久々の『山口雅也』

この作家さんは質の高いミステリーが多く大好きなんですが、
なかなか新作を発売しないんですよね。

『生ける屍の死』なんて、本当最高でした。

お見合いシリーズも同じ作家が書いたとは思えないほど、
ほんわかしていて面白い。

さて、本作。

遊びをテーマに書き連ねた短編集。

この中で、すごろくの話があるのですが、
場所がインドなんです。

読んでいて、もう、インドの事ばかり考えてしまいました。

内容はインドの熱気が冷たく感じる程の終わり方で大変楽しめたのですが、
それよりも心はインド。

バラナシの火葬場やガート、サドゥ、乞食、雑踏、喧騒、人間・・・・・

次に行けるのはいつになるんだろうなと思うと
なかなか行けそうにないのが辛いところです。

でも、行けるとしたら、つぎは南インドへ行ってみたい。

でも、北のダージリンとかダラムサラにも行きたいな。

そうすると、一周することになるのか。

一体何日あればいいのかな。

ん~、二ヵ月。短くて。笑。




そういえば、私はかくれんぼがもの凄く得意で、
みつからない事が多くありました。

あまりにみつからないから飽きてしまう。

探す方も飽きてしまう。

だから、いつからか本気で隠れる事はしなくなりました。

でも、もしも、
見つかるまで出てきてはいけないというルールがあったら、
私はどのくらい行方不明になっていたのでしょうか?

現実的にはその日の夜が限界でしょうが、
それでも、その先を考えるとすこし背筋に冷たいものが走るのは、
恐らく、遊びと言うもがはらんでいる狂気性によるものでしょう。


PLAY プレイ (講談社文庫)/山口 雅也

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生ける屍の死 (創元推理文庫)/山口 雅也

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まえがきが読む気を削ぐのでまえがきは読まないほうが良い。

いや、最初の方では結構ちりばめられているので、
最初の章は安全をみて読み飛ばしても構わない。

面白い事も書いてあるし、決して勉強にならないわけではない。

けれど、本は『読む』ものだから、
読む気を削がれる部分は避けた方が良いだろう。

次の章になればそれもいささか和らぐ。

といっても、それ相応の読み方に切り替えていたからかもしれない。

本屋で積み上げられていた記憶があったので、
読んでみたが、内容云々以前の問題で駄目。

じゃぁ、内容はつまらないのかと言えばそうではない。



面白い。



日本という極東の国独特の思考、民族性を歴史から文化から
わかりやすく解説してくれる。

この本で疑問を抱く事は著者によって認められていない。
正確にいえば、解答を示してはいないので、
疑問があるならば自分で調べるしかない。

じゃぁ、何を読むのかと言えば、
触りよく言えば
『セレンディピティ』だろう。

多種多様な例を挙げていくなかで、
キラリと光るものがある。

それは私にとっては
親鸞でありこんにゃく問答であり、弟子と師の関係であり、
とあげればそこそこ出てくる。


けれど、まえがきのような事を書いているこの著者の作品を二度と読む事はないだろう。


日本辺境論 (新潮新書)/内田 樹

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貯めない書き続ける事は難しい。

これからの作品に『ドグラマグラ』と『夜と霧』が控えている身としては、
そろそろ消化し始めないと間に合わない。

大体、試験勉強はじめなきゃ。


という事で、
凄く中途半端な感想。


親鸞の説いた絶対他力とはなんぞや?
と言う部分を精査しながら、ある極小の点まで論を突き詰めていく。

その果てにあるものが
『絶対他力』であり、『悪人正機』である。

これは決して親鸞の思想の解説書ではない。

著者が時間を時代を超えて親鸞へ挑んだ書である。

わかりやすくもなく、読みやすくもない。

けれど、著者が迫る親鸞の姿と
親鸞が『絶対他力』へと迫っていく姿は
どうにも重なる。

100人惨殺した人間こそが
浄土へ行ける。

この思想の凄まじさを体験するにはもってこいの一冊と言えるだろう。

私には行けそうにない。

だから、たどり着いている。

それが
『絶対他力』


最後の親鸞 (ちくま学芸文庫)/吉本 隆明

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阪急電車 (幻冬舎文庫)/有川 浩

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この本のあらすじを読んでふと思い出したのが『ハートにS』という深夜番組。

