば、閉まってしまったピザ屋のドアを思い出す。

今回の10年は30日記念ということで開けた一本。

次は、禁煙してから3ヶ月目に。
その時は余市15年。
11月末から換算すれば、2月末。
丁度東京マラソンの祝い酒と被りそうだ。

今回は5時間を切るのが目標。

余談はさておき、
15年は今から楽しみだが、ここ最近ずーっとハイボールを飲んでいる。
その辺の事もだらだらと書く作業も、残っている。

こうして書くとやっぱり楽しいな。

では、次は、
どはまりしてる、石井光太著作の感想を書いていこう。






iPhoneからの投稿
前回、読もうと思った本はまだ読んでいない。

鬱関連の本は何冊か読んだが、記憶に新しい実近で読んだ自殺関連の本と絡めて、考えていこう。


あらすじとしては、

自殺した4人の幽霊が49日間で100人の自殺志願者を救うというものだ。

自殺する理由はあまり多くない。

・鬱

・借金

・無気力

・罪滅ぼし

・無力感

・寂しさ

・演技

・生活苦

・・・・・・など。


人の数だけ原因があるというほど多様ではないけれど、どれも当人にしてみればあきれるほど個人的な問題でしかない。
個人的だからこそ、誰にもいえない。
個人的だからそこ、伝えても理解されない。
個人的だからこそ、心を開けない。
そして、個人的だからこそ、自分で解決しなければならない。

そんな風に思っているように思えた。


この小説でもどかしいながらも良い設定だと思ったのは、幽霊側から干渉できるものはメガホンを使った声だけ。それもはっきりとその声が届くのではなく、その意味するところを数瞬考えさせるという程度。
扉をすり抜けられもしなければ、人間に触る事も出来ない。ものを動かすことも浮き上ることも出来ない。
だから、物理的に自殺しようとしている人間を助けることは出来ない。
首吊りを阻止したり、飛び降りを襟首つかんでやめさせたりは出来ない。

ただ、直接相手の心に自殺をやめるよう小さく働きかけるだけだ。

それは、誰かを思い出すことかもしれないし、
病院に行こうと思うことかもしれない。
挨拶することかもしれないし、
第三者を介入させることかも知れない。


この物語で、印象的だったのは、
自殺を止めないほうがいいのではないかという問答。

結論からすれば、それが使命だから。

なにより、『生きてこそ』といったところだろう。

生きてさえいればいい事あるさなどと楽観的な事は言えないが、あるかもしれないとは言える。
死ぬよりは良いと断言できる。


なんにでも寿命がある。

今日産まれた赤子だっていつかは死ぬ。

自然の摂理として終わりに向かって自分の意志とは関係なく
進まざるを得ない。

どうせいつか天寿を全うするのに死に急ぐ必要はあるのだろうか?



愛し合い、慈しみあった妻に先立たれる事だってあるだろう。

その際、その旦那はこの物語にもあったように喪失感から自殺を考えるかもしれない。

子も自立し、趣味も無く、どうせ老い先は短い。

ならば、と。


しかし、それでも『生きてこそ』だ。


物語では救助隊員たちが友人に様子を見に行かせ、その場を収める。


現実にはそううまくいかなくたって、何となく始めて味噌汁作りに挑戦し、湯通しのしなかった油揚のくどさに思わず苦笑してしうかもしれない。

あいつはどうやって味噌汁を作ってたんだろうななんてその日の晩にもう一度試して見るかもしれない。

いつか、妻の味噌汁に出会えるかもしれない。




この物語では失敗がない。

関わった自殺志望者すべての自殺を食い止めている。

全ての自殺は食い止められる。著者はそういいたいのかも知れない。

自殺する意志さえ確認できれば。

けれど、現実には自殺の意志を確認することは容易ではない。

だから、手持ちの肉親友人知人との人間関係をしっかりしたものに
しなければならない。

結局そこに行き着くのかなとも思う。

だからといっていまさら、積極的になれだとか、友人を作れだとか

そういうことを推奨しても仕方ない。

先日だって、自身の自殺をネットで実況中継した学生がいたらしい。

リアルタイムで観てたら嘘だと思う人、焦った人もいただろう。

そうすることでその人の中の足りない何かを埋めようとしたのだろう。

けれど、その何かは、自殺を実況中継しようとし、筋書きを決め、夢想した時、既に心の隙間は埋まっているのではないだろうか。

みんなが、親がこんな反応するなんて!如何に自分が大切かわかったでしょ??

