そもそも、自殺とはなんだろう。

それは生きている事が辛いからだろうか。

わからないながら書くが、

生きている事に興味がない。
生きている事に飽きた。
生きていても仕方ない。

そういった理由もあるだろう。

彼女がそうした理由は何だったのだろう。

今更だが、もう少し考えてみよう。

遺書があったというから、その意志はあったのだろう。
内容は知らないが、
色々悩み、もういいや!
と考えてしまったのではないかと思う。


気が付いたら電車に飛び込もうとして、必死で近くの柱に飛びついた。

そんな話を聞いたことがある。

自身では制御出来ない部分で、体が勝手に動いてしまった。

なら、その制御出来ない部分はどうして産まれるのだろうか。

無力感、喪失感、絶望感。

そう言ったものは誰もが心の何処かに持っているものだと思う。

けれど、どうして殆どの人は自殺しないのだろうか。

家族や恋人、仕事かもしれない。

何処かにこの世に放っておけないものがあるから。
そう言ったものがなくても、死ぬ事への恐怖があるから。

そういう楔の様なものがあるからだろうか。

けれど、人間以外の生き物は自殺しないのではないだろうか。
人間特有の感情とはなんだろう。
夢を見ることだろうか。

夢とか希望、ちょっとした未来の楽しみ、食後のデザートとか、明日のテレビとか、そういう些細な何かで時間を過ごす。

そういうものがなくなってしまうと、目的が無くなる。
目的が無くなると、その間の過ごし方が決まらない。
ただ時間を浪費しているだけの自分に気が付いて、気力もなにもなくなる。

もう、何もしたくない。
もう、いいや。
まぁ、いいか。

そして、自分を諦める。

例えば、ここで、死ぬ事を選ぶか、仏門に帰依するかで大きく事は変わってくる。

いや、違うか。
そもそも、その選択が出来るなら、魔が差すことなんてないんだろう。

諦められた自分はどういうものだろうか。

意識と体が別物になるような気がする。
意識と体を繋いでいた決定的な糸が切れてしまい、主人を無くした体は……、細胞に1番深く刻まれた命令をこなすのだろうか。
意識は朦朧とし、何もかもどうでも良くなり、呆けている。
肉体は命令通りに動くだけ。

意識ではもう、何をしているかはわからない。
肉体は命令をこなす。

その肉体は意味など分からず、命令をこなす。




そんなところかどうかはわからないが、そんな事を考えてしまう。

鬱だから仕方ないのではない。
鬱を改善できなかったから仕方ないのでもない。
そもそも鬱になるよう社会はまともではないのではないだろうか。

そりゃ、発展の上の犠牲かもしれないし、心が弱すぎるのかもしれないし、そんな人達に歩幅を合わせていたら、国が倒れるかもしれない。



今回の件で思ったことの一つに、以前勤めていた会社の店長の性格がある。

一言で言えば、菩薩。
騙すよりも騙される方が良いを地で行く人だ。
店長がいたらきっと彼女はまだなんとかなっていたと私は確信している。

いくら仕事が忙しくても、いくら邪険にされても、店長が心配したら、心配の種がなくなるまで、追求する。
そのやり方に辟易することの方が多いが、真似しようとしてもできるものではない。

そういう人と周りに認知させるに足る行動があるからだ。
けれど、私が真似したところで、メッキでしかない。
あっという間に剥がれる。

それでも、今回は店長の真似をし続けるべきだったのかもしれないななどとも思ってしまう。

こうなってしまうくらいなら…と思い返せば切りが無い。

一番情けないのはこうなってしまってからでないと、この程度も考えない自分自身だろう。

もう、いない。という実感は多分一生伴わない。
姉がそうであるように、誰かに説明する時に、亡くなりましたと言っても、意地でも認めない自分がいる。
口にしなければ生きているかもしれないとほんの少しだけ思っている。

誰も彼女の分までは生きられないからこそもう少しだけ、なんとかならなかったのかと思わずにはいられない。

普通でない、社会に溶け込めない、鬱は面倒だから雇わない、仕方がなかった、教えても身に付けない、馴染もうとしない。

生きてる側の言い分は納得行くものばかり、だからこそ、その論理が既に破綻しているのではないだろうか。

日本は世界で自殺者が5番目に多いらしい。
何が原因でこうなっているのだろう。この数字は今後減って行くのだろうか。



帰りにショーペンハウエルの「自殺について」でも買ってみよう。



自殺している人がいるのは知っている。
と、
自殺した人を知っていた。
では自分にとってここまで大きいものなのだとは思わなかった。


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