この番組自体ご存知の方は少ないでしょうが、
とにかくほっこり、嬉し泣きさせてくれるような番組だったのです。

その中に電車に乗っているおばあちゃんと幼稚園位の孫娘、そして喧嘩するカップルの話がありました。

駅に到着したらカップルがけんか別れをし、女性が電車に乗り込んでくる。

横目で見ているおばあちゃん。

走り出す電車、他愛もない孫との会話、立ちながら窓の外を見つめる女性。

電車が急停車する。

そこで、孫がおばあちゃんに尋ねる。

『ねぇ、どうして電車とまっちゃったの?』

おばあちゃんは

『そうね~、神様がちょっと考える時間をくれたのよ。
本当にこのままでいいか?引き返した方が良いんじゃないか?って
立ち止まって考てみようって』

と女性に聞こえるように。

耳に届いたその言葉に女性は落ち着きを取り戻し、思案する。

そして、電車が動き出し、隣の駅で彼女は降りていく。



そんな話でした。

まぁ、語りが下手なので、どうも感じないかもしれませんが、
袖触れ合わずとも縁があり、暖かさがある。

ほんの数分の物語。


最近テレビを見ていないので想像で物を言いますが、
感情のふり幅が大きなものが多いのではないかと思っています。

怖い事や楽しい事、ばかばかしい事や真面目な事。

徹底的というよりも、瞬間的な針の振りが大きい。

わかりやすいし、琴線に触れる。

でも、そればかりじゃない。

その振りきれるまでに指し示す感情の動きそれぞれに
それぞれの良さがある。
他人から見れば他愛のない悩みだって、
はたから聞けばおかしくもなんともない話だって、
キラリと光る魅力にあふれている。

ただの楽観主義とは違う。
人生が良い事ばかりだとは限らないが、
そこに美しさがないとは言えない。
美しさで強すぎるとしたら、
『良さ』になるのかな・・・・

この本で作者はそこを描こうと思ったのではないかと思いました。

物語としてはありきたりだし、現実的でも何でもないし、
小説と言うよりむしろ漫画的な要素が強いような気がする。

でも、まぁ、そこは良いじゃないかと思えてしまう。
そういった厳しい目で見ればきりがないが
そうじゃない、この本の物語、登場人物たちと時間を共有しちゃおうよ!
といった甘さに読み手も浸ってしまえば何の事はない。
にやにやとしてしまう。



じゃぁ、この本を読んで阪急電車の魅力がわかったかと言えばそうではない。
むしろどこの沿線でも構わない。

一つだけここでないとこの場面はなかったのかもしれないと思った部分があるにはあるが
ここでは触れないでおこう。


読みやすいしすぐ読める。
何かを問うわけでもなく、ただ進む物語に耳を傾けているだけで
少しだけ優しい気持ちになれる。
それは車窓に流れる景色に似ているのかもしれない。



なんとなく手に取った作品。

丁装の清々しい感じに惹かれたのかもしれない。


言わずと知れた芸術家横尾忠則氏の病に関するエッセイ集。

始めて彼の著作を読みましたが、とても読みやすいうえに、
素直で素朴な人間性がうかがいしれて、全く読み疲れをしない軽快な作品。

病気って嫌なもんですけど、
その『嫌』いう感覚って、言いかえれば『執着』であり、『愛』でもある。

治れば健康な時がいかに幸せだったかをかみしめる事は出来ても、
治る見込みがないと目の前が真っ暗になったりもする。
けれど、それは病に執着してしまっているからであり、
放棄してしまう事が一つの方法としてあるのではないか。というニュアンスが
読み取れます。

その事例が多い事多い事。
あとがきにも書かれていますが、別に一年中入退院を繰り返しているわけではない。
けれど、このエッセイを読むと、どうしても一年中寝込んでいたり、体調を崩していたり、
新しい病気が発症したりと、健康と病気の間をあわただしく行き来しているようにしか
思えない。

決して暗くもなく、眩しいほど明るくもない。
けれど、ふつふつと人間の活力みたいなものを感じさせてくれる。

それは病気を克服した後に訪れる解放感ではなく、
病と著者との付き合い方がとても自然だからなのだと思う。

在るタイミングを持って痛みが引いたとかいう逸話があるが、
それこそまさに『病は気から』と言った感じだ。


そういえば、私にも思い当たる事がある。

小さな頃から春になると喉がかゆくなっていた。
吐く息をのどにこすりつけるように呼吸して、すこしでもそのかゆみを何とかしようとしていた。
けれど、別に何かの病気だと思った事もなかったし、
ましてや花粉症などとは夢にも思わなかった。