と、それこそニヤリと笑っていたかもしれない。
本当はそこで満足してもいいはずだ。

怖くて死ねない、結局だらだらと生き続けるんだ。

そんな悪循環に陥っても生きてることだけで価値がある。生命とは存在そのもので、存在そのものに価値はある。

そんなんでいいじゃないかと思ってしまう。

が、
行動しなければ意味がないという思い込みで行動に移してしまう。
移してししまえば、当たり前だが死んでしまう。

それは意識的には本懐なのかもしれない。
が、やめるという選択肢があり、実際にやめることができるのであれば、本懐というのは一時の迷いなのではないだろうか。

自殺者は声をあげない。
だから、誰にも届かない。

が、その前に自殺を考えないものは、聞き耳を立てるべきなのかもしれない。

そんなにしょっちゅう周りの人間が自殺するわけではないだろう。
けれど、まさか、はいつでも起こりうる。

そのための対処を誰もが知っておいた方がいいと思う。

調べてみると、
自殺防止センターのようなものがある。

死にたくなったら、話を聞いてもらえる。それだけでも、心は静まるだろう。

まず、深呼吸し、死のうと思うその気持ちを真剣に伝えてから、次の手を考える。
それだけでも、夜の寂しく孤独で虚しい自分に優しくしてあげられるかもしれない。


生きて何がいいことがあるか?なんて誰もわからない。
気持ちの持ちようだし、実際その辛さすら未来では活力に変わるかもしれない。


http://www.befrienders-jpn.org/index.html

http://network.lifelink.or.jp/index.html

誰もがそんな考え方ができるとは思わないが、
明日は明日の風が吹くもんだと思う。




幽霊人命救助隊 (文春文庫)/文藝春秋

¥780
Amazon.co.jp
先日の誕生日。

無理やり友人に呼び出され、プレゼントされたのが、この二本。

終-アーキテクツのブログ-原酒5年

終-アーキテクツのブログ-余市12年 W&V



そして、原酒5年は個人的にはいわくつき。


昨年の北海道旅行の際に立ち寄った余市蒸留所。

そのころの私はウイスキーなど好きでもなんでもなかった。

記念にと買ったそのボトルを一人ホテルで飲むと、全身が痺れるほどうまいと感じた。

あまりお酒には強くないので、一口二口のみ、のどが焼けるように痛くなり、

朦朧として別途に横になる。今までの経験から言えば二日酔い確実だ。

しかし、この酒はならなかった。

何故だろうと他のウイスキーを飲み始めいつの間にかはまっていた。

このウイスキーはそのはまるきっかけとなったのだ。

だから、そのうちこのウイスキーを買いに余市へ行こうと思っていた。

けれど、まさかそれをプレゼントされるとは思いもよらなかった。



原酒 5年

匂い

柔らかく、海藻、潮の匂い、薄いカラメル臭、灰汁のようなえぐみほんのり酸味。




液体が濃く、とろみを感じる。
空気に触れるとじゅわっと香気が拡がり、余韻は殆どない。
アルコールの刺激はあるが、味はまろやか、渋み、苦味、エグミ、しおっけ、ナッツのような凝縮感も感じるが、ちょうどいい。
一口一口がとても強い。アルコール度数のせいもあるが、味がしっかりしてる。
バニラ、花の様な香気が微かに。
イメージは椿のよう。
香水の香り高さに近いものを感じる。

初めて飲んだ時はこんなことを考えもせず、ただ、『あれ?のめるぞ。頭痛くないぞ、うまいぞ』とその程度の感想しか抱かなかった。
今ではシングルカスクと聞けば、どんな状況であってもその話を少しでも聞きたいと思ってしまうが。

記憶の中のこのウイスキーの代替品として余市10年だと思っていたのだが、全然違った。

余市の持つ尖った感じは少なく、アルコール度数の高さに伴ったまるみすら感じることが出来た。熟成こそ短いがそれでも一つの樽で取られたウイスキーの濃さを味わえる。
アルコールが抜けるときに感じる喉をひりつかせるその感覚が余市の尖った味わいと混同してしまったのだろうと思う。

こんなに美味しくてたった5年ならば、この先10,15,20年と一体味はどのように変化していくのだろうか。
それはまた正月の話として取って置こう。


そして次は。

余市12年ウッディー&バニラ

匂い

やわらさか
バニラ、甘さ、
金木犀


超複雑。
しおっけ、まろやかさ、苦味、香り高いが草、青さの香りかわからない。
柔らかい。栗っぽさ?
あっさり。が、後味が微かに残る。

バニラと聞いて、山崎のような感じかと思ったが全然違った。どちらもバニラだが、こちらの方が受けが悪いような気がする。まだあくの抜けきっていないバニラ臭とでもいおうか。

ただ、口に含めばなんとも洋風。
浮かび上がるイメージは横浜の洋館。潮風と白い外壁と青い海。

何十種類とウイスキーを飲んできて、これまたはじめての味。
こういう味にぶつかる度にウイスキーは楽しいなと思うようになって来る。

確かにウイスキーけれど、それはなにをもってウイスキーと自分が判断しているのかは分からない。
ラベルを隠し、これなんだと聞かれて答えれば、ウイスキーとは答えられないかもしれないが、
たしかにウイスキーだなという確信もある。

それはつまり、気づいていないだけで、どのウイスキーにも共通したものがあるからだろう。

それが何なのか分からないが、本当にそんなものがあるのかも分からない。






さて、余談として。

当日の時間やらなにやらをメールしていたときに、ふと、相手からの返答が止まった。
当然、待つ。が、返事は来ない。
その待ち時間に私はなぜか考えてしまった。
『余市 原酒 通販』と。

今までは余市蒸留所のサイトを見ても通販をしているとはかかれておらず、問い合わせることもなく諦めていた。
しかし、前述のキーワードを検索すると、とあるブログに注文できると書いてある。

