なんとなく手に取った作品。

丁装の清々しい感じに惹かれたのかもしれない。


言わずと知れた芸術家横尾忠則氏の病に関するエッセイ集。

始めて彼の著作を読みましたが、とても読みやすいうえに、
素直で素朴な人間性がうかがいしれて、全く読み疲れをしない軽快な作品。

病気って嫌なもんですけど、
その『嫌』いう感覚って、言いかえれば『執着』であり、『愛』でもある。

治れば健康な時がいかに幸せだったかをかみしめる事は出来ても、
治る見込みがないと目の前が真っ暗になったりもする。
けれど、それは病に執着してしまっているからであり、
放棄してしまう事が一つの方法としてあるのではないか。というニュアンスが
読み取れます。

その事例が多い事多い事。
あとがきにも書かれていますが、別に一年中入退院を繰り返しているわけではない。
けれど、このエッセイを読むと、どうしても一年中寝込んでいたり、体調を崩していたり、
新しい病気が発症したりと、健康と病気の間をあわただしく行き来しているようにしか
思えない。

決して暗くもなく、眩しいほど明るくもない。
けれど、ふつふつと人間の活力みたいなものを感じさせてくれる。

それは病気を克服した後に訪れる解放感ではなく、
病と著者との付き合い方がとても自然だからなのだと思う。

在るタイミングを持って痛みが引いたとかいう逸話があるが、
それこそまさに『病は気から』と言った感じだ。


そういえば、私にも思い当たる事がある。

小さな頃から春になると喉がかゆくなっていた。
吐く息をのどにこすりつけるように呼吸して、すこしでもそのかゆみを何とかしようとしていた。
けれど、別に何かの病気だと思った事もなかったし、
ましてや花粉症などとは夢にも思わなかった。

二十代後半にさしかかり、また春が来て、喉と目がかゆくてたまらなくなった。
先輩が花粉症持ちだったことから、私の症状をみて『花粉症』だと気めつけた。

言葉と言うのは不思議で、ここから私の花粉症人生がスタートすることになる。

スギ林で空が黄色くなる場所にいてもなんともなかったのに
いまでは見えもしない花粉に戦々恐々としている始末。

認識してしまったが故に正式に花粉症化してしまった私の肉体を、
再度、誰かが『それ、花粉症じゃないよ』言ってくれればもしかしたら
治るかもしれないが、今のところ、春先の私をみて、
独自の解釈で花粉症ではないと裏づけてくれる人はいない。


さらに、私は猫アレルギーらしい。
これはまだ誰にも指摘されていないし、医者にも見せていないし、猫は好きだ。

野良猫だろうとなんだろうと構いたくなる。
今まで飼った事もなく、きちんと接し方を学んだわけではないので、
猫好きに言わせると『扱いが下手』らしい。

けれど、触りたい欲求は抑えられない。
あわよくば触れて、なついてくる猫には最大限の愛情を注ぐ。

しかし、つぎの日の私の両の手は大体赤い斑点がポツポツと浮き出し、
いくら掻いても痒みは納まらない。

けれど、その原因が猫だとは限らない。

きっと季節のせいだろう。と勝手な解釈をしている。
ちなみにこの事に気づいてからは猫に触れていないような気がする。

猫が嫌いになったわけではないので、猫が私を嫌い始めたか、
もしくは無意識に猫アレルギーを認めないために触れる機会を作らないように
しているのかもしれない。




こんな話を続けようと思うといくらでも出てきそうなので、
病気になる前にこの感想を終える事にしよう。





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