二十代後半にさしかかり、また春が来て、喉と目がかゆくてたまらなくなった。
先輩が花粉症持ちだったことから、私の症状をみて『花粉症』だと気めつけた。

言葉と言うのは不思議で、ここから私の花粉症人生がスタートすることになる。

スギ林で空が黄色くなる場所にいてもなんともなかったのに
いまでは見えもしない花粉に戦々恐々としている始末。

認識してしまったが故に正式に花粉症化してしまった私の肉体を、
再度、誰かが『それ、花粉症じゃないよ』言ってくれればもしかしたら
治るかもしれないが、今のところ、春先の私をみて、
独自の解釈で花粉症ではないと裏づけてくれる人はいない。


さらに、私は猫アレルギーらしい。
これはまだ誰にも指摘されていないし、医者にも見せていないし、猫は好きだ。

野良猫だろうとなんだろうと構いたくなる。
今まで飼った事もなく、きちんと接し方を学んだわけではないので、
猫好きに言わせると『扱いが下手』らしい。

けれど、触りたい欲求は抑えられない。
あわよくば触れて、なついてくる猫には最大限の愛情を注ぐ。

しかし、つぎの日の私の両の手は大体赤い斑点がポツポツと浮き出し、
いくら掻いても痒みは納まらない。

けれど、その原因が猫だとは限らない。

きっと季節のせいだろう。と勝手な解釈をしている。
ちなみにこの事に気づいてからは猫に触れていないような気がする。

猫が嫌いになったわけではないので、猫が私を嫌い始めたか、
もしくは無意識に猫アレルギーを認めないために触れる機会を作らないように
しているのかもしれない。




こんな話を続けようと思うといくらでも出てきそうなので、
病気になる前にこの感想を終える事にしよう。





病の神様―横尾忠則の超・病気克服術 (文春文庫)/横尾 忠則

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二日続けての外ヨガin新宿御苑。

二日とも晴天でもの凄く気持ちよく出来ました。

さて、二日目は
外で朝。
開始時間は9時。
夜型の私には衝撃的に早い時間からでしたが、
当日の人身事故にも負けずなんとか遅刻せずに行く事が出来ました。

一日目と二日目では申し込んだところが違うので、
全く関係ないのですが、奇遇にもどちらも新宿御苑。

今回のクラスは20人と人数も多く、
また初めての先生だったので、少し緊張。

先生によってそれぞれのスタイルがあるから
教え方も取るポーズも違うのが最近は面白くて、
放浪に拍車がかかりそうな好奇心の持ち方なんですが、
やはり今回も面白かった。

始めて聞いた呼吸法
『バストリカ』

今まで体験してきたヨーガには珍しく動きが早い。

バンザーイみたいな動きに合わせて、
鼻でフンッフンッと呼吸していくのですが、
これがテンションが上がるんです。

先生が見本の時に
『じゃー、やってみまーす』(こんなに軽くはない)
と言い、いざ。

『フンッッ!!』と勢いよく呼吸すると
『鼻水でちゃいました!』と笑いを誘い、
鼻水だしても気にしな~いみたいに軽い気持ちで
やる事が出来たので楽しさに拍車がかかっていたのかもしれません。

そして、
太陽礼拝→ベイビーコブラ→ダウンドッグ(左)→太陽礼拝・・・・
の流れで
『じゃぁ、早くやってみましょう』と。

この動きが早かった!!

もう、遅刻ギリギリの時間に起きた時の動作よりも
早いんじゃないかってくらい早かった。

これに呼吸を合わせるなんて・・・・・無理。笑。

と言う事で、
左右で引く足をまちがえながら、呼吸も乱れに乱れながら、
その早さに付いていくのが精いっぱいでした。




この後新国立美術館にホッパーを見に行ったのですが、
なんだかいつもより、集中して絵画と向き合えたような気がします。


ホッパーのほかにも
ハロルド・ウェストンの突風とか
ジョン・マリン
モーリスプレンダーガスト
etc
と聞いた事の無かった画家との好い出会いもあって大満足でした。


その感想は気が向いたら。

ついに最終巻!!!