これは!!とすぐに友人に教えると
ちょっとして返事がきたものの、そっけない。

で、その後しばらくして、
実は誕生日に用意してあるプレゼントは原酒だ。と心苦しげに告げられる。


私がそのサイトを発見し、友人へメールした後に行われた友人夫妻のやりとりを後で教えてもらったのでそれを持って今日は〆よう。


夫「おい、やばいよ!!あいつあのサイトにたどり着いたみたいだ(オロオロ)」

妻「え?本当に?(キョトン)」

夫「ショックッッ!!!(ボーゼン)」

妻「見ちゃだめっていいな!!(ワタワタ)」

夫「なんて返信しよう・・・・(ズーン)」

妻「見ちゃだめだ!っていいなよ!!(ワタワタ)」

夫「・・・いや、見たからメールしてきたんだろ。」(←急に冷静)


そもそも、自殺とはなんだろう。

それは生きている事が辛いからだろうか。

わからないながら書くが、

生きている事に興味がない。
生きている事に飽きた。
生きていても仕方ない。

そういった理由もあるだろう。

彼女がそうした理由は何だったのだろう。

今更だが、もう少し考えてみよう。

遺書があったというから、その意志はあったのだろう。
内容は知らないが、
色々悩み、もういいや!
と考えてしまったのではないかと思う。


気が付いたら電車に飛び込もうとして、必死で近くの柱に飛びついた。

そんな話を聞いたことがある。

自身では制御出来ない部分で、体が勝手に動いてしまった。

なら、その制御出来ない部分はどうして産まれるのだろうか。

無力感、喪失感、絶望感。

そう言ったものは誰もが心の何処かに持っているものだと思う。

けれど、どうして殆どの人は自殺しないのだろうか。

家族や恋人、仕事かもしれない。

何処かにこの世に放っておけないものがあるから。
そう言ったものがなくても、死ぬ事への恐怖があるから。

そういう楔の様なものがあるからだろうか。

けれど、人間以外の生き物は自殺しないのではないだろうか。
人間特有の感情とはなんだろう。
夢を見ることだろうか。

夢とか希望、ちょっとした未来の楽しみ、食後のデザートとか、明日のテレビとか、そういう些細な何かで時間を過ごす。

そういうものがなくなってしまうと、目的が無くなる。
目的が無くなると、その間の過ごし方が決まらない。
ただ時間を浪費しているだけの自分に気が付いて、気力もなにもなくなる。

もう、何もしたくない。
もう、いいや。
まぁ、いいか。

そして、自分を諦める。

例えば、ここで、死ぬ事を選ぶか、仏門に帰依するかで大きく事は変わってくる。

いや、違うか。
そもそも、その選択が出来るなら、魔が差すことなんてないんだろう。

諦められた自分はどういうものだろうか。

意識と体が別物になるような気がする。
意識と体を繋いでいた決定的な糸が切れてしまい、主人を無くした体は……、細胞に1番深く刻まれた命令をこなすのだろうか。
意識は朦朧とし、何もかもどうでも良くなり、呆けている。
肉体は命令通りに動くだけ。

意識ではもう、何をしているかはわからない。
肉体は命令をこなす。

その肉体は意味など分からず、命令をこなす。




そんなところかどうかはわからないが、そんな事を考えてしまう。

鬱だから仕方ないのではない。
鬱を改善できなかったから仕方ないのでもない。
そもそも鬱になるよう社会はまともではないのではないだろうか。

そりゃ、発展の上の犠牲かもしれないし、心が弱すぎるのかもしれないし、そんな人達に歩幅を合わせていたら、国が倒れるかもしれない。



今回の件で思ったことの一つに、以前勤めていた会社の店長の性格がある。

一言で言えば、菩薩。
騙すよりも騙される方が良いを地で行く人だ。
店長がいたらきっと彼女はまだなんとかなっていたと私は確信している。

いくら仕事が忙しくても、いくら邪険にされても、店長が心配したら、心配の種がなくなるまで、追求する。
そのやり方に辟易することの方が多いが、真似しようとしてもできるものではない。

そういう人と周りに認知させるに足る行動があるからだ。
けれど、私が真似したところで、メッキでしかない。
あっという間に剥がれる。

それでも、今回は店長の真似をし続けるべきだったのかもしれないななどとも思ってしまう。

こうなってしまうくらいなら…と思い返せば切りが無い。

一番情けないのはこうなってしまってからでないと、この程度も考えない自分自身だろう。

もう、いない。という実感は多分一生伴わない。
姉がそうであるように、誰かに説明する時に、亡くなりましたと言っても、意地でも認めない自分がいる。
口にしなければ生きているかもしれないとほんの少しだけ思っている。

誰も彼女の分までは生きられないからこそもう少しだけ、なんとかならなかったのかと思わずにはいられない。

普通でない、社会に溶け込めない、鬱は面倒だから雇わない、仕方がなかった、教えても身に付けない、馴染もうとしない。

生きてる側の言い分は納得行くものばかり、だからこそ、その論理が既に破綻しているのではないだろうか。

日本は世界で自殺者が5番目に多いらしい。
何が原因でこうなっているのだろう。この数字は今後減って行くのだろうか。



帰りにショーペンハウエルの「自殺について」でも買ってみよう。



自殺している人がいるのは知っている。
と、
自殺した人を知っていた。
では自分にとってここまで大きいものなのだとは思わなかった。


iPhoneからの投稿
会社の人が無断欠勤を数日重ね、自殺した。

気持ちの整理と少しでも同じような事が起こらぬようここに。

結論から言ってしまえば、その人は鬱病だった。
でも、その事は親御さん以外知らなかった。
だから、不安定な情緒も性格だと割り切ってしまった。
強気の面もあり、裏表が激しく、笑いはするが、何処かに虚しさがあった。

