前回のマットなし集中力散漫の轍を踏まず、
今回はマットを問答無用で敷く。
と、勢いのよさそうな事を書いてはいるけれど、
実質30分の遅刻から
腰を低くしての登場と焦りからなる所作でしかない。
本日は天気も良く、
御苑の空の高さを感じながら、
体の隅々まで空気を入れるように呼吸する。
ヨーガでは気=プラーナといって、
その流れを良くしたり、
自然のそれを体に取り込むように意識するという部分があるけれど、
この言い方と言うのは『わかりやすい』表現なのかもしれないと思った。
一見、『気』とか『オーラ』と言うものはそれを信じていない人にしてみれば
まがい物、気のせいでしかない。
私はどっちでも良いと思っているので、
やっているときは信じるし、それを取り込もうとする。
そのスタンスの寄るところはまた気が向いたときに書くとして、
『わかりやすい』とはどういう事なのか。
ここでは主に『気』をイメージしながら書いていく。
例えば、解剖学的に
『上腕二等筋を伸ばすように意識して』
と言われてピンとくる人は少ないだろう。
その程度にしか人は自分の体にさえ注意を払っていない。
体の名称を知らない場合は『そこ』『ここ』でしか表現できない。
痛みを伴ったりする際にはそこを意識せざる追えないが、
異常を感じない部分には名前すらない。
名前がないと言うのは、ある意味においては『無い』ことに他ならない。
しかし、
『体の隅々に空気を取り込むように』
という表現は完全にイメージの世界である。
このイメージが身体の把握を簡易にする。
意識しない部分と言うものが少なくなる。
『どこにどのように空気を入れていくの?』とか
『筋肉の間に空気を取り込むってどんな感じ?』とか
疑問が過る。
そして、考えながら呼吸をし、意識を体全体にいきわたらせる。
そのイメージに相乗効果として『気』という言葉を用いる。
それらの不可視の力が『ある』という前提であれば、
それを創り出す、『気付く』しかない。
そして、それは身体にとって良い影響であると言う。
ここまで書けば、つまりは『プラシーボ効果』の一種であるという
一旦の終着点が見える事だろう。
しかし、ただの勘違いで終わらせられるものは『気付けない』。
ここに信じると言う事は何かという問いが潜んでいる。
信じると言う事は決める事だと思う。
世界を創っているのは自分でしかない。
その世界の現象を決めるのは自分でしかない。
それは外から入ってくる知識でも情報でもない、
純粋にわき出てくるものだろう。
そのわき出てくるもの、情熱だとか、狂気といった
生命力そのものが『気』なのであると私は決めている。
『オーラ』の色だとかそんなものはどうでもいい。
けれど、
自分の情熱がほとばしり、
触れた人がやけどするような人間に私はなりたい。
今回はマットを問答無用で敷く。
と、勢いのよさそうな事を書いてはいるけれど、
実質30分の遅刻から
腰を低くしての登場と焦りからなる所作でしかない。
本日は天気も良く、
御苑の空の高さを感じながら、
体の隅々まで空気を入れるように呼吸する。
ヨーガでは気=プラーナといって、
その流れを良くしたり、
自然のそれを体に取り込むように意識するという部分があるけれど、
この言い方と言うのは『わかりやすい』表現なのかもしれないと思った。
一見、『気』とか『オーラ』と言うものはそれを信じていない人にしてみれば
まがい物、気のせいでしかない。
私はどっちでも良いと思っているので、
やっているときは信じるし、それを取り込もうとする。
そのスタンスの寄るところはまた気が向いたときに書くとして、
『わかりやすい』とはどういう事なのか。
ここでは主に『気』をイメージしながら書いていく。
例えば、解剖学的に
『上腕二等筋を伸ばすように意識して』
と言われてピンとくる人は少ないだろう。
その程度にしか人は自分の体にさえ注意を払っていない。
体の名称を知らない場合は『そこ』『ここ』でしか表現できない。
痛みを伴ったりする際にはそこを意識せざる追えないが、
異常を感じない部分には名前すらない。
名前がないと言うのは、ある意味においては『無い』ことに他ならない。
しかし、
『体の隅々に空気を取り込むように』
という表現は完全にイメージの世界である。
このイメージが身体の把握を簡易にする。
意識しない部分と言うものが少なくなる。
『どこにどのように空気を入れていくの?』とか
『筋肉の間に空気を取り込むってどんな感じ?』とか
疑問が過る。
そして、考えながら呼吸をし、意識を体全体にいきわたらせる。
そのイメージに相乗効果として『気』という言葉を用いる。
それらの不可視の力が『ある』という前提であれば、
それを創り出す、『気付く』しかない。
そして、それは身体にとって良い影響であると言う。
ここまで書けば、つまりは『プラシーボ効果』の一種であるという
一旦の終着点が見える事だろう。
しかし、ただの勘違いで終わらせられるものは『気付けない』。
ここに信じると言う事は何かという問いが潜んでいる。
信じると言う事は決める事だと思う。
世界を創っているのは自分でしかない。
その世界の現象を決めるのは自分でしかない。
それは外から入ってくる知識でも情報でもない、
純粋にわき出てくるものだろう。
そのわき出てくるもの、情熱だとか、狂気といった
生命力そのものが『気』なのであると私は決めている。
『オーラ』の色だとかそんなものはどうでもいい。
けれど、
自分の情熱がほとばしり、
触れた人がやけどするような人間に私はなりたい。