この日を待ち望んでいたのか、それともまだ早いと思っていたのか、
とにかくそんな事を考えてしまうくらい好きなシリーズ。

私はこの本を読んで、節分だとか七夕だとか、河童だとか正月だとか
そんな連綿と続けられてきた行事についてや存在について考えるようになりました。

もちろん、歴史なんてものは100%解明できるものではないし、
どんなに歴史書を読み漁ったところで、その当時を克明に再現することなんて
かなわないでしょう。

けれど、空想を拡げる事は出来る。
その空想に隙間がなければより真実に近い形であると信じてしまっても
構わない。それが本当かどうかは差し置いて。

この小説、一応ミステリーの形態を保っており、
殺人事件が起こり、解明に乗り気でない探偵役が結果的に事件を解明してしまう。
そんなよくあるパターンです。

しかし、驚くなかれ、今回は出血大サービスと取ったらよいのか、
そそくさと殺人事件は解明されてしまいます。

あくまでも歴史を語る上でのエッセンスとしてあるだけなのでしょう。

でも、それで十分。

私が読みたいのは歴史の闇の部分なのだから。

語れば冗長になってしまうので、
わかりにくいほど簡潔に書いてしまいますが、
今回の主題は『伊勢神宮』

私にはほとんど伊勢神宮に関する歴史的な知識はありません。

でも面白い。

それは、次にあげる疑問が疑問であるとすらされていない点でしょう。

・注連縄がない
・狛犬がいない
・鈴がない
・天皇による公式参拝が行われたのは明治以来
・何故歴史的に新しい外宮から参拝する習わしなのか
・・・・・・・・・・・・
などなどの疑問が提示されます。

全く知識がなくてもそのいずれも『なんでだろう?』と
首をひねらざるを得ません。

その疑問がある観点から一気に解きほぐされていく様は
快感であるの一言に尽きます。

その快感を得たいが為にこの本を読んでいるようなものです。

しかし、
この本を読んだ後、
人に語りたくなるのですが、
なかなかどうして聞いてもらえない。

特に女性となると一向に興味を示さない。
むしろ邪険にすらされてしまう。

そりゃ、話もうまくはないし、
支離滅裂な部分もあるかもしれませんが、
冷徹とすら思わせる態度で私の話を終わらせにかかります。

どんなに粘っても、
『そうなんだぁ』とのれんに腕押し、ついには根負けし、
話をやめるはめに。

じゃぁ、ここで語れば?
と思うものの、
私が抱く感想なんて、この本の受け売りでしかないので、
それならこの本を読んでもらった方が正確に情報は伝わるんですよね。

まったくのジレンマ。

まぁ、そんな話は置いといて、
このシリーズのサブストーリーでも
一応の決着が付きます。

あとがきによれば13年続いたらしいです。
なんとも自分が歳とったなって。

一度通しで全部読み直してみようと
思うものの、なかなか読む本が途切れない。

明日は何にしようかな。

QED 伊勢の曙光 (講談社ノベルス)/高田 崇史

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前回のマットなし集中力散漫の轍を踏まず、
今回はマットを問答無用で敷く。

と、勢いのよさそうな事を書いてはいるけれど、
実質30分の遅刻から
腰を低くしての登場と焦りからなる所作でしかない。

本日は天気も良く、
御苑の空の高さを感じながら、
体の隅々まで空気を入れるように呼吸する。

ヨーガでは気=プラーナといって、
その流れを良くしたり、
自然のそれを体に取り込むように意識するという部分があるけれど、
この言い方と言うのは『わかりやすい』表現なのかもしれないと思った。

一見、『気』とか『オーラ』と言うものはそれを信じていない人にしてみれば
まがい物、気のせいでしかない。

私はどっちでも良いと思っているので、
やっているときは信じるし、それを取り込もうとする。
そのスタンスの寄るところはまた気が向いたときに書くとして、

『わかりやすい』とはどういう事なのか。
ここでは主に『気』をイメージしながら書いていく。

例えば、解剖学的に
『上腕二等筋を伸ばすように意識して』
と言われてピンとくる人は少ないだろう。
その程度にしか人は自分の体にさえ注意を払っていない。
体の名称を知らない場合は『そこ』『ここ』でしか表現できない。
痛みを伴ったりする際にはそこを意識せざる追えないが、
異常を感じない部分には名前すらない。
名前がないと言うのは、ある意味においては『無い』ことに他ならない。


しかし、
『体の隅々に空気を取り込むように』
という表現は完全にイメージの世界である。

このイメージが身体の把握を簡易にする。
意識しない部分と言うものが少なくなる。

『どこにどのように空気を入れていくの?』とか
『筋肉の間に空気を取り込むってどんな感じ?』とか
疑問が過る。
そして、考えながら呼吸をし、意識を体全体にいきわたらせる。