でも、それはあくまで、今にして思えばだ。
当時はその虚しさに気付いていても気付いていない、何とかなるだろうと深く考えることはしなかった。


歳は40。
バツイチ。
これから1人で生きて行こうと決めて、うちの会社に入ってきた。
1人で生きて行く孤独感を思えば、途轍もないことは想像に難くないが、そこに自立意識があれば乗り越えられるものだと思っていた。

想像でしかないが、結果はきっと違ったのだろう。
一人寂しく、伴侶もなく、ただ年老い、初めてばかりの仕事に慌てふためき、自己嫌悪に陥っていたのではないかと思う。

勿論、その人の事はわからないから、そういったことをすっ飛ばして、魔が差して行為に及んでしまったのかもしれない。

変な業界で、無断欠勤をしても連絡をしないような会社だ。
ただ、その前から遅刻も多く、それでも反省する様子もなく、淡々と仕事をし、うちを辞めるという話もしていたらしく、社長も見限り、本人の自由にさせていたのだ。
今更だが、上の理由も鬱の症状のように思えてならない。

今日、タイムカードを打つ時に彼女のタイムカードが目に入った。
名前を赤いペンで書いていた。
それは、今月の初めにも気がついてはいたが、まぁ、黒いペンがなかったのだろうと。

知らない人にはピンと来ないかもしれないが、私は小さい頃から赤いペンで自分の名前を書くと早死にすると言われてきた。

もしかしたら、正解のない推論だけれど、彼女なりのサインだったのかもしれない。
そう思うのは今月初めにそれを見かけた時に、「後で、冗談目かして教えてあげよう」と思い、結局言わないままだったのかもしれない。

その人の事はその人にしかわからない。誰にも責任はない。

そう納めてしまうのが一番いいのかもしれない。
答えのない迷路に迷い込むこともない。しかも、その迷路はどこを見ても後悔しかないのだから、入ってもいいことなど一つもない。

違うな。いい人ぶりたいだけなのかも。私はこんなに人の事をかんがえてるんですよと。
まぁ、その辺の事を考えても卑屈にしかならないのでここまで。

話を戻す。

鬱病は知らなければ、他人には気づけないのだろうか?
そうかもなと察することはできても、余程仲が良くなければ、病院を勧めるには失礼とすら思われそうでなかなか出来ることではないし、それ程目端の利く方ではない自分の考えに自信があるわけでもない。

とどのつまり、
鬱病が現代病となったのは、希薄な人間関係にあるのではないだろうか。
勿論親密な人間が不意に…ということもあるかもしれない。
そういった心の隙間はどの様に発見し、解決して行くべきなのだろうか?

今にして思えば、彼女は入社当時は失礼なほど笑っていた。それはもしかしたら薬の効果だったのかもしれない。
ただ、笑うべきでない時でも思わず笑ってしまい、注意され、そこから薬をやめて、今に至ってしまったのかもしれない。

こんな想像が頭から溢れるほど湧き出てくる。

今日も仕事をしてると、いや、底ではずっと考えていたが、ふと考えてしまって、もっとどうにか出来なかったかを考えてしまい、仕事が遅く注意した事も彼女にすればナイフで切られたような感覚だったのかもしれないと思うと何も手につかなかった。

それでも、仕事は進んでいく。
仕方ないことだ。

朝の社長の言葉だ。
社長ももっと言いたいことはあっただろうが、会社としては進んでいかなければならない。

頭では分かっても、そこで留まる事すら許容しないようにするのが今の社会なのかもしれない。
当然だろう。停止は衰退でしかない。


何をしてても彼女に置き換えてしまう。
この寒さも、月の明かりも満員電車の煩わしさも、もう感じることが出来ないんだと。
そりゃ、いい歳だから、人生って良いも悪いも含めて人生とは分かっていただろうが、もう、どうでも良くなってしまったのだろう。
いや、本当にどうかはわからないけど。

こないだまで声もあって、匂いもあったのが空白になってしまった。

こういう空白はずっと埋まらないのではないかと思う。
あとはただ、その空白に慣れるだけしかない。

思い返せば今年は二つの死にぶつかった。
一つは元彼女の父親、一つは今回の。

元彼女とやり直せない私の中での決定的な理由はきっとこの父親の死の際に全く力になれなかったことだろう。
気持ちがあろうが、後でどうとでも優しくはできる。でも、それは1番辛い時ではなかった。1番辛い時に力になれない男など隣に立つ必要なんかない。そう思っている。
死後もその子はとても心労に蝕まれていたが最近ではようやく元に戻ってきたらしい。

けれど、今回の事を踏まえるとそうとも言い切れないのかもしれない。
そして、私はただの何もできない心配症のうざいおっさんになっていく。

死そのものには抗う手段はない。
あるとすれば一瞬一瞬を生きていると実感すること位ではないだろうか。

そうでない堕落な自分はまぁまぁ生きている。
なんなんだろうな。人生って。

無意味な仮定だが、私が彼女ならいくらでも楽しく生きられた。
そう思うほど、彼女は容姿が優れていた。
そして、頭も良い。

でも、人生はそれだけじゃない。

何も産まない想像はまだ尽きない。

一先ず、鬱について調べて見ることにしよう。

怒らない。
乱暴な言葉は使わない。
イライラしない。

今更だが、そうしよう。
今日は寒かった。

いつも、夜の一杯はベランダでやる。
タバコを吸いながら。

だから、今日は外にいる時間が短かった。

いつもより、早いな。と思ったのは寒さがもたらしたウイスキーの変化だ。

あまり気にしないが、普段は常温。

注げば香り立ち、含めば、口じゅうに広がる。

それが今日はなかった。

すっと喉を抜けて行く。

いつものペースだと思っていたのがいつの間にかグラスは空。

そこで、喉越しの温度に気が付いた。

ウイスキーが冷えている。と。

これは面白い。

冷えることで消える嫌な癖もある。
その代わり、代償となる香りはほとんどしなくなる。
けれど、冷たくないと見えてこない個性もある。

友人宅は床暖房だ。
床に直起きというわけではないが、
温められたウイスキーは何かが変化しそうな気がする。

けれど、通常、床暖房は部屋の真ん中あたりだけ。
ならば平気かと思ったりもする。

食べ物と温度の関係はきっともっと奥が深い。
そう思わされる。一時だった。

久々。

ギアがずーっとローに入っているような一年だったなと残り僅かにで気が付く。

さて、そこで気付けの一杯になったのが今回のグレンファークラス。

スペイサイドものとして有名だが、バーで飲んだのかのんでないのか今一覚えのないお酒。

だから、それほど期待はしていなかったが、ことごとく期待を裏切るのがウイスキーのいいところ。

飲めば飲むほど隠れた味が分かってくる。

香りは、白ワインの様。
さっぱりとして少しの酸味。
青リンゴが腐りかけたような印象。


一口含むとその表情が一変して、超個性的。
ゴム臭が強く、後味はさっぱり。
残り香は当然少ない。
味わえば、少しの丸みの中にマッカランの様な華やかさが顔を出すが、そこまで華やかではなく、咲きかけの蕾の様。

当然好きなウイスキーはあるが、どんなウイスキーでも美味しいとも思える。
そういった懐の深さを飲み手が知らず知らずのうちに培って行くところが面白さの一つではあるだろう。

毎度毎度味が違く感じる。
つまりはどの一杯も一期一会。

慌ただしく毎日でこう言った一杯の時間位は大切に出来る様心掛けたいものである。

昨日は待ちに待った白州デー。

と言っても、決まったのは二日前くらいだったか。

引越し祝いに送った白州のシェリーカスクを開けるからとお呼ばれし、どうせならと揃えられる白州を飲もうと言う事になった。半強制的に。

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左からノーマル、12年、10年、そして、主役?のシェリーカスク。

普段、二杯くらいでかなり酔っ払う身としては身も心も引き締めねばなるまいと、約束の時間を押すのを覚悟で整体へ。

マッサージなどにいくとすごく喉が乾く事からはじめの一杯目は白州のハイボール以外考えられなくなっていた。

整体の話は余談になるのでまとめてしまうが、
通りすがりに入った整体で些か怪しい外国人のお姉さんが登場。
まさか、そっち系の整体なのか?と緊張を隠せなかったが、無事強すぎるほどの指圧で次の日は揉み返しで動けなくなるほどだった。

さて、友人の家に着くと、何と無く緊張してしまう。
前日の打ち合わせ?通りピザがそろそろくるらしい。
お腹も空いて、喉もからから。
とりあえず、決めいた通り白州のハイボールを。
ただ、量が多かったので、10年から。

驚いた事にグラスもその日に買ってきたらしく、なんだか、ウイスキー一杯飲むのにとても気を遣わしてしまったと感じるも、その後で、旦那のほうが、今日あるおつまみ何があるか全て教えてくれと妻に問う。

なぜなら、私が後で

それがあったのかぁ!と言わせないようにする為らしい。

そんな事をされたら王様にでもなったように錯覚してしまうのは誰であっても仕方のない事だろう。かくして、先ほどまでの恐縮は何処かへ飛んで行ってしまった。

そうして、傲岸不遜に他人の家で気持ちよく酒が飲めると言うのはなんとも言えない贅沢だ。

やがて、ピザがきて、二杯目のハイボールを飲む。

因みに、どどいたピザは何気に食べた事のないドミノピザだった。

早く飲みたい!と言う気持ちとは裏腹に、ドミノピザってこんな感じなんだーと感慨ぶかげに思案していると、隣ではグラスを空け、ストレートへ突入しようかと言う輩を発見した。

旦那だ。

ペースが自分の1.5倍は早い。
必然的に、眠くなるまでの時間が短くなる。
ここからは、
「倍返しだ」と言わんばかりの鋭い視線を向け、自分もストレートへ。

と言う事で、ここからが本題。

まずは、
ノーマル白州

香り。
爽やか。

この爽やかさと言うのはなかなか他では出会えない爽やかさ。青臭いをちょっとすぎたくらい。


白州はストレートで飲むにはパンチが足りなく、ハイボール用として割り切っていたので久々のストレート。

結論から言えば、
軽く扱ってごめんなさい。だ。

確かに、スモーキーでもなく、ウイスキーとして?と確固たる主張もないが、久々に飲むノーマルは全くそんな事はなかった。

むしろ、ウイスキーの新しい個性と言っても過言ではない。
口当たりは優しく、香り高く、若さゆえの爽やかさが際立つ。
自分はスモーカーが故にウイスキーの持つ繊細さに気がつかなかっただけかもしれない。
煙草と合わないウイスキーはウイスキーですらないと思っていた節もある。
が、心地よい空間で飲む白州ノーマルはこれまで感じた事がないほどうまかった。