そのイメージに相乗効果として『気』という言葉を用いる。

それらの不可視の力が『ある』という前提であれば、
それを創り出す、『気付く』しかない。
そして、それは身体にとって良い影響であると言う。

ここまで書けば、つまりは『プラシーボ効果』の一種であるという
一旦の終着点が見える事だろう。

しかし、ただの勘違いで終わらせられるものは『気付けない』。

ここに信じると言う事は何かという問いが潜んでいる。

信じると言う事は決める事だと思う。

世界を創っているのは自分でしかない。
その世界の現象を決めるのは自分でしかない。
それは外から入ってくる知識でも情報でもない、
純粋にわき出てくるものだろう。

そのわき出てくるもの、情熱だとか、狂気といった
生命力そのものが『気』なのであると私は決めている。

『オーラ』の色だとかそんなものはどうでもいい。
けれど、
自分の情熱がほとばしり、
触れた人がやけどするような人間に私はなりたい。

ジャン・ジュネについて知るところは全くない。

この本のあらすじに書かれていた、
「終身禁固となるところをサルトルらの運動によって特赦を受けた・・・・」
という部分に惹かれて読んでみる事に。

しかし、この本の感想を書くのは難しい。

なぜならその内容自体は泥棒として過ごした彼の半生でしかないからだ。

泥棒としての手腕や功績はこの本では余り重要な要素ではない。

彼の半生、生きてきた軌跡自体でしかない。

放物線や流線型を美しいと感じるようには
彼の人生を美しいとは思わない。
むしろ退屈ですらある。

泥棒である事、父親のいない子供、男色家・・・
思春期ならもの凄い影響をこの本から得られたかもしれないが、
刺激物の多い現代では珍しくもないし、
どんなに悲惨な状況だったとしても、
今の私にこの物語は退屈でしかない。

けれど、読むのをやめようとは思わない。
それは言葉を発する角度が異様だからだ。

その言葉に突き刺さるものもなければ、
感銘を受ける事もない。
だからこそ、余計に彼の言葉の異形さに心奪われる。

言葉は本来意味を持つ。
そして、その意味をつなぎ合わせる事で文章となり、
より複雑化した事象を読み手ないしは聞き手に伝えるものであるはずだ。

ここでは、意図してか意図せずか、
その意味自体はおおよそ空白に近い。
当然、読んで意味もわかり情景も浮かぶ、
けれど、そこで語られる事自体はそれほどなにかしらかを想起させるものではない。

その意味にたどり着くまでの過程に退廃的というには浅はかな美しさがある。

物語としては私は面白いとは思わない。

けれど、何かを説明する際、回りくどさを感じはするものの、
文章として芸術にすがりつくような印象がある。
その回りくどさは、読み手に理解を強要する。

なめまわすような読書体験とでもいえばいいのだろうか。

その結果、甘いも辛いも関係ない。
それは口に放りこんでしまったものの責務だろう。

異様な作家の書いた異様な読書体験は
黒い薔薇の園に迷い込んでしまったような感触を
リアルな手ごたえと共に終えることになる。

恐らくはこの本でしか得る事が出来ない物がある。
ここまで退屈だと吹聴しておきながらも、
人の意見を聞かずにはいられない。

しかして、
迷い込んだ黒薔薇の園から抜け出せたのかどうかも
定かでない者がこの本を他人に勧めていいのかもわからないが。


泥棒日記 (新潮文庫)/ジャン ジュネ

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面白い人が普通に書いた面白いエッセイ。

一度だけ講演会に行き、人となりと声位は記憶があるが、それ以外はあまりしらない。


長期の海外旅行へ出かける際には必ず海苔を持って行く事と、氷河の丘が砕け散る様に打ちのめされた事位しか逸話は知らない。

そして、今回は強烈なロシアのトイレについてとその他なんの関連性もないエッセイが集められている。

そのどれもがクスリとさせる。

旅は続けているとある時期から、日常になる。バックパッカーで言えば沈没だ。
沼にはまった様に、退屈と刺激を繰り返す。

けれど、彼の場合は違う。
いや、違わないのかもしれないけれど、はまった沼で楽しむ様にしか思えない。

好奇心の塊。そう言ってもいいだろう。

何も考えず、これと言った思いも浮かべず、いつでもページを捲れば、同じ景色をいつまでも美しいと感じさせる本。

彼に影響されて、海苔の代わりに自家製の梅干しを旅には持って行ったし、崩れ落ちる氷山は今でも凄まじい音とともに再生される。

彼の事は余り知らないといったが、影響を受けすぎるがゆえに無意識に遠ざけていたのかもしれない。













iPhoneからの投稿ロシアにおけるニタリノフの便座について (新潮文庫)/椎名 誠

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