さて、次に飲むのは白州10年。

終売されていることもあり、これは700mlを購入。

ノーマルよりも12に近く、ノーマルよりもずっと熟している。

香り。

爽やかさが、若干押しのけられ、若さから熟した果実の芳醇な匂いがする。


口に含めば、その香りが口いっぱいに拡がり、適度な余韻を持って消えて行く。
若さから来るキレがなくなり、その代わりに丸みがまし、味わいが深くなる。
果実の香りに続いて、穀物の持つもつコクが感じられるようになる。
だからと言って、煙草に合うかと言われれば、そうではなく、あくまで淡さはがあり煙草の煙は邪魔になる。
この淡さが白州のもつ一番の魅力なのかもしれない。

そして、12年。

香りは更に円熟味を増し、旨味がまし、一派的に美味いと評される様なウイスキーの足がかりを感じる。
だが、それは淡さを奥に潜め、ノーマルよりも美味いと言うよりも白州の12年は美味いと言うちょっとした感想の違いを産む。

ただ、ここにきて、香りは爽やかさが濃くなるような気がする。

けれど、味となると話はまったくちがう。
今まで白州だと思っていた部分は個性ではなかったのではないかと思わされるほどに白州らしい。

言い換えれば、今までフォーカスしていた白州の個性は全くの見当違いで、スモーキーさ、樽の香り、年数によって際立ってきた甘さこそが白州だとおもわせるほどそれぞれが際立ち、丸く収まっている。

が、それ故に角が取れしまつまた様な気がして少し寂しい気もする。


そして、本命のシェリーカスク。

ここだけの話だが、本当は自分用にもう一本買おうと思っていた。
が、買わなかった。
それはやはり、買ったら先に飲まない自信は無いし、その年のものを味わってもらい、その感想をまつ楽しみがあるからだ。

この他人の感想と言うのはとても参考になる。
良く語彙が少ないからとか言葉にするのが下手だとか言う人がいるが、如何に伝えられるかが焦点であり、そこに伴う表情や間、仕草全てで伝わればそれは夏目漱石に説明されるよりも参考になる。
私は夏目漱石を知らないが説明しようとしてくれる人物は知っている。
だから、飲みたいは飲みたいが聞きたい方が強いと言えば強いのだ。

今回に当てはめれば、引っ越し祝いのシェリーカスクは小瓶にも拘らずそれを分けてくれると言うだけでもありがたい。

だから、もう飲む前から美味いのだ。

とは、言いながらも、総評としては、
白州ではないと言う結論に落ち着く。

旦那は
マッカランにすごく似ていると言っていたが、私はシェリー樽のマッカランを未だ知らない。

ほうほう。とうなづきながら香りを嗜む。

甘く、その甘さが煮詰められ、重厚になっている。カラメルの焦げた匂いから、強く樽を感じる。

味は白州ではない。
これは断言しても良い。もっと舌が肥えたら撤回するかもしれないが、白州とは別次元のウイスキーだ。一般的に次元の上下で優劣がある様な気もするが、そうではなく、白州と言うブランドに相応しいとは思えないが、間違いなく美味い。
白州と思って飲めば期待を悪い意味で裏切られるが、割り切ってしまえば、こういったウイスキーには出会ったことはなく。12年で感じていた甘さは引き締まり、余韻はスッキリとしている。
渋みの様なものも感じ、赤ワインの様な印象も受ける。
樽が違えばこれだけ味が、風味が違うと言うとてもわかりやすく示してくれた良例と言えるだろう。


と、書いたものの本当に書きたかったのは次のウイスキーだ。

既に全て飲んだ風に書いているが、シェリーの前にサプライズがあった。

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白州のシングルカスクだ。

これには本当に驚いた。
料理はたんと用意してもらってたから酒は自分が用意しようと思っていたからこそ驚いた。
なんと、その日に買っていたというのだ。
しかも、シングルカスクを。

あまりこのブログではでてこないが、出てこないからこそそれなりのものだと推し量っていただきたい。

大げさに言えば、
いわば、今までのものを貨幣価値で置き換えれば小銭だったものが、一気に二桁三桁増えたようなものだ。

シングルカスクとシェリーカスクどちらを先に飲むか。
これはいきなり突きつけられた今年一番の難題と言っても過言ではない。

シングルカスクは間違いなく美味い。
シェリーカスクはこの時点ではまだ未知の存在。

当たり前だが、飲めばそれだけ酔う。酔えば味がわからなくなる。

シングルカスクは60度近く、飲めば間違いなく酔いが回る。
が、シェリーカスクは瓶を通しても色が濃い。つまり、味が濃いのでは無いかと思われる。
味が濃ければ後に引き、シングルカスクがわからなくなるかもしれない。

こんな悩みならいつまででも悩んでいたいが、そうもいかない。
飲まねばならぬ。

決めてとなったのは、
美味いものを美味いと味わえる状態で飲みたかったと言う所だろう。

シングルカスクを飲むことにした。

これはもう。美味い。

うますぎてすぐに飲んでしまう。
分析だとか味わいだとか、小賢しいと思ってしまう、理性を飛ばすほど美味いのだ。

勿論、今までのウイスキーが暇つぶしに味を分析しているわけでは無いが、まだ、分析しようとする理性は残る。

だが、美味いからこそ言葉にするのが煩わしい。
この味を体感している今が全てだと、すっかりアル中の様にウイスキーに浸ってしまう。

そうした中、飲まない者がそこにいた。
旦那の妻だ。

ここで彼女は救い。
アル中が言葉に出来ない部分を言葉にしてくれる。

メイプルシロップ。

この言葉がきっかけとなり理性を取り戻す。

そして、被せる様に旦那が、
山崎に似ている。
と、呟く。

ほほー。と感心。

確かに山崎に近くなっている気がする。

いや、なら山崎の方がうまいってことじゃん。となりかねないが、そこはさすがのシングルカスク。

ちゃんと白州として美味い。
果実っぽさ、渋み、それらを自分は、干しぶどうの甘みと香り、そして、梅干しの持つえぐみ、そこから引き出される木の強い香りを感じることができた。

やはり、自分の言葉だけでは正確に表せないものだなと痛感した。

ここに来て、複雑系と言う言葉を思い出す。
精妙にブレンドされたそれぞれのウイスキーにはそれぞれの個性がある。
が、熟成されていくとその円熟味からにている様な印象を受ける。
だが、きっぱりとそれは違うと言える。

言えるが美味すぎて感想がまだ、追いつかない。

1998と言えば、旦那の方と出会った時期に近い。
それだけの年月を重ね、白州はここまで成熟する。

だが、自分はどうだ?と自問した方が今後の為には良いかもしれないが、そうはいかない。
まずはこの酒が美味いのだから。振り返ってる暇などない。
蒸発する前に、飲み切らねば。

こうなってしまうと、誰にも望まれていない使命感が顔を出し、如何に美味く飲むかと言うことしか考えられなくなる。

一口すする度に、巨峰を食べ、口直しをする。

この巨峰が今回のクリティカルだったかもしれない。
何せ、口直しにうってつけなのだ。

甘み酸味、皮のちょっとした渋みが程よく口の中をクリアにしてくれる。

一粒食べた後は味が明瞭になる。

本当に色々つまみを用意してもらったが、そのおかけでどういうものがウイスキーのあてとしてふさわしいか見えてきた気がする。

が、そこも優劣ではなく、程度の問題でしかない。

アーモンドやくるみはどのタイミングでも合うが、一番ではない。

チェイサーもやはり、なければならないがそれはウイスキーの種類によるだろう。
ツウはチェイサーが一番というかもしれないが、そこに落ち着くには世の中には食材が多すぎる。
確かに、チェイサーはトップ3に入るだろうが、後はそのウイスキーとの相性。
チェイサーは喧嘩しない。
が、合うというほどではない。
あくまで、口直し。

だから、一番合うものと飲めば世界が変わる。
生牡蠣とボウモアの様に、奇跡の様な組み合わせがある様な気がしてならない。

今回の巨峰はその可能性を示してくれた有難い例と言って良いだろう。

まだ、25年ものなどは残っているが、殆どの白州は飲んだと言って良いだろう。

しかも、量も結構飲んだ。

が、これほどのみやすく、バラエティ豊かで、万人受けしやすそうなウイスキーも珍しいのでは無いだろうか。

結論から言えば、どれも美味い。

何より煙草と合わせないからこそ美味いウイスキー。

と言いながらも、シングルカスクを思い出して涎が溢れる。

色んな銘柄を楽しむのも変化が顕著で楽しいが、同じ銘柄の年数違いをこうして楽しむことができるというのは、なんとも贅沢極まりない。

恐らく、今年一番の贅沢になるだろう。

なんにせよ、美味い酒を飲む秘訣というのはそういった場も、酒も、人もいなければ成り立たない。

一人飲む酒も好きだが、こういう飲み方ができるというのはとても恵まれている事だろう。

酒は美味い。
けれど、
美味い酒を美味いままに飲める相手と言うのはなかなかいない。

つまりは、かなりわがままな飲み方をしているということなのだろう。笑。

ご馳走様でした。













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唸った。

もともと映画監督や脚本を書いていた方だけに読んでいると鮮明に場面を思い描ける作品だった。

それ故に、ブラウン管越しの感は否めないが、それ故に本を開けば翌週を待たずして、続きが観れる。
実にエンターテイメントだった。

無実の罪かもしれない死刑囚を救う為に証拠を探しに悪戦苦闘し、その過程で驚きの事実が次々と現れて来る。

人の罪とは何なのだろう?と考えさせられる。

冤罪を取り扱った小説は何冊か読んだと思うが、後味としては一番良かった。
が、すっきりすると言う意味ではなく。
もやもやとした中にしっかりとした希望がある。

罪を犯し、それにみあった罰を受ける事が贖罪の一つである事は間違いないが、それ以前にその罪を背負う覚悟があるかと言う部分が人情的にはとても大きな事だと思う。

人を殺し、刑期を全うし、それで罪の全てが償われるわけではない。
が、悔恨の毎日を送るだけで社会が許してくれるとは限らない。

法は社会を統制しているが、社会の全てがそれに従っているわけではない。
隣人が殺人犯だったと知ったらやはり、警戒し、まともな人付き合いが出来るようになるには時間がかかるだろう。

殺人と言うのは行う事よりもその後の心理を自分で推し量る事の方が難しいのではないかと思う。

怒りに身を任せ、人を殺して始めて、その重圧に身を起きその人物だけしか見えてなかった視界は拡がって行く。

勿論、それを重圧と感じない人間もいるだろうが、それは別の話だろう。

復讐にせよ、発作的にせよ、事故にせよ、人を死なせたら必ず後悔する。
その後悔は二度と拭えない。

その後悔の種類。
その人物の命を奪ったからなのか、それとも、奪ったことで失ったものの大きさなのか、それはわからない。

だが、主人公の気持ちはよくわかる気がする。
それはどこか理想的な犯罪者なのかもしれない。
なぜなのかは、ここでは伏せておこう。





そう言えば、
帰りの電車で、痴漢を目撃した。

痴漢だと気が付いたのはそいつが女性から離れた後。

電車が駅に止まり、雪崩のように人がホームへ降りて行く時にそいつは扉付近にもかかわらず頑なに降りなかった。
扉横の少しの空間に女性がいて、男は後ろから押されるが、女性に引っかかっていると言う感じだった。

その女性も降りれば良いのにと思いながら、二人をみていて、やがて、人波が途切れると、男の手が女性のお尻に意図的な動きをするのがみて取れた。

女性に目をやると、
痴漢なのか、単に混雑からの偶然なのかわからないと言う感じだった。

そこで、一瞬ためらった。
彼女が痴漢だと思っていないなら、私が勘違いしているのかもしれないと。

そして、扉が閉まり、男は女性から離れた。

ならば、電車の揺れに乗じて男を殴ろうかと思ったが、適当ではないのでやめた。

正解は変だと思った時にそいつを除けて電車を降りれば良かったんだなと今は思う。今更だが。

彼はこの先も似たような事をするかもしれない。
そして、捕まらないかもしれない。

彼に罪悪感はつきまとうだろうか?
多分つきまとわない。

なぜなら捕まらないから。捕まらない限り、反省はしない。
反省できる要素が彼には見えていないのだから。

もしも、彼に恋人が出来て、そんな事をされたと話を聞いたら自分勝手な義憤を感じるだろう。
けれど、その時始めて自分の過去の罪を悔いるかもしれない。

けれど、そんな事よりその場をうまく収められなかった自分が情けない。



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少し前に実写化がメディアで取り上げられ、その時の始めて原作がある事をしりました。

ジブリ作品の中で1番好きな作品なだけに、これは読まねばとまずは一巻を。

調べてみると6巻まであるらしく、どの辺で映画の話とリンクするのか楽しみです。

物語の始まりは映画と変わりません。
キキの旅立ちが描かれます。
当然、心理描写や情景は異なれど、映画のイメージが強すぎて、補正してしまいます。笑。

そして、箒に乗って旅立つ時のBGMは荒井由美のルージュの伝言になってしまいます。笑。

BGMと言えば、この本を読みはじめた前後から、浜田省吾の「手紙」と言う歌を聴いています。
厳密に言えばフェアライフと言うバンドなのですが、その説明はここでは割愛します。

さて、この「手紙」。実にしみじみと良い歌なのです。

さわりで言えば、
別れた?恋人に宛てた、未練とも言えない、細い絹糸で相手に触れる様な繊細な想いを綴った歌です。

一人の少女が知らない街で生活すると言う魔女の習慣は等身大のまま一気に社会へでていくと言う過酷さをその純粋さでぶつかっていくようなものでしょう。

それに、それを想う母親の気持ちは推し量るには余りあります。そんな遠くの子を想う気持ちに通ずるものがこの歌から感じるのです。

これは、読み方としては斜めからなのかもしれません。見守るように読み進め、微笑みを持って短編一つを読み終える。
本当なら、キキと共に歳を重ね、箒にまたがってみたり、恋をしたり、黒猫を飼ってみたり、が正しい読み方なのかもしれません。


実際、現代は社会に出ていく為の準備期間が長過ぎると思える部分もあります。

勉強はできた方が良い。
それは道具だから。
扱える道具が多ければそれだけできる事は多くなります。
でも、道具の使い方だけを学んでもそれは何でも無い。
使って始めて道具も人も、そこから生み出されるものも価値が産まれるのでしょう。

ネタバレですが、この巻ではジジはまだ喋ります。
映画での話になってしまいますが、成長するにつれ、人は何かを表面上は失っていくのかもしれません。


現実と折り合いをつける。


その言葉は何処かに「仕方なく」と言う形容詞がついて回るような気がします。

けれど、それで得たものは欠けがえのないものなのではないでしょうか。

さて、原作のキキがどんな風にこの先を乗り切っていくのか。
一先ずは、家族の団欒と自分で決めた街へ再びの決意を持って幕を閉じます。

因みに、電車の中で読んでいると表紙を見られやしないかといつもヒヤヒヤしています。笑。


あ、キリは悪いですが、最後に思い出した忌野清志郎の言葉を雰囲気ですが。


早く大人になりたかった。
だって、大人になればなんでもできるから。
実際、今が楽しくて仕方が無い。










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